覇王上洛 信長が本能寺に発給した禁制から当時を読み解く

こんばんはー!
今回は織田信長が本能寺に
発給した禁制から
当時の京都や天下の情勢が
どんな感じだったのかを
見ていこうと思います。

禁制とは

 「禁制」というのは平たく言うと”安全保障書“とでも言おうか。
この保障書を書いてやるから「金」よこせといった感じだ。

金がある所。そして、そこが略奪されたり放火されたりしたら困る所ということになる。

よって、禁制を欲しがる所というのは、寺社仏閣や町多かった。

覇王信長上洛の噂

 信長は美濃を平定し、北伊勢も所領に加え、実に80万石を超える太守となっていた。加えて領内に津島や熱田、加納といった商業都市を支配し、限定的ではあるが、座を撤廃し、人々の往来を自由にして商業促進を促した。

信長は越前にいた前将軍の実弟・足利義昭明智光秀を介して美濃へ招き入れる
出陣に際して、10万にも上る大軍を編成し、一気に三好三人衆らを追い払う魂胆であった。

信長はかなり前から京や奈良、摂津などの国々に、上洛をする旨の噂を流していた。

古来よりよそ者が大軍を率いて京都へやってくると、ろくなことが起きない。
町中が放火され、略奪暴行は当たり前であったのだ
応仁の乱の荒廃からまだ立ち直っていない京都の人々は恐れおののいた。

織田信長肖像画
織田信長肖像画 (大本山本能寺所蔵)

そういった背景があって、寺社仏閣を中心に、信長に禁制の発給を求めてきたのだ。

10万にも上る大軍を維持する金策に禁制を

 美濃を平定して間もない信長は、さすがにまだ10万の大軍を動かす金や兵糧はなかったであろう。動員できたとしても、1か月~2か月維持するのが精一杯だったかもしれない。

それを賄う金策として信長が目をつけたのが、禁制」の大量発給であった

本能寺に発給した織田信長の禁制

 京や摂津、大和にある数多くの寺社仏閣と自治都市は、信長に禁制の発給を求めたが、京都にある本能寺もその一つだ。

本能寺禁制の原文と書き下し文および現代語訳

 さて、ここで下記の画像をご覧いただきたい

信長が発給した本能寺禁制
信長が発給した本能寺禁制

これが永禄11年(1568)9月に信長が本能寺に対して発給した禁制

書き下し文

一 當手軍勢濫妨狼藉之事

一 陣取放火之事 付寄宿

一 伐採竹木之事

右条々、於違反之輩者、速可処
厳科者也、仍執達如件、

永禄一一年九月 日 弾正忠(天下布武朱印)

織田信長禁制

現代語訳

1.当手(=當手)軍勢乱暴、狼藉の事=軍勢を派遣して乱暴、狼藉をしないことを約束

2.陣はここでは構えません。放火をしません。ここで宿を取りません

3.竹林伐採の事=竹林を伐採し、陣地を構成することをしないとの約束

右の条々を違反する者は、速やかに厳科に処します。よってくだんの如し

永禄11年(1568)9月 織田弾正忠だんしょうちゅう(信長) (天下布武朱印)

天下布武印判
天下布武印判

この文書から見えるもの

 弾正忠とは、信長がこの年(永禄11年(1568))8月から尾張守に替えて名乗った名前である。既に尾張を統一し、美濃・北伊勢を支配下に置いた信長にとっては、尾張守よりも弾正忠の方が都合が良かったのだろう。

この本能寺以外にも数多くの寺社仏閣に禁制を出しているが、それぞれ微妙に文面の違いがあるのも興味深い。要求してきた側に対して、快く望みに応えたのであろう。

織田信長、足利義昭を奉じて上洛を果たす

 さて、信長は上洛に際して、これらの禁制を守ったのであろうか?

永禄11年(1568)9月7日。信長は尾州、濃州・勢州の軍勢に合わせ、三河から徳川家康の援軍も加わり、総勢10万を超える大軍(諸説あり)を率いて上洛軍を起こす

南近江の六角を軽々と追い払い、9月26日。信長は将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした。わずか20日足らずという電光石火の上洛劇であった。かつて応仁の乱を経験している京都の町人や公家衆らは、信長の破竹の進撃に恐怖と不安にかられていた。

言継卿記によれば

洛中洛外騒動なり

言継卿記

とか

騒動もってのほか暁天に及ぶ

言継卿記

あるいは

終夜騒動、説くべからず説くべからず

言継卿記

と記している。

この時の京都の混乱ぶりは凄まじいものがあったようだ。
信長の入京後、正親町天皇も信長に対し、「禁中の警護と、京都市中における軍勢の乱暴狼藉の禁止」を命じている。

しかしながら、京都では目立った乱暴、狼藉、放火等は起こらなかった。信長は約束を守ったのである。しかも織田軍が入京後、「一銭斬り」と呼ばれる厳しい軍律により、京都の治安は強化され、洛中の人々は信長を信頼するようになったようだ

その後の信長の行動

 それから信長は、京から摂津へ出陣。三好三人衆とそれに加担する諸城を次々と落とし、畿内から追い払った。信長は京に戻り、同年10月18日。足利義昭が第十五代征夷大将軍に補任された

翌日早速義昭は参内する。

信長の供奉によって念願の地位に就いた義昭は、信長のことを「武勇天下第一」とか「わが父」と称賛し、副将軍か管領の地位に就くことを要請している


これから天下のため、信長と足利義昭の共同路線は末永く続くのであった(フラグ)

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