家督を相続して間もない信長が加藤氏に宛てた文書から当時を読み解く

4.0

こんばんは!
今回は信長の初期の初期の時代の話です。
信長が尾張熱田の有力者に対して
発給した文書から当時を読み解きます。

初陣
信長初陣時の姿

とりあえずこれを見ていただきたい。

天文21年4月10日付 信長が加藤氏に宛てた文書

天文21年4月10日付 信長が加藤氏に宛てた文書
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天文21年4月10日付 信長が加藤氏に宛てた文書(加藤文書より)

書き下し文

大瀬古之余五郎
跡職座之事、永
代買得(徳)之儀、委
細勘十郎(信勝)、理(ことわり)申候条、
無別儀申付候、然上者、
於末代無相違可
有智(知)行者也、仍状
如件、


  四月十日 信長(花押)


   賀藤左助(元隆)殿

加藤文書

現代語訳

 熱田大瀬古(地名)の余五郎(人名)の座を買得した件で、永代まで許可する。委細は勘十郎(信長の弟・信勝)の申し状の通り、別儀なく許可する。しかるうえは、末代において、相違なく知行にするべし。よってくだんの如し。

4月10日 信長(花押)

加藤元隆殿

だいたい(ガバガバ)の現代語訳ですよw

当時の時代背景

 これは、信長の父である織田信秀が病死した直後の書状である。
信秀が死ぬとすぐに鳴海城主・山口教継教吉父子が裏切り、今川義元に鞍替えしてしまう

父の葬儀に位牌を投げつけたこともあり、織田家の世継ぎが「うつけ」であるとの噂が、国内はおろか近隣諸国にまで知れ渡ってしまった。

この書状は、そんな信長のどん底時期に、信長が発給した文書である。

この書状の宛先である加藤氏とは

 さて、信長の本拠地・那古野城のすぐ南に熱田神宮がある。
その熱田の有力地侍が加藤氏だ。

加藤氏は西加藤氏東加藤氏に分かれているのだが、この書状の宛先の加藤元隆(佐助)は、西加藤氏の二代目景隆の弟にあたる。
加藤氏は熱田の有力者であったので、開発や金融などを展開していたのだ。本状に見える座の買得も、そうした関係からであろう。

書状の中に見える「勘十郎」の名

 この書状に見える「勘十郎」という名。そう、信長の実弟・織田信勝である。

この書状では加藤元隆の買得を信長に取り次いでいるが、その後信勝(勘十郎)は、翌年の天文22年(1553) 〜弘治3年(1557)にかけて、彼自身も熱田の加藤氏に対して判物を発給しているのだ

やがて勘十郎信勝と対立へ

 そこには徳政免除や田畠の安堵など、まるで織田家当主が自分であるかのように文書を発給することとなる。

熱田という非常に経済的にも軍事的にも重要な地において、信長と信勝が競合している様子がわかるのだ。

そして信勝がついに信長を裏切り、織田家の当主とならんと信長に反旗を翻すことになる。
同じ腹から生まれた兄弟が、互いに相い争うのも必然だったのかもしれない・・・。

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