【古文書講座】信長が出した書状から読める足利義昭との関係性(殿中御掟)

4.5
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
今日は「殿中御掟」といって
信長が最初に足利義昭の行動を縛った
「掟書」の解読をします。

まず最初に原文と書き出し文、現代語訳をご覧いただこう。

織田信長が将軍・義昭に出した「殿中御掟」

原文

「殿中御掟」原文
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織田信長殿中掟案でんちゅうおんおきて(永禄十二年正月十四日) 毛利博物館所蔵写本

書き下し文

    殿中御掟

一 不断可被召仕輩、 御部屋衆 定詰衆
   同胞巳下
いか、可為如前々事、
一 公家衆、御供衆、申次御用次第可有
あるべく参勤事、
一 惣番衆、面仁可有
あるべく祗候しこう之事、
一 
おのおの召仕者御縁江罷上越者、為当番衆かたく
申付、
もし於用捨輩者、可為越度おちど事、
一 公事
くじ篇内奏御停止之事、
一 奉行衆被訪意見上
、不可有是非之御
沙汰事、
一 公事
くじ可被聞召、式目可為如前々之候、
一 閣申次之当番
とうばんこれもうしつきぎをさしおき、毎年別人可被有披露事、
一 諸門跡坊官 山門衆徒、医 陰輩以下、
みだりに不可
祗候
しこう、付、御足軽、猿楽さるがく随召可参事、
 永禄十二
  正月十四日       弾正忠判

織田信長殿中掟案(永禄十二年正月十四日)
「殿中御掟」原文に書き下し文をのせてみた
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原文に書き下し文を記してみた

現代語訳

1.御部屋衆(将軍の近習)や定詰衆(常勤職員、警備)などの同胞衆以下は、前例通り良しとする。

2.公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに登城し、お伺いすること。

3.惣番衆は呼ばれなくても出勤し、お伺いすること。

4.おのおの(幕府の)家来たちは将軍に用向きがある際には、信長の許可を得ること。それ以外は禁止。

5.訴訟は信長が定めた奉行を通さずして、内々に上げてはならない。

6.将軍への直訴じきそは禁止する。

7.訴訟はこれまで通りの定で行う。

8.当番衆は申次を通さずして将軍に相談してはならない。

9.門跡や僧。比叡山の衆徒、医者、陰陽師などをみだりに御所に呼んではならない。足軽と猿楽さるがくは(芸人の一種)、呼ばれた場合は入ってよし。

「殿中御掟」の解読のポイント・解説・補足

1条目の下の方。「同胞已下」の已下は「以下」と同じ意味。
【巳】と【已】と【己】。私もそうだが、目が悪い人にはとてもつらい。しかも3つとも意味が違うw

「可」ベク「被」ラレ などは返読文字といい、中国語のように返って読む場合がある点に注意。

祗候しこう」とはお伺いすること。「候」は”そうろう”とついつい読んでしまうので、注意が必要。

3条目の「おのおの召仕者」などに見られる「者」という漢字は、「は」と読み、”各家来たちは”、という意味。

5条目の「公事くじ」は訴訟のこと。

8条目の最初の文字「」は、一字で「さしおき」と読む。
閣申次之当番」の「」だが、この場合は「の」ではなく、「これ」と読む。
すなわち、「とうばんこれもうしつぎをさしおき」=”当番衆は申し次をさしおき”となる。

当時の時代背景

 永禄11年(1568)9月。
信長は足利義昭を奉じて大軍を率いて上洛する。

将軍・足利義輝を殺し、京都の治安を悪化させていた三好三人衆も、信長の前には手も足も出ず、阿波(徳島県)へと敗走。

10月18日。足利義昭は第15代征夷大将軍に補任された
信長の助力によって念願の地位に就いた義昭は、信長のことを「わが父」、あるいは「武勇天下第一」と褒め称えた。

この数日後、信長は将軍・足利義昭を京に残し、岐阜へと帰った。

翌年早々、三好三人衆が密かに上陸し、京都にいる足利義昭を急襲する。
六条本圀寺で明智光秀細川藤孝が決死の防戦をする中、三好義継池田勝正伊丹忠親らが京へ駆けつける。さらに、岐阜にいた信長もその報を聞くとすぐさま馬を駆ってわずか2日で上洛。

それを知った三好三人衆は、目的を果たせず阿波へと敗走するという事件が起きた。=六条本圀寺の変

ちなみに三好三人衆とは、左から「三好政康」、「岩成友通」、「三好長逸ながゆき」である。いつ死んだのかも含め、謎の多いトリオである。

「殿中御掟」は足利義昭の政治活動を縛るためのものなのか?

 本状はそのわずか4日後に、信長が足利義昭に出した書状(・・・の写し)である。
内容としては、義昭の側近の服務規定に関わるものと、内奏の禁止など訴訟に関するものが多い。

今回解説した殿中御掟」の9ヶ条は、実は1回目の書状である。この2日後の1月16日に、信長は7ヶ条を追加し、義昭を承認させた。

通説では信長が将軍・義昭の実権を奪うために、この掟書を突き付けて無理やり承認させたというのが一般的だ。しかしながら、近年の研究によると、決してそうとは言い切れない部分がある。

その1.足利義昭本人による御内書の乱発

 御内書ごないしょとは、将軍自らが出す私的と公的とが混ざった感じの書状と考えて良い。
将軍による御内書が他大名の家来に出され、大名の承認なしに勝手に物事が決まったりすることがあったようだ。しかも、それが余りにも乱発され、社会に不安を生じさせた。

その2.幕臣たちの驕り、慢心

 信長による上洛で足利義昭が将軍になって以降、幕臣たちは次第に傲慢になっていき、寺社領を横領する事態がたびたび起きていた。それを将軍・義昭は止めるどころか無関心であるから、信長による介入で義昭の家来(幕臣)の行動を制限せねばならなかった

その3.これまでの室町幕府のルールの踏襲

 実は「殿中御掟」にある条文は、信長が一方的に定めたものではなく、多くはこれまでの室町幕府の規範、規律にあったものなのだ。それが全く守られなかったため、信長による干渉や監視が厳しくなり、やがて「天下のことは信長に一任せよ」等の条文がプラスされることとなる

その4.天下の静謐のため

 天下の静謐せいひつ=民たちが平穏な暮らしができる社会にするため、将軍自らが自身を律さなければならない。しかし義昭は、そのようなことには無頓着で、公明正大な政治をしない。

足利義昭自身の政治力の欠如か?

 これらのことを考えると、決して実権を奪うのが目的ではなく、しっかりとした政治を行ってほしいという信長からのお願いとも見ることができる。現に本状の9ヶ条は、義昭の行動を縛るというよりも、その周りの幕臣たちの行動を制限する掟書だと見た方が良いのではないか。

「殿中御掟」を出された側の将軍・義昭の本心は

 通説ではこれによって信長と義昭は不和になり、やがて信長包囲網を・・・と多くの書籍には書かれている。

しかし、意外にも殿中御掟を最初に出した9条(本状)と、2日後に出した追加7条は、義昭は納得して承認したものと思われる。

なぜなら、義昭は信長に多大な恩があるし、町人や僧侶、公家、天皇までもが信長を信頼している。信長のことを「わが父」とか「武勇天下第一」と慕った人物である。
六条本圀寺では防御が心もとないということで、信長は将軍の御座所を自らが陣頭指揮に立って造り上げ、それを義昭に献上している。

足利義昭
足利義昭肖像画

こういうこともあり、掟を定めたことで当初は険悪にはならなかったものと思われる。

しかし、義昭は信長が定めた「殿中御掟」を守らなかった。
将軍自らがそれを破り、他国に御内書を送ったり、幕臣が寺社領を横領したりが続いていたのだ。

ついに信長は怒り、北畠討伐を終えた永禄12年(1569)10月、早々に京都の滞在を終えて岐阜へと帰ってしまった。

義昭としては、自分が政治をしたいのに、何かにつけて信長が口出ししてくるので次第に嫌気がさしてきたのであろう。しかも、自分が頼みに思っている伊勢北畠家を討伐したことで、両者はついに口論となったのだ。

年が明けても信長は一向に上洛しようとせず、公家衆などは信長を説得するため、次々と岐阜へと下向し、信長の機嫌を取ろうとしていた。
この時信長は、足利義昭に五ヶ条の条書を送りつけ、承認させている。

要約すると、

諸国に送る御内書ごないしょ(室町幕府が発給する書状)には、必ず信長の書状を添えること。

天下のことは全て信長に一任された上は、将軍の承認なしに処理すること

殿中御掟」追加五ヶ条の条書

など、どれも将軍・足利義昭の行動を制限し、実権を奪うものばかりであった

この時初めて将軍・足利義昭は、信長排斥の為、諸大名に密書を送り、信長包囲網を構築することになるのだ。

そう、自身の兄を死に追いやった松永久秀久通父子や三好三人衆と結んでまでも・・・

来世ちゃん
来世ちゃん

今回もご覧いただきありがとうございます。

来世ちゃん
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この時期に関連する織田信長の年表はこちら

5.覇王上洛(1567~1569)
6.血戦 姉川の戦い(1570.1~1570.7)

来世ちゃん
来世ちゃん

古文書解読に役立つ事典みたいなのもあります。

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