

こんばんはー。
今日は戦国時代前半に和歌で城を取り返したお話です。
舞台は美濃国郡上市(岐阜県)と京都です。
それではご覧いただきましょう。
東常緑(東野洲)という人物を簡単に

東常緑(とうつねより) (1401?~1484)
足利将軍家の臣として育ち、京の都で和歌など高い教養を身につけた。
関東で享徳の乱が発生した際、将軍・足利義政の命により現地へ赴き、乱に介入。
事態の収拾を図った。
しかし、常緑が関東に滞在中、京都で応仁・文明の乱が発生する。
その際、美濃国の野心家である斎藤妙椿(みょうちん)に所領を奪われるが、それを嘆いた歌を送った所、感動した妙椿から所領の返還を受けた。
彼が遺した歌集は現在でも高い評価を受けている。
斎藤妙椿という人物を簡単に
斎藤妙椿(さいとうみょうちん) (1411~1480)
美濃の守護大名・土岐氏の被官。
嫡男ではなかったため、幼い頃より仏門に入る。
斎藤家の当主である兄が死んだため、還俗(げんぞく)して斎藤家の後見役となる。
巧みな外交戦略を駆使して周辺各国と婚姻関係を持ち、さらに主家の土岐家よりも高い官位を賜るなど、専横の限りを尽くした。
応仁・文明の乱の際、郡上八幡を領する東家の篠脇城を攻めとるが、それを嘆いた東常緑(とうつねより)の歌に感動し、のちに返還した。
応仁・文明の乱が長きに渡った原因の一つは、妙椿が和平に反対したことも関係したという。
妙椿の死後まもなく斎藤家でお家騒動が発生し、やがてそれが主家の土岐氏にまで影響。
その隙を長井規秀(斎藤道三)に付け込まれて没落するに至った。
あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき
応仁・文明の乱で畿内が大混乱の中、戦国時代初期の野心家・斎藤妙椿(みょうちん)は美濃国(岐阜県)郡上八幡を攻め取った。

当時その地を領していたのは幕臣の東常緑(とうつねより)であったが、彼は関東地方での動乱を抑えるために長期間領地を留守にしていた。
遠国にあってその報に接した常緑は悲しみに暮れ、生前の頃の父を懐かしんで次の歌を詠んだ。
(落城の悲報が届いたその時、常緑は亡き父の法事を営んでいたようだ)
あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
あるがうちに かかる世をしも 見たりけり 人の昔の なおも恋しき
だいたいの意味
自分が生きているうちにこのような世を見たくはなかった。
かつての平和だったころの人々が恋しくてならない。
堀川や清き流れをへだて来て住みがたき世を嘆くばかりぞ
生きて見る落城の悲しみを込めたこの歌は、百姓・商人・武士に至る多くの人々に感動を与えた。
遠く離れた東国の下総国(千葉県)で詠んだ句だが、それがいつしか斎藤妙椿の耳にも入った。
妙椿はこう言ったと伝わる。
「常緑はもとより和歌の友人なり。
歌をよみておくり給わば、所領もとのごとくに返しならん」
それを伝え聞いた常緑は10首の歌を詠み送り届けた。
(煩わしいので語訳は省かせていただく)
堀川や清き流れをへだて来て住みがたき世を嘆くばかりぞ
堀川や 清き流れを へだて来て 住みがたき世を 嘆くばかりぞ
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
いかばかり嘆くとか知る心かなふみまよう道の末のやどりを
いかばかり 嘆くとか知る 心かな ふみまよう道の 末のやどりを
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
かたばかり残さんこともいさかかる憂き身はなにと敷島の道
かたばかり 残さんことも いさかかる 憂き身はなにと 敷島の道
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
思いやる心の通う道ならでたよりも知らぬ古里の空
思いやる 心の通う 道ならで たよりも知らぬ 古里の空
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
たよりなき身を秋空の音ながらさても恋ひしき古里の春
たよりなき 身を秋空の 音ながら さても恋ひしき 古里の春
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
さらにまた頼むにしりぬうかりしは行く末遠き契りなりけり
さらにまた 頼むにしりぬ うかりしは 行く末遠き 契りなりけり
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
木葉ちる秋の思いよあら玉の春に別るる色を見せなむ
木葉ちる 秋の思いよ あら玉の 春に別るる 色を見せなむ
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
君をしもしるべと頼む道なくばなお故郷や隔てはてまし
君をしも しるべと頼む 道なくば なお故郷や 隔てはてまし
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
三芳野になく雁といざさらばひたぶるに今君によりこむ
三芳野(みよしの=地名)に なく雁(かりがね=鳥)と いざさらば ひたぶるに今 君によりこむ
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
吾世経んしるべと今も頼む哉みのの小山の松の千歳を
吾世(わがよ)経(へ)んしるべと今も 頼む哉(かな) みの(美濃=岐阜県)の小山の 松の千歳を
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
最後の吾世の歌は、美濃の小山に生えている千年の寿命を持つといわれている松の木に託して、
「我が東家はわずか3000貫の禄高だが、それでも主君から戴き、先祖代々受け継ぎ守ってきた地だ。
松はその象徴である」
と心境を切に訴えた歌である。

言の葉に君が心はみずくきの行く末とをらば跡はたがはじ
美濃の斎藤妙椿はこの10首を見て心を打たれた。
そしてすぐに返歌をしたため、和議を提案する。
その時の歌がこちら。
言の葉に君が心は水くきの行く末とをらば跡はたがはじ
言の葉に 君が心は みず(水)くきの 行く末とをらば 跡(後)はたがはじ(違わじ)
(斎藤妙椿 鎌倉大草紙・常緑集)
だいたいの意味
あなたの言葉には誠意があります。
その心が今後も変わらないのであれば、所領を返還いたしましょう
将軍・足利義政の許しを得て京都で両者が対面 領土の返還式が行われる
かくして東常緑と斎藤妙椿の和議が成立。
常緑は将軍・足利義政に帰国を許され(嫡男は関東に残ったまま)、京の都で両者が対面。
領土の返還式が行われた。

その際、斎藤妙椿から
世の中を遠くはかれば東路に今住みながらいにしえの人
世の中を 遠くはかれば 東路(ひがしじ)に 今住みながら いにしえの人
(斎藤妙椿 鎌倉大草紙・常緑集)
この返還式を終えた後に常緑から
故郷の荒るるを見ても先ずぞ思ふしるべあらずばいかが分けこむ
故郷(ふるさと)の 荒るるを見ても 先(ま)ずぞ思ふ しるべあらずば いかが分けこむ
(東常緑 鎌倉大草紙・常緑集)
さらに妙椿からの返し
この頃のしるべ無くとも古里に道ある人ぞやすくかへらむ
この頃の しるべ無くとも 古里に 道ある人ぞ やすくかへらむ
(斎藤妙椿 鎌倉大草紙・常緑集)
ときに常緑69歳。
妙椿59歳のことであった。
戦国の世にあって、歌によって所領が返還されたという例はほかに見たことがない。
このことは美談として瞬く間に全国各地に広まったようだ。

しかし戦乱の世は始まったばかり。
織田信長の世になるのは、およそ百年も後のことである。
東家のその後
常緑の死後、東家は下剋上により独立した越前(福井県)朝倉氏の侵攻をたびたび受けるようになる。
居城の篠脇城はなかなかの要害で、その都度撃退に成功した。
しかし、城の損傷が激しく、最終的には篠脇を放棄して新たに郡上八幡に城を築いた。

(現在は雲海の見える立派な天守閣があるが、戦国時代当時は当然このような天守はなかった)
やがて血縁関係のある遠藤氏が郡上八幡一帯を支配する国人となり、斎藤道三–斎藤義龍–斎藤龍興の臣従を経て織田信長に仕えた。
関連記事:【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み
この遠藤氏は信長配下時代に武田信玄に内通している書状が多数発見されている。
珍しいことに、遠藤氏は発覚すると自家が不利になるような書状を残してくれているのだ。
遠藤氏は本能寺の変後、織田信孝についたことにより羽柴方の森長可(もりながよし)に敗北する。
関ケ原の合戦では徳川家康側につき、戦後の論功で初代郡上八幡藩主となった。
斎藤家のその後
覇気があり、軍事力・外交力・そして政治力もあった斎藤妙椿。
あまり有名ではないが、戦国の下剋上・伊勢宗瑞(北条早雲)や鬼吉川と恐れられた吉川経基(つねもと)と並ぶほどの梟雄(きょうゆう)だったのではないかと思う。
世の人は妙椿を
「無双の福貴、権威の者なり」
「この者、一乱中種々張行」
「東西の運不は持是院(妙椿)の進退によるべし」
などと評した。
妙椿の死後ほどなくして斎藤家でお家騒動が発生。
主家の土岐氏にまで波及する。
しばらく美濃国では不安定な情勢が続いた。
戦国時代中頃。
土岐氏の被官であった長井規秀が斎藤家を乗っ取るような形で名跡を継ぎ、やがて土岐氏をも追放して下剋上を果たした。
その人物こそ斎藤道三である。
その道三も息子に討たれ、道三の娘婿である織田信長が美濃を治めるに至った。
関連記事:「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読

ご覧いただきありがとうございました。
・・・いや、まァ斎藤妙椿は旧知の仲ならば最初から攻めるなよw
というツッコミはなしでw
応仁の乱の全貌は十分に研究が進んでないみたいなので、斎藤妙椿が郡上八幡へ兵を出した理由は不明なんですよね・・・。