永禄11年(1568)戊辰 8月

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凡例

  • 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
  • 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
  • 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
    なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。
  • 文書名は慣用の略称にしたがった。
  • 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
  • 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
  • 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
  • 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
    参考程度に留めていただきたい。
  • 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
  • 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
    なお、その場合は備考欄に記すこととする。
  • 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。

8月

8月2日

信長、近江甲賀の土豪たち(甲賀諸侍中)に対し、近江に進発する予定日を告げる旨の書状を発給。『大野与右衛門氏所蔵文書』「近江蒲生郡志」巻十(所収) (永禄十一)八月二日付織田信長判物写

至当国被移御座、入洛之儀被仰出候之処、則信長可供奉旨候、雖然江州依難叶通路、来ル五日先於彼国可進発候、先々任請状旨、信長令入魂、此刻各抽忠節者、可為神妙候、為其差越惟政・公広候、猶両三人可申入候也、
    八月二日      信長御判
     甲賀諸侍中

(書き下し文)
当国に至りて御座を移され、入洛の儀を仰せ出され候のところ、則ち信長に供奉すべきの旨に候。
然りといえども、江州の通路叶い難きにより、来たる五日、まずかの国に於いて進発すべく候。
先々の請状の旨に任せ、信長に入魂せしめ、このきざみ、各々忠節を抜きんでば、神妙たるべく候。
その為に惟政(和田惟政)・公広(大草公広)を差し越し候。
なお両三人申し入るべく候なり(以下略)

備考

写のため花押や印判はない。
文中の「当国に至りて御座を移され、入洛の儀を仰せになった」とは、言うまでもなく足利義昭のことである。
また、「江州の通路叶い難きにより」は六角氏が敵方であることを意味する。
「請状」は、この文脈では承諾書と解釈して良いだろう。
足利義昭は美濃に移る直前の7月12日、越後の上杉輝虎に馳走せよとの御内書を発給している。『上杉家文書』四
『信長公記』によると、これより信長は近江佐和山に赴き、六角氏へ最後の説得を試みる。

8月7日~13日

信長、足利義昭の上意を受けて近江佐和山に赴き、六角承禎に協力を要請。『信長公記』巻之上(我自刊我本)

八月七日 江州佐和山へ信長被成御出上意之御使尓使者を被相副、佐々木左京太夫承禎御入洛之路次、人質を出し馳走候へ之旨、七ヶ日御逗留候て、様々被仰含、御本意一途之上、天下所司代可被申付雖御堅約候、不能許容不及是非、此上者江州へ可被御行之御造意頻尓て・・・
 同書の「巻之一 (永禄十一戊辰以来織田弾正忠信長公之御在世且記之)」より

(書き下し文)
(永禄十一年)八月七日 江州佐和山へ信長御出に成られ、上意の御使に使者を相添えらる。
佐々木左京太夫承禎へ御入洛の路次、人質を出し馳走候えの旨を、七ヶ日御逗留候て、様々に仰せ含めらる。
御本意一途の上、天下所司代の御堅約を申し付けられ候へども、許容能わず是非に及ばざる。
この上は、江州へおん行(てだて)を成さるべしの御造意頻りにて・・・

備考

『浅井三代記』には信長がこの帰路の途中、美濃へ帰る最後の夜を近江柏原の常菩提院で宿泊し、浅井氏の面々と名残の酒宴を開いた一幕がある。
この時、信長の不用心を見た馳走役の遠藤喜右衛門尉(遠藤直経)は小谷山へ取って返し、浅井長政に暗殺を言上するも受け入れられなかった。
事実であれば面白いが、それを裏付けるものは一切なく、信憑性に乏しい。
この文書には他にも整合性が取れない記述がいくつもある。

昭和6年(1931)に発表された谷崎潤一郎の「盲目物語」にもこの一節があるが、恐らく同書を元にしているのだろう。

8月8日

足利義昭、服部同名中に対し、昨永禄10年(1567)に請状を差出した趣旨により、味方して出兵せよとの御内書を発給。『記録御用所本古文書』

備考

翻刻未確認。
足利義昭は同地に同年7月28日付で御内書を発給している。

8月11日

京都日蓮宗系の本国寺、使者を美濃へ派遣。
上野秀政らが取次いで足利義昭と対面。『本国寺文書』二

備考

翻刻未確認。
本国寺は京都妙顕寺を本山とする所謂法華宗の寺である。
のちに足利義昭はここを仮御所と定め、永禄12年(1569)正月に三好勢と激しく交戦している。

8月12日

三好宗渭(三好下野入道釣閑斎宗渭)が上洛。『言継卿記』永禄十一年八月十二日条

8月15日

[参考] 『言継卿記』永禄十一年八月十五日条

局務師廉朝臣所へ罷向、補歴古本一覧了、次庭田へ罷向、黄門長谷郷祭見物に被行云々、頭中将見参、先日伊勢國岩内官位之事被尋之間勘申之

備考

岩内いわない」は伊勢国飯野郡または多気郡に所領を持つ北畠氏の準一門。

8月16日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年八月十六日条より

従河州珎蔵院・吉祥院帰寺了、寺訴悉属本意了、

8月17日

三好長逸(三好日向守)・同宗渭(下野入道釣竿)・石成友通(石成主税助)ら、近江へ下向し六角氏と会談か。『言継卿記』『細川両家記』

早旦三好日向守、同下野入道釣竿、石成主税助等江州へ下向、天下之儀談合云々、不知其故也、
   『言継卿記』永禄十一年八月十七日条

(書き下し文)
早旦に三好日向守、同下野入道釣竿、石成主税助ら、江州へ下向。
天下の儀を談合と云々。
その故は知らずなり。

同八月日、三好方三人衆、江州へ被越、六角方直談之由候、
   『細川両家記』

8月18日

松永方(松弾)の富野城が落城か。『多聞院日記』永禄十一年八月二十一日条

去十八日夜、城州富野城ヲ宇治田原ノ衛門兵衛打入、則時討果了、十川ヨリ調儀云々、松弾方弥相果者也、

(書き下し文)
去十八日夜、城州富野城を宇治田原ノ衛門兵衛打ち入り、則時に討ち果たしおわんぬ。
十川より調儀云々。
松弾(松永久秀)方いよいよ相果つるものなり。

備考

富野は山城国久世郡(現城陽市)の谷あいにあり、京街道からは少し離れた位置にある。

8月

信長、岐阜城下の瑞龍寺に全五ヶ条からなる禁制を発給。『瑞龍寺文書』(永禄十一年八月日付織田信長禁制)

  禁制           瑞竜寺
一、当寺並門前伐採竹木、放飼牛馬之事、
一、寺家並門前諸役、取陣、借宿事、
一、祠堂方先規相定年貢・諸役之外、臨時之課役之事、
一、外山苅取事、雖為一切停止、衆僧之儀、如先々受用其意事、
一、背寺家之法度輩、檀方許容之事、
右条々、於違背之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、
  永禄十一年八月 日        信長(朱印)

(書き下し文)
  禁制 瑞竜寺
一、当寺並びに門前の竹木を伐採し、牛馬これを放ち飼う事。
一、寺家並びに門前の諸役、陣取り、宿を借りる事。
一、祠堂方先規に相定むる年貢・諸役のほか、臨時の課役の事。
一、外山を刈り取る事、一切停止たりといえども、衆僧の儀、先々の如く受用するは、その意を得る事。
一、寺家の法度に背く輩、檀方(檀家)許容の事。
右の条々、違背のともがらに於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って下知くだんの如し。(以下略)

備考

瑞龍寺は美濃国厚見郡(現岐阜市寺町)にあった臨済宗妙心寺派の寺院。

2条目は寺院関係者から課税をしたり、矢銭を要求したり、兵粮米や人足を徴発してはならない。
さらに、陣を取ったり、寄宿することを禁じた。
3条目は祠堂方に対して、先例で定めた年貢や諸役以外に、臨時で課役を申し付けることを禁じたもの。
祠堂は死者の霊をまつる所。位牌をまつる堂のことで、ここでは檀家から寄進された堂を指すのだろう。
4条目は寺周辺の山林を刈り取ることを禁止しているが、衆僧がこれを行うことは、寺家の許可があれば認めている。

信長が大規模な軍事行動を起こすことが世上の噂になっていたのだろう。
瑞龍寺は岐阜城下の南に連なる丘一帯を寺領として持ち、美濃を代表する大規模な寺院であった。
しかし、昨年にあたる永禄10年(1567)9月の織田信長の美濃攻めを受け、大きな被害を受けたのだろうか
その反省なのか、今回はいち早く禁制の発給を求めている。

8月

信長、近江国坂田郡の成菩提院に全三ヶ条からなる禁制を発給。『成菩提院文書』(永禄十一年八月日付織田信長禁制)「改訂近江国坂田郡志」四(所収)

    禁制        柏原
               成菩提院
一、陣取、放火之事、
一、濫妨・狼藉之事、
一、伐採山林・竹木事、
右条々、堅令停止訖、若於違乱之輩者、速可処厳科者也、仍執達如件、
  永禄十一年八月日          弾正忠(花押)

(書き下し文)
 禁制 柏原かしわばら 成菩提院じょうぼだいいん
一、陣取り、放火の事。
一、濫妨・狼藉の事。
一、山林・竹木を伐採の事。
右の条々、堅く停止せしめおわんぬ。
もし違乱の輩に於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って執達くだんの如し(以下略)

備考

寂照山成菩提院円乗寺は美濃との国境に近い柏原に所在する天台宗の寺院。
現存する中で、信長が自らを「弾正忠」と称する最古のものである。
先述の『瑞龍寺文書』(永禄十一年八月日付織田信長禁制)にはこれがないのが興味深い。

8月

信長、近江国犬上郡の多賀社に全三ヶ条からなる禁制を発給。『多賀神社文書』二(永禄十一年八月日付織田信長朱印状)

   禁制         多賀大社並町
一、当手軍勢濫妨・狼藉之事、
一、陣取、放火之事、
一、伐採竹木、相懸非分課役事、
右条々、堅令停止訖、若於違乱之輩者、速可処厳科者也、仍執達如件、
              「信長公(押紙)
  永禄十一年八月日      弾正忠(朱印)

(書き下し文)
一、当手の軍勢、乱妨・狼藉の事。
一、陣取り、放火の事。
一、竹木を伐採し、非分の課役を相懸くるの事。
右の条々、堅く停止ちょうじせしめおわんぬ。
もし違乱のともがらに於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って執達くだんの如し(以下略)

備考

多賀社は近江犬上郡に所在する大社。
その歴史は古く、多くの古文書を所蔵する。
天文14年(1545)に甲斐の武田信玄が、自らの誕生年を記した願文を奉納したことでも知られている。『多賀神社文書』

8月

朝倉義景、亡武田義統との盟約のもと、若狭に兵を進めて武田元明を救出。
越前へ迎え入れる。(出展不明)

備考

若狭国を支配する武田氏は、室町将軍家の奉公衆として代々幕府と深い繋がりもっていた。
幕府や朝廷からの軍勢催促や財政的負担にも応じなければならず、次第に家臣や民衆の不満が増大していた。

天文年間からはじまる武田元光・信豊父子の内紛は、次世代の武田信豊・義元(義統)父子との争いへと移り、家臣団も巻き込んで深い禍根を残す。
弘治・永禄年中には、家督を継いだ義統を支える譜代の山県・上原氏と、信豊を支持する逸見氏が激しく対立する。
さらには、三好党の丹波八木城主内藤宗勝(松永長頼)が逸見氏を支えた。

永禄4年(1561)正月に逸見氏が武田義統に対し反乱を起こす。
義統は越前の朝倉義景(義景の生母は武田家出身。妻は細川晴元娘)に救援を求める。
これに応じた義景は、5月28日に敦賀郡司の朝倉景紀に出陣を命じる。
この戦いで逸見氏の高浜城は攻略され、義統を支持する朝倉氏が勝利したのだった。『当国御陳之次第』『厳助往年記』『御湯殿上日記』

一方、永禄6年(1563)から永禄11年(1568)まで毎年のように若狭へ侵攻する朝倉氏を相手に佐柿城に籠城したのが粟屋勝久であると『若州国吉籠城記』は記す。
真偽のほどはわかりかねるが、逸見氏を支持する内藤宗勝が丹波の合戦で討死を遂げ、さらに三好長慶が没すると、時代は新たな局面を迎える。

それが将軍足利義輝の横死である。
以後は国内外で足利義栄を支援する陣営と、足利義昭を支援する陣営が争うようになった。
そのような情勢の中、永禄10年(1567)11月9日に武田義統は没する。
このたび朝倉氏がこのような行動に出たのは、政情不安定な若狭へたびたび援軍を送るよりも、元明を手元に置いておく方が合理的だと考えたのかもしれない。

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