浅井朝倉殲滅戦

天正元年(1573)夏の山本山城降伏、湖北出兵、月ヶ瀬城、大獄城、刀根坂の合戦、朝倉家滅亡、小谷山城総攻撃、浅井家滅亡など

2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 三好義継の最期

織田信長の年表16回目です。天正元年(1573)10月~12月までのおもに織田家の行動を年表にしています。この間の主な行動は、伊勢長島攻めをはじめ、山城静原山城陥落・毛利・伊達両家との外交・三好義継自刃・松永父子降伏・旧幕臣関係者の所領安堵などです。
織田信長が出した古文書

「戦国時代の印象外交と政治的な大言壮語」織田信長の書状から見てみよう

戦国大名も組織の代表者です。現代と同じように、彼らも生き残りを賭けて外聞には非常に気を遣いました。時には虚勢を張り、一のことを百のように話を盛ることもあったでしょう。今回はそんな「政治的な大言壮語」を織田信長の書状から見ていきましょう。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 朝倉・浅井家滅亡

織田信長の年表13回目です。天正元年(1573)8月~10月までのおもに織田家の行動を年表にしています。朝倉・浅井討伐戦・近江鯰江城攻略・第二次伊勢長島一向一揆戦の時期にあたります。
織田信長が出した古文書

久秀敗北 信長が松永父子に突き付けた降伏の条件とは

足利義昭陣営につき、信長と敵対した松永久秀・久通父子でしたが、織田勢の攻撃に抗しきれず天正元年(1573)に降伏します。その時、降伏の条件として信長が佐久間信盛へ宛てたのが今回の書状です。いつものように書状の解読のほか、時代背景も合わせて解説します。
織田信長が出した古文書

闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します

中世日本の闕所(けっしょ)という謎ルールについて織田信長の判物を例に解説します。"これはどちらの意味を指すのか"クイズ感覚で楽しんでいただければ幸いです。当ブログは古文書を解読し、当時の人々の生き様を紹介するサイトです。
5.歴史系おもしろまとめ

明智光秀による丹波平定戦 大河ドラマには描かれないであろう栄光と挫折

明智光秀の丹波平定の顛末を複数の史料からまとめました。信長につくか、将軍義昭につくかで揺れる丹波国。そんな中、明智光秀が丹波攻めの総大将に抜擢されます。今回はそんな光秀の丹波平定の栄光と挫折を描きます。
信長家臣団が出した古文書

功に焦り!?信忠が信雄に宛てた書状の意味するものとは?

天正元年(1573)17歳の若き織田信忠が弟の信雄に宛てた書状を解読します。本状には尚々書(追而書)の部分が存在し、もしかするとここが織田信忠の直筆かもしれないです。織田信忠の現存する書状自体が非常に希少なものです。さあ今回はどのような面白いことが記されているでしょうか。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳も載せてます。
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