闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します

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闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します
らいそくちゃん
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明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます<(_ _)>
皆様にとってもよい一年となりますように、お祈り申し上げます。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

新年最初の記事は、闕所(欠所)という中世日本の謎システムについて、織田信長が発給した判物を例に解説いたします。
闕所とは何なのか。どういったところが謎システムなのか。
なるべく難しい言葉を避けて、わかりやすく書かせていただきます。

闕所(欠所)ってなに?

 闕所けっしょ(欠所)とはなにか。
インターネットや手持ちの古語辞書で調べると、だいたいどれも以下の文言が出ると思います。

  1. 領主の決まっていない土地。
  2. 江戸時代の刑罰の一つ。
    領地または財産などを官が没収すること。
    追放以上の重い刑罰。

②に「江戸時代の」とありますが、それ以前から刑罰のひとつとして用いられていました。
より詳しい闕所の意味については、記事後半でご説明します。

次章で紹介する史料にも「欠所(闕所)」という単語が出てきますが、これは①と②のどちらを意味するのか。
クイズ感覚でご覧いただければと思います。

信長が美濃攻略時に発給した判物

原文

(永禄六年)十一月日付織田信長判物

(永禄六年)十一月日付織田信長判物『小川文書』(真田宝物館所蔵)

釈文

新儀諸役幷
持分、買徳方、
誰々欠所判形
雖有出事、任当
知行、不混自餘、
不可有相違者也、
仍状如件

  永禄六
   十一月日    (信長花押)

    長田弥右衛門尉
(彦右衛門尉かも)

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
※名前の部分は彦右衛門尉の可能性もあります。

補足

 ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。

(永禄六年)十一月日付織田信長判物+釈文

1~2行目の「新儀諸役幷持分、買得方、
「新儀の諸役」とは、新たに課せられた命令、沙汰という意味です。
この4文字いずれも基本的なくずしをしています。
特に「諸」は偏の”言(ごんべん)”、旁の”者”ともに基本通りのくずしです。

「幷」は”並”の旧字です。

「持分」は字が掠れていて読みにくいですね。
「買徳方」とは、主君から宛がわれた知行とは別に、買い入れた土地という意味で、買得と同じです。

読み下すと「新儀の諸役並びに持分買得方」。
つまり、「そなたへの新規の諸役(いろいろな夫役ぶやく)並びにこれまでの持分(知行地)・(知行地とは別の)買い入れた分について、」
という文意になります。

3~4行目の「誰々欠所判形雖有出事
ここで「欠所」が出てきましたね。
「所」の字はくずすと”取”の字に似ているため、注意が必要です。
私も何度も忘れて覚え直したことがあります(6敗)
先に述べた①の意味なのか、②の意味なのかはひとまず置いておき、先に進みましょう。

判形はんぎょう」とは、その土地を支配する権力者が、所領安堵などを行う際に、差出人の花押かおうを据えて下達する文書のことで、判物はんもつともよばれています。
判形について過去に記事にしたことがありますので、詳しくお知りになりたい方はこちらをご覧ください。
関連記事:戦国時代の古文書 判物とは何か 書き方のルールは?

「雖有出事、」
今回も例に漏れず返読文字が登場しました。
しかも、困ったことに3文字続けて返読します。
「雖(いえども)」「有(ある)」「出(だす)」がそれにあたります。
ここは、「出す事」から読み始め、「有りと雖(いえど)も」と順に返って読みます。

読み下しますと「誰々だれだれ欠所けっしょ(闕所)の判形はんぎょうを出すこと有りといえども、」。
すなわち「例え誰が闕所処分を受けて、その土地の新規権利取得者が判形を証拠に所有権を訴えても、」
という文意になるでしょう。

4~5行目の「任当知行不混自餘
「任」「不」「混」は返読文字です。
動詞や有り無しなどの文字は返読する場合が多い傾向にあります。

「当」の字はここでは綺麗に記されていますが、異体字にあたる「當」がくずされた字も頻出するので注意が必要です。

「不」はひらがなの”ふ”に似た字をしているのは、この字がくずされてひらがなの”ふ”が誕生したからです。

「自餘」は”自余”のことです。
返読する部分を入れると「自余に混せ不(ず)」となり、他とは紛れようがない。並々でないという意味です。

読み下すと「当知行に任せて自余に混せず、」。
すなわち「その知行についてはこれまでとは例外に扱い」といった文意になります。

6行目の「不可有相違者也
やや字が掠れてしまっていて読みずらいですが、「不」「可」「有」と3文字続けて返読文字が続きます。

ここは「相違」から読み始め、「有る」「可(べから)」「不(ざる)」と順に返ってゆき、最後に「者也(ものなり)」と読みましょう。
「不可有」で通常は”べからず”と読むのですが、この文脈では”べからざる”と読んだ方がよさそうです。

「有」の字は特に原型を留めていないため難読ですね。
理屈抜きで覚えた方が良さそうです。
大きくくずされるということは、それだけ頻出する字だということです。
何度も反復読みして脳髄に叩き込みましょう。

この部分を読み下すと「相違有るべからざるものなり」となり、次の「仍状如件(よってじょうくだんのごとし)」とともに、判物お決まりの文言です。

原文に釈文を記してみた

(永禄六年)十一月日付織田信長判物+釈文

(永禄六年)十一月日付織田信長判物+釈文

書き下し文

新儀の諸役並びに持分買得方、誰々欠所の判形はんぎょうを出すことありといえども、当知行に任せて自余じよに混せず、相違あるべからざるものなり。
って状くだんの如し

  永禄六(1563年)
   十一月日    (信長花押)

    長田弥右衛門尉
(彦右衛門尉かも)

原文に書き下し文を記してみた

(永禄六年)十一月日付織田信長判物+書き下し文

(永禄六年)十一月日付織田信長判物+書き下し文

現代語訳

 そなたへの新規の諸役(いろいろな夫役)並びにこれまでの知行分・買い入れた分について、例え誰が闕所処分を受けて、その土地の権利取得者が所有権を主張しても、それは認めずにその方の知行を安堵する。

1563年11月日 (信長花押)

 長田弥右衛門尉(彦右衛門尉かも)

現代人には理解しがたい中世日本の知行システム

 この史料は、美濃の斎藤氏との戦いが激化してきた永禄6年(1563)11月に、家臣の長田氏の権利を認めた判物です。
長田氏は尾張国海部あま郡または内海うつみ郡に住む小土豪だと考えられています。

諸役しょやくに関しての記述がやや言葉足らずな印象を受けますが、新規に課せられた諸役を免除される特権が認められたと解釈してよいでしょう。

さらにこれまでの持分もちぶん(主君より宛行われた知行地)・買い入れた土地分(買得地ばいとくち)について、例え誰が闕所処分(所領没収)を受けて、その土地の権利取得者が所有権を主張しても、それは認めずにその方の知行を安堵する。
という内容の、いわゆる特権が認められています。

ここで闕所が出てきましたね。
闕所処分とは、領地没収処罰を受けたことを意味します。
現在の日本の法律では理解しがたいことですが、中世日本では闕所処分を受けた者の土地は、その土地を新たに得た者も没収されてしまうというルールがありました。

例えば、Aさんが土地を買い入れた。
その土地を、AさんがBさんに売却した。
のちにAさんが何らかの法度に背き闕所処分(所領没収)となってしまった。
すると、Bさんが所有している土地も没収されてしまうというルールです。

闕所とは何か 図説1

闕所処分の例1

今回の文書を発給した織田信長は、このルールにメスを入れた形です。

「誰々欠所判形雖有出事、任当知行、不混自餘、不可有相違者也、」
(誰々欠所の判形はんぎょうを出すことありといえども、当知行に任せて自余じよに混せず、相違あるべからざるものなり。)

即ち「例え誰が闕所処分を受けて、その土地の権利取得者が所有権を主張しても、それは認めずにその方(長田氏)の知行を安堵する。」
という意味です。

闕所とは何か 図説2

闕所処分の例2

なお、この長田氏は前年にあたる永禄5年(1562)10月9日付で、赤川弥十郎とともに佐久間信盛から領地の加増を受けています『浅井文書』
このことから、佐久間信盛の与力だったのかもしれません。

闕所について概ねご理解いただけたでしょうか。
冒頭でクイズにした「どちらの意味の闕所なのか」

①領主の決まっていない土地。
②江戸時代の刑罰の一つ。領地または財産などを官が没収すること。

今回の文書から見て、正解は②となります。
それではこちらはどうでしょうか。

闕所はどちらの意味か 同時期に池田恒興が受けた判物

釈文

其方扶助之内、同持分並家来者買徳持分之儀、誰々為欠所前後之雖判形出之、不混自余、無相違知行可申付者也、仍状如件、

  永禄六
    十二月日    信長(花押)

     池田勝三郎殿

永禄六年十二月日付織田信長判物『備前池田家手鑑・池田文書 二〇備前・黄薇古簡集・備藩国臣古証文 一』
※この判物は原本では「十二月日」とあるが、写しでは「十一月 日」と誤記されています。

書き下し文

 その方扶助の内、同じく持分並びに家来の者買得持分の儀、誰々の欠所として前後の判形これ出すといえども、自余に混せず、相違なく知行申し付くるべきものなり。
仍って状くだんの如し

  永禄六(1563)
    十二月日    信長(花押)

     池田勝三郎(恒興)殿

解説

 その方(池田恒興)への扶助分のうちで、知行分・家来が買い入れている土地は、例え元の持ち主の誰が欠所処分(財産没収)を受けて判物を提出し、所有権を主張したとしても、それを退けて安堵する。
という意味です。

書いている内容は先の長田氏へ発給したものとほぼ同じですね。
従って、この文書の答えも②となります。

池田恒興は織田信長の乳兄弟として古くから仕えた人物として知られています。
一説には池田氏は摂津池田氏の一族で、恒利の代に尾張国に移り、近江国の池田某の女を娶った。
この女性が養徳院という人物で、勝三郎恒興を生んだ。
とありますが、真偽のほどは不明です。

池田恒興肖像画

池田恒興肖像(大阪城天守閣所蔵)

恒興は永禄4年(1561)5月の十四条軽海合戦で大きな武功を立て、永禄6年(1563)春に起きた新加納の戦いでは先陣を務めているとあります。
しかし、信長の美濃攻めに関して良質な史料が少ないため、こちらも真実だとは断言できません。『信長公記・総見記』

この恒興の特権を認める旨の判物は、美濃攻めでの論功行賞なのかもしれません。
後に恒興は甲斐武田氏の備えとして河尻秀隆らと東美濃を守備し、荒木村重追放後の摂津国伊丹一円を与えられます。
本能寺の変後は羽柴秀吉に協力するも、小牧長久手の合戦で壮絶な討死を遂げました。

それでは、嗣子のいない当主が世を去った場合、その家の領地はどうなるでしょうか。
縁故を頼って親類の者が急遽家を継ぐ例、その領地は闕所として扱い、その地を支配する権力者の直轄領となる例、全くのよそ者が軍事介入してくる例などいろいろなパターンがあります。

次章で紹介する史料は、そうしたパターンの一例です。

嗣子のいない当主が世を去った場合 ~信長が池田輝政に安堵した判物から~

原文

天正元年九月七日付織田信長朱印状

天正元年九月七日付織田信長朱印状『池田文書』(岡山大学附属図書館池田家文庫所蔵)

釈文

木田小太郎跡職之
事、依由緒、其方
息古新ニ令譲与之
上者、全領知不可
有相違、為扶助申
付之状如件、

天正元
 九月七日 信長(朱印)

   池田勝三郎殿

原文に釈文を記してみた

天正元年九月七日付織田信長朱印状+釈文

天正元年九月七日付織田信長朱印状+釈文

書き下し文

木田小太郎(荒尾善久)跡職あとしきの事、由緒により、其の方息古新(こしん=池田照政)に譲与せしむるの上は、全く領知(=知行地のこと)し、相違有るべからず。
扶助として申付くるの状くだんの如し。

天正元(1573)
 九月七日 信長(朱印)

   池田勝三郎(恒興)殿

原文に書き下し文を記してみた

天正元年九月七日付織田信長朱印状+書き下し文

天正元年九月七日付織田信長朱印状+書き下し文

解説

 これは元亀3年(1572)12月に起きた三方ヶ原の合戦により、戦死した荒尾善久(小太郎・美作守)の知行地に関わる史料です。
荒尾善久は尾張知多郡の木田城に住していたため、木田小太郎とここでは記されています。

父の善次(小太郎・作右衛門・美作守・閑斎)とともに織田家によく仕え、今川義元との戦いでは籠城三ヶ年に及び、信長より三十貫文の地を宛行あてがわれたと『重修譜』にはあります。

善次の娘は信長の異父弟(秀俊?)に嫁いだものの、若年で異父弟が死去したため池田恒興に再嫁。
元助・照政(輝政)・長吉・長政らを生みました。『重修譜・織田系図』

そうした関係があって恒興次男の古新こしんが荒尾家当主となる話が持ち上がり、この判物をもって信長がこれを裁可したことになります。
池田家の跡取は嫡男元助がなるのが当然でしょうから、別家の当主として古新が選ばれるのは自然な流れだと思います。

池田輝政肖像画

池田輝政肖像(鳥取県立博物館所蔵)

古新は元服後「池田照政」と名乗り、父と兄を補佐します。
しかし、小牧長久手の合戦により父と兄がともに討死。
照政は池田家へ出戻る形となり、池田家の家督を継いだと考えられます。
その後は豊臣秀吉・徳川家康の厚い信頼を得て、最終的には播磨など西国数ヶ国を治めるに至りました。

まとめ

 今回は織田信長が発給した判物はんもつから、闕所について解説しました。
なるべく難しい単語や言い回しを避けての解説だったため、説明不足な点もあったかもしれません。

土地・知行分に関しての決まり事は、各家によって微妙に違う点があり、調べてみるとなかなか興味深いです。
例えば、甲斐の武田信玄は自らが定めた『甲州法度之次第』で、恩地領の売却を厳禁し、私領名田の年季売りを定める一条があります。

戦国時代の知行制度について『日本中世史事典』に面白い記述がありましたので、少し引用させていただき、今回の記事の括りとさせていただきます。


戦国大名は主従制原理に基づく家臣団編成を行い、自らを公儀と位置付けて領国支配を展開した。

家臣には知行として給地・給分を与え、その代わりに軍役奉公を義務付けることで軍事力を編成し、領土拡大による新たな知行地の獲得を目指して隣国の大名との戦争を繰り返した。

(在地剰余分)を掌握して収奪を強化するとともに、把握した耕地面積や生産高に基づいて年貢・公事・夫役を領民に賦課した。

検地の結果把握した土地を貫高で表示して百姓の年貢・諸役賦課基準とし、家臣の所領も貫高で表してそれを軍役奉公の基準とする貫高制を採用することで統一的な知行性を実現した。

また、家臣団統制や治安維持・紛争処理などのために分国法を制定し、家臣団相互の喧嘩の停止、境界相論や所領売買に関する規定などを定めた。

本拠には城を構えて城下町を形成し、家臣団や商工業者を集住させ、領国内の政治・経済の中心地としての機能を担わせた。


   『日本中世史事典』より抜粋

今回は闕所に焦点を絞って記事にしましたが、土地をめぐって家臣レベルの境界紛争に頭を悩ませる権力者の苦悩を描くのも面白いかもしれませんね。
いつか記事にしてみたいものです(^-^;

参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2016)『織田信長の古文書』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
佐藤和彦,阿部猛(2008)『日本中世史事典』朝倉書店
林秀夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
など

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