織田信長が出した古文書

河尻秀隆はどこにいた?長島一向一揆戦から見える信長公記の信憑性

伊勢長島一向一揆勢の最後の戦いとなった天正2年(1574)夏。この時期に信長が河尻秀隆へ宛てた書状から、織田の諸将がどのように動いたのか。さらにこの時期の『信長公記』がどの程度信用の置ける史料なのかを探ります。当サイトは戦国時代の面白さを古文書から伝...
織田信長が出した古文書

久秀敗北 信長が松永父子に突き付けた降伏の条件とは

足利義昭陣営につき、信長と敵対した松永久秀・久通父子でしたが、織田勢の攻撃に抗しきれず天正元年(1573)に降伏します。その時、降伏の条件として信長が佐久間信盛へ宛てたのが今回の書状です。いつものように書状の解読のほか、時代背景も合わせて解説します。
織田信長が出した古文書

闕所(欠所)ってなに?織田信長が発給した判物を例に解説します

中世日本の闕所(けっしょ)という謎ルールについて織田信長の判物を例に解説します。"これはどちらの意味を指すのか"クイズ感覚で楽しんでいただければ幸いです。当ブログは古文書を解読し、当時の人々の生き様を紹介するサイトです。
六角・浅井・朝倉家が出した古文書

越前合戦~姉川合戦 信長打倒に燃える朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読

外交の力で信長を撤退へ追い込んだ朝倉義景。義景はさらに信長を追い込むべく周辺の勢力と誼を通じ、調略を活発化させます。この時期に朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読し、そこから何が見えるのかを記事にしています。
信長家臣団が出した古文書

堺の町を脅迫?柴田勝家・佐久間信盛・森可成らが大金を要求した時の書状

柴田勝家・佐久間信盛・森可成・蜂屋頼隆が堺の町を脅迫した書状です。「15日までに支払わなければ御成敗」、「もってのほか御腹立ち」など、恐ろしいことが記されています。当時日本で最大の繁栄を誇った堺の町がなぜこのような事態に追い込まれたのでしょうか。当サイトはそうした古文書を丁寧に解読し、当時の人々の生き様をご紹介します。
徳川家康が出した古文書

長篠の戦い前夜 徳川家康が織田信長への感謝の意を示した書状を解読

長篠の戦いの少し前、徳川家康は織田信長に大量の兵糧が届いたことを感謝し、礼状を送ります。そこから浮かび上がる当時の情勢と信長との関係性がなかなか興味深いです。また、記事の最後には徳川家康が用いた花押と印判を載せています。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 将軍追放!事実上の室町幕府滅亡

信長の年表12回目です。今回の主な出来事は丹羽長秀に大舟建造を命じる、足利義昭再び挙兵の風聞、河内畠山家の遊佐信教らが主君・畠山秋高(昭高)を弑逆、足利義昭再び挙兵、二条御所の戦い、宇治槙島の戦い、足利義昭追放、一乗寺・静原山両城の戦い、木戸・田中両城の戦い、「天正」と改元などです。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 将軍・足利義昭がついに挙兵

信長の年表11回目です。今回の主な出来事は武田信玄が野田城を攻略、武田軍の快進撃が止まる、将軍・足利義昭が挙兵、細川藤孝の内通、石山・今堅田の戦い、和田惟長乱心、髙山友照・重友父子の暗殺を謀る、織田信長による洛外・上京焼き討ち、鯰江城の戦いと百済寺焼き討ち、武田信玄死去、足利義昭と織田信長間で和議成立などです。

3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説

姉川の合戦の詳細記事後半です。諸説さまざまな姉川の合戦、軍議、姉川の地形、姉川合戦の陣立て、姉川の合戦 開戦、姉川の合戦 浅井軍の猛攻、信長危うし 13段の備のうち実に11段まで破られる、形勢逆転 徳川軍の反撃、追撃掃討戦、姉川の合戦 終結する、通説ではない姉川の合戦 実は苦戦していなかった?などです。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

これが織田方面指令軍の原点 織田信長による近江支配体制の確立

織田信長による近江国支配体制について。1.浅井長政謀反 岐阜-京都間の街道が分断される2.南近江に歴戦の将を配置する3.姉川の合戦 近江支配に木下秀吉が加わる4.野田・福島の戦いと志賀の陣 森可成が討死する5.比叡山焼き討ち 近江支配に明智光秀が加わる6.徐々に狭まる対浅井長政包囲7.浅井・朝倉家滅亡 その後の近...
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