戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

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戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは。
今回はクソマニアックなネタで申し訳ありませんが、「戦国時代の外交文書の作法としきたり」について記事にしたいと思います。
私も最近知った部分が多く、忘れないように頭の整理をしたいと思い書きおこしました。

なぜ戦国時代の外交文書はややこしいのか

 外交文書はややこしいルールやしきたりがたくさんある。
なぜかというと、それは相手によって礼儀の厚い薄いを使い分けていたからだ。
現在の日本でもそうした名残が少しあるのが面白い。

今回は

  • 文末をどのような文言で締めくくるか
  • 宛名を日付より上に書くか下に書くか
  • よく見かける「仍如件」はどのような場面で使われるのか
  • 「〇〇殿」、「〇〇どのへ」の礼儀の厚薄はについて
  • 宛名の左下脇にある謎の小文字について
  • 書状のやり取りを側近を通してする意味

に焦点を当てている。

文の最後となる末尾をどのような文言で終えるか

 外交文書は礼儀が厚い「厚礼」、その逆の「薄礼」とに分類することができる。
一番わかりやすいのが、本文の末尾をどのような文言で終えるかである。
これを「書留文言(かきとめもんごん)」といい、現在の「敬具」や「草々」にあたる。

対等な相手に書状を送る際には「恐々謹言」が一般的だ。
これは多くの方も聞いた事があるだろう。

目上の人に送る際には「恐惶謹言

目下の人に送る際には「謹言
さらに身分の低い相手に送る際には書留文言すら書かない場合もある。

また、仍如件(よってくだんのごとし)」、「状如件(じょうくだんのごとし)」といった書留文言は、命令・決定を伝達する際に用いられた。
これは目下宛ての書札礼で、外交文書で使用されることはない。
ただし起請文だけは例外で、礼の厚薄に関係なく「仍如件」を書留文言とすることを基本としていた。

「殿中御掟」原文に書き下し文をのせてみた
永禄12年(1569)1月に織田信長が将軍・足利義昭に出した「殿中御掟」(1回目)

信長は目上にあたる将軍に出した「殿中御掟」。
目上宛てに出した書札礼なので「仍如件」がない。
関連記事:【古文書講座】信長が出した書状から読める足利義昭との関係性(殿中御掟)

原文に釈文を記してみた
元亀元年(1570)五月四日付織田信長書状

これは織田信長が浅井長政の裏切りで窮地を脱した直後に、河内国の畠山昭高に宛てた書状。
外交文書なので 「仍如件」 はなく、最後は「恐々謹言」で締められている。

関連記事:【古文書講座】信長包囲網 信長が畿内大名の心を繋ぎとめようと必死

もう一つ見ていただきたい。

天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文に釈文を入れてみた
天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文

これは本能寺の変で世の中が一変した後に徳川家康が北条家と和睦した時の起請文。
外交文書は外交文書でも起請文なので「仍如件」で締められている。

関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は

「〇〇殿」「〇〇様」なども礼の厚薄に関係していた

 「殿」などの字をどの程度崩して書くかによっても礼の厚薄が見て取れる
古文書によって「殿」などの字にばらつきがあるのはそのためだ。
ひらがなで「~とのへ」と書いてるのが最も薄礼なものだった。

ただし、出家した人間には「殿」を記さない慣習があったらしく、「〇〇斎」などと呼び捨てで記されても失礼にはあたらない。

現在の世の中で主流である「〇〇様」は、豊臣秀吉の時代からちらほら出だすようになった。

相手の名前を書く位置も礼の厚薄に関係していた

 宛所となる書状の送り相手の名前を書き始める位置によっても複雑な決まり事があった。

まず、宛所を書き始める〇月〇日と日付を書いた後で、〇月よりも高い位置から宛所を書き始めるのが厚礼。

〇月の月の数字を同じ高さから書き始めれば対等。

それよりも低い位置から書き始めれば目下宛てということになる。

つまりこういうことだ。
目上の場合

目上の場合

対等の場合

対等の場合

目下の場合

目下の場合

宛名の左下脇にある謎の小文字について

 戦国時代の書状では相手への礼儀ある書状には
宛所の左下脇に「参(まいる)」や「進之候(しんじそうろう)」、「人々御中」、「御宿所(みしゅくしょ)」といった言葉が書き添えられている
これを「脇付(わきづけ)」という。

「参」、「進之候」は
「お手紙を差し上げます」といった意味だ。
「参」は単にひらがなで「まいる」と書く場合もある。

「人々御中」、「御宿所」というのは、
「あなた様の側近の人たちへ」という意味。

原文に釈文を記してみたB

これは明智光秀が岡本一族に宛てた書状。
このように「御宿人々」と締められている。
さらに目下の身分へ宛てた証拠として、日付よりも下に宛名が記されている。

関連記事:【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆書状を解読

一方「北条殿」や「北条左京大夫(さきょうのだいぶ)殿」などと相手の名字や通称だけを記す書き方は「打付書(うちづけがき)」といい、もっとも薄礼な書式だった。
ただし戦国大名間の外交書状ではしばしば目にする)

左下脇

という具合になる。
なお返書の場合は

左下脇 返書の場合は

となる。

また、相手の名前を宛所に記す代わりに、相手の居住地を宛所に記す書式も厚礼なものだったらしい。
小路名(こうじな)」、「御在名(ございめい)」、「所書(ところがき)」などと呼ばれる書式がそれだ。

これによって、相手に直接宛てて書状を出しているというニュアンスを薄め、丁重に書状を送っているという気持ちを表現した。

現在は秘書を通して 昔は側近を通してやりとり

 現在は政府関係者や大会社の社長となると、間に秘書を通して電話や文通のやり取りをするのが普通だ
実は昔から日本でもそうした文化があった。

実はもっとも丁重とされる書状の出し方が、相手大名に直接書状を送らず、その家臣に宛てて書状を送る方法だ。
これを披露状(ひろうじょう)」、「付状(つけじょう)」、「伝奏書(でんそうがき)」などと呼ぶ。
逆に直接大名に送る方法を「直状(じきじょう)」、「直札(じきさつ)」といった。

家臣(秘書)を通して送る意味は
この書状の内容をあなたの主君にご披露してください。
私は貴方の主君に直接書状を送れるような立場にありません。

という非常にへり下ったニュアンスが含まれている。

永禄7年11月7日付 織田信長が直江景綱(上杉家家老)に宛てた文書
永禄7年11月7日付織田信長発給文書

これは以前現代語訳化したことのある書状。
美濃攻略の最中の織田信長が、越後の上杉謙信の家老・直江景綱に宛てて送った文書だ。
文の内容もそうだが、信長は最大限の礼を尽くして謙信の関心を買おうとしていることが窺える。

関連記事:信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実

このシステムについてはすでに広く浸透していて、例えば大名の息子であっても父に書状を送るときは、披露状などで大名の側近に宛てて送っていたのである。

次は実際にどのような「書札礼」を用いて書状を出していたのかや、戦国大名同士で書状の受け取りが拒否されたケースなども記事にしたいと思う。

来世ちゃん
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来世ちゃん
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