こんばんはー。
今回は短い内容ですが、意外と知られていない「戦国時代の同盟破棄」のルールについてご説明します。
“手切之一札(てぎれのいっさつ)“といいまして、同盟を破棄する際は双方からこれを送り合い、正式に国交断絶を宣言しました。
同盟の不安定さ
戦国時代には数多くの同盟が結ばれ、そして破られた。
応仁・文明の乱から大坂の陣までの約百五十年の間、大名・国人合わせるとかなりの数だったであろう。
現在の外交は同盟関係を維持するためには信頼関係が必要だ。
それは500年ほど前の戦国時代でも同じことだった。
皆が様々な利害を持ち、領土の為に動く当主がいれば、義の為に動く当主もいた。
相手との信頼関係を維持するのに最も有効な手段は婚姻だった。
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他に有効な手段は起請文(誓紙)の交換と人質だろう。
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逆にいえば、頻繁な信頼関係の確認が無ければ、戦国大名間の同盟関係は簡単に崩壊するものでもあったといえるだろう。
そういう意味ではたとえ婚姻したとしても、利害が一致しなければ同盟関係は不安定なものになるのだ。
必殺!手切之一札
裏切り、裏切られの戦国時代にも外交儀礼上、正式に同盟破棄を宣言することもあった。
それが「手切之一札(てぎれのいっさつ)」といい、相手方に対して使者を直接遣わし、同盟締結時などに取り交わした起請文(誓紙)と一緒に渡していたと考えらえる。
恐らくは手切之一札に書かれている内容は、
「自分が同盟破棄するのは相手がこうだから仕方のないことだ」
と正当性を主張したものだと思われる。
当然これは国交断絶を意味している。
なお、手切之一札なる書状は一通たりとも現存しない。
手切之一札はなぜ一つも現存していないのか
なぜ手切之一札は現存していないのだろうか。
一通も残されていないのは明らかにおかしい。
しかしながら、古文書ではちらほら「手切之一札」とキーワードが記されていることから、存在はしていたはずだ。
これはあくまで私の勝手な推測なのだが・・・。
同盟締結時や同盟期間中に相手と取り交わした起請文(誓紙)を神前に捧げ、呪詛を唱えて焼く風習があったのかもしれない。
無論、それだけでは現存しない理由にはならないが。
とはいえ、それに似た文書は残っている。
豊後の大名・大友義鎮(宗麟)が家督を相続して間もない頃、叔父にあたる菊池義武に送った書状だ。
手切之一札に似た文書はある
菊池義武は大友義鑑の弟で、肥後守護の菊池氏へ養子入りしていた。
大友家に反旗を翻し、敗北して亡命。
ところが兄の横死を聞いて肥後へ戻り、肥後・筑後の国衆を取りまとめて再び大友家に対抗しようと企てた。
これを聞いた大友義鎮(宗麟)が菊池義武に送った書状がそれである。
内容が非常に長くて難しいので、解読についてはまたの機会にさせていただくが、要約すると
冒頭部分は親しい親戚に送ったような丁重なものだが、本題に入ると菊池義武の肥後入りを厳しく非難した上、以前大内氏と結んで大友家と敵対したという過去のいきさつを指摘し
せっかく隠居料を準備しようと話を進めてたのに、それを裏切って挙兵の準備を進めるとは「極悪心顕然(ごくあくしんけんぜん)」
と糾弾している。
その上で、
こうなったらいくさをするしかないが、考え直すのであれば相応の処遇をする
と本文を結んでいるのだ。
この書状は菊池氏へ宛てただけでなく、広く写しが配られていたようで、現在でも同じ内容の書状が数点現存している。
大友義鎮に大義があるとアピールしたかったのだろう。
到津家に伝来した写には
「豊後はゆミノくん」=「豊後破弓の訓」
と奥書が記されており、これは一種の「手切之一札」と評価してよいかもしれない。
なお、その後の菊池義武は、降伏せずに相良氏、宇土氏、名和氏、三池氏、溝口氏、城氏、赤星氏、隈部氏ら多数の国人衆を巻き込んで激しく戦った末に自害した。
手切之一札を送らなかった場合のデメリット
弱肉強食の戦国時代といえども当主が明らかに大義に欠けた行動を取れば、家臣領民の信頼を失うものだった。
特に起請文で取り交わした約定を破った場合に多くの信頼を失ったようだ。
当時はそれだけ起請文の存在が大きかったのだ。
ここに面白い例がある。
甲斐武田家19代目当主・武田晴信(信玄)は家督を継承した翌年、同盟関係の諏訪頼重に奇襲をかけて滅ぼしている。
あまりに急なことだったらしく、当然手切之一札を送りあってはいなかっただろう。
晴信は美人の聞こえ高い諏訪頼重の娘・諏訪姫を側室に迎え入れ、子を産ませて諏訪家を継がせている。
その子こそが武田勝頼だ。
裏切って攻め滅ぼしたものの、その後は穏便な政策を取って完全に乗っ取った諏訪家であるが、長い月日が流れても武田家と諏訪家の間は微妙なしこりが残ったままだった。
それが強いカリスマ性を持つ武田信玄が病死し、勝頼が武田家の名代になるとついに表面化した。
これは様々な理由があると思われるが、その一つには間違いなく「手切之一札」を送らず、起請文の約定を違えて騙し討ちした遺恨と不信感、後ろめたさがあったであろう。
同盟破棄には必ずしも手切之一札が必要だったわけではないが、明らかに大義に欠けると大事に及ぶ良い例であろう。