
※今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。
いつもとは異なったスタイルとなっていますので、予めご了承ください。
投稿した動画はこちらになります。
・YouTube版
- 第一章 駿相同盟、 第二章 今川氏輝の死と花倉の乱
- 第三章 甲駿同盟の成立、 第四章 第一次河東一乱~北条氏綱の河東地域侵攻作戦~
- 第五章 相次ぐ代替わりで外交関係にも変化が、 第六章 甲相同盟の成立 ←イマココ
- 第七章 不気味な平穏の中で 第八章 「第二次河東一乱」~今川義元の河東地域奪還作戦~
- 第九章 難航を極める和平仲介 第十章 決戦 河越夜戦
- 第十一章 三大名のその後 最終章 甲相駿三国同盟締結
第5章 相次ぐ代替わりで外交関係にも変化が


ここで北条家にとって思わぬ好機が訪れます。
天文10年(1541年)武田家当主の武田信虎が、娘婿の今川義元を訪ねて駿河に赴いた隙をつき、嫡男の晴信がクーデターを起こして国境を封鎖。


信虎を帰国できない状態にし、事実上の追放をしたのです。


あらら…

このタイミングでかー。

これにより、武田家代々の家宝である御旗楯無(みはたたてなし)を引き継ぎ、武田晴信が後継者となりました。


もしかして晴信ってあの人物ですか?

ああ、葛西晴信ね。


全然違います。ちなみに有馬晴信でもないです。
武田晴信とは武田信玄のことです。

ああ、あの尊師の人ね。

その呼び方やめろ。

それにしても、このタイミングで大きな政変が起きたんですね。

大きな・・・という意味ではまだ他にもあります。
同じ年、政権交代は相模の北条家でも起きます。
北条氏綱が死去し、子の氏康が家督を引き継ぎます。

※北条氏康27歳。今川義元23歳。武田晴信21歳の時であった。

これでついに有名な3人になった!

そうですね。


わ、すごい!

この甲斐、相模両家の代がわりにより、武田・北条間で関係を改善しようとする機運が生まれました。

第6章 甲相同盟の成立

天文13年(1544)正月。
北条氏康の使者・桑原盛正が甲斐国都留郡(つるごおり)を訪れ、武田氏の国衆・小山田家の本拠である谷村(やむら)で武田晴信の側近・駒井高白斎と対談。
これにより、両家は和睦することになりました。


展開早いな。

でもなんで躑躅ヶ崎の館か小田原城で会談しないの?

それはですね、ちょうど谷村(やむら)が両家にとって境目の領地にあたるからです。
さらに、谷村一帯を支配する小山田氏は、元々武田家に臣従しておらず、小山田家は北条氏の支援を受けて独立を保っていました。


ほうほう。

この時期、小山田家は完全に武田氏に屈服していましたが、武田家と北条家の双方に外交チャンネルを維持していたことから、谷村で交渉が行われたのだと考えられます。

なるほどわからん。
それで?

この時甲斐・相模間で結ばれた和睦は、一気に軍事同盟へと発展した可能性があります。
というのは、翌年の天文14年(1545)の4月に、武田晴信が南信濃の福与城を攻めた際、今川義元だけでなく、北条氏康も援軍を派遣しているからです。


さすが外交・・・。汚い。

この時敵対関係だった北条家と今川家が同陣したことで、武田家と北条家の良好な関係をまざまざと見せつけられた今川義元は、恐らく複雑な思いだったでしょう。

せやな。

それで、次はどうなるの?

次は第二次河東一乱、河越夜戦、上田原の合戦、小豆坂の合戦を経て、いよいよ本題である甲相駿三国同盟へと続くのですが・・・

おおー それをはやく!

早くしろよ。

申し訳ありませんが、尺の都合上、続きは次回にさせていただきます。

はぁ?

はぁ?

それでは皆さんご視聴ありがとうございました。

ご視聴ありがとうございました。

すっごい中途半端なところで・・・
- 第一章 駿相同盟、 第二章 今川氏輝の死と花倉の乱
- 第三章 甲駿同盟の成立、 第四章 第一次河東一乱~北条氏綱の河東地域侵攻作戦~
- 第五章 相次ぐ代替わりで外交関係にも変化が、 第六章 甲相同盟の成立 ←イマココ
- 第七章 不気味な平穏の中で 第八章 「第二次河東一乱」~今川義元の河東地域奪還作戦~
- 第九章 難航を極める和平仲介 第十章 決戦 河越夜戦
- 第十一章 三大名のその後 最終章 甲相駿三国同盟締結
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【VOICELOID実況】戦国時代中期 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説 前編
【VOICELOID実況】戦国時代中期 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説 後編