※今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。
いつもとは異なったスタイルとなっていますので、予めご了承ください。
投稿した動画はこちらになります。
・YouTube版
- 第一章 駿相同盟、 第二章 今川氏輝の死と花倉の乱 ←イマココ
- 第三章 甲駿同盟の成立、 第四章 第一次河東一乱~北条氏綱の河東地域侵攻作戦~
- 第五章 相次ぐ代替わりで外交関係にも変化が、 第六章 甲相同盟の成立
- 第七章 不気味な平穏の中で 第八章 「第二次河東一乱」~今川義元の河東地域奪還作戦~
- 第九章 難航を極める和平仲介 第十章 決戦 河越夜戦
- 第十一章 三大名のその後 最終章 甲相駿三国同盟締結
もうすぐクリスマスですね。
クリスマスといえば子供にプレゼントをあげるイベントです。
今年のクリスマスこそ何かください。
なんだよガキが。
子供は大人しく外で遊んでいなさい。
そう言って去年もクリスマスなにもくれなかったし、お正月も2人とも部屋に引きこもってゲームばかりでなにもくれませんでしたよね。
ガキの頃からそうやって金金言ってると、ロクな大人になれませんよ。
そういうゆかりさんも大した大人には見えないですけどね。
こう見えて私たちは日課で忙しいんだよ。
いったい何の日課なんですか。
Xmasプレゼントで1万円くれるまで、意地でもここを動きませんから!
おおー!?
こ、これは…!
1994年12月発売の信長の野望天翔記!?
1546年シナリオ しかもマニアックな扇谷上杉家でプレイしているじゃないですか!
お前一体いくつだよ
それじゃあこうしよう。
なんで今川と武田と北条が手を組んだのかを説明するというのは。
は?
学校で自慢したくなるぞ
だいたいマキさん説明できるんですか?
大丈夫大丈夫。説明はゆかりんがするから。
イヤですよめんどくさい。
でも、そうですね。学校はともかく・・・
あのあたりのごちゃごちゃした外交関係を、ちょっとは知っておきたいです。
戦国でも有名な時代は桶狭間以降ですから。
おおー、食いついてきたな。
いいですよ。
それじゃあ聞いてあげますから、クリスマスプレゼントは2000円で我慢してあげます。
(お年玉はまた別に要求します)
ってか金は姉からもらえよ
戦国時代末期の静岡県、山梨県、神奈川県のあたりは、和戦が繰り返されたカオス地帯です。
武田信玄と今川義元、北条氏康の三国同盟は信長の野望等でおなじみ(?)ですが、どのような経緯で和平が結ばれ、同盟へと発展したのかは案外知られていません。
今回は甲相駿三国同盟が、どのようにして結ばれたのかをなるべくわかりやすく説明していきたいと思います。
学術的には後北条氏といいますが、本動画およびブログ記事では便宜上、北条氏とします。
予めご了承ください。
第1章 駿相同盟
当然ですが、駿河の今川家、甲斐の武田家、相模の北条家は最初から同盟を結んでいたわけではありません。
この三大名の歴史を紐解くと、駿河の今川家と相模の伊勢(北条)家が同盟を結んで、甲斐の武田家と対立する構造が長く続いていました。
今川氏と北条氏との同盟は、伊勢宗瑞が今川氏親の母方の叔父にあたる関係から生じました。
伊勢宗瑞って北条早雲のことだよね?
元々は今川家臣だった。
そうです。
北条と姓を改めたのは次の代の氏綱からなので、北条早雲という名は厳密に言うと正しくはないです。
ま、あくまで通称って感じなんですね。
また、今川氏親とは今川義元の父にあたります。
ああ、義元って蹴鞠野郎のね。
その子氏真(うじざね)も球蹴りが上手くて、親子揃って全日本代表に選ばれたのは、涙なしでは見れなかったよな。
氏真は詩のセンスも抜群で、奥さんも可愛くて、数十億稼げる逸材なんだよなぁ。
おいやめろ。
もう・・・次行きますよ。
これに対し、甲斐の武田信虎は関東管領である山内上杉氏と、その分家にあたる扇谷上杉氏と同盟を結んで対抗していました。
第2章 今川氏輝の死と花倉の乱
この構造に変化が生じたのが天文5年(1536年)。
今川氏輝が病死した時です。
※死因については諸説あり
今川氏輝って今川氏親の子?
その通りです。
氏輝の病死によって今川家では後継者の地位を巡って玄広恵探(げんこうえたん)と栴岳承芳(せんがくしょうほう)という二人の弟が家督争いを起こしました。
ネタが古いな。兄弟でもねぇ。
この時の争いのことを「花倉の乱」といいます。
鼻くその・・・乱?
「はなくら」 な?
家中で強い影響力を持つ今川氏親正室の寿桂尼(じゅけいに)や、太原雪斎(たいげんせっさい)ら重臣たちは栴岳承芳(せんがくしょうほう)を還俗(げんぞく)させ、将軍・足利義晴から偏諱(へんき)を賜り、今川義元と名乗らせました。
ん、待って。
還俗(げんぞく)ってなに?
還俗というのは、仏門に入っていた人が僧籍を離れて俗人にかえることを言います。
今回の今川義元でいうと、後継者争いを避けるために武士の身分を捨てさせ、僧侶にしていましたが、当主であり、兄でもある氏輝が死に、氏輝の後継者として目されていた彦五郎も相次いで死んだため、急遽還俗することになりました。
なるほどわからん。
それで、「偏諱を賜る」ってなに?
偏諱(へんき)を賜るというのは、身分の高い人から一字を頂くことにより、自分こそが正当な後継者だー!とアピールできたり、求心力を高めて、より多くの家来や勢力を味方につけたりすることにも繋がりました。
なるほど、つまりあれか。
昔「信長の野望覇王伝」で、一字拝領の仕様を利用して
北条一族をみんな同じ名前に染め上げることができたやつか。
お前一体何歳なんだよ!
お前一体何歳なんだよ!
次進めますよ。
時の足利将軍から偏諱を賜るということは、とても名誉なことでした。
しかし、戦国時代に入ると、それが一種のビジネスになっていて、莫大な金を献金して初めて許されるものでした。
権威が失墜したとはいえ、将軍も利用価値はあったのか。
なるほどわからん。
ちなみに、偉い人から偏諱を賜る場合、基本的には最初の一字を貰う方が格が高いです。
例えば、将軍・足利義晴から偏諱を賜る場合は、「晴」よりも「義」の方がいいということです。
それじゃあ次にいこう。
・・・。
当時遠江や甲斐方面の軍事・外交を担っていたのが家臣の福島氏です。
その福島氏が甲斐の武田信虎の支援を受けて反旗を翻します。
福島氏は今川家と縁者のつながりもあったことから、後継者争いに子の玄広恵探(げんこうえたん)を擁立して対抗したのです。
(BGM)
数か月の内乱の末、相模の北条氏綱の支援を受けた今川義元側が勝利し、花倉の乱は終結しました。
あっけなかったな
今回は軍事行動よりも、政治的な動きや外交を重視した動画なので…
ちなみに、福島正成(まさしげ)の子が北条家に亡命し、やがて関東地方に武名を轟かせる武将に成長します。
その人物こそ北条綱成(つなしげ)なのです。
まじかよ!
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本動画はこちらになります。
【VOICELOID実況】戦国時代中期 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説 前編
【VOICELOID実況】戦国時代中期 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説 後編