才気煥発の名将 北条氏照~弟を愛しすぎたゆえに招いた悲劇~

4.5
才気煥発の名将 北条氏照~弟を愛しすぎたゆえに招いた悲劇~
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。
たまには信長、古文書以外のネタを・・・
今回は北条氏康の三男・北条氏照を取り上げます。

来世ちゃん
来世ちゃん

武勇に秀でただけでなく、築城普請や外交でも活躍。
そんなスーパー武将にはある弱点がありました。

北条氏照の生涯を簡単に

 氏照は言わずと知れた関東の雄・北条氏康の三男として生まれ、弘治元年(1555)に元服。間もなく大石家の養子となり、大石家の家督を相続した。

房総の里見家や関東平定戦で活躍。この頃から外交にも携わり、北関東の経略を担当する。

永禄10年(1567)武田信玄が北条家を攻めた際、氏照は滝山城に籠城。
三の丸は落とされたものの、懸命な防戦によって城を守り切った。
なお、この時武田勝頼との一騎討ちがあったという伝説があるが、真偽は不明である。

天正6年(1578)上杉謙信の死により越後が分裂。
上杉謙信の後継者である実弟の上杉景虎(三郎)救援のため、氏照が総大将となって越後坂戸城を攻めるが、敵の守りが固く、また越後に厳しい冬が近づいてきたこともあり、撤退を余儀なくされる。
孤立無援となった上杉景虎は追い込まれて自害。

天正7年(1579)頃から織田信長との外交を担当し、武田勝頼上杉景勝を挟み撃ちして攻め滅ぼそうと積極的に折衝を重ねている。

天正9年(1581)滝山城からより堅固な八王子城を築き本拠を移転。

信長死後の天正18年(1590)豊臣秀吉との徹底抗戦を主張。
重臣らに八王子城を守らせ、自身は兄・氏政のいる小田原城に立て籠もる。
しかし、八王子城は悲劇的な落城を迎え、その後小田原城も開城。

秀吉の命で兄の氏政とともに切腹を命じられた。

北条氏照の性格

 兄の北条氏政の思慮深い性格とは対照的に、氏照は英雄剛毅の天才肌であった。
また、直情一徹でこうと決めたら考えを曲げない頑固な一面もある。

ちなみに弟の氏邦も戦ではめっぽう強いが粗暴な性格と伝わる。
氏邦も氏照同様に他家の養子として家督を相続しているのだが、養父が病死すると、家を完全に乗っ取るべく、養子先の一族を粛清するという残忍極まりない手段をとっている。

それに対し氏照は、終始養子先の大石家とは穏便で、姓を北条に戻してからも大石家の一族や重臣らを重用した。

弟の三郎を溺愛

 氏照には12歳ほど年下の「三郎」という弟がいた。
北条氏康の七男にあたり、幼少のころから関東一の美少年として知られていた。
三郎は北条幻庵の娘婿として幻庵の養子となる。
(※武田家の人質にという説もあるが、近年では否定的な見方が多い)
氏照は三郎が元服する前から非常に可愛いがっていた。

上杉謙信との同盟で人質に

 甲斐国・武田信玄の心変わりにより外交転換を余儀なくされ、北条家は長年の宿敵である越後の上杉謙信との同盟に踏み切った。
その際、越後に人質を送らなければならなくなった。

当初、北条氏政の次男・国増丸(氏照の甥にあたる)を人質に出す予定であったが、まだ幼い子を雪深い越後へ遣るのは不憫に思い、氏政が国増丸を手放すのを渋った。

そこで白羽の矢が立てられたのが、「三郎」であった。

三郎、上杉謙信の人質へ

 三郎と仲の良かった氏照は、越後へ人質に出すのを最後まで反対した。
しかし、父や兄、他の一族からの説得により、妥協せざるを得ず、渋々これを承諾する。

翌永禄13年(元亀元年)(1570)。三郎は上杉謙信の人質になる

謙信は一目見ただけで大いに三郎を気に入り、自身の姪を嫁がせ、さらに以前使っていた「景虎」の名を与えている。

人質として越後へと行ってから氏照はたびたび書状を送って三郎の身を案じている。

北条家が武田家との同盟を再締結 三郎ピンチに

 武田信玄が関東に出兵し、北条氏照の籠る滝山城を包囲
さらに小田原城にも迫り、三増峠の戦いで両軍が激突。

北条氏康は再三、上杉家に救援の使者を出したが、上杉謙信はこれを黙殺する。

この頃には北条氏康は病気がちとなり、自身亡きあとの北条家の行く末を案じていた。
北条家はたび重なる協議の末、ついに上杉とは手を切り、武田信玄との再同盟へと傾く。

裏切りは戦国の常とはいえ、約定を違えれば人質は殺される。
女性であれば離縁されて実家に帰されるという例はあるが、世継ぎ候補ともなり得る男子の場合は容赦なく殺されることが多かった。

氏照は憤怒し、兄の氏政らと衝突。しばらくは兄弟仲も険悪だったそうだ。

しかし、意外にも上杉謙信は三郎を殺さなかった
子のいない謙信は三郎を我が子のように可愛いがっていたため、国もとにも返さなかった。

実はこの数年前、織田信長の子を養子に迎えようとする動きがあったのだが、これに関連する記事を書いたことがあるので、興味があれば読んでいただけるとうれしいです

上杉謙信の死と御館の乱

 三郎景虎の人望は高かった。
不思議と人を惹きつける魅力があったのか、それともコミュ力の権化だったのか。
よくはわからないが、謙信以外にも越後の国人衆から景虎を信頼する者が続出したのだ。

時代は流れて天正6年(1578)
上杉謙信は突然の急死。

謙信の甥で後継者候補の上杉景勝が三郎を攻撃する。

しかし、この時点では上杉景信本庄秀綱北条高広らの越後国人衆は三郎景虎に味方している。
それに加え、北条家と同盟関係にあった甲斐の武田家も三郎景虎を支援していた為、状況はやや三郎の方が優勢であった。

この時期、北条家の主力は下野(栃木県)や常陸(茨城県)の佐竹、宇都宮連合軍と対峙中で、身動きが取れない状況だった。
兄の氏政は三郎の救援に終始消極的であった。

氏照は激昂し、自らの手勢を率い山深い越後へと出陣したが、同盟関係の武田家が突如上杉景勝側に寝返る。
また、長い冬が近づいてきたということもあり、氏照は兵を返さねばならなかった。

最愛の弟・三郎の死

 孤立無援となった上杉三郎景虎は、翌天正7年(1579)3月24日に自害する
最愛の弟の死を知った氏照は悲嘆に暮れ、二、三年ほど自領に引き篭もった。
出陣の際の兄からの陣触れも一切応じなかったほど、兄や一族を憎み、憔悴しきっていたと伝わる。
(※出典なし。ソース元があれば教えてください)

三郎死後の氏照

 弟を死に追いやった上杉景勝と武田勝頼を氏照はことさらに憎み、復讐に燃える。

兄との和解を経た後、再び外交に携わった。
特に織田信長との外交に熱心で、何度も上杉と武田の挟み撃ちを提案している

他にも東北の芦名、伊達にも外交し、上杉家の挟撃にあらゆる手段を尽くしている。

その甲斐あって天正10年(1582)。織田信長が武田家討伐に動き、北条家と徳川家もこれに乗る。
武田勝頼は天目山で自害し、氏照の武田への復讐は果たした。

越後の上杉景勝も、北陸地方の信長の重臣・柴田勝家に押され、その命運は風前の灯火となった。
氏照の復讐は成就するかに見えたが、同年の6月2日に織田信長が本能寺の変で自害。

関東北信越の情勢も一変した。

復讐に燃えるあまりに大局を見失う

その後も上杉景勝への復讐を捨てきれず、上杉景勝が属す豊臣秀吉との徹底抗戦を主張。
結果、小田原城を攻められて北条家は滅亡。
氏照は兄の氏政とともに切腹して果てたのであった。

享年51歳

辞世の句は

吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ

天地あまつちの 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり

来世ちゃん
来世ちゃん

小田原城をめぐる攻防戦と八王子城の悲劇については、またそのうち別の記事で書きたいですね。
今回は氏照と三郎との絆についてだけをクローズアップしてみましたが、本当はもっと多くの視点から歴史を見る必要があります。

来世ちゃん
来世ちゃん

今回もご覧いただきありがとうございました!

コメント

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