こんばんは!
信長の家臣団3人目はみんな知ってる「柴田勝家」だ。
今回は勝家の情報を超マニアックに書いてみることにしよう。
はじめに
- 重要な部分は赤太文字で
- それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
- 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーラインで
それでははじめていきます。
柴田勝家の生涯
大永2年?(1522)-天正11年4月24日
仮名・幼名・官途名・受領名
権六、修理亮
家族・一族
父:柴田勝義? 母:不詳
兄弟:姉(吉田次兵衛室)、姉(佐久間盛次室)、妹(柴田勝敏母)
妻:市(小谷御前・信長の妹)
子:勝里、勝忠
養子:勝春、勝政、勝豊、勝敏、佐久間勝之、養女(高城胤則室)
信秀の家臣時代から信勝の重臣へ
歴史書に最初に確認できる名は天文ニ一年(1552・年次には諸説あり)織田家当主・織田信秀の葬儀の時であり、そこには柴田権六とある。尾張国愛知郡に生まれた。(太閤記には越後国新発田出身とあるが、かなり疑わしい)
この時にはすでに戦においては右に出るものはなく、織田家の重鎮として活躍していたそうだ。
信秀の死後は信長の弟・勘十郎信勝に仕えた。
天文21年(1552年)8月16日。萱津の合戦には中条家忠とともに清洲織田家の重臣・坂井甚介を討ち取る武功を挙げている。
弘治2年(1556)8月。信長の家老・那古野城主林秀貞・美作守兄弟と申し合わせ、信長に反旗をひるがえす。
8月22日。信長の直轄地である篠木三郷を占拠するが、8月24日の稲生の合戦において信長に敗れる。
翌日、信長と信勝の生母・土田氏が和議を乞い、首謀者全員が許されている。この時勝家は髪を剃って謝したという。
主君・信勝再び謀叛の企て
弘治3年(1557)11月2日。主君・信勝が再び謀叛を企て、岩倉織田家と誼を通じている事を勝家は信長に密告する。
そのままなに食わぬ体で末森まで帰り、「信長が病で幾ばくも無い状態である。家督のことについて話し合いたいから清洲まで来てほしい」と信勝に報告。
信勝は用心の為に母を連れて清洲まで見舞いに行ったが、そこで暗殺された。年次については諸説あり判然としない。以後、勝家は信長に直接仕え始める。なお、信勝には子がいるが、そのうち一人は柴田勝家の元に預けられ、養育される。彼は後に津田信澄と名乗る。
桶狭間の合戦〜稲葉山城攻略まで
永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦にも従軍。
同年6月と8月の2度、信長は美濃を攻めているが、いずれも敗北している。この合戦で撤退の際に殿軍を務めたのが、柴田勝家のようだ。
永禄6年(1563)春。信長は新加納において斎藤家を攻めるが、この戦いにも敗れ、柴田勝家と森可成が殿軍を務め、無事撤退に成功している。
その後はしばらく史料には名が見られないが、信長主要な戦いには当然従軍しているであろう。
上洛戦
永禄11年(1568)足利義昭を奉じての上洛戦では柴田勝家は、先陣を承っている。
9月12日申の刻(午後4時ごろ)近江箕作城を一気に攻め立て、その日のうちに城を陥れる。
翌日の13日。早くも織田軍は、六角氏の本拠地である観音寺城を取り囲むが、その頃にはすでに六角父子は観音寺城から脱出。戦わずして観音寺城を落とすと、六角配下の長光寺城以下12もの支城が相次いで人質を差し出して降伏した。
(備考)箕作城の戦いおよび観音寺城の戦いについての詳細記事は、以下のリンクをご参照ください。
この時日野城を明け渡して降伏した蒲生賢秀は、嫡男を人質に差し出しているが、信長はその子の目を見て大いに気に入り、柴田勝家に養育係を命じている。この数年後、その少年が元服し、信長の娘・冬姫を娶り織田軍の中核を担うようになる。そう、彼が後に会津120万石を領する蒲生氏郷だ。
信長は岐阜を出陣して20日足らずの電撃戦で足利義昭を奉じて上洛に成功。
その後の三好勢力を畿内から掃討する戦いにも加わり、さらに京において丹羽長秀や村井貞勝、木下秀吉、明智光秀らと共に勝家も奉行に加わり、各地で禁制を下している。
9月26日には三好三人衆の一人・岩成友通兵500が立て籠もる山城国勝竜寺城を先陣柴田勝家がその日のうちに攻め落としたとある。この時の記録で「足利季世記」には
柴田修理亮ト石成主税助、終日合戦シ石成打負、五十余人打取ラレ
足利季世記
とある。
信長の副将
翌12年(1569)年明け早々、キリスト教の布教許可を乞いにルイス・フロイスが岐阜城へ赴いているが、柴田勝家のことを「信長ノ副将」とみているのが興味深い。また、この当時を謳ったとされる「 木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間 」の小唄にある様に、それぞれの重臣の良さを的確に表しているのが面白い。なおこれは後の世に作った創作である可能性が高い。
8月。信長は北畠家の南伊勢を攻める。勝家もこの戦に従軍し、大河内城の東側を不破光治、佐々成政らとともに包囲した。
信長は昨年の入京後、畿内各地の寺社仏閣や商家に対して矢銭の要求をしているが、今井宗久以外の堺の商人たちは支払いを拒否した。永禄12年(1569)。信長は堺に柴田勝家、森可成、坂井正尚、蜂屋頼隆、佐久間信盛の五人連署で催促を申し渡している。
明けて元亀元年(1570)4月。信長の越前朝倉攻めにも従軍。先陣を切って森可成らとともに要害天筒山城を攻め落とした。
ここで同盟国浅井長政が信長と手を切り挙兵。信長と共に朽木谷を越えて命からがら京へ逃げ帰った。
瓶割り柴田
浅井長政の謀反により、岐阜〜京都間の通路が遮断された。近江を深く南に下り、八風峠や千草峠などを経て伊勢へ抜け、羽津、桑名を通り、ようやく尾張〜美濃へと繋がるルートはあるにはあったが、これでは時間がかかりすぎて、情報伝達の面でも経済流通の面でも大きな打撃であった。
信長はすぐさま南近江に主だった家臣たちを街道沿いの城に配備する。長原城に佐久間信盛、安土の砦に中川清秀、今浜城に木下秀吉、佐和山近くの付城・百々屋敷に丹羽長秀、京から程近い宇佐山城に森可成、そして、長光寺城に柴田勝家である。
同元亀元年6月。信長が岐阜にいる中、さっそく六角氏残党が旧領を奪い返そうと攻めてきた。勝家は佐久間信盛と共に落窪(野洲川)の戦いで撃破している。いわゆる「瓶割り柴田」の伝説があったのはこの戦いであるが、実際にあったかは真偽は不明。
信長包囲網の中で
6月。姉川の合戦にも従軍し、浅井朝倉連合軍を破る。
8月。三好三人衆籠る野田・福島の戦いにも従軍。しかし、石山本願寺の法主・本願寺顕如が信長に敵対し、さらには姉川の戦いの合戦で敗れた浅井・朝倉軍が再び動き出し、湖西から京へ攻めようと宇佐山城を囲んだ。
柴田勝家と明智光秀は京都の守備を命ぜられたが、宇佐山城を守備する森可成、織田信治が討死。事態を重く見た勝家は信長を京へ呼び戻すことに成功している。
その後織田軍は近江志賀に陣を張り、浅井朝倉連合軍は比叡山に立て籠もり、長い睨み合いが始まった。
この間に南近江で再び六角残党が動き出し、甲斐の武田信玄も信長の同盟国・徳川家康を脅かし、尾張のすぐ近くにある長島で一向一揆が挙兵。織田家一門が死ぬなど、信長の人生で最大のピンチが訪れた。
同年12月にようやく将軍・足利義昭や正親町天皇の仲介で和議が成立し、両軍兵を引いた。
元亀2年(1571)5月。長島一向一揆を攻め立てるが、氏家ト全が討死し、柴田勝家までもがあわや討死かというほどの重傷を負い、旗指物までも奪われるという散々な敗北を喫する。
同年8月。いわゆる比叡山焼き討ちにも従軍。根本中堂と大講堂および浅井・朝倉勢が陣所を置いていた坂本方面のみを焼き払う。
元亀3年(1573)4月。勝家を筆頭に丹羽長秀、木下秀吉ら兵2万を率い、交野城救援のため出陣。信長も途中から駆けつけたのか、伏見惣中に船の逗留を命じている。この頃の柴田勝家の戦ぶりは「武家事紀」に
必ず先軍をつとめ、城を攻め、兵をかえす時はその退き口大切の場合、勝家が最後を承る
武家事紀
と称賛されている。
同年11月28日。勝家は山城国の狛左馬進に、「同国狛郷の延命寺を与力として信長公に申し上げ召し置いたので、彼の知行分は安堵された」という書状を送っており、この南山城狛郷が、勝家の知行地として領有を許され、百姓や地侍らを自らの被官に加えていることがわかる。
将軍・足利義昭ついに挙兵 そして室町幕府滅亡
元亀4年(1573)2月。信長と対立した将軍・義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。
4月。信長は京へ攻める。勝家も従軍し、義昭に味方した上京(下賀茂から嵯峨あたり)一帯を百二十八ヶ所焼き払う。この直後に義昭との和議が成立し、その際に交わされた起請文には林秀貞、佐久間信盛、滝川一益、稲葉一鉄、安藤守就とともに勝家の名も見える。またこの時期に信長から、南近江六角義治籠る鯰江城の攻略を命じられている。
7月。またもや将軍・足利義昭が信長に背き、自身はより守りやすい宇治槙島城に、二条城には重臣の三淵藤英を置いた。信長はすぐさま討伐軍を送っているが、勝家は二条城に籠る三淵藤英に投降を呼びかけ、城を開城させた。その後の宇治槙島城攻めにも勝家は参戦し、足利義昭はついに降伏。京を追放されて室町幕府は滅亡したのであった。
浅井・朝倉家を滅ぼす
同年(改元して天正元年1573)8月。浅井朝倉勢と対峙している時に、夜半に朝倉勢が密かに撤退しているところを見逃し、丹羽や木下など部将クラスの諸将らと共に信長の叱責を受けている。
織田勢は逃げる朝倉勢を猛追撃し、国境の疋田峠でついに追いつく。
追いに追って越前平野になだれ込み、ついに朝倉義景は切腹。朝倉家を滅亡させた。
織田軍は返す刀で小谷山城に籠る浅井長政を攻撃。木下秀吉を先陣に、勝家も果敢に攻めて浅井家も滅亡させた。この時、落城寸前で浅井長政の正室となっていた小谷御前(信長の妹)は、三人の姫君を連れて信長の元に送り届けられている。後に柴田勝家はこの4人を引き取っているのだが、このとき功を競った秀吉に滅ぼされてしまうとは、歴史とは恐ろしいものである。
信長包囲網の壊滅
同年9月。2度目の長島一向一揆攻めに勝家は参戦しているが、前回と全く同様の場所で一揆勢の逆襲にあい、今度は林通政が討死している。9月24日。信長は柴田勝家のほか佐久間信盛、木下秀吉、蜂屋頼隆、丹羽長秀、滝川一益らを引き連れて出陣。八風峠や大君ヶ畑を越えて伊勢に入り、26日。桑名方面に兵を繰り出し、西別所砦を陥落させた。柴田と滝川一益は10月6日に片岡某籠る坂井砦を降伏させ、さらに近藤某籠る深谷部砦も落とした。この一連の軍事行動で伊坂、萱生、赤堀、田辺、桑部、南部、千草、長深に割拠する多くの土豪が人質を差し出し、信長に投降した。
天正2年(1574)3月27日。勝家と塙直政(九郎左衛門重友)は、奈良に赴き蘭奢待(香木)切り取りの奉行に任命されている。翌日、正親町天皇の勅許を得て切り取られ、信長の元へ渡った。
同年7月。信長は、3たび長島一向一揆を攻撃。兵糧攻めの末、少量を切らした一揆勢はついに開城。ところが信長は余程恨みが深かったのか、騙し討ちのような形で、一揆勢を皆殺しにしている。この時、勝家は佐久間信盛と共に賀鳥口を担当した。
この後ほどなくして勝家は病を得ていたらしく、11月7日の山科七郷名主宛の公事・夫役免除の信長聞届奉書から、勝家が患っていて代役を立てていたことがわかる。翌年4月までには快方に向かっていたようだ。
翌3年(1575)和泉高屋城の戦い、三河長篠・設楽が原の合戦にも従軍。
越前平定
同年7月。勝家は越前一向一揆討伐のため出陣。三国湊に着岸する船のうち、越後、越中、能登の3ヶ国の入港を21日から26日までの間、禁止させている。8月12日に岐阜を出陣した信長と合流し、大規模な一揆掃討作戦が始まった。
8月15日。勝家は木ノ目峠や浜手から一気に総攻撃をかけ、その日のうちには府中にまで進出。ここで軍を二手に分けで敗走する一揆勢を追った。
18日。勝家らは鳥羽城を攻略し、5〜6百人を撫で斬りにしている。
23日。越前はほぼ鎮圧され、秀吉らに加賀まで侵攻させている。
信長は積年の功により柴田勝家を北ノ庄の城主に任命。越前国8郡、合わせて49万石の国持大名となった。
越前北ノ庄城主として
天正4年(1576)9月。勝家は北陸方面軍司令官に任命され、切り取り次第自分の領地に加えても良いというお墨付きをもらう。加えて与力として長年信長の親衛隊だった歴戦の将・前田利家、佐々成政、不破光治、金森長近らをもらった。
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勝家は越前内で検地を行い、新田開発に努め、道路を開き、刀狩りを行い、橋を架けて内政・インフラ整備を行った。また、新しく築き上げた北ノ庄城は
北庄城は数年相拵、城中に石蔵を高く築き、天主は九重に上せてある
後年、秀吉が柴田勝家を滅ぼした際に小早川隆景に送った書状
と伝えており、北ノ庄城が信長に倣った威容を誇っていたことがわかる。
またこの時期から勝家自身が、奥州の名門・伊達家の家老遠藤基信と外交関係を持っていたことが書状から伺い知ることができる。
越前内の一揆勢を掃討し、加賀を切り取り、支配権が安定してきた矢先、今度は越後の上杉謙信が加賀に勢力を伸ばしてきた。
勝家は急ぎ救援の依頼を信長に頼み、信長は羽柴秀吉、丹羽長秀など、歴戦の諸将らが援軍に駆けつけた。この時に軍議の席で秀吉と勝家は衝突し、秀吉は憤慨して席を蹴り、近江長浜城へと帰っていった。これは重い軍令違反であり、秀吉は帰国後すぐに信長の逆鱗に触れ、半年間長浜城で謹慎させられている。
それはさておき、勝家らは包囲されている能登七尾城に救援に向かうが、落城して間に合わず、近隣の村々に放火した。退却中にいわゆる手取川の戦いで上杉軍主力に大敗を喫して千人余討死とあるが、
そのことを記す史料が謙信が出した書状のみで、しかも千人も死んだ割には織田家の主だった者たちは皆死んでいない点にも疑問点が残る。
上杉謙信の死後
天正6年(1578)上杉謙信が死去すると、上杉家では内紛が起き、北陸地方では上杉家の影響力が急速に弱くなった。この隙に勝家は攻めに攻めて天正8年(1580)11月についに加賀を平定。越中・能登までも支配下に置いた。
天正9年(1581)2月28日。信長が正親町天皇の御前で披露した京都御馬揃えでは勝家ら北陸組(勝家、不破光治、前田利家らと弓衆百人)も参加した。この留守中、越後上杉景勝に攻められているが、すぐさま国元に戻り撃退に成功している。なおこの時の軍議で柴田勝家と与力の佐々成政との間が一触即発の状態となり、前田利家が仲裁に入って事なきを得たようだ。
本能寺の変
翌10年(1582)越中国において上杉勢籠る魚津城を包囲していたところ、本能寺の変が発生。
この報せを聞いた時は既に6日が経過していた。勝家は事の重大性を認識してすぐさま越前北ノ庄城に撤退した。
勝家が大坂表の丹羽長秀と共同して光秀を打つべく越前を出陣したのが6月18日である。
しかし、13日には既に中国大返しを果たしていた羽柴秀吉が、山崎の合戦において光秀を討っていたのである。
清洲会議
信長、信忠亡き後の織田家の棟梁選定と、信長の遺領の配分について、故郷尾州清洲において会議が行われた。参加者は4人で筆頭家老の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、そして池田恒興である。
勝家は三男信孝を世継ぎに指名したが、秀吉は二条城で明智勢に囲まれ切腹した嫡男信忠の嫡子・三法師(赤ちゃん)こそが世継ぎになるべきだと主張し、またもや両者が対立した。しかし、丹羽長秀と池田恒興は秀吉の意見を支持し、勝家の主張は認められなかった。また、領土配分についても勝家は北近江の長浜城を含む3郡を新たに得たのみで、やはり光秀を討った秀吉やその仲間ばかりが多くの所領を得たのであった。なおこの会議において勝家はかつての浅井長政の正室・小谷御前と結婚し、その娘3人を引き取っているが、これは清洲会議で勝家にとって不服な結果となるであろうと最初からわかっていた秀吉があらかじめ画策していたという説もある。
賤ヶ岳の合戦と最期
その後、秀吉とうまく共同路線を歩めるはずがなく、柴田勝家は上州からほぼ全ての所領を失って帰ってきた滝川一益と、勝家が後継者に推した織田信孝が付き、秀吉側には蒲生氏郷、池田恒興、丹羽長秀、中川清秀、織田信雄、細川藤孝・忠興、堀秀政、森長可らがついた。
天正11年(1583)3月12日。勝家は北近江まで出陣し、秀吉と睨み合った。
そこで美濃において織田信孝が挙兵。秀吉はその討伐のため、主力部隊と共に美濃へと移動。柴田勢はその隙に賤ケ岳の大岩山砦を攻める。
しかし、この報せを聞いた秀吉が、またもや大返しを敢行し、賤ヶ岳において合戦して大敗した。
越前平野になだれ込んだ羽柴勢に抗しきれず、北ノ庄城において勝家はお市の方と自害して果てた。享年62歳。
これに殉じたものは八十余名といい、勝家の人望の大きさがうかがえる。自害後、火薬に火をつけ、天主もろとも砕け散ったという。
辞世の句は
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公
柴田勝家辞世の句