佐久間信盛 織田家中ナンバー1の知行からの追放

5.0
この記事は約21分で読めます。

こんばんは!

信長公の家臣団の4人目は「佐久間信盛」だ。

織田家で最も知行があり、動員できる兵力

が最も多かった。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

長篠の戦いの佐久間信盛
長篠の戦いでの佐久間信盛

佐久間信盛の生涯

生没年不詳(享禄元年あたり?1528)-天正10年(1582)1月16日?または天正9年(1581)

仮名・幼名・官途名・受領名

牛助、右衛門尉、半羽介、半介、夢斎定盛

家族・一族

父:佐久間信晴 母:不明

兄弟:信辰、僧明嶽

妻:前田種利の娘

子:信栄、信実、福島正頼室

織田信秀の臣から

 父・信晴が尾張国愛知郡山崎城主だったことから、織田信秀に仕える。

信秀時代ではどのような活躍をしたのか判然としないが、信盛もまだ若年だった為、目立った働きはしていないものと思われる。恐らく信長の幼少期から近習として仕えていたのであろう

信秀死後、若き信長が家督を相続したが信盛は信長を支持した。信長初期の軍事行動全てに恐らく参加していたであろう

尾張統一時代

 弘治元年(1555)7月6日。信長の弟・織田秀孝が殺害されるという事件が起こった。信長の叔父である守山城主孫十郎信次の家臣が、弓を誤って誤射して殺害してしまったのだ。

信次は慌てふためき、信長の報復を恐れ、その日のうちに守山城から出奔する。

その後一悶着あった末、守山城は佐久間信盛の進言もあって、これまた信長の弟・織田秀俊(信時)を城主にした。

弘治2年(1556)4月。美濃の斎藤道三が横死後、尾張では次々と裏切り者が現れた。

同年5月26日。那古野城主・林秀貞、美作兄弟が謀叛を企てているとの知らせを聞いてか、信長は守山城主・織田秀俊(信時)を伴い那古野城に赴いた。謀反の真意を確かめに行ったのかもしれない。この時、林秀貞の弟・美作守が信長の暗殺を企てるが、兄の秀貞は「名門林家が暗殺までして手を汚すことはない」と止めたようだ。

その数日後、守山城主・織田秀俊(信時)が家臣の角田新五郎に殺害される

信長は逐電中の叔父・織田信次を赦免して守山城を与えた

実はこの時角田を唆し、内応させたのが佐久間信盛だったと伝わる。恐らく信長は、秀俊(信時)にも謀叛の嫌疑をかけていて、秀俊(信時)と林秀貞、その弟美作の真意を探るために那古野城へ赴いたのではなかろうか。下手をすると暗殺される恐れもあったが、そのリスクを承知で乗り込んだと思われる。

8月24日。ついに林兄弟と柴田勝家が信長の弟・信勝を擁立し謀叛

それを聞いた信長はただちに出陣。稲生原で両軍が激突した。=稲生合戦

多くの侍たちが信勝につくか、あるいは中立を決め込むかをした中で、信盛は信長側についている

知行の面から見ても、信長軍の主力戦力だったに違いない。この時代はいかに信盛や佐久間一族が信長の尾張統一に貢献していたかがよくわかる。

林・柴田が降伏して信長の戦力になってからも、信盛の重用は少しも変わらなかった。

桶狭間の合戦

 永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いの際には、一族の佐久間大学盛重は丸根砦に籠城。降伏せずに最後まで戦い、壮絶な討死をした

信盛は最前線の善照寺の砦に詰めており、そこで信長が籠城するかのように敵を欺くため、実際よりも多くの旗指物を用意したり、炊事時に発生する煙を多く見せるなどしていたに違いない

その甲斐あって信長はいわば奇襲のような形で桶狭間山から突撃を敢行し、今川義元を討ち取ることに成功している桶狭間の合戦

桶狭間での信盛の活躍は認められ、戦後間もなく鳴海城を与えらえた

その後の美濃攻めにおいては佐久間の名は見られない。ただ、この頃は外交面では活躍していて、三河の松平家の松平家康との交渉や、信長の娘・徳姫が家康の嫡男・竹千代に嫁ぐ際には、それに随行している。

上洛戦と信長包囲網

 永禄11年(1568)9月の六角攻めでは、柴田勝家木下秀吉森可成丹羽長秀らとともに従軍し、箕作城を攻略している。=箕作城の戦い

 (備考)箕作城の戦いおよび観音寺城の戦いについての詳細記事は、以下のリンクをご参照ください。

上洛後は京をはじめとする畿内で、奉行としてたびたび名を残している。

元亀元年(1570)5月。裏切った浅井長政六角残党への押さえとして、今浜城に木下秀吉、佐和山近くの付城・百々屋敷に丹羽長秀、京から程近い宇佐山城に森可成、長光寺城に柴田勝家。そして、永原城に佐久間信盛を配置している。

それから間もなく、岐阜へ帰った信長の留守を突いた六角残党が攻め寄せてきたが、柴田勝家と協力し、六角勢を打ち破っている野洲川の合戦(落窪合戦)

その後も同年6月に姉川の合戦。8月の野田・福島の戦い。それから冬まで近江で対陣を続けた志賀の陣と各地を転戦した。
関連記事:【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み
     【古文書講座】信長窮地 織田家と浅井長政・朝倉義景が和睦したときの書状

翌元亀2年(1571)8月28日。摂津国で白井河原の戦いがあり、和田惟政が討死茨木城は落城し、高槻城が包囲された

事の仔細を知った信長は驚き、9月9日に佐久間信盛を使者にして高槻からの撤兵を交渉している

しかしながら、相手は軍を動かさず、9月24日に明智光秀が1000の兵を率いて調停に乗り出し、事なきを得た。

同じ月、信長は比叡山を焼き払っているが、信盛はこの時の武功により、近江の栗太郡を知行に宛行われた。

同年11月。大和国の松永久秀と争っていた筒井順慶を和睦させ、織田家へ臣従を誓わせることに成功している。

元亀3年(1572)4月。河内交野城が三好義継と松永久秀によって包囲される佐久間信盛らは交野城救援のため出陣。これを打ち破っている

7月にも出陣。北近江の小谷山城下を焼き払う。

三方ヶ原の戦いについて

 10月。甲斐の武田信玄がついに兵を動かす。

信盛は美濃での警戒のため、2000の兵で岐阜城を守る。この時信長は近江に釘付けで、浅井、朝倉連合軍とにらみ合いを続けており、もし美濃へ撤退をしたならば、畿内での情勢をも危うくする状況だったのだ。

11月。武田信玄が主力を率い、遠江の徳川家康を攻め込む。

再三の家康からの救援要請に対し、信長はようやく援軍派遣を承諾する。この時援軍として遠江へ派遣されたのが平手汎秀水野信元林秀貞(?)滝川一益(?)そして佐久間信盛であった。織田家の援軍は総勢3000(諸説あり)と大した数ではないので、林と滝川は参陣していないのかもしれない

この時信長から、「浜松に籠城して時間を稼げ。決して打って出るな」と厳命されていた

一方、武田信玄は遠江の浜松城を無視して西上し、三河へと向かわんとする動きをした

軍議では徳川家康が出撃を主張する。佐久間信盛をはじめ織田家からの援軍は籠城を主張。徳川の一部の老臣たちは、「これは敵が殿をおびき寄せる罠である」と籠城を進めるが、家康はそれを押し切って出陣。

同日夕刻。三方ヶ原台に到着すると、武田信玄はそれを待ち構えていたようで、散々に徳川・織田連合軍は打ち負かされた。三方ヶ原の合戦

このわずか2時間ほどの合戦において、織田軍も平手汎秀が討死するなどしたが、佐久間信盛は積極的に戦わずに、兵を温存しつつ今切あたりまで退却した

信長包囲網の瓦解

 信長の窮地は、北近江で信長と睨み合っていた朝倉義景の謎の本国撤退、そして三河まで進軍していた武田信玄の謎の退却(のちに死亡だとわかる)により脱することができた。

元亀4年(1573)4月。将軍・足利義昭が2度目の挙兵

これを聞いた信長は京へ攻める。信盛も従軍し、義昭に味方した上京(下賀茂から嵯峨あたり)一帯を百二十八ヶ所焼き払う。

この直後に信長の名代として織田信広細川藤孝とともに義昭と和平交渉を行う。その結果和議が成立し、その際に交わされた起請文には林秀貞、柴田勝家、滝川一益、稲葉一鉄安藤守就とともに信盛の名も見える。

またこの時期に信長から、柴田勝家らとともに、南近江六角義治籠る鯰江城の攻略を命じられている。

朝倉軍撤退を見逃して信長に口ごたえ

次々と寝返る浅井家家臣たち

 室町幕府滅亡後の同年8月。(すぐに改元して天正元年となった)浅井長政の家臣・山本山城主の阿閉淡路守貞征が信長に寝返ったことにより、小谷山城は孤立した。

8月4日。兵を休ませる暇なく信長は岐阜を出陣。

8日には月ヶ瀬城を陥れる。ここで越前から朝倉義景が後詰に江北に到着

12日。小谷城の背後にある焼尾城は浅井対馬守(道西?)が不利を悟って信長に寝返る。この日の風雨に紛れて織田の軍勢を城内に引き入れた。

その日の夜、三の丸まである堅固な要塞・大獄城が落雷により火災が発生。虎御前山からそれを見ていた信長は、自ら先駆けて暴風雨の中攻め立てた。かなりの激しい戦となったが、信長が二の丸まで落としたところで開城を勧告し、朝倉方もこれを承諾。城兵を朝倉義景のところに帰らせた実はこれが信長の策略だったのである

13日。信長は小谷の支城である丁野城を5000の兵で取り囲んだ。使者を遣わし降伏を勧告し、中島直親と玉泉坊はそれを飲んで城を明け渡す。信長はこの城を焼き払い、小谷山城を完全な裸城にしてしまった。

朝倉義景の撤退を見逃すなと厳命

 信長は長年朝倉義景と対峙し、完全に義景の心理を読んでいたと思われる。義景はこの不利を悟り、必ず浅井長政を見捨てて越前へ退却するとみていたのだ。加えて義景は12日に攻め落とした焼尾城から帰った将兵達から、織田軍の猛攻の恐ろしさを聞かされていた

信長は柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉、安藤守就、稲葉一鉄、氏家直昌といった音に聞こえた諸将らに必ず朝倉軍は夜陰に紛れて撤退するから絶対に見逃すなと厳命した。

その夜、信長は読み通り朝倉軍が越前へ撤退するらしき様子を、山の上から見て取った。信長はすかさず偵察を送り朝倉軍の様子を探らせた。結果は信長の読み通り、すでに陣を引き払っていたのだった。しかし、あれだけ信長が厳命していたのに、部将クラスの諸部隊は全く動かない。
関連記事:戦国大名と旗本、部将(侍大将)の違い

信長はしびれを切らし、自ら馬を出して朝倉軍を追った。馬廻たちもそれを見て慌てて信長に従い、朝倉軍を追撃した。柴田や佐久間、丹羽らの諸部隊を追い越した信長を見て、ようやく彼らは朝倉軍の撤退に気づき、追撃を始めた

刀根坂の合戦 名門朝倉家滅亡

 越前と近江の国境にある疋田峠でようやく織田軍は追いつき刀根坂あたりで逃げる朝倉軍の主力を次々と切り伏せていった

翌日にかけてのこの猛追撃によって、朝倉軍は3000名余りが討ち取られ朝倉義景はわずか5~6騎に守られて命からがら一乗谷城に帰り着いた。=刀根坂の合戦

17日には織田軍は木ノ芽峠を超えて越前平野へ乱入。もはや平野部に入ってしまえば守るものなどない。朝倉義景は一族にも裏切られた末に切腹一乗谷城は焼き払われ、ここに先祖からの宿敵である朝倉家は滅亡した。一乗谷城の戦い

信長からの叱責に佐久間信盛が反論

 信長は越前一乗谷城を焼き払う直前に、諸将らを集めて並ばせ、「あれほど厳命しておいたものをそれ見たことか」とかなり強く叱責している。すると佐久間信盛は何を思ってか信長に反論し

さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷
(そうは仰られましても、我々のような優秀な家臣たちはそうおりますまい)

と口ごたえしたという。それを聞いた信長はさらに怒り、場の空気が凍り付いた。実はこのことを信長は根に持っており、後年、佐久間信盛が追放される一因になっている

同月26日には早くも越前から兵を取って返し、虎御前山に布陣。信盛も他の諸将らとともに小谷山城に攻め入り、浅井家を滅亡させた。=小谷山城の戦い

佐久間信盛の目覚ましい出世

 浅井家を滅ぼした直後の9月。2度目の長島一向一揆攻めでは一揆勢の逆襲にあい、林通政が討死している。

9月24日。信長は佐久間信盛のほか柴田勝家、木下秀吉、蜂屋頼隆、丹羽長秀、滝川一益らを引き連れて出陣。八風峠や大君ヶ畑を越えて伊勢に入り、26日。桑名方面に兵を繰り出し、西別所砦を陥落させた。

同年11月。三好義継籠る河内国若江城を攻め落としている。=若江城の戦い

明けて天正2年(1574)4月。六角残党籠る石部城を攻略させる。

同年7月。信長は3度目の長島一向一揆攻めを敢行。長い兵糧攻めの末、開城を許して敵が退去しようとしたところ、信長はいわばだまし討ちのような形で一揆勢を皆殺しにしている。この時、信盛は柴田勝家と共に賀鳥口を担当した。

天正3年(1575)4月。和泉高屋城を攻め落とす。=高屋城の戦い
関連記事:【古文書講座】信長包囲網 信長が畿内大名の心を繋ぎとめようと必死

ちなみに高屋城は世界遺産に最近登録された百舌古市古墳群の一つ・安閑天皇陵の中にあり、そこの地形を利用して作られた要塞である。

長篠・設楽原の戦いでの活躍

 天正3年(1575)5月下旬。信長の徳川家康救援に従軍。長篠・設楽原の戦いにおいて武田勝頼を破る。

「武家事記」によると、この戦いで佐久間信盛が武田勝頼に対して偽りの内応を約束し、勝頼をおびき寄せることに成功したとある。また、「常山紀談」にも武田勝頼の寵臣・長坂光堅を通じて内通し、勝頼はそれを信じて馬場信房らの意見を無視して決戦に踏み切ったとする記述がある。

しかしながら、信長包囲網が瓦解し、圧倒的に信長の勢いがある時期に勝頼と内応するとは信じ難い。また勝頼もこれは偽りだと簡単に見抜けるのではなかろうか

信長の嫡子・信忠軍団の主力として活躍

天正3年(1575)8月。越前一向一揆殲滅戦にも従軍。

同年11月。信長は隠居。(この時代によくある形だけのものであり、権力基盤をよりスムーズに移行するなどのメリットがある)岐阜城を嫡男・信忠に譲り、美濃、尾張の侍たちの指揮権も与えた。この時、岐阜城を譲った信長を自らの館に迎え入れている。

この時既に信長は、安土に城を築いて権威を誇示するという構想を抱いていたのではなかろうか

同年12月。信盛の配下であり、刈谷城主・水野信元が武田方の秋山虎繁(信友)と内通していたと信長に密告し、信長は徳川家康を動かして水野信元を殺している。こうして刈谷城一帯は信盛の直轄領に組み込まれた。

石山本願寺攻めの総大将として

 天正4年(1576)5月。天王寺において本願寺勢と交戦していた原田(塙)直政が討死する。

この事態を重く見た信長は、佐久間信盛を石山本願寺攻めの総大将に命じ、三州、尾州、江州、和州、河州、泉州、紀州と実に7か国の指揮権を与えられた。この中には謀略に長け、大和国において多くの知行地を持つ松永久秀も組み込まれている。

この時期、遠く越後では上杉謙信が兵を出して西上し、越前にまで攻め込もうとしていた。また、中国地方の毛利輝元は播磨にまで勢力範囲を広げ、大量の兵糧を得意の水軍力を生かして石山本願寺に運び入れていた。

そんな中、天王寺の砦に在番していた松永久秀が急遽何も告げずに居城の信貴山に引きこもる。

結局それが謀叛だと判明し、嫡男・信忠を総大将に信貴山を攻めるが、信盛はこれにも従軍している。

結局久秀が期待していた上杉謙信は加賀で兵を返して越後に戻り、毛利もまたこれ以上東へ出ようとはしなかった。

10月10日。ボンバーマン久秀は城とともに爆死し、信貴山城は陥落した。=信貴山城の戦い

同年、紀州雑賀攻めにも従軍している。

各地で転戦はしているものの、石山本願寺攻めでは一向に戦果が上がらなかった。信長は外交の力で決着をつけることにし、朝廷を動かして石山本願寺の法主・本願寺顕如との和議が成立した。本願寺教如が大坂から紀州へ退去したことで、10年にも及ぶ本願寺との抗争に終止符を打ったのであった。天正8年(1580)8月のことであった。

十九ヵ条の折檻状

 同月25日。佐久間信盛の元に突然信長から書状が送られてきたそれが19ヵ条に渡り信盛の悪行が列挙されている折檻状だったのである。内容は以下のとおりである。

一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。

(信盛・信栄父子が5ケ年に渡って苅屋に在城の間、何ら功績もないということは、世間から不審に思われて当然だ。我々(信長)も同感で、言葉には述べ難いほどである。)

一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行く行くは、信長威光を以て、退くべく候条、さて、遠慮を加へ候か。但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。

(このような佐久間父子の心持ちを推量するに、大坂(石山本願寺)は大敵と思い、武力を行使するでもなく、調議・調略をも行わず、ただ居城の砦を堅固にするだけで歳月を過ごせば、大坂は長袖(坊主)であるから、ゆくゆくは信長の威光で退散するであろうと姑息な考えをしていたのだろうか。だが、武者道とはそのようなものではなかろう。そうした時には、勝敗の機を見分け、一戦を遂げれば、信長のため、ひいては佐久間父子のため、諸卒も苦労がなくなって誠に本意たるものを、ただひたすらに持久戦を続けるなど、分別もなく、未練がましいことこの上ない。)

一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。

(丹波の国は惟任日向守(明智光秀)の働きによって平定し、天下の面目をほどこした。ついで羽柴秀吉は数か国を平定する比類なき働きだ。しかも、池田勝三郎(恒興)などは小身(小禄)であるにもかかあらず、摂津花隈城を落とし、これまた天下の覚え晴れがましい。これらを手本に一念発起し、一廉(ひとかど)の働きをするべきである。

一、柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。

(柴田修理亮勝家などは、これら僚友の働きを耳にして、越前一国を領知しながら(手柄がなくては)天下の評判悪くなることを気遣って、この春に賀州(加賀の国)に出兵し、一国を平定した。)

一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。

(武篇道が腑甲斐なければ、属託(懸賞などで人を利用するなど)などで調略をめぐらし、不足のところを我等(信長のこと)に報告して事を済ませることが、五ヵ年の間に一度もないとは油断であり曲事である。)

一、やす田の儀、先書注進、彼の一揆攻め崩すにおいては、残る小城ども大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。然るところ、一旦の届けこれなく、送り遣はす事、手前の迷惑これを遁るべしと、事を左右に寄せ、彼是、存分申すやの事。

(河内の国の保田知宗(信盛の与力)は、先年の注進状に石山城(石山本願寺)の一揆を攻め崩せば、残る小城はほとんど退散すると記し、これに信盛・信栄父子も連判している。然るに(信長の)いったんの届もなくこれを送り遣わすとは、己にかかる迷惑を避けようとして、詮索したとしか思えない。)

一、信長家中にては、進退各別に候か。三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内にも与力、和泉にも与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力、少分の者どもに候へども、七ヶ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度を取るべからざるの事。

((佐久間は)信長家中にあっては特別な待遇ではないか。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・それに根来衆も加えれば紀伊にも与力をつけられている。しめて7ヵ国だ。そのうえに己の人数を加えて働くならば、どのような戦いをしようとも、不覚を取るはずがない。)

一、小河かり屋跡職申し付け候ところ、先々より人数もこれあるべしと、思ひ候ところ、其の廉もなく、剰へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、各同前の事候に、一人も拘へず候時は、蔵納とりこみ、金銀になし候事、言語道断の題目の事。

((五年前)三河刈谷の水野信元の跡職を与えたから、以前より家臣が増えているだろうと思っていたところ、その様子もなく、かえって前々からの家臣を多分に追い出した。たとえそのようなことがあっても、その跡目を継がせておけば不足が生じないものを、一人も補わず、その知行地を蔵納(直轄)とし、金銀に変えてしまうとは 、言語道断である。

一、山崎申し付け候に、信長詞をもかけ候者ども、程なく追失せ候儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱い紛れなき事。

(山崎(南山城)を所務させてたところ、信長の選んだ者たちを追い出した手口、先の緒川、刈谷の水野の時の取り扱いと同様である。)

一、先々より自分に拘へ置き候者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付け、新季に侍をも拘ふるにおいては、是れ程越度はあるまじく候に、しはきたくはへばかりを本とするによつて、今度、一天下の面目失い候儀、唐土・高麗・南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。

(己の譜代の家臣に加増をし、相応の与力をつけ、新季(規)奉公人を召し抱えていれば、これほどの落ち度はないものを、吝(しわ)き蓄え=ケチ貯蓄ばかりを本意としているから、このたび天下の面目を失い、唐土・高麗・南蛮にまでその恥をさらすことになる。)

一、先年、朝倉破軍の刻、見合せ、曲事と申すところ、迷惑と存ぜず、結句、身ふいちやうを申し、剰へ、座敷を立ち破る事、時にあたつて、信長面目を失ふ。その口程もなく、永々此の面にこれあり、比興の働き、前代未聞の事。

(先年(天正元年1573)の朝倉破軍のおり=刀根坂の合戦、恐縮もせず、信長の命に従わず恥をかかせたから面目を失った。そのくせ、己の大坂での不手際は前代未聞であること。)

一、甚九郎覚悟の条々、書き並べ候へば、筆にも墨にも述べがたき事。

(甚九郎(信盛の子・佐久間信栄)の罪状は筆墨にも尽くしがたいこと。)

一、大まはしに、つもり候へば、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘へず、其の上、油断の様に取沙汰候へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。

(大まかにいえば、第一に欲深く、気むずかしく、良い家臣を召し抱えようとしない。そのうえ、いい加減なことをするから、父子ともども武篇道が足らぬゆえ、このような事になったのである。)

一、与力を専とし、余人の取次にも構ひ候時は、是れを以て、軍役を勤め、自分の侍相拘へず、領中を徒になし、比興を構へ候事。

(与力ばかりを酷使し、敵からの攻撃に備えるときも、これらに軍役を勤めさせ、自分自身は家臣を召し抱えず、領地を無駄にし、ケチなことばかりしている。)

一、右衛門与力・被官等に至るまで、斟酌候の事、たゞ別条にてこれなし。其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、綿の中にしまはりをたてたる上を、さぐる様なるこはき扱ひに付いて、かくの如き事。

(信盛の与力や被官たちまで信栄に遠慮している。自分の思慮を自慢し、穏やかなふりをして、綿の中に針を隠したような恐ろしい扱いをするので、このようなこととなった。)

一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。

(信長の代となって三十年尽くしてきた中、佐久間信盛の活躍は比類なしと言われるような働きをただの一度もしてこなかったこと。)

一、一世の内、勝利を失はざるの処、先年、遠江へ人数遣し候刻、互に勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人も殺さず、剰へ、平手を捨て殺し、世にありげなる面をむけ候儀、爰を以て、条々無分別の通り、紛れあるべからずの事。

(信長の生涯のうち、勝利を失ったのは先年、遠江へ(天正3年(1575)の三方ヶ原の時)援軍を遣わした時であり、勝ち負けは部門の習いであるので仕方がない。しかし、家康の事情もあるので、後れを取ったとしても、兄弟や然るべき者の討死でもしていれば、信盛が幸運にも討死を免れたとしても、世間の人たちは不審には思わなかっただろうに、(自分の郎党で)一人の戦死者も出さなかった。 剰(あまつさ)え、平手(汎秀)を見殺しにして、平然としていることをもっても、その思慮なきこと紛れもない。)

一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。

(この上はどこかの敵を平らげ、会稽の恥を雪いだ(汚名挽回をした)上で帰参するか、あるいは討死するしかない。)

一、父子かしらをこそげ、高野の栖を遂げ、連々を以て、赦免然るべきやの事。

(父子両人とも頭を丸め、高野山にでも隠居し連々と赦免を待つのが道理であろう。)

右、数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。抑も天下を申しつくる信長に口答申す輩、前代に始り候条、爰を以て、当末二ヶ条を致すべし。請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。

(右のように数年の間一廉の武功もなく、未練の仔細は保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配する信長に対して立てつく者は信盛から始まったのだから、その償いに最後の2ヶ条を実行してみせよ。そうしなければ、天下が二度と(佐久間父子を)赦免することはないだろう。

天正八年八月

晩年

 信盛とその子信栄は抗議することを諦め、高野山へと上り剃髪して夢斎定盛と称した。

そこを治めていた筒井順慶は警護を命じられ、信盛らに供をつける人数を厳しく制限したという。やがて高野山からも圧力をかけられたのかわからないが追い出され、熊野に落ちのびた。その時供の者はわずか1人だった。

信盛は失意の中で病を得て、天正10年(1582)1月16日。紀伊国熊野で没した。(天正9年説もあり)享年55歳。

その直後、子の信栄は帰参を許され、信忠の家臣となっている。また、最後まで付き従った唯一の家来には、忠誠心を認められて士分に取り立てられたという。

考察

信長の覇業序盤の活躍

 佐久間信盛は、信長初期の段階においては間違いなく主戦力だったであろう。特に弟信勝との稲生合戦においては早い段階から信長支持を表明し、合戦中もよく持ち場を支えたはずだ。

桶狭間の合戦においても彼は善照寺砦にて活躍したはずだ。美濃攻めの段階においては柴田勝家と同様、ほとんど史料には信盛の名は見えないが、上洛戦後は再び頻繁に顔を出している。信長の岐阜城時代は、普段信長は麓の屋敷で暮らしていたのだが、よく佐久間信盛の屋敷で寝泊まりしたとかしてないとか(^-^;

「退き佐久間」の異名について

 いわゆる「退き佐久間」という異名はいつからついたのであろうか。尾張平定戦や美濃攻略戦において、信長はそれなりに負けているが、撤退する際に「殿軍」として敵の攻撃を防ぐ役割は、信長自身か、柴田勝家か、森可成が多いような気がするのだが・・・。佐久間信盛が退き佐久間と呼ばれるようになったのはどの合戦からなのか、調べても出てこない。本当にその頃から「退き佐久間」と呼ばれていたのであろうか?動員兵力的には申し分なくはあるが、采配能力はまた別かと(^-^;

肖像画も銅像もない件について

 例え家来の身分であっても、佐久間クラスであればそういった類のものは多少は出てくる。(もちろんない場合もある)実は佐久間信盛の顔が書かれた絵があるのは、冒頭部分に載せた「長篠合戦屏風図」なのだ。統治能力のある優れた領主様なら、例え肖像画がなくても伝説くらいは残っていてもいいはずなのだが。

やはり折檻状の通り、物欲が強くて戦になると与力にばかり働かせて、普段は茶会ばかりして領内政治を顧みなかったのであろうか。

“家臣をよく追放して、その空いた知行のところに誰か新しい与力を召し抱えるわけでもなく、自分自身の直轄地にし、そこから入ってくる収入を金に換えて茶器ばかり買ってるー!”という折檻状の内容は、信憑性がありすぎて気になるところだ。

タイトルとURLをコピーしました