おはようございます!
今回は桶狭間の合戦。
それも水野一族に焦点を絞って書いていきます。
応仁の乱から水野忠政時代の水野家
応仁の乱以後、全国で争乱が起きたが、水野家は上手く勢力を拡大している。
水野貞守の代に緒川城と刈谷城二つに拠点を置き、上手く斯波家や織田家、松平家と盟を結びつつ、知多半島の佐治氏(大野城)、渥美郡の戸田氏(河和城)付近まで勢力を伸ばす。最盛期は24万石を領有するに至った。
隣国の松平家とは頻繁に婚姻を繰り返していて、水野忠政の代にも娘を松平家に遣り、竹千代を生んでいる。のちの徳川家康である。
その水野忠政の代に、東から駿河の今川義元の勢力が伸びきたため、忠政は松平家と同様に今川家の傘下に入った。
水野信元が織田信長に鞍替え
水野信元が家督を継ぐと、今度は西から織田信長が勢力を拡大。この時代になると織田と今川に挟まれた、苦しい弱小国人となっていた。
水野信元は若き織田信長に家運を賭けた。今川義元から織田信長に鞍替えしたのである。
天文23年(1554)正月。今川義元は軍勢を遣わし、水野家の緒川城からほんの数キロ先にある要害に城を築いた。これが村木城である。信長の領地と水野家の緒川・刈谷城の間に楔を打ち込み、水野家を孤立させる狙いなのが分かる。
信長はすぐさま水野家救援に出陣。激しい猛攻撃を加えてわずか1日で城を落としている。これを聞いた今川義元も舌を巻いたに違いない。
村木城の戦いには詳細記事を書きましたので、もしよければご覧ください。
桶狭間の合戦前夜の水野家
それから6年の歳月が過ぎた。織田信長は尾張平定をほぼ完了し、今川義元は国内のごたごたを終わらせ、武田、北条両家と盟を結んだ。織田家と今川家。両者の対決の時期は迫りつつあった。
永禄3年(1560年)4月12日。駿河の太守・今川義元が水野十郎左衛門尉(水野一族)に宛てて書状を出している。
夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言
別本士林証文
四月十二日 義元
水野十郎左衛門尉殿
(書き下し文)
「夏中、進発せしむべく候条、それ以前尾州境取出の儀、申し付けの人数差し遣わし候、然らばその表の事、いよいよ馳走祝着たるべく候、なお朝比奈備中守申すべく候、恐々謹言」
「この夏中に出陣するから、その前に尾張の国境に砦を造ることを申し付ける。その為の人足を差し出せ。いよいよ奮励努力せよ。このことは朝比奈備中守に伝えておく。 敬具」
4月12日とあるだけで年次は記されていないが、永禄3年(1560)と見てまず間違いないであろう。この書状から見るに、だいぶ前から今川家による水野家の懐柔が進んでいるものとみえる。織田家の傘下のままでいたら、真っ先に攻撃を受けるからだ。
「朝比奈備中守」とあるが、これは当時大高城に入っていた朝比奈泰能のことであろう。朝比奈泰朝の父である。 この書状から察するに、今川家の完全なる家臣のように見える。
桶狭間の合戦発生 水野家はどう動いたか
とりあえず以下の文面をご覧いただきたい。
右、今度於尾州一戦之砌、大高、沓掛両城雖相捨、鳴海城堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野籐九郎其外随分者、数多打捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
永禄三庚申年六月八日 氏真(花押)
(書き下し文)
今度の尾州一戦の砌(みぎり)、大高・沓掛両城相捨てるといえども、鳴海城堅固に持ち詰めし段、それ以て粉骨至りなり。しかるといえども通用無きにより、下知を得て、城中の人数無き相違い引き取りの条、忠功は無比の類、あまつさえ、刈谷城を籌策を以て、城主水野籐九郎そのほか随分の者、あまた打ち捕らえ、城内をことごとく放火、粉骨他に準ぜざるところなり。かの本知行子細有りて、数年没収といえども、褒美として還付せしむるところ、相違うべからず、しからば、この旨所務せしむるべし、いよいよ奉公ひくべきのじょう、よってくだんのごとし
「桶狭間の合戦の時、我々は大高・沓掛の両城を捨てて逃げたけれども、鳴海城をよく守ってくれた。しかし、私が開城を命じるまで城を守ってくれた忠功は余人の及ぶところではない。それだけでなく、刈谷城をはかりごとをもって、城主・水野籐九郎(信近)他多数の者を捕らえて城内を放火したことは、その功績は誰にも準することはできない。(岡部元信は鳴海城を知行として与えていたが、鳴海城は信長に明け渡した)あの本領は事情があってここ数年没収となっていたが、褒美として相違なく返還する。前々からの領地を守り、いよいよ勤務に励むように。」
となっている。だいたいですよ。だいたいの現代語訳です。
この書状によると、水野一族は今川義元の命に背き、人足出さなかったばかりでなく、出陣命令さえ無視していた可能性もある。うーん、水野信元やるなぁ。これは全く根拠がないが、桶狭間でもししくじっていたら、背後から水野が奇襲する予定だったのでは・・・。と思わせるような内容である。
こういうことがあって鳴海城主の岡部元信は憤慨し、開城して駿河に去る途中で刈谷城に近づいた。そして、水野藤九郎信近が油断してる隙に城内に攻め入って信近を討取り、刈谷城を放火をしたのではあるまいか。
藤九郎信近とは水野家の当主・信元の弟である。
水野家は松平家と縁戚関係ということから、織田信長と徳川家康の同盟を斡旋するに至る。水野信元は佐久間信盛の与力として織田家臣団に組み込まれ、信長の覇業を支えていくのであった。