姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説

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姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説
来世ちゃん
来世ちゃん

みなさんこんばんはー。
今回は姉川の合戦の本編です。
合戦の始まりから終わり、さらに他の説はどうだったかをつまびらかに書いていきます。

←前編からの続き

諸説さまざまな姉川の合戦

 姉川の合戦の最重要部分である主合戦については諸説ある。
恐らく多くの方がご存知の姉川の合戦とは、織田軍が徳川軍に救われた形で辛くも勝利を得たという説だ。
しかし、これは元禄時代の「浅井三代記」が初出で、幕藩体制下で徳川家康を美化しなければならなかったことから、現在ではこれも怪しいのではないかとする見方もある。

また、太閤記のように、浅井軍の先鋒・磯野員昌隊の猛攻を木下秀吉が撃退して信長の窮地を救ったと秀吉を美化しているのもある。
いずれも江戸時代に記された軍記物だ。

一方、「信長公記」をはじめ、「三河物語」、「当代記」、「年代記抄節」などには、全く苦戦している様子はない。

爰(ここ)かしこにて、思ひ思ひの働きあり

信長公記

横山へ後巻として両手に取り出し、押し寄せ、即時に両手一同に切り崩し、信長は大利を得候う

年代記抄節

とあるように、戦国時代一級史料にはあっさり信長が勝ったような記述がある。
当記事では、とりあえず通説の姉川の合戦を書いて、その後に他の説の姉川合戦を説明していこうと思う。

通説の姉川の合戦

まず、浅井三代記をもとにした通説の姉川の合戦をみていこう。

姉川の合戦布陣図
姉川の合戦布陣図

軍議

 浅井・朝倉連合軍との決戦を前に、竜ヶ鼻において軍議が開かれた。
「自分は本国を発つときから先陣を望んでいた。
明日の合戦ではなんとしても浅井勢か朝倉勢かどちらかの先陣をつとめたい。」
この席上、徳川家康が強く先陣を希望した話は有名である。

信長は先陣に柴田勝家らを予定していたが、家康が頑として先陣を望むので、とうとう折れて朝倉勢に当てることにし、稲葉良通(一鉄)の兵1000を加勢としてこれにつけた。
織田軍は浅井軍とあたることとなった。
信長自らの手で憎い浅井長政を討ちたかったのであろう。

横山城の抑えに丹羽長秀氏家ト全(直元)ら5000の兵を残しておいて、真夜中にもかかわらず移動を開始し、姉川の南岸に展開した。

姉川の地形

現在の姉川のようす
現在の姉川の様子

姉川は伊吹山地から西に流れ、途中で草野川、高時川を合わせて琵琶湖に注ぐおよそ十里(約40km)の河川である。
河口から二里(約8km)ほどさかのぼった所が合戦場になる。
「武功夜話」によると

(当時の)姉川は大きく迂回、河原広大にて水流二条、水涸れて床あらわなり。
北国往還道より六、七町離れて人家粗(まばら)なり。
前方に野村合郷あり、この間は格別遮るもの相無し。
姉川は深き所三尺(約90cm)あまり、石河原打ち続き・・・

武功夜話

とあって、舟や筏を用いなくても渡河できる水量だった。

大依山と竜ヶ鼻にそれぞれ陣取り、睨み合う

姉川合戦の陣立て

野村に展開していた浅井軍の陣立て

第一陣 磯野員昌  約1500人
第二陣 浅井政澄  約1000人
第三陣 阿閉貞征  約1000人
第四陣 新庄直頼  約1000人
本陣  浅井長政  約3500人

 総勢約8000人

三田村に布陣した朝倉軍の陣立て

第一陣 朝倉景紀  約3000人
第二陣 前波新八郎 約3000人
本陣  朝倉景健  約4000人

  総勢約1万人

一方、浅井軍に対する織田軍の陣立て

第一陣 坂井政尚  約3000人
第二陣 池田恒興  約3000人
第三陣 木下秀吉  約2600人
第四陣 柴田勝家  約3000人
第五陣 森可成   約2000人
第六陣 佐久間信盛 約2000人
本陣  織田信長  約5000人

  総勢約1万9600余人

最後に朝倉軍に対する徳川軍の陣立て

第一陣 酒井忠次  約1000人
第二陣 小笠原長忠 約1000人
第三陣 石川数正  約1000人
本陣  徳川家康  約2000人

  総勢約5000人

姉川の両岸には両軍の兵がひしめき、
「旗、幟、姉川の瀬音幽(かすか)にして粛殺の気天地を覆うなり」(武功夜話)
という雰囲気となった。

姉川の合戦 開戦

 元亀元年(1570)6月28日午前6時頃。
合戦の火蓋が切られた。

姉川の合戦 開戦
姉川の合戦 開戦

 まず左翼の朝倉軍が槍衾をつくって川を押し渡ってきた。
朝倉軍の目には織田・徳川連合軍はまだ戦局を完全に形成し終えないで、梯隊体勢にあるように見えたようだ。
実は朝倉軍は横山城を包囲している織田軍を背後から襲うつもりで渡河し始めたのだが、意外にも敵が夜中のうちに反転して目前に展開しているのを見て驚いた。

一方、徳川軍も敵はいままで消極的だったから、どうせ川の北岸に進出してきても、敵前の渡河は危機が多いから、すぐには渡ってこないだろうと思っていた。
徳川軍は慌てて弓、鉄砲で応戦した。

戦場は不期遭遇戦の形となった。
双方のこの思惑外れは地形にも原因があった。
姉川の戦場は大依山と竜ヶ鼻の両高地間の平地にあって、南寄りを姉川が流れている。

姉川周辺の地形
姉川周辺の地形

両岸は農家集落の点在する水田地帯だが、防風を稲干のための並木が屏風となって碁盤形に田を区切っているため、川原以外の見通しが利かない。
夜の暗い中を高地から平地へ降りてきた両軍は、視界が急に狭くなったため手探りで前進する形になった。
朝倉軍も並木の向こう側にうごめく敵影は見たに違いないが、さしたる人数に見えなかったため、今だとばかり強攻策をとったのかもしれない。

古来より予期せぬ不期遭遇戦は、たちまち混戦乱闘に発展するのが常である。

が、多勢に無勢。
朝倉軍の勢いの前に徳川軍の酒井、小笠原勢が圧倒されて後退しはじめた。
敵に川を渡られては大軍の濁流に味方は呑みこまれてしまうと考えた家康は、本隊を投入して防戦に努めたが、機先を制せられた不利は覆うべくもなかった。

姉川の合戦 浅井軍の猛攻

 いっぽう、右翼戦線でも動きがあった。
浅井軍は味方の朝倉軍が敵を圧倒しているのを見て奮い立った。
「助勢の越前衆に後れを取ってはなるものか」と叫びつつ、まだ体制の整っていない織田軍の虚をついて、まず磯野勢が水しぶきをあげて川を押し渡り、坂井政尚隊に襲い掛かった。

姉川の戦い

坂井隊は防ぎきれずに後退して池田隊に合流した。
浅井軍は怒涛の如く押し寄せる。

馬蹄の音が江北の山河に轟き、敵味方が入り乱れ、誰が敵で誰が味方かも分かりかねる有り様。
池田恒興は崩れ立つ味方を励まし励まし戦い、乱戦の間弓手も役に立たず、鉄砲も撃てず、河原の石を投げて防戦する。

しかし、池田恒興隊もたちまち蹴散らされ、織田軍の第一陣、第二陣、第三陣が瞬く間に連破された。
浅井軍は大将の長政自ら陣頭に立って槍を奮っていた。

ついに中軸の木下秀吉隊、柴田勝家隊も突破され、信長本陣も危うくなった。

信長危うし 13段の備のうち実に11段まで破られる

 こうした戦況の中で1時間半ほどが過ぎた。
土煙が天を覆い、主を失った馬はあちこちで狂走する。
浅井勢の猛攻はまだ続いていた。

戦場は三十町(約3.3km)四方に及び、敵味方入り乱れて戦った。
8000の浅井軍は多数の死傷者を出しながらも奮戦し、織田軍の十三段の構えもあと二段を残すばかりに打ち破られた。
誰の目にも信長危うしと見えた。

浅井長政にはもう迷いはない。
修羅の戦場に立った一人の武人として、信長が義兄であればこそ、わが手で討ち取って部門の誉れにしようと念じていたのかもしれない。

浅井長政 勝負

一方、竜ヶ鼻本陣の信長の方は、憎しんでも余りある義弟の姿を目の当たりにして、心炎を燃やしていた。
若いころの彼なら旗本を率いて飛び出していたかもしれない。
が、信長も今や37歳。
ギリギリまで耐えに耐えた。

この粘着と粘りに勝利の女神がほほ笑むことになった。

形勢逆転 徳川軍の反撃

 形勢が逆転した。
そのきっかけをつくったのは徳川軍だった。

味方が川岸に押しつけられて苦戦しているのを見た稲葉良通(一鉄)勢1000騎余が駆けつけてきて、石川数正勢とともに巻き返しにかかった。
さらにこのとき家康は旗本の榊原康政本多広孝に、姉川を西へ迂回して朝倉軍の右へまわるように命じた。
二人は姉川下流を渡って、備えの薄い朝倉軍の側面へ襲いかかった。

これが功を奏した。
朝倉景健は弱点を突かれた狼狽した。
動揺はすぐに部下全体に伝わった。
彼我のバランスは崩れてみるみる形勢が逆転した。

朝倉軍のもろさは滑稽なほどだった。
浅井軍はあまりにも深く織田軍の中へ侵入しすぎて、側面ががら空きになっていた。
そこへ敵の側面から新手の稲葉勢が徳川軍の応援に駆けつけてきて、浅井軍の側面から背後を突く形となった。

浅井軍にも混乱が生じた。
浅井・朝倉連合軍の混乱が互いに感染し合い、相乗作用となって、両軍はせっかく手に入れていた先制の主導権を放棄して崩壊し、全軍が後退し始めた。

追撃掃討戦

 浅井・朝倉連合軍は退路を断たれるのを恐れて、小谷山を目指して敗走していく。
追撃戦に移った織田・徳川連合軍は数にものをいわせて勢いづき、全軍姉川を渡って怒涛の如く進撃した。

この追撃戦中、敗走する江北軍の中にも華々しく散った勇士はいた。

浅井家家臣・浅井雅楽助(うたのすけ)とその弟・斎宮助(いつきのすけ)の美談。

浅井家家臣・遠藤直経(喜右衛門)は味方の首を刀に差し、織田家の兵だと偽って信長に謁見。
信長と刺し違えて死のうと試みた。

遠藤直経家臣の富田才八は主人が討たれたのを知ると、
「もはや生きる甲斐なし」
と引き返して壮烈な死を遂げた。

遠藤は平生から人々の信望が厚かったため、富田のように彼の最期を聞いてとって返し、討死する者が多かったという。

関連記事:信長暗殺 遠藤直経と浅井長政 お市が人生で最も幸せだった7日間

朝倉家家臣・真柄直隆は五尺余りの大太刀をふるって数十人の徳川勢を斬り伏せ、華々しく散った。

(※これらは後日、「姉川の合戦 それぞれの武将のエピソード集」で紹介します)

姉川の合戦 終結する

 浅井・朝倉連合軍の敗戦兵は小谷山城へ逃げ込んだ。
小谷山城は堅固な要塞だし、無傷の兵2000余りが守っているため、信長といえども短期間のうちに攻め落とすことは不可能だった。
味方の死傷者も多く、ここで時を過ごせばかえって畿内の反織田勢力が攻めてくる不安もあった。

午前6時ごろにはじまった戦闘は10時頃を山場とし、追撃戦を終えたのは午後2時ごろだと伝わる。
8時間に及ぶ激戦で浅井軍の死者1100余、朝倉軍に至っては5000余。
合わせて9000余人。

織田方は800余人、負傷者はその3倍に及ぶ戦闘だった。

江北勢の敗報はいち早く京にも伝わり、浅井長政も磯野員昌も7000~8000の兵とともに討死したとの噂がひろまったほどだった。
浅井軍の先陣を務めた磯野員昌は戦場を離脱して居城の佐和山城へ逃げ帰った。

なお、他の説では江北勢の死者は「千百余り」(信長公記)、「九千六百人打死云々、首四千八百有之」(言継卿記)と伝わる。

通説ではない姉川の合戦 実は苦戦していなかった?

 これまで長々と書いてきたのは、「浅井三代記」と「武功夜話」を基にしている。
浅井三代記は江戸時代に発行された軍記物。
武功夜話に関しては信憑性が疑われているものが多い。

一方、冒頭にも記したが「信長公記」をはじめ、「三河物語」、「当代記」、「年代記抄節」などには、全く苦戦している様子はない。

信長公記にある姉川の合戦

 信長公記の姉川の合戦では、以下のように記されている。

 西は三田村口、一番合戦、家康公むかはせられ、東は野村の郷、そなへの手へ信長御馬廻、又、東は美濃三人衆諸手一度に諸合す。


六月廿八日、卯刻、巳寅へむかつて御一戦に及ぼる。

御敵もあね川へ懸かり合ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔(つば)をわり、爰(ここ)かしこにて、思ひ思ひの働きあり。

終に追ひ崩し、手前に於いて討ち取る頸の注文、真柄十郎左衛門(直隆)、此の頸、青木所左衛門(一重)是れを討ちとる。
(※恐らく青木一重が討ち取ったのは真柄直隆の子・隆基と思われる)

前波新八、前波新太郎、小林端周軒、魚住龍文寺、黒坂備中、弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門(直経)、此の頸、竹中久作(重矩)是れを討ちとる。

兼ねて此の首を取るべしと高言あり。

浅井雅楽助、浅井斎(斎宮助)、狩野次郎左衛門、細江左馬介、早崎吉兵衛、此の外、宗徒は千百余討ち捕る。

大谷まで五十町追ひ討ち、麓を御放火。

然りと雖も、大谷は高山節所の地に候間、一旦に攻め上げ候事なり難くおぼしめされ、横山へ御人数打ち返し、勿論、横山の城降参致し、退出し、木下藤吉郎(秀吉)、定番として横山に入れおかる。

夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘へ候へき。

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷取手仰せつけらる。

信長公記巻三 「あね川合戦の事」より抜粋

討死した人物は通説と同じだが、戦いの様子はだいぶ違うようだ。

佐和山城主・磯野員昌は果たして本当に参陣できたのか

 佐和山城は非常な堅固な城だが、南近江へと続く中山道の交通の要衝にある。
佐和山が取られると浅井家は所領を大きく失うことになるので、姉川の合戦で磯野員昌(かずまさ)を動員しただろうか。

元亀元年(1570)5~6月の織田家による近江支配体制
元亀元年(1570)5~6月の織田家による近江支配体制

(姉川の合戦前は丹羽長秀はそこにはいなかったが)

磯野員昌は豪傑の誉れ高い武将だ。
磯野が本戦に参戦できたとしても、兵1000も動員できただろうか。
まさか佐和山城を空っぽにして出陣するわけにはいかない。
佐和山に知行を得ていたならば、家族や家臣がそこで居住し、生活しているからだ。

動員できる兵のうち、4割くらいは動員できたとしても、とても1000人の兵を姉川の合戦に持っていけたとは考え難い。
通説となっている浅井三代記に矛盾が多い点のうちの一つがこれだ。

戦後

 信長は余勢をかって小谷山まで軍勢を繰り出して城下に放火させたが、深追いせずに降伏した横山城に木下秀吉を定番として置いた。
さらに佐和山城の磯野員昌を攻める。

実は当時の琵琶湖は、内湖が佐和山城下まで広がっていて、恐らく城から舟で琵琶湖から今浜や竹生島、塩津と出ることが可能だったと考えられている。

大規模な城郭があり、勇将と名高い磯野員昌の佐和山を攻めるのは難しいと判断した信長は、付城(つけじろ)として東百々屋敷を築いて丹羽長秀を配し、北の山に市橋長利、南の山に水野信元、西の彦根山に河尻秀隆を置いて完全包囲。
諸口の通行はおろか、アリ一匹すら出入りできないまでに包囲した。

そこから信長はわずか4~5騎だけを連れて7月4日申の刻(午後4時頃)に上洛。
将軍・足利義昭に謁見し、勝利を言上。
そのまま洛中の明智光秀邸に入った。(信長公記)
朝廷は山科言継を遣わして戦勝の労を労った。(言継卿記)

今回の上洛には徳川家康も同道しており、信長は家康にかつて足利義輝が愛用していた佩刀・長光を贈って家康の戦功を謝した。(当代記)

姉川古戦場
姉川古戦場

3か月後の志賀の陣で浅井・朝倉連合軍が再び信長に挑む

 浅井・朝倉連合軍は多くの死傷者を出して大敗北を喫した。
しかし、2~3か月後となる野田・福島の戦いで、信長が摂津で戦っている時、浅井・朝倉連合軍は早くも体勢を立て直し、信長の背後を突くべく、湖西より進軍して森可成籠る宇佐山城を攻め、京都へ攻め上ろうという構えを見せている。

しかも、この時動員した浅井・朝倉連合軍の総勢は3万というから、姉川の合戦以上の動員兵力である。
ほぼ再起不能なほど完膚なきまでに打ち破ったのに、なぜこのようなことができたのだろうか。

確かに浅井長政は腹心の遠藤直経をはじめ、実弟の浅井政之、浅井一族庶流の浅井政澄政成政重政連弓削家澄今村氏直ら浅井家運営の中心となる面々を相次いで失っている。
朝倉家も恐らく同様だろう。

それができたのは本願寺光佐(顕如)を法主とする一向一揆勢力と、比叡山門徒衆が味方したからだろう。
志賀の陣の主戦力はこれら一揆勢だったのかもしれない。
金や兵糧も彼らが援助した可能性がある。

姉川の合戦で勝利を収めた信長であったが、これから数か月と経たぬうちに三好一派、石山本願寺、比叡山延暦寺が相次いで信長打倒に兵を挙げる。
元亀の争乱時代はまだ始まったばかりであった。

関連記事:【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 後編

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございました。
姉川の合戦番外編となる
それぞれの姉川合戦 武将のエピソード集」も近いうちに投稿します^^

来世ちゃん
来世ちゃん

この時期の信長公の年表はこちらになります。

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