姉川の合戦 番外編 それぞれの武将のエピソード

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姉川の合戦 番外編 それぞれの武将のエピソード
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
姉川の合戦番外編 それぞれの武将のエピソードと題しまして、両陣営の華々しく散っていった武将や感動秘話を中心にご紹介します。
姉川の合戦の詳細は以下のリンクをご覧ください。

竹中重治(半兵衛)の調略工作

 この当時の竹中重治は、美濃菩提山城主として安藤守就の与力として働いていた。(諸説あり)

約6年前、重治が斎藤龍興に仕えていた時、謀略を用いて居城である稲葉山城をわずか16人で乗っ取ったことがある。
重治は半年ほど城に居座った後、そっくり龍興に城を明け渡して、世を忍ぶ隠遁生活を送った。(諸説あり)

竹中重治肖像画

竹中重治(半兵衛)肖像画

この時、彼は隣国の浅井家に属する鎌刃城主・堀家の世話になっていた。
重治はそこで幼い主人の堀秀村と、その家老である樋口直房と昵懇の仲になったという。

時は流れ、重治は織田家の家臣となった。
元亀元年(1570)6月。
織田家と手を切った浅井家に調略の魔の手が忍び寄る。

重治は道理を説き、熱く織田家に鞍替えすることを説いたと見え、旧知の中である堀秀村と樋口直房の調略に成功した。
調略の詳細はわかっていない。
しかしながら、彼らが織田方に寝返ったのは事実である。

しかも浅井家にとってはまずいことに、対織田家防衛の要に位置する長比(たけくらべ)城を樋口直房に任せていた。

姉川周辺図
姉川の周辺の図

長比城の樋口と鎌刃城の堀が織田家に寝返ったことで、信長の近江出陣が早まり、難なく長比城に入城した。

緒戦の段階で竹中重治は大いに活躍したのである。

樋口直房から聞かされた浅井長政の葛藤

 近江長比城に入城した織田信長に樋口直房は謁見した。
直房はこの年4月、織田信長が越前朝倉家を攻めた際、浅井家の軍議の席に参加していたようだ。

この時、並居る諸将が参集する中、親朝倉派の隠居・浅井久政と親織田派の浅井家臣団の間で議論が紛糾した。

浅井久政
浅井久政肖像画

隠居の浅井久政が声高に叫ぶ。
「わずか三年と経たぬうちにたちまち誓紙を反故にして、当家へ一言の挨拶もなく朝倉家へ手入れをするとはけしからぬ。
信長という奴は軽薄ものだ。」

「所詮は織田殿を敵に回しては例え朝倉家と一つになっても打ち勝つ見込みはござりませぬから、今の場合は越前の方へ申し訳に千人ばかりも加勢を出して、織田家の方はなんとか上手く繕っておいてはいかがでござりましょう。」

と、多くの家臣団たちは申し上げるが、それを聞いた隠居の久政はますます怒り、
「おのれら、末座のさむらいとして何を申す。
如何に信長が鬼神なればとて、親の代からの恩を忘れ、朝倉家の難儀を見捨てて良いと思うか。
そんなことをしたら末代までの弓矢の名折れ。
浅井一門の恥辱ではないか。
わしはたった一人になっても左様な臆病者の真似はせぬ。」
と満座を睨め付けて居丈高になったので

「まあまあそうご短慮に仰せにならずによくよくご分別なさりましては」
と老臣たちがとりついても、
「おのれら、皆がこの年寄を邪魔して皺腹を切らせるつもりじゃな」
と身を震わせて歯がみをする。

総じて老人という者は義理堅いものなので、その言い分もわからなくはないが、前々から家来どもが自分を馬鹿にするという僻みをもっていたところ、長政がせっかく自分が世話してやった嫁をきらって信長の妹を迎えたということをいまだに含んでいて

「それみたことか、親の言いつけを背いたればこそこんな仕儀になったではないか。
この期におよんであのうそつきの信長になんの遠慮をすることがある。
こうまで侮られながら黙って引っ込んでいるというのは、おおかた女房の可愛さにほだされて織田家へ弓がひけぬと見えた。」
と幾分長政へあてつける気味もあった。

浅井長政肖像画
浅井長政肖像画

浅井長政は隠居と家来衆との争いを無言で聞いていて、そのときほっと溜息をつき、こう言い放った。

「なるほど、父上の仰せは御道理じゃ。
自分は信長の婿だけれども、先祖以来の恩にはかえられぬ。
こちらへ取ってある誓紙は明日さっそく使者にもたせて織田家へ返してしまいましょう。
信長いかに虎狼のいきおいに誇っておっても、越前勢と力を合わせて無二の一戦を致すならば、やわか彼を討ち取れぬことがござろうぞ。」

結局、これで意見がまとまり、みなが決心を固めた。

信長はこの顛末を長比在陣中に樋口直房の口から知ったのだった。

戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

勇将名高い真柄直隆(十郎左衛門)と向坂式部の一騎打ち

 姉川の合戦で敗走する朝倉軍の中にも華々しく散った勇士はいた。

その一人、朝倉家臣の真柄直隆(十郎左衛門)は五尺余りの大太刀をふるって数十人の敵を切り伏せた。
(※5尺は約150cmだが、これは221.5cmの太刀の名をした超やべー刀。重さは4.5kgだという。「太郎太刀」といういわば奉納用の刀。調べても写真が出てこない。その代わり刀剣乱舞の画像はいっぱい出てくる)

姉川の合戦 番外編 それぞれの武将のエピソード
姉川合戦図屏風(福井県立歴史博物館蔵)
真柄直隆(十郎左衛門)と向坂式部の一騎討ちの様子

真柄は最期の働きをしようと味方を逃がし、自らが壁となって徳川軍に立ち向かった。
そこで徳川家家臣の向坂式部が立ち向かい、一騎討ちとなった。

やがて兜の吹き返しを打ち砕かれ、槍を叩き落とされた。
そこで助太刀に駆けつけたのが向坂吉政と郎党の山田宗六だった。

二人は真柄に襲い掛かった。
宗六は討たれたが、吉政は十文字槍で奮戦した。

とうとう力尽きた真柄直隆は
「今はこれまでだ。
首を取って名誉とせよ」
といって吉政に討たれたという。

真柄直隆の子・隆基(十郎)も父の死の場所に引き返し、青木一重と戦って討死した。(信長公記には真柄の首を取ったのは青木一重とある)

なお、朝倉氏滅亡後の天正11年(1583年)に新領主となった丹羽長秀発給の知行安堵状に、「真柄加介」宛ての書状があることから、真柄一族はその後も存続していることがわかっている。

私も知らなっかったのだが、映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」は、真柄直隆をモデルにしているという。
一度ミテミタイ

浅井雅楽助(うたのすけ)とその弟・斎宮助(いつきのすけ)の逸話

 この二人は浅井家庶流である浅井政信の子だとあるが、真偽は不明である。
二人は若いころから武勇の誉れが高かったようだ。

ある時、弟の斎宮助が合戦の手柄話を自慢していたところ、兄の雅楽助が叱責し、以来両者は10年仲違いをしていたそうだ。

しかし、姉川の合戦の前日。
死出の決意をもって両者は酒を酌み交わして復縁し、決意通り姉川の合戦にて二人は討死した。

弟の方は美濃三人衆一人・氏家ト全に討たれたという。

竹中半兵衛(重治)の献策

 冒頭で紹介した竹中重治(半兵衛)にはもう一つ伝説がある。
これは先ほどのと比べると信憑性は大きく落ちるものなのでご注意いただきたい。

実はこの戦闘の直前、参謀・竹中半兵衛(重治)は、木下秀吉に適切なアドバイスを送っていたという伝説がある。
彼は彼我の陣形や地形からみて

「陣形を改め円陣自在ならしめ、強勢に向け弧を縮こまり、敵勢無勢には孤を大いにひらき、大将の下知宜しくせり合い、期軍の間大将の下知失せぬ事今日の会戦の要に候」

すなわち、秀吉を中心に円陣を作り、敵が強勢のときは弧を縮め、敵の勢いが衰えたら弧をひろげ、大将の下知しやすいよう伸縮自在に戦うというものだ。

しかしながら、この当時の竹中重治は安藤守就の麾下として活動していたとする説もあり、その説によると重治が木下秀吉の与力となるのは、秀吉が横山城に入れ置かれた後のことだ。

若武者・坂井尚恒(久蔵)の奮戦

 坂井尚恒(久蔵)坂井政尚の嫡男として弘治元年(1555年)に生まれ、父と同じく信長に仕えた。

永禄11年(1568年)に信長が上洛を開始した時にも従軍しており、六角家の観音寺城攻めに参加して武功を挙げ、足利義昭から感状を与えられている。

姉川の合戦の時、坂井尚恒は弱冠16歳。
信長記によると

 磯野勝に乗って、猶(なお)鬨(とき)を作りかけ、敵味方入乱れ、追つ返しつ戦ひけるが難なく右近(政尚)撞(つき)退く。坂井が一族同名のものども、口惜くや思ひけん、百餘騎引き返し枕を並べ討死し、残り少なになりければ、猶叶はずして引退かんとしけるに、嫡子坂井久蔵いまだ十六歳、容顔美麗人に勝れ、心も優にやさかりつるが、引返し、向ふ敵に渡し合せ切つ切られつ追靡(なび)け、暫く戦ひけるが、遂に討たれて失せにけり。郎党可児彦右衛門の尉、坂井喜八郎抔(など)も枕を並べて討死す。父の右近は、夢ばかりも之を知らずして退きたりけり」

信長記より

とあり、浅井家の先陣・磯野員昌の猛攻を支えきれず、後退する父・坂井政尚や織田軍を助けるため、引き返して一族郎党もろとも討死したとある。
美貌麗しい若武者で、優しくて勇ましい性格だったという。

遠藤直経(喜右衛門)の最期の奉公と竹中重矩(久作)の功名

 浅井方の剛勇の士・遠藤直経(喜右衛門)の武勇談もよく知られている。

遠藤直経は浅井長政の傅役的な存在で、長政の幼い頃より相談役として小谷山城の屋敷に住むことを許されていた。
長政が事を決めるときは、真っ先に直経に相談するほど信頼が厚かったという。

彼は味方の敗勢いかんともなしがたいと知るや、信長と刺し違えて死のうと考えた。
そこで泥と血にまみれた姿を繕い、朋輩の三田村市左衛門の首をさげて織田軍本陣に紛れ込み

「信長公に首の検分を願いたい。
信長はいずれにおわす」
と味方のふりをして叫んだ。

遠藤直経
最期の働きをする遠藤直経

信長のそばに近寄ろうとしたのだが、竹中重矩(久作)が敵と見破って組み付き、これを討ち取った。
(討ち取ったのは竹中家家老の不破矢足とする説もあり)
信長公記によると

 遠藤喜右衛門、此の頸、竹中久作是れを討ちとる。
兼ねて此の首を取るべしと高言あり

信長公記より

と合戦前から遠藤の首級は自分が挙げようと意気込んでいたようだ。

この竹中重矩とは竹中重治(半兵衛)の実弟である。
つまり、竹中兄弟は姉川の合戦でそれぞれ大きな働きをしたことになる。
重矩も兄と同じく、浅井家に属する堀家の食客になっていたので、遠藤の顔を見知っていたようである。

なお、この時久作重矩が信長の馬廻として働いていたのか、安藤守就の麾下に属していたのかは不明だ。

関連記事:信長暗殺 遠藤直経と浅井長政 お市が人生で最も幸せだった7日間

遠藤直経の人望の厚さを物語る逸話

 遠藤直経がいかに人望が厚かったかを物語る逸話がある。
遠藤家家臣の一人に富田才八という者がいた。

主人が討たれたのを知ると
「もはや生きる甲斐なし」
と引き返して壮烈な死を遂げた。

この遠藤主従の最期を聞き、弓削家澄今村氏直らはわざわざ引き返して敵に切り込み戦死した。
ほぼ殉死に近い死に方である。

直経は平生から人望が厚かったため、このように彼の最期を聞いてとって返し、討死する者が多かったという。

来世ちゃん
来世ちゃん

最後までごらんいただきありがとうございました!
当然ですが、勝った側にも負けた側にもそれぞれエピソードがありますね。
そう考えると、彼らも普通の人間だったんだな~と感じます。

来世ちゃん
来世ちゃん

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