【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み

4.5
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
今回は「古文書から読み解くシリーズ」として、
浅井・朝倉連合軍との決戦に燃える織田信長の
決意と意気込みをご紹介します。

当時の時代背景

 元亀元年(4月23日に永禄から元亀と改元)4月下旬。
織田信長は大軍を率いて京を出陣し、越前朝倉家を攻める

山間部の要害を次々と攻め落とし、明日にも越前平野へ進軍しようとしていた。もはや飛ぶ鳥を落とす勢いの織田軍の前に、敵はいないかに見えた。

しかし、妹婿である浅井家当主・浅井長政が突如謀反。信長を討たんとして疋田峠に迫る。

信長は撤退を決断。木下秀吉らを殿軍として残し、命からがら京へと敗走した。

浅井長政肖像画
浅井長政肖像画

この事態に信長は危機感を感じ、南近江に有力家臣である柴田勝家佐久間信盛丹羽長秀森可成木下秀吉らを配置。

5月21日に千草峠を越えて岐阜に帰った。

それからわずか4日後に、これからご紹介する書状が出されている。
それではその書状をご覧いただこう。

織田信長が発給した出陣動員令文書

原文

織田信長朱印状(元亀元年五月廿五日)
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織田信長朱印状(元亀元年五月廿五日)東京大学史料編纂所所蔵写本

書き下し文

 尚以なおもって人数之事、
分在よりも
一廉ひとかど
奔走簡要候、次
鉄炮(砲)之事、
塙九郎左衛門尉(原田直政)丹羽五郎左衛門尉(丹羽長秀)
かたより可申候、別而
馳走専用候、
江州北郡ニ至而
可相働候、来月
廿八日以前、各々岐
阜迄可打寄候、
今度之儀、天下之
為、信長為、
旁以かたがたもって
時候間、人数之事、
不撰老若於出陣
、忠節可為祝
着候、
依働はたらきにより
訟之儀可相叶之
状如件、
 五月廿五日 信長(朱印)
  遠藤新右衛門尉(胤俊)殿
  遠藤新六郎(慶隆)殿

織田信長朱印状(元亀元年五月廿五日)
原文に書き下し文を記してみた
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原文に書き下し文を記してみた

現代語訳

 (この書状には文の途中に追而書おってがきが含まれていて、このまま読むとわけがわからなくなる。実は、A文が本文だとすると、追而書であるB文が途中で入り込んでいるのだ。ここではまず本文から訳し、その後で追而書の内容を訳すこととする)

(本文) 

 近江(滋賀)北郡(浅井郡、坂田軍、伊香郡)に進軍する予定なので、来月の6月28日までに岐阜に集合せよ。
今回のいくさは、天下の為にも信長の為にも重大な時であるから、老若に関わらず多人数で出陣すれば忠節である。
今回の働きによっては、おまえたちの訴えを叶えてやろう。
 5月25日 信長(朱印)
  遠藤
胤俊たねとし殿
  遠藤
慶隆よしたか殿


追而書おってがき


軍勢は分限よりも多く連れてこい。
鉄砲については、塙直政(原田直政)、丹羽長秀から指示があるだろうから、特に尽力せよ。

織田信長朱印状(元亀元年五月廿五日)

補足

 本状は美濃の国人である遠藤慶隆胤俊に出陣を命じた朱印状(の・・・写し)である。

不撰老若於出陣者ろうにゃくにおいてえらばずしゅつじんは“の「」がひらがなの「」に見えると思う。
これは、元々「於」の字を崩して「お」というひらがなができたので、古文書に興味のある方は覚えておくと良いであろう。他にも「以」は崩れて「い」。「加」か崩れて「か」。「利」が崩れて「り」等、学んでいてなかなか面白いぞ。

追而書が合体しているなんてややこしい。別の紙に書けよ( ゚Д゚)
筆の細さから辛うじて判別可能だがw

遠藤慶隆、胤俊とは何者か

 遠藤慶隆は郡上八幡城主。遠藤胤俊は木越城主である。

遠藤氏は美濃国(岐阜県)郡上八幡付近を根城にする豪族で、斎藤家滅亡後に信長に臣従した。しかし、信長が美濃を平定する少し前にこの両者が争うなど、なかなか一族、家中にまとまりがなかったようだ。

遠藤慶隆遠藤胤俊は従兄弟関係であり、慶隆の方が宗家である
(最近の信長の野望では遠藤慶隆が出ているが、能力は残念な感じである。)

文中にある”依働訴訟之儀可相叶之そしょうのぎ、はたらきによりあいかなうべく“=「今回の働きによってはおまえたちの訴えを叶えてやろう」という訴えは、何を訴えていたのかは不明だ。

いざ姉川の合戦へ

 この遠藤隊は、東美濃の諸士を統率する権限を与えられていた森可成の与力として働く。

姉川近辺の図
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姉川近辺の図(国土地理院より)

遠藤慶隆は、従兄弟の遠藤胤俊と共に横山城の南を包囲するという形で、浅井・朝倉軍と6月28日の姉川の戦いに参加している。

しかし、森可成自身は信長と共に北上し、敵の主力部隊と激戦を交えているから、この時だけは遠藤隊は別行動だったのであろう。

合戦後、遠藤氏は信長より感状を賜るという、武士としては最高の名誉を与えられているようだ。

姉川の合戦布陣図
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姉川の合戦布陣図 (国土地理院より)

(姉川の合戦については、後日詳細記事を別に書きますので、今しばらくお待ちください^^)

その後の信長

 姉川の合戦に大勝利を収めた織田信長であるが、そのまま敵の本拠である小谷山へは攻め上らず、大半の軍を国もとに返し、信長自身はそのまま京へと向かった。大勝利とはいえ、兵の消耗が激しかったのであろう。

7月8日。信長は岐阜へと帰るのだが、これを待っていたとばかりに、阿波から三好三人衆が挙兵。野田・福島両砦に要塞を築く

間もなく大坂の石山本願寺も信長との決戦を決断。浅井・朝倉家も軍勢を立て直し、京にほど近い宇佐山を攻めた後、比叡山に立て籠もるなど、信長包囲網は多くの諸大名を巻き込み、畿内は再び動乱の渦へと逆戻りするのであった。

遠藤氏のその後

 この年(1570年)の11月。
宇佐山・堅田での戦において遠藤胤俊森可成織田信治らとともに討死する。

宗家である遠藤慶隆は、その後石山本願寺武田信玄に内通し、密かに裏切りの機会を待っていた。武田信玄お得意の調略である。郡上八幡には本願寺の一向門徒が数多く暮らしている。
法主・本願寺顕如の妻が武田信玄の姉という関係もあり、遠藤氏は信玄にも内通したとみられる。信玄はうまい所ついてきますね。さすがだ( ゚Д゚)

信玄は東美濃の苗木、岩村あたりまで信長の領土を侵食し、さらに三方ヶ原において徳川家康を撃破

しかし、そこで信玄は病死し、武田は兵を引き上げてしまった。

その後遠藤慶隆は、信長に降伏処罰されたのか、人質は処断されたのかなどは不明だ。しかし、その後も佐久間信盛織田信忠の与力として働いていることから見ると、許されたのであろう。

信長死後は、付近の国人、豪族が秀吉に付く中、慶隆は織田信孝についた
立花山にて森長可らに攻められ、苦境に立たされる。

柴田勝家が滅亡したのを聞き、秀吉に降伏。小牧・長久手の合戦では森長可の与力となったが、森長可は討死。遠藤慶隆は多くの配下を失いながらもなんとか逃げ延びた。

秀吉の死後、関ケ原の合戦が行われるが、そこでようやく勝ち馬に乗ることができた。
戦後、郡上八幡初代藩主としてその名を残した。
なお、直系は江戸中期で途絶え、徳川綱吉側室の甥が継承した。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございます。
姉川合戦前後については、詳しい年表記事がありますのでこちらをご参照ください。

来世ちゃん
来世ちゃん

古文書解読に役立つ事典みたいなのもあります。

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