みんな集合!信長が急遽行った京都サミットの理由とは?

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みんな集合!信長が急遽行った京都サミットの理由とは?
らいそくちゃん
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殿中御掟(でんちゅうおんおきて)追加五ヶ条を足利義昭へ送ったのと同じ日、信長は京都で急遽サミットを開くと大々的に触れを出し、参加を呼びかけました。
今回の記事はその時の史料です。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

そこからは名前を指名された人物の人品や、信長が彼らをどのように見ていたかを窺い知ることができます。
また、古文書の学習を人名中心で学びたい方には丁度良い学習材料かもしれません。

現代語訳はページ中央付近です。

この書状を出すまでの時代背景

 永禄11年(1568)織田信長は足利義昭を奉じて六角氏や三好一党を打ち破り、上洛を果たしました。
翌年早々には将軍が突如襲撃された事件を受けて、信長は新たに強固な将軍御座所を造ります。
また、天皇の住む御所の修理・修築にも取り組むなど、信長は相当な軍資金を惜しみなく差し出していました。

関連記事:堺の町を脅迫?柴田勝家・佐久間信盛・森可成らが大金を要求した時の書状

同年夏に信長はなかなか従おうとしない南伊勢の北畠氏を討伐します。
討伐を終えて京都へ凱旋を果たした信長ですが、どうやらこの時将軍義昭となにやら口論があったようで、京都滞在を早々に打ち切って岐阜へと帰ってしまいました。

この時何があったのかを示す史料は少なく、正親町天皇が自筆の女房奉書を認めて信長を慰めていることと、奈良興福寺の住職が「上意トセリアイテ下リ了ト」と記しているのみです。『東山御文庫記録』『多聞院日記』

明けて永禄13年(1570)。
信長はなおも岐阜に居続け、一向に上洛しようとはしませんでした。
京都中は信長と将軍の不和でいろいろな風説が流れ始めます。
朝廷は信長の機嫌を窺おうと、たびたび公家を岐阜へと派遣します。
その中には山科言継の姿もありました。『言継卿記』

岐阜城
岐阜城 ( 自然風の自然風だより 様より『金華山岸壁と登山者達と八幡神社・・・ 』 のお写真を拝借しました。

朝廷側の工作が実り、信長は再び将軍と手を組む道を選択します。
ただし、ある要求を将軍につきつけます。
それが1月23日付けで足利義昭に送った「殿中御掟でんちゅうおんおきての追加五ヶ条」です。

「天下の儀は、何様にも信長に任せ置かれたのだから、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗を成すべきのこと。」
の一文で今日でも様々な議論を呼んでいる有名な文書です。『殿中御掟 追加五ヶ条』

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実はこれと同日付で諸国へ発給されたのが、今回の古文書なのです。
前置きが長くなってしまいましたが、文書の内容をご覧いただきましょう。

信長がサミット招集したときの書状を解読

 ややこしい話ですが、信長が発した文書は「禁中御修理・・・」から始まるものです。
冒頭部分の「就信長上洛」や氏名の羅列部分は、二乗坊宴乗にじょうぼうえんじょうという奈良興福寺一乗院の坊官によって記された日記の記述です。『二条宴乗日記』
この日記の抜粋部分は、永禄13年(1570)2月15日条のものであり、今回ご紹介する古文書は信長の文書と二条宴乗日記が合体した形となっています。

また、信長の花押も印判もないことから、本状ですら写しなのでしょう。

原文

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)all

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写 天理大学付属天理図書館所蔵『二条宴乗日記』同日条

これでは見えにくいと思いましたので、今回は3つに分割して解説します。

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)a
信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)b
信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)c

今回の史料はほとんど人名なので、皆さんが馴染みのあるあの武将もいるかもしれません。
釈文を見る前に、紙に書いて答え合わせをするのも面白いかもしれませんね。

釈文

(a)

就信長上洛可有在京衆中事、
北畠大納言殿、同北伊勢諸侍中、徳川三河守殿、同三河遠江諸侍衆、
姉少路中納言殿、同飛騨国衆、山名殿父子同分国衆、
畠山殿同在□(國?)衆、 遊佐河内守、
三好左京大夫殿、松永山城守、同和州諸侍衆、
同右衛門佐、松浦総五郎、同和泉國衆、
別□□□□(所小三郎?)、同播磨國衆、同孫左衛門、同同名衆、
丹波國衆、一色左京大夫殿、同丹後國衆、

(b)

武田孫犬丸、同若狭国衆、京極殿、同浅井備前、
同尼子、同七佐々木、同木林源五父子、
同江州南諸侍衆、紀伊国衆、
越中神保名代、 能州名代、
甲州名代、 淡州名代、
因州武田名代、備前衆名代、

(c)

池田、伊丹、塩河、有右馬、此外其寄々
衆として可申觸事、


   同觸状案文
禁中御修理、武家御用、其
外為天下弥静謐、来中旬可
参洛候条、各有上洛、御禮被申上
馳走肝要候、不可有□□□(御延引候?)
恐々謹言、


( 日付 正月廿三日? ) 信長

依仁躰、文躰可有上下、

原文に釈文を記してみた

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)a+釈文

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写+釈文a

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)b+釈文

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写+釈文b

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)c+釈文

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写+釈文c

馴染みのある人物名は読めましたか?
古文書は難解なものもありますので、誤読することも珍しくありません。

補足

(a)

1行目の「衆中(しゅうぢゅう)」は、評定衆ひょうじょうしゅうや奉行人を指す言葉です。
「可(べき)・有(ある)・衆(しゅう)・殿(どの)・守(かみ)」という漢字はこの形が頻出しますので、これが基本形だと考えてください。

2行目に見られる”同北伊勢諸侍中”の「諸」のくずしは、ごんべんがにんべんのようにくずれることもある点に注意してください。
つくりの「者」はこの形がよく出るので、そこから判読するのが良いでしょう。
「侍」のくずしは、諸とほぼおなじ偏ですね。
ややこしいことこの上ないですが、この字も旁の部分の「寺」から判読するとよいでしょう。
寺はこの形が基本のくずしです。
“寺”と”守”のくずしはほぼ同じですので、文脈から判断するしかなさそうです。

関連記事:【古文書独学】くずし字を部首で覚えてみよう!「偏」の部

関連記事:【古文書独学】くずし字を部首で覚えてみよう!「旁」の部

国名を示す〇〇州の「州」というくずしですが、これはまだ親切な方で、異体字の「刕」と記されたものもよく出ます。

人名の「〇〇衛門」と「〇〇郎」はこの形が基本です。

(b)

1行目の”同浅井備前”の「備」と「前」は、この形が基本です。
特に「前」の字は原形をとどめていないので、理屈抜きで覚えた方がよさそうです。

2行目の木林源五の「五」のくずし。
現在では真っすぐに「五」と書くかと思いますが、古文書ではなぜか縦線が斜めに書かれることが多いです。
何やらアーティスティック感がありますね(笑)

5行目の淡州の「淡」の字は難解ですね。
寿の字のように見えなくもありません。
次の字に州がつく場合は、だいたい国名が入ると考えてください。
なお、淡州は「たんしゅう」と読み、淡路国(あわじのくに)のことを、唐風(中国風)にしたものです。
現在の兵庫県淡路島ですね。

(c)

1行目の”有右馬”とは、有馬のいわば当て字です。
「有」のくずしはこれが基本ですので、理屈抜きで脳に焼き付けるしかありません。
「馬」のくずしですが、将棋をされたことがある方ならぴんとくるかもしれません。
角行の駒を裏返すと、下の図2列目左から2番目の字のような”る”に近いくずしになります。
ちなみに桂馬の裏は成り桂なので違います。

将棋の駒の表と裏
角行は龍馬と書いている。

3行目、4行目の「触」のくずしは、旧字の「觸」です。
古文書ではこのような旧字体もよく登場します。

4行目の「御」のくずし。
「御修理」の御は原型をとどめていますが、「武家御用」の御は”m”のようになってわけがわかりません。
実は、むしろ後者の方がよく出るので、この形で覚えた方がよさそうです。

以下の「其(その)・外(ほか)・為(ため)・来(きたる)・被(られ)・申(もうし)・走(そう)・肝要(かんよう)・恐々謹言(きょうきょうきんげん)・依(より)・躰(てい)」の字は古文書では非常によく出るものなのですが、今回の史料は材料として相応しくはないので、別の機会に解説させていただきます。

書き下し文

(a)

 信長上洛に就きて、在京有るべき衆中の事。
北畠大納言殿(北畠具教)、同北伊勢諸侍中、徳川三河守殿(徳川家康)、同三河遠江諸侍衆、姉小路中納言殿(姉小路良頼)、同飛騨国衆、山名殿父子(山名祐豊)同分国衆、畠山殿(畠山昭高)同在□(国?)衆、 遊佐河内守(遊佐信教)、三好左京大夫殿(三好義継)、松永山城守(松永久秀)、同和州諸侍衆、同右衛門佐(松永久通)、松浦総五郎(孫八郎の誤記の可能性も)、同和泉国衆、別□□□□(所小三郎?=だとすると別所長治)、同播磨国衆、同孫左衛門(
※1別所重棟?)、同同名衆、丹波国衆、一色左京大夫殿(一色義道)、同丹後国衆、

(b)

武田孫犬丸(武田元明)、同若狭国衆、京極殿(京極高吉)、同浅井備前(浅井長政)、同尼子、同七佐々木(※1不明)、同木林源五父子、同江州南諸侍衆、紀伊国衆、越中神保(神保長職)名代、能州名代、甲州名代、淡州名代、因州武田名代、備前衆名代、

(c)

池田(池田勝正)、伊丹(伊丹親興もしくは忠親)、塩河(塩川長満)、有馬(有馬則頼)、この他その寄々の衆として申し触れるべきの事。

 同じく触状の案文
禁中御修理、武家御用、その他天下いよいよ静謐の為に、来たる中旬に参洛すべく候の条、おのおのも上洛有りて、御礼申し上げられ、馳走肝要に候。
□□□(御延引?)有るべからず候。
恐々謹言。


( 日付 正月二十三日? ) 信長

仁体にんていに依り、文体に上下あるべし。

※1 同七佐々木は南近江の六角承禎父子かと思っておりましたが、そうではなく、近江高島郡の佐々木七頭の可能性があるそうです。
※1 別所重棟は孫右衛門のため、別人の可能性も捨てきれない。

原文に書き下し文を記してみた

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)a+書き下し文

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写+書き下し文a2

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)b+書き下し文

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写+書き下し文b2

信長が主宰したサミット(永禄13年1月~2月)c+書き下し文

永禄十三年正月二十三日付け織田信長書状写+書き下し文c2

現代語訳

(a)

 信長が上洛するにつき、共に京の都で職務を果たす奉行人は、
北畠具教殿、同じく北伊勢の諸侍達、徳川家康殿、同じく三河遠江の諸侍衆、姉小路良頼殿、同じく飛騨の国衆、山名祐豊殿父子、同じく分国の衆、畠山昭高殿、同じく在国の衆、遊佐信教、三好義継殿、松永久秀、同じく和泉国の諸侍衆、同じく松永久通、松浦総五郎(孫八郎の誤記の可能性も)、同じく和泉国の国衆、別所長治(?)、同じく播磨の国衆、同じく別所重棟(?)、同じく同名衆、丹波の国衆、一色義道殿、同じく丹後の国衆、

(b)

武田元明、同じく若狭の国衆、京極高吉殿、同じく浅井長政、同じく尼子、同じく七佐々木、同じく木林源五父子、同じく南近江の諸侍衆、紀伊の国衆、越中の神保長職名代、能登畠山家の名代、甲斐武田家の名代、淡路国の名代、因幡武田家の名代、備前国の名代、

(c)

池田勝正、伊丹忠親(もしくは親興)、塩川長満、有馬則頼、このほかの者でも、最寄りの衆にも申し伝えよ。

同じく触状の案文として
御所の修理と将軍足利義昭公の用事、その他天下が静謐に治まるようにいろいろと話し合いたいので、信長は来月中旬に参洛するゆえ、おのおの方も上洛して禁裏様(朝廷)や公方様(将軍)へ御礼を申し上げて、奔走することが肝要である。
決して遅参してはならない。

   敬具


(1570年)1月23日 信長
官職や功績、年齢によって文体に上下の区別をつけた。

この書状の面白いところ

 実は信長が殿中御掟でんちゅうおんおきて追加五ヶ条と、今回の緊急サミットを開く旨の書状を発した10日前に、将軍足利義昭は山陰地方を支配する吉川元春に御内書ごないしょを発給しています。

関連記事:【御内書乱発】将軍・足利義昭が吉川元春へ宛てた書状から信長との関係を考える

内容は義昭が敵対している阿波の三好勢を倒すために、毛利は早々と九州の大友と和睦して手を貸せ。というものです。
しかし、これは信長の知らぬところで義昭が勝手に行ったものと見えます。

この事実はすぐに信長の知るところとなり、「殿中御掟」の追加五ヶ条に将軍の権力を縛る規定が盛り込まれたものと考えられます。

本書状の最後の文には
「官職や功績、年齢によって文体に上下の区別をつけた。」
とあるように、伊勢国司の北畠氏(大納言殿)や飛騨の姉小路氏(中納言殿)等には敬称を用いています。
近江国では京極氏(京極殿)のみが敬称を用いられ、信長の妹婿である浅井長政(同浅井備前)は呼び捨て。
一方で三河の徳川家康(徳川三河守殿)には敬称を使っていて興味深いですね。

また、京都から遠く離れた能登国、甲斐国、因幡国、備前国は名代でよいとしているあたりも面白いです。
近国の淡路国に関しては信長なりの配慮でしょうか。

信長は2月30日に上洛し、3月16日には御所の修理を視察しています。
北畠具教以下が上洛したのかどうか、残念ながら直接の史料は遺されていません。

しかし2月3日には尾張の水野信元(下野守)が上洛しており、3月17日には、将軍義昭が徳川家康の馬廻の行列を見たと公家の日記には記されています。
また「但州小田垣兄弟・備前宇喜多・和州衆・河州衆」らが続々と上洛している様子も記されているので、信長の触状の趣旨は概ね達成されたのではないかと考えます。『言継卿記』

そこで一体何が話し合われたのか。
これは私の空想に過ぎませんが、度重なる軍資金の供出で信長が苦しんでいた様子が随所に見られることから、各大名・国衆たちにより一層将軍を盛り立て、金と兵役の負担を迫ったのではないかと考えます。

本記事の触状で記された人物が果たして上洛したのかどうか。
私が調べた限りではございますが、以下に一人ずつ書き出してみました。

北畠具教(きたばたけとものり)→不明。
同年4月14日の将軍邸落成祝の能会には顔を出していることから、このときも上洛したのではないかと考えられます。
先年に信長と講和し、信長次男を養嗣子としたことからも、拒否したとは考え難いです。『信長公記』など

徳川家康→上洛。『言継卿記』

姉小路良頼→不明。
同年4月14日の将軍邸落成祝の能会には、子の自綱(頼綱)が名代として参加していることから、この時も息子が名代として参加していた可能性が高いと思われます。
良頼はこの時期より病がちとなり、2年後に病没しています。『信長公記』『御湯殿の上の日記』など

山名祐豊父子(やまなすけとよ)→従わず。
同年4月19日付けで信長が但馬国の銀山や城の横領を責める旨の書状あり。『今井宗久茶湯日記書抜』
しかし、その後外交関係が改善し、一時は信長の影響下に入りました。
なお、祐豊の子は誰を指すのか不明です。

畠山昭高→恐らく参加。
同年4月14日の将軍邸落成祝の能会を参観していることから、この時も上洛したものと考えらえます。『信長公記』
同年夏に起きた野田・福島の戦いの際には、信長・義昭陣営としての活躍も見られます。『言継卿記』『信長公記』『細川家記』など

関連記事:信長包囲網で信長ピンチ!信長は畿内大名の心を繋ぎとめようと必死だった?

遊佐信教(ゆさのぶのり)→不明ですが、主君の畠山昭高が参加しているのならば、供奉していたものと考えてよいでしょう。

三好義継→畠山昭高や松永久秀とともに、同年4月14日の将軍邸落成祝の能会を参観していることから、この時も上洛したものと考えらえます。『言継卿記』『信長公記』など

松永久秀→畠山昭高や三好義継とともに、同年4月14日の将軍邸落成祝の能会を参観していることから、この時も上洛したものと考えらえます。『言継卿記』『信長公記』など
しかしながら『織田信長家臣人名辞典』によると、この当時の大和の過半は敵であり、どれほどの大和衆が久秀に随行したのかと疑問を投げかけています。

松永久通→参加。
同年5月1日付けの渡辺重が法隆寺へ宛てた書状によると、久通は禁中の修理に精を出している様子が記されているようです。『法隆寺文書』

松浦総五郎→不明です。
松浦氏は和泉国の領主ですが、この当時の当主が松浦光(孫八郎)の可能性が高いようです。
総五郎なる人物については実在が不明のため、孫八郎の誤記の可能性もあります。

私は松浦氏に関しての知識が乏しいため、下記のホームページを参照させていただきました。
かなり詳しく丁寧に書かれています。

参照元:松浦光(孫八郎)―和泉国の戦国大名 (志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』様のホームページより)

別所長治重棟(しげむね)→推定ではありますが上洛しませんでした。
しかし、別所氏は義昭将軍就任後、名代として重棟を派遣して武功を立てているようです。
当時の別所氏は備前国の浦上氏と抗争中で、別所家内部にも反信長・義昭派の別所義親もいたことから、とても上洛できる余裕はなかったでしょう。『別所長治記』
名代として家老クラスの使者を派遣していたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

なお、別所長治については字が掠れているため推測で書きました。
重棟の仮名けみょう孫右衛門まごえもんなのですが、文書には孫左衛門と記されているため別人の可能性もあります。
単に宴乗坊が誤記したのかもしれません。

一色義道→不明。
同時期に一色七郎の謀叛があり、信長に注進する使者を派遣して黄金十枚を進上しています。『新編会津風土記』
同年4月14日の将軍邸落成祝の能会には参加しています。『信長公記』

なお、一色左京大夫さきょうのたいぶは子の満信も名乗っていますが、彼が家督を継いだのが天正7年(1579)なので、義道を指していると考えて良いでしょう。

武田元明→不明。
定説では永禄11年(1568)に朝倉義景が庇護するという名目で、越前一乗谷へ護送されたとあります。『若狭国志』など
しかし、同年4月16日の木下秀吉ら重臣4名が若狭武田家臣36名に対し、忠節次第所領を安堵するので、元明に忠節を励む旨の連署状を送っているため、この時期の武田元明の立ち位置ははっきりしません。『四月十六日付豊臣秀吉等連署状』
元明の生年は定かではありませんが、恐らくこの時期は幼年だったと考えられます。
若狭はのちに丹羽長秀の支配下となりました。

京極高吉→恐らく参加。
京極氏は一貫して足利義昭を補佐する立場に徹していたことや、同年に子の小法師を岐阜へ人質に差し出していることを推察すると、断る理由はなかったでしょう。『京極家譜』

浅井長政→不明。
断る理由はなかったとは思いますが、その後の4月14日の将軍邸落成祝に行われた能会にも、長政が参列したとの記述は見当たりません。『信長公記』
名代だけ派遣して触らぬ体で馳走していたとも考えられます。
信長はこの直後の4月20日に京を出陣し、25日に越前へ攻め込みます。
浅井長政が信長と敵対したのはこの直後のことでした。『信長公記』など

尼子→不明。
意外にも山陰地方の尼子氏は浅井亮政の代から交流があり、何らかの理由で尼子一族が浅井長政の庇護を受けていたのかもしれませんが、詳細は不明です。『閏三月二十九日付尼子晴久書状(浅井亮政宛)』

六角承禎(ろっかくじょうてい)・六角義弼(ろっかくよしすけ)→恐らく不参加。
2年前に織田信長に敗れ、所領と家臣団の大半を失った六角氏が参加したとは考え難く、史料にも見当たりません。
また、「同七佐々木」と名家であるにも関わらず呼び捨てにしているので、信長も来ることは期待していなかったのかもしれません。
※その後コメントをいただき、七佐々木は六角父子のことではなく、高島郡の領主・佐々木七頭ではないかとのご指摘を受けました。
この呼び捨てた書き方では、六角氏ではないと見た方が良いのかもしれません。

木林源五父子→不明。
近江の国衆だと思うのですが詳細は分かりません。

池田勝正→不明ですが参加したのではないかと。
織田信長・足利義昭が京へ進撃した際は、池田氏は伊丹氏とともに敵対するも、その後許されて摂津三守護の一家となりました。『細川両家記』
永禄12年(1569)正月の六条本圀寺の変の際は、真っ先に京へ駆けつけて三好勢と戦っています。『細川両家記・信長公記・上杉家文書・多聞院日記・言継卿記』
同年8月から木下秀吉らとともに但馬や播磨の諸城の攻略に従軍しています。『細川両家記・益田家什書』

伊丹親興忠親→不明ですが参加したのではないかと。
織田信長・足利義昭が京へ進撃した際は、伊丹氏は池田氏とともに敵対するも、その後許されて摂津三守護の一家となりました。『細川両家記』
永禄12年(1569)正月の六条本圀寺の変の際は、池田氏とともに阿波三好勢と戦いました。『重修譜・言継卿記・多聞院日記・信長公記』
どうやらこの時期、親興はすでに隠居していたようで、伊丹家の当主は忠親である可能性が高いです。

塩川(塩河)長満→不明。
永禄11年(1568)の足利義昭就任以降は幕臣の一勢力として行動している様子が窺えます。
恐らく参加したのではないかと考えます。『細川両家記』
長満の娘はのちに織田信忠へ嫁いでいます。(出典不明)

有馬則頼→不明。

越中神保氏以下の名代については不明です。

越前の朝倉が入っていない理由

 これまでの通説では「信長は越前の朝倉義景へも触状を出したが、無視されたので敵とみなして越前へ攻め込んだ」といった論調でした。『織田信長総合辞典』等多数
私が子どもの頃読んだ本にも全てこのようなことが書かれていたと記憶しています。

しかし、この文書のどこに朝倉義景が入っていたでしょうか。

朝倉義景は当初から信長の政治構想の枠から外れていた。
つまり、この段階から越前討伐へ向けて動き始めていたと考える方が自然なのかもしれません。

では、以前の学者先生たちは、何を根拠に朝倉義景が触状の内容を無視したと考えていたのでしょうか。

その根拠となる史料が、越前側の視点から描かれた『朝倉記』『朝倉始末記』です。
この両書を私はまだ読んだことがありませんので、意見を述べる立場ではありませんが、昔の学者先生たちはこの文書を根拠として主張していたようですね。

つまり、これも最近の学者先生たちによって、見直しが進められている部分だということです。

関連記事:越前合戦~姉川合戦 信長打倒に燃える朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読

二条宴乗日記について

 今回の引用元とした『二条宴乗日記(にじょうえんじょうにっき)』について詳しく書きます。
この文書は奈良興福寺一乗院門跡坊官の寺主として活躍した二条宴乗の日記です。
彼は興福寺三網職として丹波寺主を称し、法眼に叙せられ会所目代に任じられました。
生没年は不明ですが、少なくとも天正14年(1586)までは生存しています。

日記の内容は寺院での生活が多いものの、織田信長・足利義昭の連立政権樹立から破綻するまでの期間にあたるので、仏教者として信長の動静や石山本願寺の動向、そのほか畿内小大名の去就にも触れた興味深い史料です。

全四巻が存在し、永禄12年(1569)・永禄13年~元亀元年(1570)・元亀2年(1571)三巻は天理図書館が所蔵(保井芳太郎氏旧蔵)。
天正2年(1574)8月まで記された一巻は興福寺が所蔵しています。

まとめ

 ご覧いただきありがとうございました。
信長の書状(写し)と僧侶の日記が合体した文書もなかなか珍しいですね。
信長はどのような政治体制にしようと考えていたのか。
この史料も学者先生たちによって、さまざまな議論を呼んでいます。

私もたくさんの史料が読めるように、もっと勉強しなくては(^^;)

参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2016)『織田信長の古文書』柏書房
山科言継(1915)『言継卿記,第四』国書刊行会
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
渡邊大門(2019)『戦国古文書入門』東京堂出版
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
など

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