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こんばんはー!
今日は「信長が河内高屋城主の畠山昭高に出した書状」を解読したいと思います。
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古文書の基本がまだわからない方にもわかりやすいように、当時の時代背景と共に、書き下し文、現代語訳も載せて説明します。
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古文書解読の事典はこちらです(内部リンク)
- 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「あ」~「こ」
- 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「さ」~「と」
- 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「な」~「ほ」
- 古文書解読の基本的な事 よく出る単語編 五十音順「ま」~「ん」
まず最初に原文と書き出し文、現代語訳をご覧いただこう。
織田信長が河内高屋城主・畠山昭高に出した書状
原文
![織田信長が河内高屋城主・畠山昭高に出した書状(原文)](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/nobunaga_genki_1_5_4_a.jpg)
元亀元年(1570)五月四日付織田信長書状 (名古屋市博物館所蔵)
釈文
其表雑説之儀、未休之
元亀元年(1570)五月四日付織田信長書状 (名古屋市博物館所蔵)
由候、治定之所不実候歟、
紀州 同根来寺馳走
申之旨可然候、如申旧候、
於信長毛頭無疎意候、
御手前之儀、堅固ニ可
被仰付事簡要候、
恐々謹言、
五月四日 信長(花押)
畠山左衛門督殿
進覧之候
![原文に釈文を記してみた](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/nobunaga_genki_1_5_4_b.jpg)
原文に釈文を記してみた
書き下し文
其の表の雑説の儀、未だ休み之
由候。治定の所実らず候歟。
紀州 同根来寺馳走
申しの旨然るべく候。旧から申し如く候。
信長毛頭疎意無き於候。
御手前の儀、堅固に
仰せ付けられるべく事簡(肝)要候。
恐々謹言。
五月四日 信長(花押)
畠山左衛門督(昭高)殿
進覧之候
現代語訳
畿内でも風聞さまざまであるが、今は小康状態とのこと。
天下はいまだ治まらずということか(?)
しかし、紀伊の国(和歌山)の根来寺は我々に協力を約束しているので安心せよ。
信長はそなたの忠義を決して粗略には扱わぬ。
そなたは城の守備を固くすることが肝要だ。
5月4日。 信長
畠山昭高殿
「元亀元年五月四日付織田信長書状」の解読のポイント・解説・補足
先の越前出兵の敗戦から畿内における信長の求心力が低下し、信長に仕えて間もない畿内の領主たちは、いつだれが謀反をおこしてもおかしくない状況であった。
この書状は、信長が河内守護の畠山氏の心を繋ぎとめようとする焦りが見て取れる。
2行目の「治定の所実らず」は天下が未だ治まらず、安定しないという意味。
同じく2行目の「歟」は、現在でいう”~か(?)”という感じ。
3行目の「紀州 同根来寺」とは、和歌山の根来寺を根拠地にする傭兵集団・根来衆のこと。
「雑賀孫市」というエースがいる雑賀衆と同じく、鉄砲戦術が得意。
傭兵と侮ることなかれ。
永禄5年(1562)のいくさでは、根来衆の活躍で三好長慶の実弟・三好実休(義賢)を敗死させているのだ。=久米田合戦
3~4行目の「馳走申」とは協力してくれているという意味
5行目の「於信長毛頭無疎意候」は、「決して疎遠ではない。僕たちはズッ友だよ!」って意味。
8行目の「恐々謹言」はいわば文章の決まり文句みたいなもので、相手に対して最上級の敬意をあらわす。
同じく文章の最後によく用いられる決まり文句の「仍状件如」より丁寧。
当時の時代背景
三好三人衆などの摂津、河内、和泉、大和など、組織的に敵対する勢力をあらかた平らげた信長は、将軍・足利義昭のスポンサー兼超口うるさいマネージャーとして政権運営をサポートする。
信長に降った多くの畿内の領主たちは、本領安堵を許された。
河内守護職である畠山昭高もその一人である。
※信長の野望にもほぼ毎回出るが、能力値は残念な感じである
元亀元年(1570)4月
信長は大軍を率いて京を出陣。
若狭征伐と見せかけて、越前朝倉義景を攻める。
しかし、ここで妹婿である浅井長政が謀反。
信長の腹背を突く形で攻めかかり、織田軍は総崩れ。
信長は命からがら京へと逃げ帰るという有り様であった。
近江甲賀の六角氏も蜂起し、さらに阿波へと逃亡していた三好勢力も畿内に上陸せんと動いており、息をひそめていた反信長勢力が一気に勢いづいた。
この書状はまさにそうした状況下でのものなのだ。
この書状から見えるもの
河内高屋城主の畠山氏は河内守護職の家柄であったが、三好家に敗れて紀伊(和歌山)に逃れていた。
再起を図っていた畠山氏は、信長が足利義昭を擁して上洛することを聞き、これを支援した。
その功があって旧領の河内高屋城を含む南河内を取り戻したのだが、北河内は三好義継に安堵されてしまった。
そのような経緯があって信長は、畠山昭高が心変わりするかもしれないと恐れたのである。
「畠山昭高を疎かにするつもりはない。根来衆が味方するから安心せよ」とすることで、心を繋ぎとめようとしたのだ。
信長自身はこの時、河内へ兵を出せる余裕はなく、浅井長政討伐の準備を進めていた。
この書状から約2か月後に姉川の合戦で浅井長政を撃破している。
しかし、阿波(徳島)から三好勢が堺に進出しており、より畠山昭高の役割は高まった。
8月から9月にかけて野田・福島の戦いがあり、石山本願寺が挙兵したことで信長は窮地に陥る。
信長は桶狭間以来のピンチを迎えるのであった。
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今回もご覧いただきありがとうございます。
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この時期に関連する織田信長の年表はこちら
6.血戦 姉川の戦い(1570.1.~1570.7.)
7.信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
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古文書解読に役立つ事典みたいなのもあります。