こんばんはー!
今日は信長が岐阜県加納に出した制札から
古文書を解読し、楽市・楽座について
分かりやすくご説明いたします。
まず最初に原文と書き出し文、現代語訳をご覧いただこう。
織田信長が稲葉山城下・加納に出した制札
原文
織田信長加納に掲げた制札(永禄十一年九月) 円徳寺所蔵文書
釈文
定 加納
一、当市場越居之輩、分国往還煩有へ
からす、并借銭 借米 さかり銭 敷地年貢
門なミ諸役免許せしめ訖、譜代相伝の
者たりといふとも、違乱すへからさる事、
一、楽市 楽座之上、諸商売すへき事、
一、をしかひ 狼藉 喧嘩 口論 使入へからす、并
宿をとり非分かくへからさる事、織田信長加納に掲げた制札(永禄十一年九月) 円徳寺所蔵文書
右条々、於違背之族者、可加成敗者也、仍下知如件、
永禄十一年九月 日 (信長花押)
原文に釈文を記してみた
現代語訳
1.加納市場に移住する者は、(織田)領内の往来が自由である。借銭、借米、さかり銭(=売買の懸銭)、年貢、門ごとの諸税を免除する。先祖から受け継いだ土地であっても、違反してはならない。
2.楽市、楽座であることを承知して商売すること。
3.押買、狼藉、喧嘩、口論、不法に使者を市場に入れること、および宿への言いがかりは禁止。
上記に違反した者は、裁判になったり処罰されることとなる。よってくだんのごとし。
1567年9月 (信長花押)
「永禄十一年九月加納市場制札」の解読のポイント・解説・補足
「加納市場」とは、当時の美濃の国で割と大きめな商業市場だったのであろう。今日にも岐阜駅のすぐ近くに加納という地名が存在する。中山道沿いの宿場町なので、当時から規模が大きく、文面から「宿」があるのもうなずける。
一般の民衆に向けての制札なので、ひらがなが多め
一条目の「越居」=もといたところから別のところに新たに移ること。
一条目の「分国」は領内ということ。
一条目の「訖」とは「終わる」に完了の助動詞の「ぬ」が合体。「おわりぬ」=終わった、終わってしまった、または打消しの「ぬ」に用いられる。
三条目の「をしかひ」=押買のこと。
三条目の「可加成敗者也」は、書き下し文にすると、”成敗を加えるべくものなり“みたいな感じ。
後ろから2行目の最後の文、「仍下知如件」は「仍如件」の親戚で、目下の者(民衆)に発せられる、いわば当時の決まり文句みたいな感じ。
当時の時代背景
永禄3年(1560)から永禄11年(1567)にかけて7年もの間、織田家と斎藤家との間ではいくさが続いていた。長引く戦乱や織田信長がついに稲葉山城を攻めたことによって、加納の住民たちは皆逃げていたのであろう。城下を裸城にするために、このあたりにも放火が行われていたのではないかと思われる。
稲葉山城を奪い、長きにわたる斎藤家とのいくさに終止符を打った信長は、なんとかこの加納市場を復興させようと思案した。
それがこの制札である。
廃墟と化した町に再び人を呼び込み、住人の利益を図って集住を促したのである。
永禄3年(1560)から始まる信長の美濃攻略時代
楽市・楽座とは
ここに書かれている興味深い内容は、やはり二条目の「楽市・楽座」であろう。
楽市・楽座とは簡単にいうと、上納金さえ払えば誰でも素人でも自由に商売ができるし、好きなものをいくら売っても構わないという政策だ。
これまでの室町時代の商業とは 「座」とは
これまで商売人たちは、横のつながりをもって「座」というものを作り、「これ以上値段を下げないでおきましょうね~」といったような談合をしていた。座の人たちが大名家に上納金を納入し、大名はそれを受けることによって、商業政策のことは深く考えず、全て座の商人たちに丸投げし、「持ちつ持たれつ」の関係を長年続けてきたのだ。
堺を支配する三好家を想像したらわかりやすいだろうか。
楽市・楽座が織田信長によって少しずつ浸透
戦国時代末期。「座」というものに疑問を持ち、新しい経済政策を導入した大名が現れた。
一人目は南近江の「六角定頼」。二人目は駿河の「今川義元」である。
しかし、この二人は書状内では「楽市・楽座」の文面はあるものの、具体的な制札については確認されていない。
若き織田信長は、この二人の経済政策に目をつけ、尾張統一時代から局所的にではあるが、楽市・楽座を実施していたのだ。
今回の制札では、加納市場における座の特権を排除して、だれでも自由に商売が出来るようにすることによって、住民を呼び込んだわけだ。
一方で不利益な点も
三ヶ条の中の一条目。加納市場への移住者に対する借銭、借米等の免除を謳っているが、加納市場は元々裕福な人々が多く暮らす土地。それゆえ、債務者よりも債権者の方が多かったと思われる。借りてる人よりも貸してる人の方が多いということだ。
債権者の方が多い既存の住人にとっては、自身の収益が奪われてしまう。にも関わらず信長は敢えてこの条項を盛り込んだ。
・・・なぜだろうか?
理由は、ほとんど廃墟と化した土地だったからであろう。債権者からの反感を買うよりもまず、人を呼び込まないといけないほどに荒廃していたからに違いない。
実はこの翌年、加納市場に対して信長は再び制札を出している。
そこに書かれているのは、逆に都市住民の債権を保護する内容が書き加えられているのだ。恐らくこの1年でだいぶ街の復興が進み、住民が定着してきたのであろう。
織田信長の楽市・楽座政策はまだ未完成
このように、信長時代の「楽市・楽座令」というのは、都市建設の為、あるいは都市復興のために一時的に実施した可能性が高い。無論、堺や草津、大津などの大都市は、既得権益の打破の為にも信長は楽市を続行したとは思う。
それ以外の城下町には秩序の崩壊を防ぎ、裕福な民、それ以外の民のバランスを重視した、安定と安寧を図ったのではあるまいか。
今回もご覧いただきありがとうございます。
この時期に関連する織田信長の年表はこちら
古文書解読に役立つ事典みたいなのもあります。