今回は天主が完成して間もない安土城下で、法華宗と浄土宗が争った安土宗論を、前回よりより深く考察します。
信長が岐阜の織田信忠に、お金の送金を依頼した理由は何か?
また、その使者として岐阜へ赴いた『十等分の花婿』は誰か?
に焦点を当てています。
この書状の解読そのものと、安土宗論の顛末については前回の記事をご参照ください。
この書状は安土宗論に関係がある
天正7年(1579)5月27日。
法華宗と浄土宗が公の場で討論会を行った結果、浄土宗側が勝利しました。
そこで急ぎ現金が必要になったのか、信長は嫡男の織田信忠に安土への送金を求めたのが今回の書状の概要です。
天正7年付織田信忠宛消息+書き下し文
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
現代語に訳しますと
そなたの城(つまり岐阜城)の蔵に1万6000貫、その他隠れ里よりの公用俵米がある。
それらは除き、6000貫の内の万疋(100貫文?)をこちらに送り届けよ。
理由はいろいろあるが、取り立てて申すならば、安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論で、何かと目障りな法華宗側が負けた。
詳しいいきさつについては婿殿が述べるだろうから、彼の口から聞いてくれ。
織田信忠殿 のぶ
といった内容です。
当時のお金の価値
ここで疑問に浮かぶのが、なぜ信長は急ぎ現金が必要になったのかです。
この当時、信長は安土に住んでいましたが、家督を織田信忠に譲っていました。
さらに、岐阜城と尾張・美濃の大部分の軍事指揮権も与え、織田家の権力の移譲を推し進めている時期でした。
「其の土蔵に一万六千貫、其の他かくれさとよりの公用たわらにこれ有るべく候。」
(そなたの城の蔵に1万6000貫、その他隠れ里よりの公用俵米がある。)
本文冒頭にこの一文があります。
これは非常に興味深い点です。
つまり、岐阜城に備蓄しているお金は1万6000貫あり、それに加えて隠れ里から徴収した俵米があるということでしょう。
1万6000貫を現在の価値になおすと、
1貫文が現代の価値で約1万1520円~1万2000円くらいだと考えると、1億9200万円あたりになるでしょうか。
ちなみに、朝廷への御所修理費用で織田信秀が献金したのが4000貫文。
織田信長が永禄12(1569)年に、堺の町に対して矢銭を要求したのが2万貫です。
当時の信長の懐事情が少し見える気がして面白いですね。
関連記事:堺の町を脅迫?柴田勝家・佐久間信盛・森可成らが大金を要求した時の書状
次の文に
「かの物は除き、六千貫の内を万疋此の者に越こさるべく候。」
(それらは除き、6000貫の内の万疋をこちらに送り届けよ。)
とあります。
「疋(ひき)」という聞きなれない単位は何でしょうか。
恐縮ですが、私が個人的に書状などでよく出ると思う古語索引ページから引用しますと
疋・・・ひき、ひつ、き
(意味)中世日本のお金の単位の一つ。
100疋=1貫文とする見解が一般的。
古くは10文を指し、江戸時代には25文を指した。
しかし、『徒然草』には1疋=30文とあるので、本当に地域や時代によってばらばらのようだ。
単に動物の1匹2匹の意味で疋が用いられる場合もある。
ここでは私が参考にした小和田哲男先生の1疋=10文で話を進めます。
すると、10疋で100文、100疋で1貫文、1000疋で10貫文、1万疋で100貫文となりますね。
つまり、信長は信忠に100貫文を送金するように求めたことになります。
100貫文は現在の円相場で約120万円です。
織田信忠に百貫文の送金を依頼した目的とは?
では、信長は100貫文を何に使用するつもりだったのでしょうか。
この時代、最も金を多く使うのはやはり軍事行動でしょう。
この書状の天正7年(1579)の時点では、羽柴秀吉は中国地方を攻めています。
柴田勝家は北陸方面を攻めています。
明智光秀は丹波国の氷上城、八上城を攻略し、次の目標を黒井城に定めている時期でした。
また、昨年10月から謀反を起こした荒木村重を攻めるために、摂津にも出陣していて、この時期は織田家の大部分の武将は各地の戦地にいたでしょう。
しかし、これらの予算は100貫文では到底賄いきれません。
いくさとは別の観点から見る必要がありそうです。
この書状の後半部分に
「就中浄土宗・法華宗宗論、かのいたずら者が負け候」
(理由はいろいろあるが、取り立てて申すならば、安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論で、何かと目障りな法華宗側が負けた。)
とあります。
これは安土宗論に関わることで、急ぎ金が必要になったのでしょうか。
ここで信長信者のバイブル(基本経典)である『信長公記』を確認すると面白い記述がありました。
安土宗論後の出来事を掻い摘んで挙げると
波多野成敗 丹波国波多野兄弟張付の事&日向守面目 赤井悪右衛門退散の事より抜粋
去程 明智光秀が丹波八上城落城。波多野三兄弟を召し捕らえる。
6月4日 波多野三兄弟が安土に送致され、処刑される。
6月13日 丹後の松田摂津守が菓子二つを信長に進上。
6月18日 中将信忠卿が安土に移り、見舞いとして御成り。
6月20日 伊丹表に在陣の滝川一益、蜂屋頼隆、武藤舜秀、丹羽長秀、福富秀勝の5将に、青山与三を使者として端鷹三連と小男鷹二羽を与える。
6月22日 羽柴秀吉与力に仰せつけられていた竹中半兵衛(重治)が播磨の陣中で病死。名代として信長馬廻として励んでいた舎弟の竹中久作が播州へ出陣。
6月24日 先年、丹羽長秀に与えていた周光茶碗を召し上げ、かわりの品として鉋切(かんなきり)という業物の刀剣を与える。
7月3日 武藤宗右衛門(舜秀)伊丹の陣中にて没する。
7月6~7日 二日間に渡って安土城下で相撲大会を開催。
7月16日 徳川家康からの使者として酒井左衛門尉(忠次)と奥平久八郎(信昌)が安土に参上し、信長に馬を進上。
7月18日 出羽の大宝寺義氏からの使者が駿馬を5頭並べて参着し、鷹11羽を進上。その中には白鷹1羽もあった。
7月19日 中将信忠卿に命じ、津田與八(与八)、前田玄以、赤座七郎右衛門をして井戸才介を謀殺。
同日、明智光秀が丹後にも出陣。敵大将の宇津頼重が撤退するところを追撃し、これを多数討ち取り、討ち取った首は安土へ送られる。明智勢は余勢を駆って鬼ガ城の近辺を放火し、周囲に付城を築いて兵を入れ置く。
7月25日 奥州の遠野孫二郎という者から白鷹を進上される。この鷹の容姿があまりに美しかったので、信長のお気に入りとなった。
同日、出羽千福の前田薩摩も信長に面会して鷹を献上する。
7月26日 石田主計と前田薩摩の両名を召し寄せ、堀久太郎(秀政)邸で饗応の宴を行う。この時、津軽の南部宮内少輔もいた。その後、信長は安土の天主にも案内し、客を驚嘆させる。信長は、遠野孫次郎に返礼の品として
・上等で全て違う色の御服10着(織田木瓜の家紋付き)裏着もまた10色分
・白熊2付
・虎皮2枚
を与え、使者の石田主計にまで御服5着と、路銀として黄金を与える。
8月2日 以前、法華宗と浄土宗が争った件で、
・銀子50枚を貞安長老へ
・銀子30枚を浄厳院長老へ
・銀子10枚を日野秀長老へ
・銀子10枚を関東の霊誉長老へ
これらを褒美として与える。
とあります。
この中で気になるのは出費の面です。
特に7月6~7日の2日間に渡って安土城下で行われた相撲大会の開催。
7月26日の奥州からの使者、遠野孫二郎への饗応。
そして、8月2日の安土宗論の御褒美として浄土宗関係者に与えた銀子(ぎんす)計100枚です。
このうち、最後の安土宗論について着目すると「銀子(ぎんす)」という聞き慣れない単語が出てきます。
銀子について、手持ちの古語辞書を開いてみると
銀子(ぎんす)
“銀貨。多くは丁銀(ちょうぎん)を指す。長さ約9センチメートル、重さ約160グラムの長円形の銀塊で、紙に包み、封をしたまま用いて「銀何枚」と数える。贈答などに用いた。単位は匁(もんめ)。”
とありました。
少し補足を加えると、江戸時代の相場では銀1匁あたり約2166円ですので、銀子計100枚で約21万6600円となるでしょうか。
信長の時代はもう少し高かったのかもしれませんが。
岐阜の織田信忠から送金された100貫文=120万円で十分賄いきれる金額だったでしょう。
ちなみに、貞安(じょうあん)という人物は安土にある浄土宗寺院の西光寺の住職です。
安土宗論の際、彼がディベートで法華宗を論破した顛末が信長公記には記されています。
日野秀(ひのしゅう)長老という人物は、安土宗論の場所を提供した浄厳院の住職です。
そして、関東の霊誉(れいよ)長老は、はるばる東国から安土までやってきて、説法を行っていたところ、法華宗の若い信徒二人に絡まれて、図らずも安土宗論の場に引きずり出された人物です。
信忠に100貫文の送金を求めたのがこれだとは断定はできませんが、この件も計算に入れていたのではないでしょうか。
なお、同年9月16日に法華宗側から金子200枚が納められますが、信長はこれを伊丹や天王寺、播磨に在陣している諸将に分け与えています。
使いとして信忠の元へ赴いた信長の婿とは誰か
書状の結びには
「委事は聟申すべく候なり。」
(詳しいいきさつについては婿殿が述べるだろうから、彼の口から聞いてくれ。)
とあります。
その婿が岐阜城へ赴き、信忠に事の仔細を伝えたと考えられますが、この時書状を届けたのは一体誰でしょうか。
さあ、ここから楽しい楽しい推理タイムの始まりです。
諸説ありますが、信長には娘と養女合わせて13~14人ほどいたと考えられています。
そのうち、信用のおける史料に残る信長の婿は
①二条昭実(あきざね) 1556生
天正3年(1575)信長の養女ざこの方(赤松娘)と結婚
②万里小路充房(までのこうじあつふさ) 1562生
信長の娘源光院(実名不詳)と再婚
③徳大寺実冬(実久) 1583生
信長の娘月明院(実名不詳)と再婚
④徳川(松平)信康 1559生
永禄年中に信長の娘五徳と結婚
⑤蒲生賦秀(氏郷) 1556生
永禄12年(1569)信長の娘相応院(実名不詳)と結婚
⑥前田利勝(利長) 1562生
天正9年(1581)信長の娘栄(玉泉院)と結婚
⑦丹羽長重 1571生
天正8年(1580)信長の娘報恩院(実名不詳)と結婚
⑧筒井定次 1562生
天正6年(1578)信長の娘秀子(あるいは明智光秀の娘を養女としたのか不明)と結婚
⑨水野忠胤(ただたね) 生年不詳
信長の娘於振と結婚
⑩中川秀政 1568生
天正6年(1578)以後に信長の娘鶴と結婚
以上の10人です。
消去法で犯人を絞っていきましょう。
天正7年(1579)以後に結婚した婿を除外
この10人のうち、天正7年(1579)以後に嫁入りした信長の娘がいます。
当然それは婿などとは呼ばないはずなので除外します。
その人物が万里小路充房、徳大寺実冬(実久)、前田利勝(利長)、丹羽長重、水野忠胤、中川秀政の計6人です。
特に徳大寺実冬(実久)は天正11年(1583)生まれのためあり得ない。
中川秀政は摂津茨木城主、中川清秀の子で、天正7年(1579)当時は10歳前後だと思われます。
輿入れの時期は不明ですが、一連の荒木村重攻めが落ち着いて以降と考えるのが自然でしょう。
状況的にあり得ない婿を除外
早くも残り4人に絞られました。
次に見るのは、状況的に使者となるのがあり得ない婿です。
例えば公家の二条昭実。
名門の摂関家である二条家の当主で、永禄11年(1568)信長が足利義昭を奉じて上洛した歳から(13歳くらい)昇殿を許されます。
天正2年(1574)に信長の養女、ざこの方を娶った時には既に正二位の官位を賜っていました。
次にあり得ないのが徳川家康の嫡男、徳川(松平)信康です。
彼は当時三河岡崎城主として、家康の有望な世継ぎでした。
彼がこの時安土にいて、三河へ帰る帰路で信忠と会っていたとは考え難いです。
なぜならば、甲斐の武田勝頼との戦いで徳川家はそのような状況ではなかったでしょう。
さらに、この頃から信康を取り巻く状況が悪化し、やがて父から謀叛を疑われ、翌年に自害して果てました。
残りの2人は史料を精査する
残るは2名。
蒲生賦秀(氏郷)と筒井定次です。
蒲生賦秀(氏郷)は弘治2年(1556)に六角氏の重臣、蒲生賢秀の子として生まれ、織田信長の侵攻に敗れて降伏した父の人質として岐阜城へ赴きます。
そこで信長に気に入られて、永禄12年(1569)に信長の娘相応院(実名不詳)と結婚。
以後は父と同じく信長に忠実に仕えて各地を転戦しました。
筒井定次は永禄5年(1562)に慈明寺(筒井)順国の子として生まれ、当主の筒井順慶の養嗣子となりました。
天正6年(1578)3月に信長の娘秀子(一説には明智光秀の娘)を娶り、信長の婿となりました。
ここで見るポイントは、二人がどこにいたのかです。
信長が出した今回の書状には日付が記されていませんが、内容と織田信忠の行動から考えて、天正7年(1579)5月27日から6月18日の間でしょう。
この時蒲生と筒井はどこにいたのでしょうか。
・・・申し訳ありませんが、これがわからないのです。
この時期、恐らく織田家の武将は荒木村重討伐で摂津、播磨付近に多く在陣していたと考えられますが、この両名がそこに在陣していたとする史料がありません。
ここは別のアプローチで二人を見る必要がありそうです。
結論
次に見るポイントは、二人の当時の年齢です。
氏郷はこの時23歳前後の若武者。
定次はこの時17歳前後の少年。
使者として、信忠の面前で立派に役目を果たせる可能性が高いのは、蒲生氏郷ということになるでしょう。
17歳前後の定次の可能性も捨てきれませんが、今回は信忠から100貫文ものお金を引き出す役目を担っています。
その役目をこなせるのは、岐阜城で人質生活を送ったことがあり、歳の近い信忠とは気心の知れた旧知の仲である(憶測)蒲生氏郷の方が可能性が高いのではないでしょうか。
蒲生氏郷(賦秀)(1556~1595)
織田信長に「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」と言わしめた名将。
戦場では常に先頭に立ち、数々の難敵を討ち取った。
その一方、和歌や茶の湯にも深い造詣があり、特に茶は利休の一番弟子と囁かれるほどだった。
豊臣秀吉の下で会津92万石を領すが40歳の若さで惜しまれながら病死した。
余談ですが、蒲生氏郷の妻(つまり信長の娘)の名が冬姫というのは誤りの可能性があります。
出典元はわかりませんが、
“永禄十二年冬姫を嫁ぐ”
とあり、”永禄12年冬、姫を嫁ぐ”と解釈するならば意味が違ってくるからです。
昔の人は基本的に句読点打たないですからね。
ややこしい限りです(^^;)
まとめ
織田信長が嫡男信忠に宛てた古文書を、前回と今回の2回に分けて記事にしてみました。
楽しんでいただけたのなら幸いです^^
信長が法華宗のことを「かのいたずら者」と表現しているのが面白かったですね。
かといって、その後も妙覚寺や本能寺を利用している事実から、法華宗を滅ぼす意図がなかったこともわかりました。
他にも、信長は浄土真宗の本願寺派の寺々を、敵対しなければ潰さないというスタンスを一貫して取っていることからも、信長の宗教政策が窺えます。
このように史料を丁寧に読んでいれば、通説となっている織田信長像がずいぶんと違って見えてきます。
10人の婿探しの件は、文書に明記されていないことでも、このように年代や状況から推察して当事者を探すこともできます。
しかしながら、プロセス1つでも狂うと検討違いな答えとなってしまいますので慎重に考える必要がありますね。
今回も長々と書いてしまい申し訳ありません(^-^;
なるべく短い文章にしようと考えているんですけどね。
文章能力が…(;´Д`)
参考文献:
小和田 哲男(2010)『戦国武将の手紙を読む』(中公新書)
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
池上裕子,池享,小和田哲男,黒川直則,小林清治,三木靖,峰岸純夫『クロニック戦国全史』(1995)講談社
小浦泰之『論文 戦国期のお金に関するこぼれ話』
太田牛一(1881)『信長公記.巻之下』甫喜山景雄
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
児玉幸多(1970)『くずし字解読辞典普及版』東京堂出版
など