こんばんはー。
久々に信長家臣団の新しい人物をと思いまして・・・。
今回は「武藤舜秀」をご紹介します。
信長の野望にも登場しない知られざる名将の足跡を辿ります。
はじめに
- 重要な部分は赤太文字で
- それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
- 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーラインで
それでははじめていきます。
武藤舜秀の生涯
生年不詳-天正7年(1579)7月3日
仮名・幼名・官途名・受領名
惣右衛門、宗右衛門、宗左衛門、弥兵衛
家族・一族
父:不詳 母:不詳
兄弟:不詳
妻:不詳
子:康秀
武藤舜秀の出自と人物評
武藤舜秀(むとうきよひで)と読む。
信長が越前朝倉氏を滅ぼした後に越前敦賀城主として織田信長を支えた人物だが、その出自には謎が多い。
というのは、若狭国に有力な国人である武藤氏と同族だとする説もあれば、尾張馬寄城主の武藤氏の子息とする説、美濃の土岐氏の傍流である武藤氏とする説、さらに、関東の武蔵国出身説もあり、はっきりとしたことはわからない。
史料に初めて武藤舜秀が姿を見せるのは天正2年(1574)1月である。
信長の有力家臣団の中では、登場するのが遅い人物である。
武藤は彗星のごとく現れ、彗星のごとく消えていった人物だ。
織田信長は武藤舜秀を重臣のように重用し、武藤もその期待に応えた。
舜秀は軍略・兵法に通じていたといわれ、軍議の際は信長はまず舜秀の意見を聞いたという説がある。(武家事紀)
馬印は金熨斗二十本。または赤の幟旗を用いていたとされる。(総見公武鑑)
信の置きがたい甫庵太閤記によると、武藤舜秀を
かくの如の人あれば、自国他邦と云うこともなく、召し寄せられ寵し給いつつ、後は近習にめしつかはれ、又は大身にも成されしなり
甫庵太閤記
と評している。
武藤舜秀の初舞台は越前一向一揆
天正元年(1573)夏。
織田信長は将軍・足利義昭を京から追放した後、越前の大名・朝倉義景、北近江の大名・浅井長政を相次いで攻め滅ぼすなど大躍進した年であった。
当面の処置として(?)越前守護代を桂田長俊(前波吉継)に任せたのだが、翌年早くも桂田が殺害され、越前国が一向一揆とそれに加担する勢力によって奪われてしまう。
この時武藤舜秀は近江長浜城主の羽柴秀吉らと共に越前敦賀まで出陣し、長期間同地に滞在して政治や取次ぎに当たっている。
古文書に名が残っている活動としては
- 天正2年(1574)9月16日。不破光治とともに敦賀郡西福寺に地を寄進。(西福寺文書)
- 天文3年(1575)3月。朝倉家の旧臣・堀江景忠を調略して彼を敦賀で出迎え、信長にその旨を報告。(朝倉記)
- 同年6月。信長が越前の国衆である建部周光へ知行の安堵状を発給した際、武藤舜秀が※1副状を発給。
- 天正3年(1575)8月6日。信長が越前に出陣の折、不破光治とともに、信長を迎えるために立石惣中に清掃を命じる。(立石区有文書)
がある。
※1 副状(そえじょう)とは大名など権威のある人物の正式な文書に添えた書状のこと。
添えた書状というか、添えただけの書状で、中身は大名の出した内容とほぼ同じの味気ないものだった。
戦国時代は側近か家老、あるいは両方が副状を発給する場合が多いのだが、受け取る側は副状が1つ付いているだけで、信用度が格段に増すものだったらしい。
副状を発給したり、現地で信長の代官的な役割をしていることから、舜秀は信長の側近として働いていたと考えられる。
のちに信長の側近として活躍した堀秀政や長谷川秀一、森成利(蘭丸)も、同じような働きをしているのだ。
武藤舜秀、越前一向一揆討伐戦で大活躍
天正3年(1575)8月。
長篠・設楽原の合戦で武田勝頼を散々に打ち破った信長は、ついに越前征伐へ乗り出した。
武藤舜秀は信長を敦賀で出迎え、そのまま従軍する。
この時越前征伐に加わったのは柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、細川藤孝、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)、氏家直昌、安藤守就、不破光治、阿閉貞征、前田利家、佐々成政、梁田広正、織田信忠、織田信包、北畠信雄、神戸信孝、津田信澄といった音に聞こえた勇士らを動員している。
この一揆掃討はかなりの大規模な作戦で、1万2250人以上の一揆勢が戦死、または撫で斬りにされた。
=越前一向一揆征伐戦
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このいくさで武藤舜秀は氏家直通(直昌)とともに一揆の残党狩りで活躍した。
(抜粋)
十九日、滝川左近(一益)、手より六百余、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)手より六百余、武藤舜秀手にて一乗然るべき者三百余、惟住五郎左衛門尉、朝倉与三要害を構え楯籠もり候を攻め崩し、左右の者六百余を討ち取り、生捕り百余人、則ち首をきり候。廿日、ひなたがけと申山へ前田又左衛門尉(前田利家)、其外馬廻者共遣わし、千余人切り捨て、生捕り百余人。則ち首を刎ね候
天正三年(1575)八月二十二日付 織田信長書状(村井貞勝に宛てた)
このように信長公記以外にも武藤舜秀の戦働きの様子が記されている。
武藤舜秀は越前敦賀郡を与えられ、敦賀城主となる
戦後、柴田勝家をトップにして越前の新支配体制が敷かれた際、信長馬廻であった前田利家、佐々成政、金森長近、不破光治らが戦目付(いくさめつけ)として柴田の与力となった。
この時、武藤舜秀も敦賀郡(つるがごおり)を与えらえ、敦賀城主となる大出世を果たした。
しかし、武藤は柴田勝家の指揮下には属さなかったらしい。
敦賀という地は越前国でも、木の芽峠を境に越前平野と分断されている地勢だ。
また、敦賀は大きな収益が見込める港町であった。
広大な所領を知行とした柴田、羽柴、丹羽の間に位置する敦賀は絶好な地であった。
信長直属の武将としてこれ以上の誉れはなかったかもしれない。
以後、舜秀は敦賀城主として畿内各所を転戦するようになる。
この時期の文書に残る記録としては
- 天正4年(1576)7月6日。西福寺に対し、違乱する者を捕らえて出すよう命を下す。(西福寺文書)
- 天正5年(1577)4月15日。川船衆に以前通りに商いをすることを認める。(道川文書)
である。
天正6年(1578)夏から舜秀は常に陣中にあり、一度も国もとに帰っていない可能性がある。
信長の遊撃軍団として各所を転戦する武藤舜秀
天正5年(1577)2月。
紀州雑賀攻めに従軍。
同年8月。
柴田勝家の援軍として加賀攻めに参陣。
信長側近の堀秀政に戦況を報じた書状には柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益と並んで舜秀の名がある。(宮川文書)
なおこの時の軍議の席で柴田勝家と羽柴秀吉が喧嘩になり、以後両者が不和となったのは有名な話である。
天正6年(1578)6月。
播磨神吉城攻めに従軍。
同年7月に摂津一国を任されていた荒木村重が突然謀叛を起こす。
舜秀はそのまま摂津へと戻り、古屋野古城に在番している。
=摂津有岡城の戦い
有岡城の戦いで大活躍する武藤舜秀
信長公記には以下の記述がある。
「信長公記」 巻十一
(1578年)十一月十四日、右の御普請衆、滝川(滝川一益)、惟任(明智光秀)、惟住(丹羽長秀)、蜂屋(蜂屋頼隆)、武藤(武藤舜秀)、氏家(氏家直昌)、伊賀(安藤守就)、稲葉(稲葉一鉄)、羽柴(羽柴秀吉)、永岡(細川藤孝?)、先陣伊丹へ相働き、足軽を出だし候。
武藤宗右衛門、手の者ども懸け入り、馬上にて組み討ちして、頸四つ討ちとり、あま(尼崎)へ持参いたし候て、御目に懸くる。
天正7年(1579)6月20日。
武藤舜秀は信長より鷂(ハイタカ)を賜る。
この時信長から鷂を賜ったのは、武藤の他に滝川一益、丹羽長秀、蜂屋頼隆、福富秀勝のみである。
武藤の軍略には定評があったのだろう。
信長の側近として各所の戦いで柴田や羽柴の援軍に赴いているのだから、軍目付(いくさめつけ)として活躍したのではないだろうか。
舜秀の死とその後
これよりわずか数日後の7月3日。
有岡城包囲が続く中、舜秀は古屋野古城にて突然病にかかり病死した。
信長公記には
七月三日、武藤宗右衛門、伊丹御陣にて病死なり
信長公記 巻十二
と簡潔に記されている。
有岡城が落城するのは3か月後のこと。
信長は舜秀の訃報に接してひどく落胆したという。
武藤家の家督は子の康秀が継いだが、父ほど信長から信用はされなかったようだ。
本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた際、武藤家が明智に付いたかは定かではない。
明智を滅ぼした後の清州会議を経て、どういうわけか武藤康秀の領していた敦賀城は蜂屋頼隆が入った。
康秀のその後の消息が掴めないことから、光秀に従属して所領を没収されたのかもしれない。
なお、その後の敦賀城は蜂屋頼隆の手により三層の天守を持つ立派な城に生まれ変わったが、頼隆は豊臣秀吉の九州征伐中に病死。
まもなく大谷吉継が敦賀を与えられ、同城は水城としてさらなる発展を遂げた。
なお武藤家の家名が後世に残ることはなく、舜秀時代の敦賀の遺構は残っていないようだ。