織田信包 信長の弟として、秀吉の家来として

4.5
この記事は約6分で読めます。

こんばんはー!
信長公の家臣団の7人目は「織田信包」だ。
一時長野家の養子として長野信包と名乗っていた。

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

織田信包の生涯

天文12年7月17日(1543)あるいは天文17年 (1548)-慶長19年(1614)7月17日

仮名・幼名・官途名・受領名

三十郎、信良、信兼、信廉、老犬斎

家族・一族

父:織田信秀 母:土田御前?

兄弟:信広、信長、信勝、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利、小谷御前(市)、佐治信方室(犬)

妻:長野藤定娘
側室:神戸具盛娘

子:信重、寿圭、信則、信当、姫路殿(豊臣秀吉側室)、娘(松平忠明正室)、娘(木下利房正室のち万里小路充房室)

織田信包像
織田信包像

織田信包とは何者か

 母は不明だ。織田家の中でもとりわけ地位が高い為、信長と同母弟である可能性がある。

信包は「信兼」と記されている文書もある。こういった当て字的なのはこの時代においては珍しいことではないが。

一時長野家の養子になったときに「長野信良」と称した。(分部文書)

信秀の四男というが、それについては疑問が残る。一時、守山城主になっていた織田秀孝の方が年長のように思われるので、六男の可能性も捨てきれない。

北伊勢の名族・長野家の養子へ

 永禄11年(1568)2月。信長の北伊勢侵攻に際し、多くの豪族、国人が降伏する中、信長に頑強に抵抗したのが長野家であった。
信長は上洛も念頭に置いていた時期で、そう伊勢に時間はかけたくなかったのであろうか。

長野家との和睦の条件として、織田信包養子にすることを申し入れた。
長野家としても、武家としての面目が立つのならばと、それを受け入れた。

間もなく信包長野藤定の娘を娶り、長野家の名跡を継いだ。
既に長野家の当主となっていた具藤は追い出され、実家の北畠家を頼っている。(勢州軍紀)

信包は工藤、雲林院うじい、分部、細野、中野、川北といった北伊勢の豪族たちを与力に与えられた。

なお、動員兵力こそはなかなかのものだが、伊勢方面を任されているのは滝川一益である。
その滝川を、織田信包と中野一安(織田家の庶流)が補佐するという体制をとっている。

伊勢の名族・北畠家討伐 安濃津城主

 永禄12年(1569)8月。信長は北畠具教討伐に南伊勢へ出陣。
織田信包もこれに従軍し、10月に講和が成立。
北畠家の養子に信長の次男である茶筅丸が入った。(茶筅丸は元服後、信雄と名乗る)

信包は上野城に置かれ、その後安濃津城に移った。

元亀2年(1571)2月。津三郷などの課役を免除した判物があるから、安濃津は知行として加増されたのであろうか。

浅井長政の小谷山城を攻略

 天正元年(1573)8月~9月。信長の浅井、朝倉攻めに従軍。
小谷山城が落城の際、浅井長政の正室である小谷御前(信長の妹・お市)と娘3人を受け取ったのが信包であったというのが通説であったが、近年の研究によると、叔父である織田信次である説が有力になりつつある。

一揆勢との戦い

 天正2年(1574)7月。長島一向一揆殲滅戦に従軍。
この時、滝川一益は、九鬼嘉隆らと水軍を率い、海上から織田軍を援護したとあるので、信包もこれに従ったのであろうか

翌年の長篠・設楽原の合戦では信包の名は見られない。しかし、滝川一益はこれに参陣し、鉄砲隊で大活躍をしているので、もしかすると出陣していたのかもしれない

天正3年(1575年)8月。越前一向一揆攻めにも従軍。
この時の信長は本腰を入れて越前へ攻め込んでおり、柴田勝家佐久間信盛滝川一益丹羽長秀羽柴秀吉明智光秀細川藤孝塙直政蜂屋頼隆荒木村重稲葉良通(一鉄)稲葉貞通氏家直昌安藤守就武藤舜秀不破光治といった音に聞こえた諸将らを動員している。

この戦で信包は、織田(北畠)信雄と組んで一揆の残党600余を討ち取ったとある。(高橋源一郎氏文書)

長野家国人衆の粛清

 天正5年(1577)2月2日。逆心のかどで細野藤敦を誘殺しようとしたが、事前に露見して出奔された。(勢州軍紀)


天正8年(1580)。雲林院うじい祐基(出羽守)、祐光?(兵部少輔)父子を追放した。(勢州軍紀)

このように信包は、かつて長野家に臣従していた国衆たちを粛清して、次第に北伊勢に強力な支配権を植え付けるという側面も見せている。

本能寺の変までの軍歴

 多少前後するが、天正5年(1577)2月に雑賀攻め。翌6年(1578)4月に大坂の石山本願寺攻め、5月に羽柴秀吉の援軍として播磨出陣、11月に荒木村重謀叛による有岡攻めと織田家の主力として活躍しているのがわかる。

なお、この頃になると、信長の嫡男・織田信忠の与力となっている。

天正7年の9月に織田信雄が信長に無断で伊賀を攻め、大敗して命からがら伊勢へ逃げ帰っているが、この時信包が参陣したかは不明だ

天正9年(1581)2月28日。京都の馬揃えにおいては、信忠信雄に続く、連枝衆(一門衆)の第三番目として、10騎を従えて行進した。(信長公記)その次に行進したのが織田信孝であることから、連枝衆(一門衆)の序列では次男の信雄の後、三男の信孝の前ということのようだ。

同年9月。伊賀攻めに出陣。この時は総大将織田信雄の指揮下に入り、山田郡の制圧に活躍し、平定後に同郡を与えられている。(信長公記)

天正10年(1582)正月。参賀の挨拶で安土城に出向き、信長と会っている。(信長公記)

その後の甲斐武田家討滅戦には参戦しなかったようだ。

本能寺の変 兄・信長死す

 天正10年(1582)6月2日。本能寺の変が発生。兄の信長は明智光秀によって倒される

この時、信包は伊勢の領国にいたが、目立った動きは見せていない。恐らく、畿内の動揺が激しく、誰が敵で誰が味方かを見極めていたのであろう。

賤ケ岳の合戦と天下統一

 山崎の合戦以後はずっと秀吉に属し、甥の織田信孝柴田勝家滝川一益と敵対。信包は伊勢での戦において、滝川一益の峯城を攻め落としている

賤ケ岳の合戦の後の天正11年(1583)6月に伊勢鹿伏兎かぶとと稲生を、さらに翌12年6月には木造、小森、小山戸、上野を秀吉より加増された。(勢州軍紀)

天正13年7月11日。侍従に任じられ、「津侍従」と称す。この年、佐々成政攻めに従軍。

天正18年(1590)の小田原攻めでは織田信雄の下で韮山攻めに参加。(毛利家文書)北条氏政氏直父子の助命を秀吉に嘆願し、秀吉の怒りを買っている

文禄元年(1592)九州名護屋に在陣。

突然の改易

 文禄3年(1594)9月。検地によって石高が増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたため、伊勢の領地を全て没収されて改易された

ケチだったのか。それとも織田信包はもはや用済みの存在だったのか・・・。

改易後、剃髪して老犬斎と名乗り、京都の慈雲院に隠居する。

赦免 柏原3万6000石の初代藩主に

 その後、許されて近江2万石を与えられ、秀吉の御伽衆となる。

慶長3年(1598年)6月には丹波国氷上郡柏原3万6000石を与えられる。(重修譜)「慶長四年諸侯分限帳」では4万石とある。

織田信包
初代柏原藩主

秀吉の死 関ケ原の合戦

 慶長3年(1598)8月18日。豊臣秀吉が病死する。

その後の関ヶ原の時には西軍に属し細川幽斎(藤孝)籠る丹後田辺城を攻める。

関ケ原の合戦で西軍が敗れると、多くの大名諸侯が改易、減封または転封された。しかし、信包はそれらを免れ、所領を守っている。恐らく家康に内通していたのであろう

豊臣秀頼の側近へ そして突然の死

 その後、大坂城に入り、豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼に近仕した。

慶長19年(1614)7月17日。方広寺大仏供養のため、秀頼が上洛すべきかどうかを議論している最中のこと。大坂城内において突然喀血して没した。(諸家系図纂) 変死だったようである。

「寛永伝」には72歳。「東大寺雑事記」には67歳と大きな開きがある。
信長家臣として活躍しだした時期を考えると、前者の方が正しいように思える。

タイトルとURLをコピーしました