滝川一益 誰よりも早く出世したが、悲しい晩年を迎えた武将

4.5

こんばんはー!
信長公の家臣団の5人目は「滝川一益」だ。
誰よりも早く出世したが、気がつくと後輩武将達に
出世を追い越されてしまった。
・・・なぜだろうか?

はじめに

  • 重要な部分は赤太文字
  • それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
  • 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーライン

それでははじめていきます。

滝川一益の生涯

大永5年(1525)-天正14年(1586)9月9日

仮名・幼名・官途名・受領名

久助、彦右衛門、入庵、不干、従五位下左近尉、左近将監、伊予守

家族・一族

父:滝川資清?あるいは滝川一勝 母:不明

兄弟:高安範勝

妻:不詳

子:一忠、一時、辰政、知ト斎、滝川雄利室、九天宗瑞、雲林院祐光室、秋山直国室

養子:忠征、雄利女(津田秀政室)

滝川一益
滝川一益

忍び出身とは本当は

 滝川家の祖先は三河伴氏の一党であり、奥三河の設楽あたりに住んでいた。建仁年間に甲賀伴氏を頼り、甲賀に住み着いた。その後この一族は勢力を伸ばし、伴四党(伴・滝・上野・大原)と呼ばれて活躍した。

長享元年(1487)。将軍・足利義尚の甲賀攻撃を返り討ちにし、義尚を敗死させた。=長享の乱  この長享の乱の立役者である甲賀五十三家には、のちに多くの有名武将を輩出するに至る。

甲賀伴氏の一族だけでも、山岡景隆景友中村一氏藤堂高虎・・・。甲賀五十三家からは和田惟政多羅尾光俊佐治新介らが出ている。

甲賀忍者は火器、火薬の技術が発達し、「甲賀張り」と呼ばれる独自の鉄砲が考案された。

一益の少年時代

 「寛永諸家系図伝」によると

幼年より鉄炮に長す。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす

寛永諸家系図伝

とある。

滝川家は由緒ある家柄だが、一益は博打を好んだり不行跡を重ねたりで、ついに一族に見放され、尾張津島の知人のところに身を寄せたとあるが、真偽は不明である。

そういったことから、まだ家督を相続して間もない初期の信長と知り合い、鉄砲という共通の趣味もあってか、信長に仕官したのであろうか

政・戦・智と活躍

 永禄3年(1560)桶狭間の合戦では先鋒を務め、伊予守と称す。後、左近衛将監となる。
またこの頃、一益は伊勢長島城の土豪・服部友貞を篭絡。友貞の資金によって尾張蟹江城を築き、やがて友貞を放逐して蟹江城主となっている。

永禄5年(1562)。三河の松平家康との同盟にも、織田家のメンバーとして名を連ねている。

異例の大出世 北伊勢攻略の総大将に抜擢される

 永禄10年(1567)。信長の美濃攻略が大詰めの時期一益は北伊勢攻略の総大将に抜擢される。伊勢の長島、桑名、多渡あたりまで攻略。これにより、員弁(いなべ)、桑名の2郡の土豪である上木(あげき)、木俣、茂福らが次々に信長に帰服した。

8月。それを聞いた信長は自ら軍勢を率いて出陣。桑名に着陣すると、降伏したばかりの北伊勢の諸家・宇野部、後藤、菅生らが兵を引き連れて合流する。

信長の軍と合流した一益は、楠十郎籠る楠城を攻略。ついで山路紀伊守籠る高岡城を攻める。そんな中、美濃で西美濃三人衆として名高い稲葉良通安藤守就氏家ト全斎藤龍興を見限り、信長に内応

信長はすぐさま帰陣し、一益は引き続き伊勢攻略を担当した。一益はその後、戦略の転換を図り、調略によって多くの地侍や土豪を信長に降らせている

伊勢国司・北畠家討伐

 永禄12年(1569)。南伊勢を支配する国司の家柄である北畠具教の有力家臣の木造雄利を兄具康とともに信長に通じさせ、木造城を開城に導く。また、木造の親戚、僧源性寺が還俗して北畠氏を滅ぼそうとしているのを聞き、ただちに名字を与えて滝川三郎兵衛雄利と名付け、配下としている。

同年9月。信長自らが北畠家討伐に出陣。各国から兵を集め、総勢10万を超える陣容であった。北畠具教・具房父子籠る大河内城を包囲。民家を焼き、兵糧攻めにし、50日余り包囲する。信長がここまで苦戦したのは、北畠家の家臣で、鳥屋尾石見守満栄という智略に優れた者がいたからだそうだ。

しかし、北畠具教はついに和睦の条件を呑み、信長の次男・茶筅丸を養子とすることで兵を退いた。

甲賀攻め

 滝川一益の生まれ故郷である甲賀には、六角残党が落ち延び、観音寺一帯の失地回復を狙っていた。元亀元年(1570)。信長は一益を総大将に、彼の一族を攻める命令を発した

六角氏の残党と甲賀武士団300騎余最後の決戦を挑んだが一益の大軍に敗れ、わずか75騎になったと伝わる。ただ、一益にとって幸いだったのは、六角氏が和睦に応じたため、一族縁者の殲滅を免れたことであろうか。

恐らくこのためであろう。滝川一益は甲賀から出奔しても「大原滝川一益」と一族同名中を使用していたが、大原氏の家系から抹消された。かわりに甲賀地方の古文書から出てくるのは、「滝川左近将監甲賀反逆・・・」とある。

「甲賀武士由緒書」にも、

信長公御代ニ滝川左近将監甲賀退治之儀、信長公ヘ再三望被申候所・・・

甲賀武士由緒書

と記されている。

信長と敵対した甲賀忍者方の古文書には、管領職に目がくらんで、滝川一益が自ら進んで甲賀攻めを請け負った。とか書かれているが、今一つ公平性が無く信憑性に欠ける。

伊勢長島一向一揆戦

 この間にも伊勢長島で一揆勢が挙兵。尾張小木江城主の織田信興が敗死するなど、予断を許さぬ状況となった。一益は甲賀を平定するとすぐに伊勢に戻った。

一揆勢の本拠は、天文年間、蓮淳(本願寺蓮如の十二男)の開基の顕正寺である。元亀2年(1571)。願正寺証意が檀徒を誘い、長島一向一揆を拡大させる。

長島城主伊藤長時を追い出し、瞬くうちに北伊勢全域に拡大した。信長は2度大軍を以て長島一向一揆を攻めたが、揖斐川、長良川、木曽川の三大巨川に阻まれたデルタ地帯においては鉄砲も役に立たず、いずれも大敗北を喫している

天正2年(1574)7月。足利将軍家、浅井、朝倉を滅ぼし、甲斐武田家の勢いにも陰りが見えた時期。信長は3度目の長島一向一揆攻めを決断する。信長は大軍をもって諸城を包囲し、兵糧を切らした一揆勢はついに開城・降伏する。

信長は彼らを城外に出した時、全員撫で斬りにする命令を発す。長島一帯の諸城は焼き払われ、一揆勢は皆殺しにされたこの時一益は、九鬼嘉隆らと水軍を率い、海上から織田軍を援護した。

一益はこの功により、長島城主となり、尾張蟹江、安濃津など北伊勢5郡を領した。

長篠・設楽原の合戦

 天正3年(1575)の長篠・設楽原の合戦にも一益は従軍し、一益得意の鉄砲隊を率い、武田勝頼率いる甲斐勢を悉く打ち破っている

長篠・設楽原の合戦
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
長篠・設楽原の合戦
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

この屏風図の中でも、一益はちょうど真ん中に陣取っている。いかに重要な位置に一益がいるかがわかる。

各地を転戦 八面六臂の活躍

 翌天正4年(1576)。石山本願寺との天王寺合戦、同5年(1577)の紀州雑賀攻めにも従軍。同6年(1578)の第二次木津川口の戦いでは九鬼嘉隆率いる鉄工船6隻と共に、一益も水軍を率いて参戦し、毛利水軍を大いに打ち破っているなお、この鉄工船製造の段階から一益も関わっていたようである一説には、九鬼嘉隆は滝川一益の口利きで信長に仕えたとあるが、真偽は不明である。

同年。信長は一益の戦功を労う為、功臣10人を黄金色に輝く安土城に召し出して、茶会を開いた。この時信長は自ら家臣を送迎して饗応したと伝わる。一益にとって、最も晴れがましい時代だったであろう。

7月には中国地方方面軍に抜擢された羽柴秀吉からの援軍要請があり、一益は出陣。播磨神吉城を攻めた。

10月。有岡城主・荒木村重が突如謀叛を起こし、信長に反旗を翻す。11月。荒木村重の討伐に従軍。伊丹城に通じる道に柵を作り、糧道を断ったり、上﨟塚砦の守将を調略したりなどの活躍を見せている。

一益はその後、計略をもって伊丹城を調略に成功。さらに、尼崎城、花隈城を開城に導いた。信長は一益および丹羽長秀蜂屋頼隆に命じ、伊丹城中の妻子22人を、尼崎七本松に磔刑にしている。

この木津川口での海からの海上封鎖と、荒木村重討伐により、石山本願寺は完全に糧道が断たれ、ついに天正8年3月。本願寺顕如と和議が成立。石山本願寺からの退去が決まった

先年に信長の次男・北畠信雄(北畠具教の養子となった茶筅丸)が信長に無断で伊賀に攻め込み、大敗北を喫しているが、天正9年(1581)。信長の伊賀攻めに従軍。一益は甲賀口より攻め込んでいる。

この際、甲賀忍者も織田方として伊賀を攻めているが、甲賀忍者と伊賀忍者との戦いはこれが最初で最後だったようだ。テレビや小説で頻繁に両者は争っているように見えるが、史実では逆に同盟を結んでいたほどである。

一益はこの戦功により、信長から「山桜の壷」を賜った。

甲州征伐

 天正10年(1582)2月。武田家の縁者であった木曽義昌が信長に内通。信長は自ら甲州征伐に乗りだし、滝川一益もこれに従軍した。毛利秀頼河尻秀隆らとともに、織田信忠軍の先鋒として木曽口に向かった。

武田家臣・下条九兵衛熊谷玄蕃の調略に成功させ、兵を大島城内に入れた。これを聞いた平谷の滝沢砦を守る下条信氏は、城を捨てて甲斐に逃れた。

一益は武田攻めで大活躍をし、信長を感心させ、太刀・吉光と黄金、栗毛馬を賜った。
武田勝頼の切腹により甲斐武田家滅亡後、信長は一益を諏訪の陣に呼び出し、上野国および信州小県、佐久2郡を与えた。さらに関東管領、山東および奥羽諸州の征伐なども一益に任せ、山東制法十五章を授けた。

この時一益は領地よりも茶器の「珠光小茄子」を所望していたようだが、かなわなかった。これを三国一太郎五郎への書状の中に

遠国にかせられ候条、茶の湯の冥加つき候

三国一太郎五郎への書状

と悔しさをにじませている。もはや老齢に入っていた一益にとっては、領地よりも茶器の方がよかったのであろう。

上野厩橋城主として関東経営に乗り出す

 一益は諏訪からそのまま厩橋に入り、新領地である上野の国の経営に着手する。金山の眠る沼田城には滝川益重を入れ、松井田城には津田秀政、信州小諸城には道家正栄を入れた真田などの国人衆は新たに一益の与力として加わり、本領を安堵する代わりとして人質をとった。

本能寺の変

 天正10年(1582)6月7日。一益の元に驚くべき報せがもたらされる。信長が本能寺において明智光秀に討たれたというのだ。一益は驚愕悲憤し、袖が濡れるほど泣いたといわれている。

一益は滝川益氏篠原兵右衛門津田治右衛門滝川儀大夫らを召し出し、ことの仔細を伝えた。甥の儀大夫が「このような大事は内密にすべき」だと諫めたが、一益は「このような大事はすぐに千里に走り、すぐに耳に入る。他人の口からきけば人の心も揃うまい。自分で告げ、貴公らの人質も返したい」と答えたという。

東国の国人らは協議の結果、一益に従い、行動を共にすると誓った。

逆賊・明智光秀を討つべし

 一益は西上の計画を練り、三策を編み出した。

一、嫡子三九郎(一積)は城を守り、一益死すと聞けばただちに仇を討つ

二、松井田城には、津田小平次、稲田久蔵を留める

三、もし一益が死ねば、すなわち城に籠り、防御に力をそそぎ、かなわずは自害する。

一益はその勢力1万8000余騎で出発した。

滝川一益
滝川一益

神流河原の合戦

 しかし、当然のことながらこのことは北条家の耳にも入っており、鉢形城主の北条氏邦は真っ先に金久保城に押し寄せた。北条氏直自身も小田原から出陣し、本庄に陣を敷いた

氏邦は一益の先陣上野勢と攻め合い、激戦が続いた。

6月19日。炎暑甚だひどく、草もそよと動かず、合戦すること数回、双方の兵は疲労し、しばしば休む。二刻ばかり過ぎ、ついに氏邦は退却した。一益は消耗した上野勢を後軍に回し、一益自身が先陣となる。その数およそ3000。

対する小田原からも北条軍の主力が到着。松田、大道寺を先駆けとして5000騎を進める。神流河原で決戦となり、滝川一益の軍は大敗北を喫した

一益は再び攻撃せんと残党を寄せ集めた。上野勢にも頼んだが、疲労し動けないと断られたため、諦めて城に戻る。そして討死した味方を菩提に弔い、供養した。その数二千余柱に及んだとある。

失意の撤退 知行の大半を失う

 一益は上野国の諸将を集め、別れの会を開いた。

つわもののまじわり たのみあるかな
これは、兵の交わりは頼みがいのある仲である、

羅生門の一説

という羅生門の一説を鼓を打ち、謡を歌ったと伝わる。
一益はその場で太刀などの秘蔵の者を上野の国人衆に与え、人質を返し、明け方に発し、諏訪、木曽路を経て西上の路についた。

この間にも中央では大きな時代のうねりが起きており、山崎の合戦明智光秀が討たれ、老臣でありながら、清州会議にも参加できなかった。

新たに織田家の当主となった三法師に清州城で謁見した後、ようやく本拠の伊勢に帰ったという。

賤ケ岳の合戦

 柴田勝家羽柴秀吉との対立が激化する中、一益は勝家の誘いに乗り、織田信孝と共に秀吉との対決を決意する

一益は益氏に峯城を守らせ、佐治新介らに亀山城を守らせ、自らは桑名、長島を保ち秀吉に備えた。

明けて天正11年(1583)正月早々、一益は秀吉との戦端を開いた。秀吉が7万5000の大軍で攻め寄せてきたのである。秀吉軍は軍を3手に分け、伊勢に侵入して郡邑を攻め、桑名の村々を焼いた。

しかし滝川一益は秀吉の大軍を相手に3月までよく支え、7万近くの軍を釘付けにした

一方、山を越えた近江の賤ケ岳では、柴田軍が大敗し、越前に敗走。勝家は自害して果てた

残った一益は長島城に籠城し、孤軍奮闘したが、7月についに降伏秀吉に所領を没収され、剃髪して京都妙心寺に隠居。その後ほどなくして丹羽長秀を頼り、越前にて蟄居謹慎している。

小牧・長久手の合戦

 天正12年(1584)3月。織田信雄(北畠具教の養子として家督を継いでいたが、信長によって織田家に戻された)が徳川家康と結び、尾張で挙兵。秀吉は一益を呼び戻し、長島および北伊勢5郡の旧領を与えることを約す

一益は織田秀包蒲生氏郷と兵を合わせて嶺城を囲んだ。

6月。一益は木造城にいて、蟹江城主の虚を狙い、謀略によって攻め落とす。知多半島の大野城を、九鬼水軍と共に攻めるが、山口重政の逆襲により舟を焼かれ、大野城の攻略に失敗する。

翌日。一益は蟹江に戻ろうとするが、徳川家康、織田信雄の連合軍に阻止され、前田定利の下市場城に逃れる。岡部長政山口重政ら家康配下らが下市場城を取り囲んだが、一益は逆にこれらを打ち払い、追い返すことに成功している。

またその翌日。家康軍は織田信雄の部隊と共に下市場城を取り囲み、城主の前田定利を討ち取った。敗れた一益は蟹江城から逃れてきた前田種利を討ち、その首を家康に差し出して死罪を免れた

一益は木造城へと逃れたが、守将の富田知信は、一益の内通を疑い、城内に入れずに追い返した。秀吉の元に戻り、許しを乞うが許されなかった

悲しい晩年

 翌天正13年(1585)3月。一益をして甲賀の諸士を招集し、紀伊川の修復をさせるが、凱旋の時期を失ったとの理由で、諸士ことごとく領地没収の上、民籍に落とされた。これに最後まで抵抗した佐治氏などは、攻め滅ぼされたという。これは甲賀破儀」と呼ばれ、甲賀武士団の滅亡でもあった。

一益はその後、京都妙心寺で髪を剃り入庵。越前にて蟄居し、9月9日。同地で没した。
享年64歳(62歳説もあり)。号名は「不干」

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