こんにちはー。
信長公の家臣団の8人目は「島田秀満」だ。
前に書いた村井貞勝と共に織田家の奉行として活躍。
信長の野望に登場したことがない為、知名度は低い。
今回はそんな島田秀満の足跡を追ってみる。
はじめに
- 重要な部分は赤太文字で
- それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
- 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーラインで
それでははじめていきます。
島田秀満の生涯
生没年不詳
仮名・幼名・官途名・受領名
所之助、弥右衛門尉、但馬守、秀順
家族・一族
不詳
島田秀満の名乗り
島田秀満は当初、「島田所之助秀順」と名乗っていた。
信長上洛の翌年である永禄12年(1569)3月23日付けの書状に「島田弥右衛門尉秀順」と署名文書が確認されている。
この年の11月12日付けの書状には「島田但馬守」とあり、11月26日付けの書状には「但馬守秀満」と名を変えている。
恐らく但馬守任官と同時に諱(名前のこと)を変えたのであろう。
信長が足利義昭を奉じて上洛するまで
天文末年(1555)頃。佐久間信盛、村井貞勝、赤川景広と7月25日に熱田社惣検校らに、礼銭についての紛争の処置を指示する。(田島氏文書)
弘治2年(1556)8月。信長と弟である織田信勝が稲生にて合戦があった翌日。信長、信勝の生母である土田御前に村井貞勝と共に末森城に招かれ、信勝の降参の意思を伝える。(信長公記)
永禄6年(1563)9月15日。水野信近(藤九郎)より信長への鷹の贈呈の取次ぎを頼まれる。(古今消息集)
永禄8年(1565)頃?6月10日付の連署書状で島田秀順(秀満)は、村井貞勝、明院良政、丹羽長秀、木下秀吉らとともに、佐々平太、兼松正吉に計三十貫文の知行宛行いの奉行を務める。
永禄10年(1567)8月。美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)が信長方に寝返った際、村井貞勝と共に人質の受け取りの使者として派遣される。(信長公記) なお信長はその人質が到着する前に出陣している。
永禄11年(1568)7月。村井貞勝と共に足利義昭を美濃に迎える使者として、越前へ派遣される。
といったように、信長の尾張統一時代から既に島田秀満の名前が見られる。しかも、織田信勝との和平交渉や人質の受け取り、将軍候補者を迎える使者などは織田家の重鎮奉行にしか任せられない仕事であろう。
信長の上洛後 奉行としての島田秀満
永禄12年(1569)2月。将軍・足利義昭の新御所建設の大工奉行に、村井貞勝と共に島田秀満が抜擢される。(信長公記、兼見卿記)
元亀2年(1571)9月。明智光秀らとともに公武用途の米を畿内の諸寺社に徴発する。
同年10月。信長の命により禁裏賄料として、利息三割で京中に米を貸し付ける。(阿弥陀寺文書、京都上京文書、元亀二年御供米之記)
元亀3年(1572)3月24日。信長の京都御座所の建設奉行を、村井貞勝と共に任される。(信長公記、兼見卿記)
同年4月4日。村井貞勝と北野天満宮松梅院に、天満宮境内の竹林をみだりに切り取ることを禁ずる。(北野天満宮史料)
同年9月10日。村井貞勝と、信長座所(信長の宿舎)普請の人足を吉田社に供出させる。(兼見卿記)
同年10月24日。島田秀満と吉田郷に藁の供出を命じる。これも信長座所(信長の宿舎)建設のためであろう(兼見卿記)
なお、信長の京都御座所は完成を見ずして、この後の上京焼き討ちにより、延焼したのか記録には残っていない。
室町幕府の滅亡と島田秀満
少し時期が前後するが、
元亀3年(1572)2月。武田信玄の西上に呼応し、将軍・足利義昭が挙兵。近江の石山寺、今堅田などに城を築き家臣らに守らせた。
しかし、義昭が最も頼りとしていた武田信玄は、三方ヶ原において徳川・織田連合軍を打ち破ってから西上が止まり、そのまま甲斐へと引き上げていった。
2月20日。柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、蜂屋頼隆に石山寺、今堅田を攻めさせ、瞬く間に落城。=石山・今堅田の戦い
しかし、将軍の決意は固く、和議に応じようとはしなかった。
この時信長は、村井貞勝、島田秀満および朝山日乗を将軍・足利義昭へ遣わし、誓書と、信長の実子を人質に差し出す条件で和議を呼びかけたが、義昭はこれも幾度となく拒絶。
4月1日。陣を訪れた公家の吉田兼和(兼見)を、島田秀満が信長、信忠に取り次いでいる。(兼見卿記)
4月3日。信長は洛外に放火。さらに4日には上京を焼き討ちにし、義昭の御所を包囲する。結局その後、正親町天皇の調停で和議が成立するのだが・・・
同年9月。信長は十七ヶ条の異見状を将軍・足利義昭に提出。その失政を詰問する使者として島田秀満が赴く。(信長公記、尋憲記など)
元亀4年(1573)7月3日。足利義昭はまたもや挙兵。宇治槙島城に自ら立て籠もった。
武田信玄死すとの情報に確信を掴んだ信長は、すぐさまこれを攻め、宇治槙島城は落城。=宇治槙島の戦い
投降した足利義昭は追放され、ついに室町幕府は滅亡した。
晩年
室町幕府滅亡後の天正元年(1573)7月。これまで一緒に仕事をしてきた村井貞勝が京都所司代に就任。その一方、島田秀満の活躍はあまり見られなくなる。
天正2年(1574)4月25日。東大寺の八幡宮社人と大仏寺人の諸役を免除。(薬師院文書)
同年7月。信長は長年苦しめられてきた伊勢長島一向一揆を攻めた際、島田秀満は珍しく従軍。林秀貞と共に囲い舟に乗って攻撃に参加。(信長公記) 恐らく舟の調達などの奉行的な役割に徹していたのであろう。
信長家督相続の時から既に織田家の重鎮奉行だったことから考えると、村井貞勝よりも高齢だったのかもしれない。天正3年(1575)4月21日付けの書状以降、島田秀満の記録は残っていない。恐らくこの直後に没したのであろう。
島田秀満の子孫
嫡男がいたが、元亀3年(1572)10月に病を得て公家の吉田兼和(兼見)から祓鎮礼を受けた。
その2年後の3月6日に父と共に吉田社に参詣しているようだが(兼見卿記)、秀満死後の子息がどうなったのかは全く分からない。
考察
性格については詳しいことは分からない。
京都(天下)所司代として華やかな活躍を見せた村井貞勝に対し、島田秀満は全く有名ではない。しかし活躍の幅は広く、諸役の免除や知行、寺社領の安堵状、諸商人への伝達など、村井貞勝と同じくらいの活躍を見せている。
強大になっていく織田政権にとって、吏僚である秀満の喪失はかなり大きかったであろう。その分、村井貞勝の仕事が増えていくのであるが・・・
子息の活躍が全く見られないところも気になる点だ。