こんばんはー!
信長公の家臣団9人目は「林秀貞」だ。
織田家の筆頭家老として有名で、通説では「信長に帰参後は存在感が薄くてほとんど仕事してない」という印象が強いかもしれないが、果たしてそうであろうか?
今回は知名度はあれど、みんな詳しくは知らない秀貞の生涯をクローズアップする。
はじめに
- 重要な部分は赤太文字で
- それなりに重要なポイントは赤や青のアンダーラインで
- 信憑性が疑われている部分は黄色のアンダーラインで
それでははじめていきます。
林秀貞の生涯
永正10年(1513)-天正8年(1580)10月15日
仮名・幼名・官途名・受領名
新五郎、佐渡守、南部但馬、南部勝利
家族・一族
父:林通安 母:不詳
兄弟:通具(美作守)
子:光時、光之、勝吉(一吉)、娘(林通政室)
養子:林通政(娘婿)
林秀貞
「林通勝」という名について
林通勝という名は、第一級の史料からは確認されていない。
信長公記や言継卿記、宇都宮文書、尊経閣文庫文書などの史料には「林佐渡」、「林新五郎」、「林佐渡守秀貞」など、いずれも通勝という名は入っていないのだ。
父の名は八郎左衛門(通安)。信長に反旗を翻し、敗死した弟の美作守(通具)はいずれも「通」と名があるため、それが林一族の襲名かと考えたくなる。
しかしながら、もし仮に父の通安が嫡男ではなく、予定外の家督継承だった場合、嫡男である秀貞は「通」という名は襲名しない場合もある。
例えば、武田晴信の跡を継いだのは武田勝頼だと有名であるが(正式には名代であって家督継承者ではない)勝頼は武田家代々の「信」の名を継いでいない。
一方、勝頼の嫡男は「信勝」と名乗っている。
このように、イレギュラーなケースで秀貞だけ「通」の名がついていないということもあり得るのだ。
大和の松永久秀の家臣に「林通勝」という人物と、いつしか混同してしまったのかもしれない。
織田信秀時代の林秀貞
林家は代々尾張の国の有力土豪であった。
それがいつから織田弾正忠家に臣従したのか分からないが、信長の父である織田信秀の時代では、林秀貞が筆頭家老だったようだ。
天文11年(1542)織田信秀の嫡男・吉法師の家老として平手政秀、青山右衛門尉、内藤勝介とともに林秀貞が任命されており、秀貞は「一長」として筆頭であった。
この当時の織田弾正忠家では、教養深く外交でも大きな活躍を見せていた平手政秀と共に、林秀貞は双璧をなす存在であり、織田信秀に重用されていた。
なお、前田利家を輩出する荒子城主の前田家は、林秀貞の与力であった。
織田家当主・織田信秀嫡男のクソガキの悪行に頭を悩ませる
信秀の嫡男・吉法師という男は、クソ生意気でいつも歌舞いているヤンキーだった。
頭を悩ませていたのは平手政秀と同じであろうが、林秀貞は早い段階から、吉法師に愛想を尽かしていたのかもしれない。
定かではないが、主君に吉法師の廃嫡(世継ぎナンバー1候補から外すこと)をそれとなく訴えていた可能性は高い。
吉法師は同じヤンキー仲間を連れまわし、鷹狩りに出かけ、水泳やら弓やら鉄砲やら、鍛練なのか遊びなのかよくわからないようなことを毎日続けていた。
いつしか尾張の領民からも「大うつけ」と陰口を叩かれていた。
織田信秀の死
天文21年(1552)織田信秀、流行り病により末森城にて病死。
家督は信秀の遺言通り、吉法師改め織田信長が継承した。
信秀の葬儀で若き信長に第一の家老として秀貞は相伴したが、信長が位牌に抹香を投げつけたのはあまりにも有名である。
しかし、家督を継いだ信長は、名将の片鱗を見せる。
村木城の戦い 林秀貞の行動
天文23年(1554)1月。駿河の今川勢が緒川・刈谷一帯を支配する水野一族の力を無力化するべく、村木に砦を築き始めた。
信長はそれを聞いて斎藤道三に援軍を依頼。安藤守就1000の手勢に那古野城の留守居を任せ、信長は出陣を決断。
しかし、この時林秀貞は公然と出陣を拒否する。
斎藤家が心変わりをして那古野城を乗っ取ると恐れたのか、それとも水野氏救援自体に反対だったのか。
詳しい理由は不明だが、動員兵力の多い筆頭家老の出陣拒否に信長は全く意に介さず
「一向に構わぬ」と言い放ち、出陣を強行した。
暴風雨の中を強行渡海し、わずか1日で村木城を攻め落したのであった。
関連記事:激戦村木城の戦い 若き信長が男泣きをした理由とは
斎藤道三の死により織田家が揺れ動く
同年の天文23年(1554)5月。信長は清州城を攻略。
居城を那古野城から清州城へと移した。
叔父の織田信光が何者かに暗殺されると、信長は那古野城を林秀貞に与えている。
このように、信長に心服はしていないものの、その類まれなる力量に舌を巻いていたのではなかろうか。
しかし、その2年後。思わぬ事態が起きる。
美濃の支配者であり、信長の舅である斎藤道三が、息子の斎藤義龍との戦いに敗れ敗死したのである。=長良川の戦い
道三の死は美濃と尾張の外交破綻を意味していた。
信長の後ろ盾には斎藤道三がいる。
これまで表立って信長に逆らってこなかった衆にとっては、まさに好機到来だったであろう。
それは秀貞も例外ではなかった。
林秀貞が柴田勝家らと気脈を通じ、勘十郎信勝を擁立 謀叛前夜
この頃から秀貞は、信長の実弟である織田信勝(勘十郎)を担ぎ上げるために動き出しているようだ。
信勝付きの家臣である柴田勝家(権六)らと結び、謀叛を企てていた。
そんな中、信長は守山城主の織田秀俊(信時)を伴い、不意に那古野城に訪れた。
突然の来訪に驚き慌てふためく林兄弟。
何故この時に信長が那古野城を訪れたのかは不明だ。
もしかしたら、謀叛の噂が漏れ伝わっていたのかもしれない。
しかも、信長が連れてきた秀俊(信時)も、信長とはさほど仲は良くない人物であった。
秀貞の弟である林通具(美作守)は、
「この際だから討ち取ってしまいましょう」
と兄に囁いたが、秀貞は代々家老として織田家に仕える林家が、暗殺などという卑怯な手を使いたくないと突っぱねた。
結局、信長はそのまま清州へと帰っていったのだが、それからひと月と経たぬうちに、弟の秀俊(信時)が家臣の手によって暗殺されてしまった。
兄弟相克 稲生合戦 林秀貞の行動は?
弘治2年(1556)8月22日。ついに林兄弟は柴田勝家らと共に信長に反旗を翻す。
信長の直轄領である篠木三郷を横領したのだ。
同月24日。信長はただちに700の手勢を率いて清州城を出陣。
稲生村において1700余りの柴田・林らの反信長勢と激戦を繰り広げた。
会戦当初は信長は柴田勝家勢に苦戦を強いられていたようだ。
信長は手勢を後退させ、備えを再編成し、機動転換して南の林通具(美作守)の手勢に攻めかかった。
林隊はついに支えきれず、信長自身が通具を討ち取ったと伝わる。
こうして決戦は信長の大勝利に終わった。
この合戦に織田信勝と林秀貞は出陣していない。
これはなぜであろうか。
必勝を期すならばこの両名は出陣していないといけないはずだ。
それをしなかったのは、勝てる見込みはさほど高くはないと考えていたからではなかろうか。
もし敗れた場合、信勝と秀貞は赦免をされやすいように出陣をしなかった。
生母である土田御前たっての願いだったのかもしれない。
合戦後、母・土田御前のとりなしにより、謀叛に加担した人物は全て赦免され、秀貞も引き続き信長の家老として仕えた。
その後の秀貞は影が薄くて全く活躍していないと思われがちであるが、決してそうではない。
確かに筆頭家老としては古文書での記述が少ないが。
信長躍進後の秀貞の行動
三河の松平元康との同盟や信長上洛後の京都での政務では、たびたび秀貞の署名が見て取れる。
しかも、織田家の家老として一番に連署していることも珍しくない。
出陣の機会こそ少ないが、織田家の家宰として着実な任務をこなしている。
永禄11年(1568)10月20日付の書状には、大和三碓名主、百姓宛てで津田(織田)信張とともに連署。
言継卿記によると、公家の山科言継と信長の間の取次ぎ役としてたびたび登場している。
中山孝親の日記にも秀貞が取り次いだという記述が頻繁にある。(孝親公記)
同年11月5日付の書状には、天竜寺周悦に伏見荘の瑞祐首座の跡職の知行を認める書状を発給。
元亀3年(1572)12月22日の三方ヶ原の合戦では、林家から林通政(新次郎)が従軍。
元亀4年(この年改元)(1573)3月。将軍・足利義昭と和睦した際には一番に署名し、起請文を交わす。
天正2年(1574)7月3日。上杉家家老・直江景綱に武田家対策についての書状の交換が見られる等、主に外交の面で活躍しているのだ。
織田信忠の家老として
同天正2年(1574)7月の第三次伊勢長島一向一揆攻めでは、囲舟に乗って従軍。
織田信包、島田秀順(秀満)とともに加路戸島を攻めている。(信長公記)
天正3年(1575)11月。織田家の家督が織田信忠に譲られるとともに信忠付の家老となった。
織田信忠肖像画
天正6年(1578)6月。中国地方の攻略に当たっていた羽柴秀吉の援軍として信忠が播磨に出陣した際、秀貞も軍目付として従軍。
ともに神吉城を攻めている。
天正7年(1579)1月25日。村井貞勝とともに完成して間もない安土城天主の見物を許されている。(安土日記)
翌天正8年(1580)には松井友閑邸で茶会に相伴。(安土日記)
活躍では柴田や羽柴などの方がしているが、秀貞も織田家老臣として不動の地位を築いていて、安心して隠居できる身だったであろう。
林秀貞 突然の追放
それは突然のことだった。
天正8年(1580)8月。秀貞は佐久間信盛や安藤守就らとともに突然遠国へと追放された。
理由は24年前の謀叛を蒸し返されており、今一つ釈然としない。(信長公記)
佐久間の場合は十九条の折檻状が現在にも残っているが、林の場合は残っていないようである。
翌年に織田信長が正親町天皇の御前で京都御馬揃えをしているが、それまでに家臣団を整理したかったのであろうか。
理由は分からないが、信長はそうした癖がある人物だ。
その後、林秀貞は「南部但馬勝利」と改名し、京都に住んだとも安芸(広島県)に行って同地で死去したともいわれている。 享年68歳。
林家のその後
林家の子息も同じく追放されたが、三男の勝吉(一吉)が旧知の仲であった山内一豊に仕え、のちに土佐藩の家老としてその名を残した。