こんばんはー。
今日は古文書などでしばしばみられる起請文(きしょうもん)についてのお話です。
起請文はどのような場で取り交わされ、書き方はどうだったのか。
血判は?
また、破るとどうなったのか・・・。
今回はそんな謎に迫ります。
起請文とはどういう意味か
起請文とは「神々の前で誓約する内容を書き記した文書」のこと。
「誓詞」「誓句」「誓紙」とも呼ばれ、非常に格式の高い書状である。
和睦や和平をする際に大名同士が取り交わしたり、大名間で縁組が決まったときに取り交わしたり、大名が家臣団に対して発給したりもした。
天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文
これは天正10年(1582)10月24日
徳川家康と北条氏政が停戦に合意し、和睦をしたときに家康が発給した文書である。
宝印を翻す
上の画像をよく見ていただきたい。
裏に何か書かれているのがおわかりであろうか。
起請文とは、護符の裏に書くのが通例であった。
ここから、起請文を書くことを「宝印を翻す」ともいう。
どのようにして起請文が作成されていたのか
起請文を作成する際には、様々な作法があった。
基本的に起請文は「前書き」と「神文(罰文)」によって構成される。
天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文に釈文を入れてみた
まず、文書の柱書(タイトル)として、「起請文ノ事」などという文言が入る。
上記の画像では、「きせう文之事」とあるのがそれだ。
次に続く分が、誓約内容である。
上記の画像では
“何事においても氏のり御しん
たいのき ミはなし申候間敷
候事、“
(意訳)何が起きても北条氏規殿の将来は捨て置かないよ! てこと。
とあるのがそれだ。
これを「前書(前書き)」と呼ぶ。
その後に「この内容に偽りがあるようであれば神罰を蒙る」というような文言とともに、神々の前が書き連ねられる。
上記の画像では
“右此むねそむくにおいてハ、
日本国中大小の神、ふし(富士)、白山、天満天神、八満大ほさつ(八幡大菩薩)、あたこ(愛宕)
の御はんをこむり(蒙り) 来せにてハ、一
こ申ねんふつむになり可申候( もうすべくそうろう )
者也、”
の部分である。
これを「神文」あるいは「罰文」と呼ぶ。
神文は梵天、帝釈、四大天王で始まることが多い。
これに加えて相互が特に信仰している神の名前を書き加えるのが一般的であった。
これにより起請文として、誓約性を高めるのである。
相手大名によって変化する神文
先ほど「相互が特に信仰している神の名前を書き加えるのが一般的」と述べた。
しかし、中には型にはまらない変わった大名家が存在したので、その一例を紹介しよう。
甲斐武田家の神文
甲斐武田家は武田信玄で有名な大名家である。
甲斐武田家は清和源氏の流れをくむ「新羅三郎義光」を祖にして、源義光をリスペクトしている。
その源義光が使用していたものが「御旗」であり、「楯無」であった。
昔の時代劇などで「御旗楯無も御照覧あれ」などと叫んでいるシーンをご記憶の方もいるであろう。
武田家はこの「御旗楯無」を代々の家宝とし、神格化させた。
外交交渉で起請文を取り交わす際は、武田家が神文で使用したのが、「御旗楯無」であったわけだ。
神の名でも愛宕や白山でもないが・・・なかなか興味深い。
キリシタン大名が使用した神文
「相互が特に信仰している神の名前を書き加えるのが一般的」ということで、日本の神に誓っても意味をなさない切支丹の大名家は、神文のところに「デウス様」などが書かれた。
今日でも島津家の保護下に入った有馬家が発給した起請文が残っている。
起請文を取り交わす際の作法
起請文は血判をしばしば使用する。
その血判を捺すのに、本当に大名本人が捺したかどうかを確認するために、相手方の取次役(奏者ともいう。交渉責任者のこと)の目の前でないといけなかった。
血判というと指先に傷をつけて印を捺すようなイメージがあるが、実際はそうではなかったようだ。
実際は指先に傷つけるまでは一緒なのだが、そこから血を花押の上に滴らせるのである。
もしかすると榊をとり、神前で行なっていたのかもしれない。
それくらい外交交渉での起請文とは神聖なものだったのだ。
双方の家臣同士も起請文を取り交わした
起請文の交換は、大名同士が交わして完結するものではなかった。
多くの場合、大名の重臣も起請文を作成して、相手の重臣に提出するという作法がとられている。
清州同盟で信長と家康が同盟を締結した際に、家老の林や重臣の滝川、佐久間などの名がある。
他にも取次(奏者ともいう。交渉責任者のこと)のみが起請文を作成し、提出するパターンもあった。
起請文を破るとどうなったか
いかに戦乱の世とはいえ、起請文の内容を破ると、多くの人々の信頼を失った。
現在でも外交での約定を違えると重大な外交問題に発展する。
この戦国時代も同じことがいえ、彼らは今の世に生きる我々が理解し難いくらい、面目にこだわった。
面目をつぶされた側の大名は、約定を違えた大名家を大いに憎み、呪詛にもかけたという。
和睦の仲介を蹴るとどうなったか
戦国期当時は「中人制」が一般的であった。
双方の橋渡し役となって、積極的に仲介に奔走して和睦を促す立場の人物や勢力のことである。
例えば天文10年(1541)頃の家督を継承したばかりの武田晴信(信玄)は、駿河の今川義元に加えて相模の北条氏康とも同盟を締結した。
しかし、駿河の領土問題で北条家と今川家の仲が険悪でたびたびいくさがあり、さらに扇谷上杉氏と山内上杉氏が北条氏を攻めようとした。
その時北条家の依頼に応じて和平の仲介をしたのが、武田晴信であった。
駿河の今川義元は晴信の面子(面目)を立ててこれを了承し、北条は東に注力できるようになった。
一方、この時扇谷上杉氏と山内上杉氏は、自軍が優勢だと見て晴信の仲介を蹴った。
この直後、武田家はこの上杉両家との同盟を破棄している。
面目をつぶされたというのもあるだろうが、晴信としては北条氏康の方が力量は上だと見たのであろう。
晴信の読み通り、それからほどなくして河越夜戦が勃発。
北条氏康はこの上杉両家を蹴散らし、扇谷上杉氏と山内上杉氏を滅ぼすに至った。
このように、中人制において中人は保証人の役割を果たすから、仲介を拒絶したり盟約を破棄することは、中人の面目を潰すことになる。
この時代では面目を潰されることは武士として最大の恥辱であったらしい。
思えば織田信長が発給した書状も、またその他の大名の書状からも「面目」というワードがたびたび出てくる。
織田信長が佐久間信盛に送りつけた十九ヵ条の折檻状にも「面目」という文言が頻繁に出てくるので、ご興味のある方は是非。
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