伊勢の名門北畠氏の光と影 ~なぜ国司は滅んだのか~②

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伊勢の名門北畠氏の光と影 ~なぜ国司は滅んだのか~②伊勢の名門北畠氏の光と影 ~なぜ国司は滅んだのか~②

前回に引き続き伊勢国司北畠氏のお話です。
第2回目となるこの記事は、主に「北畠氏と神領および山田三方衆との関係について」「大和国における北畠氏の行動」そして「北畠氏は応仁・文明の乱をどのように切り抜けたのか」を書いています。

執筆を予定していた「木造氏が突如造反した理由について」は、誠に申し訳ありませんが、次回の記事に持ち越しとさせていただきます。
なお、本記事最下部には応仁・文明の乱における北畠氏と足利義視の行動を『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)』の文正元年(1466)12月~文明2年(1470)を中心にまとめております。
管見の限りではございますが、備忘録として載せておきます。

神領および山田三方衆との関係

 南北朝の動乱期、北畠氏は南朝勢力としてあらん限りの力を使い戦いました。
神三郡(度会わたらい・飯野・多気)に多くの所領を持つ伊勢神宮も南朝派として戦い、神宮下港として栄えた大湊から多くの味方が行き来しました。

やがて南北朝が合一すると、足利義満の時代に紀州熊野や伊勢神宮への参詣がブームとなります。
伊勢神宮の神威を説いて回る御師(おんし)達の活動も盛んになり、最盛期には神宮の寄進地・御厨みくりや御薗みそのは39ヶ国にも及びました。
宇治(内宮)・山田(外宮)の有力商人や裕福な町衆は、ごんの禰宜の称を得て神職的な色彩を帯びる者も多く、神宮御師として全国各地と師檀関係を形成。
伊勢神宮に参詣する人を誘致し、神饌しんせん御贄おんべといった貢納物を得ました。
戦国時代末期になると、特に大檀那である中国地方の毛利氏と盛んに通交している様子が窺えます。『村山文書』

書状の翻刻は『三重県史 資料編 中世1(下)(1999)』に多数収録されている

書状の翻刻は『三重県史 資料編 中世1(下)(1999)』に多数収録されている

伊勢本国では、異姓家(荒木田・度会二姓以外)の神役人層が次第に御師の主流となり、「会合年寄えごうとしより」を構成して自治機関を運営するようになります。
この自治機関は山田で「山田三方会合衆(やまださんぽうえごうしゅう)」、宇治で「宇治会合衆(うじえごうしゅう)」と呼ばれ、町政を執り仕切り御師活動を監督しました。

北畠満雅みちまさの敗死から家を立て直した北畠教具のりともは、この会合衆と対立し、軍事侵攻を繰り返します。
当初は北畠氏に抵抗した神領の人物も、やがて禰宜の荒木田氏等は北畠氏を受け入れ始めます。『荒木田氏経書状群』
北畠一族のうち、特に神領と深い利害関係を持ったのが分家の坂内さかない氏です。
坂内氏は元々祭主領であった笠服荘を領有し「笠木御所」を本拠とします。
ここは多気郡の端に位置し、神領である度会・飯野郡に近接していることから、何か有事が発生した場合、すぐさま介入する意図があったのかもしれません。

伊勢国国郡マップ01

伊勢国郡図(国土地理院より)

特に文明18年(1486)に起きた戦いは激しく、国司の具方(材親)が山田三方衆を打ち破った際、外宮が焼亡してしまう事態となりました。『山田三方会合記録』『神宮文庫所蔵文書』
以降も北畠氏は山田三方衆と和戦を繰り返しており、その過程で神領への影響力を伸ばしていきました。
一説には北畠氏は彼らの自治を壊さず、穏便な統治をしたものの、のちに織田信長がそれらを完全に破壊したとするものがあります。
しかしながら、神宮関連の史料群や寺社門跡の日記を見る限り、とてもそうとは言い難いでしょう。

応永の挙兵と正長の挙兵

 これは、北畠満雅が幕府に対して兵を挙げた時期の話です。
応永22年(1415)、国司満雅は1度目の挙兵(応永の挙兵)を起こしますが、敗北して約2か月後に赦免されます。

さらに正長しょうちょう元年(1428)に2度目の挙兵(正長の挙兵)を起こし、翌永享元年(1429)12月に国司満雅は敗死しました。
以後、北畠氏の領分は大きく削られ、幕府から完全に赦免されるまで長期間を要しました。

(史料1) 『神宮文庫所蔵文書(応永二十五年内宮仮殿遷宮記背紙文書)』

官幣使御上洛伝馬料事、三郡如旧例被返付候上者、神戸・郡司等致慇懃之沙汰候之様、可被下知候、殊更事初御祝着候、固可令成敗給之由、祭主殿仰所候也、恐々謹言
   応永廿二年六月十一日       権禰宜(花押) 


  謹上 道後政所殿

(書き下し文)
官幣使かんぺいし御上洛、伝馬料の事、三郡旧例の如く返付せられ候上は、神戸・郡司等、慇懃の沙汰を致し候の様、下知せらるべく候。
殊さら御祝着の初事に候。
固く成敗せし給うべきの由、祭主殿仰す所に候なり。
恐々謹言
   応永二十二年(1415)六月十一日       権禰宜(荒木田経清(花押)
 

  謹上 道後政所(荒木田氏興)殿

※官幣=季節ごとの祭の際に、神祇官が格式の高い神社に捧げた供物
※伝馬料=街道上の輸送費、宿代、馬の調達費用
※道後政所=伊勢神宮の三郡支配において主要な役割を果たした機関。山田三方衆の前身か。

これは北畠満雅による1度目の挙兵の直後と思われる神宮側の史料で、伊勢神宮の月次祭官幣使が上洛する際の路次費用について、神戸や郡司らに下知するようと記されたものです。
(祭主大中中臣通直の命令を、権禰宜の荒木田経清が道後政所の荒木田氏興に命じたもの)

赤字下線部の「三郡旧例の如く返付せられ候上は」とある部分。
三郡とは伊勢神宮が元来支配していた度会・飯野・多紀郡のことです。
室町期の興福寺研究の第一人者で知られる大薮海氏は、状況から北畠氏が実効支配を推し進めていたこの地を、このたびの幕府の裁定によって返還させられたのではないか。
その結果、北畠氏の支配領域は一志・飯高の二郡に限定されたことが確定したのではないかと推論されています。

国司満雅はこれに諦めず、南朝後胤の小倉宮を奉じるという大義名分を掲げて2度目の挙兵を起こします。
これには鈴鹿郡の関氏・三重郡の赤堀氏が呼応して共に立ち上がりますが、守護の土岐持頼(世保家)や安濃郡の長野氏・雲林院うじい氏、さらに北畠一族の木造こづくり氏によって鎮圧される結果となりました。
これにより、北畠氏は再び低迷期を迎えます。

大和国における北畠氏の行動

 南北朝期以降、南都の本拠地であった吉野地方との連絡を取るため、北畠氏は常に大和国の動向に注意を向けていました。
同国の東端に位置する宇陀郡は、宇陀三将と呼ばれる秋山・澤・芳野の三氏が力を持ち、南朝派として北畠氏に従属するいわゆる国人です。

この宇陀三将は前回の記事でも軽く触れた勢力です。
彼らは互いに一揆連盟を結んで興福寺や幕府に反抗し、横領を繰り返します。
軍事的危機に陥ると北畠氏を頼りとして、2度の挙兵にも従いました。

『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)』巻五十三の巻末

『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)』巻五十三の巻末より

『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)』巻五十三の巻末を編集

『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)』巻五十三の巻末を編集
(赤字は郡名)

北畠氏が宇陀郡に直接影響力を持つことは、幕府からも興福寺からも認められていません。
(※宇陀の分郡守護との通説は近年否定されつつある)

そのため、彼らが不可欠な存在だったのでしょう。
しかしながら、彼らは被官ではなく国人です。
ときとして、北畠氏の下知に従わないこともありました。
北畠氏(特に政郷)は宇陀支配を画策して新たな戦略を打ち立てます。

ここは古くから伊勢神宮への参宮ルートとして利用されており、関所が多く設けられる峠道でした。

衰退する興福寺

 古代期から鎌倉時代にかけて、大和国で権勢を誇っていたのが興福寺です。
しかし、室町時代には興福寺はすでに衰退期を迎えており、代わって衆徒国民が力を持つようになります。
彼らは興福寺の武力として活躍してきましたが、次第に独自の行動をとるようになり、興福寺の下知に従わない者も現れます。

加えてこの時代は、興福寺の子院である大乗院(九条流)・一乗院(近衛流)の両門跡が実権を掌握していました。
両院とも平安中期にひらかれた院家ですが、鎌倉時代末期には両門跡による主導権争いが発生し、それぞれが衆徒・国民を擁して激しく争います。

そのような情勢が続く中、室町幕府6代将軍足利義教は、難しい選択を迫られることとなります。

足利義教の大和介入と北畠満雅の挙兵

 足利義教の執政初期、大和国ではすでに大乗院衆徒の豊田中坊氏と一乗院衆徒の井戸氏が中心となり争っていました。
当初義教は、この争いに関して不介入の姿勢をとっていましたが、南都伝奏の万里小路までのこうじ時房の進言を契機に方針を一転させます。

ことの発端は正長2年(1429)7月。
興福寺別当一乗院昭円が、この争いを幕府の裁定で鎮めてほしいと介入を求めたことでした。
この訴えを聞いた義教は、豊田中坊・井戸双方に対して、争いを止めるように奉書ではなく口頭で注意します。『建内記(正長二年七月四日条)』

四日、天晴、参室町殿申入条々事、
興福寺別当僧正申、豊田中坊与井戸欲及合戦事、
仰、中坊事、可被加制止之由可申大乗院、但不及奉書、只可召仰雑掌、井戸事、同可仰一乗院雑掌、

 (四日、天晴。室町殿に参り申し入る条々の事。興福寺別当僧正の事、豊田中坊と井戸、欲に及びて合戦の事。仰せ。中坊の事、制止を加えらるべきの由、大乗院が申すべし。ただし奉書には及ばず。ただ雑掌を仰ぎ召すべし。井戸の事、同じく一乗院の雑掌を仰ぐべし。)

しかし、これでは効果がなく、同月11日に今度は大乗院門跡の経覚が将軍義教に御教書を以て争いを止めてほしいと泣きつきます。
南都伝奏で、この件の当事者であった万里小路時房(建内記の著者カ)は、三宝院満済(満済准后日記の著者)を交えて義教と対面。
善後策を議論します。
その結果、義教は御教書みぎょうしょの発給を決定し、上意を以て両門跡に対して争乱の停止を促しました。『建内記(正長二年七月十一日条)』
つまり、興福寺には独力で争いを抑える力はすでに無く、興福寺を凌ぐ力があったはずの大乗院・一乗院でさえも、もはや収拾がつかないレベルだったのです。

ところが、またしても将軍の命は無視されることとなります。
実は御教書が発給される前日の7月10日時点で、すでに合戦が始まっていたのです。

慌てた一乗院昭円は再度の御教書発給を求めます。
義教はこれを受けて御教書とともに上使を派遣します。
やがて上使が帰京し、ことの仔細を将軍に報告しました。

足利義教

事態は義教が考えていたよりはるかに深刻なものでした。

その理由として、幕府が上使を派遣した際、井戸氏に味方する筒井・十市両氏はこれに従ったものの、豊田中坊・箸尾両氏はこれに従わず、戦闘行為に踏み切ったこと。
これに宇陀郡の澤・秋山両氏が呼応し、筒井氏らを相手に攻め込んだこと。
さらに、西大和では管領かんれい畠山満家の被官衆もこの乱に介入したことが挙げられます。

実は、当時南伊勢では北畠満雅が正長の挙兵(2度目の挙兵)を起こして土岐氏や幕府と交戦しており、宇陀の澤・秋山両氏が北畠氏の与力であることから、戦況が悪化する恐れがあったのです。

慌てた義教は武力での大和鎮圧を決断。
細川持之と赤松満祐に討伐を命じます。
こうして10年にもおよぶ大和永享の乱が始まりました。

史料2) 『満済准后日記(永享元年十一月二十四日条)』

大和国民今度去廿一日弓矢事、以外之由被仰、当御代弓矢取出者ヲハ可有御罪科之由被仰了、殊越智等事、被成御教書処、不事問筒井・十郎ニ対令合戦了、越智・箸尾・万歳・沢・秋山以下一方ニテ大勢之間、筒井合戦ニ負、管領所々及数ヶ所被焼払了、一族一両人被打了、以上本城計ニテ、己可切腹之由令注進候了、仍上意違背国民等為御退治、細川右京大夫・赤松左京大夫両人ニ可罷向由、以大館被仰付了、

(書き下し文)
大和国民、このたび去二十一日(正長2年(1429)7月21日)弓矢の事、もってのほかの由と仰せられ、当御代に弓矢を取り出す者をば御罪科あるべきの由と仰せられおわんぬ
殊に越智等の事、御教書を成さるるのところ、不事を問い、筒井・十市とおちに対し合戦せしめおわんぬ。
越智・箸尾・万歳・沢・秋山以下一方にて大勢の間、筒井は合戦に負け、管領所々数か所に及び焼き払われおわんぬ。
一族一両人も討たれおわんぬ。
以上本城ばかりにて、己も切腹すべしの由と注進せしめ候おわんぬ。
仍って上意を違背する国民等の御退治として、細川右京大夫うきょうのたいぶ(細川持之)・赤松左京大夫さきょうのたいぶ(赤松満祐)両人に罷り向かうべきの由、大館おおだち(大館満信)を以て仰せ付けられおわんぬ。

しかし、義教の早々に出兵する決定に対しては、三宝院満済をはじめ守護の諸大名たちは否定的だったようです。
というのは、関東でも足利義教のことをくじ引き将軍と公言して憚らない足利成氏しげうじの動向が予断を許さない情勢でした。
結局義教は諸侯の意見を受け入れ、実際に本腰を入れての派兵が行われるまで約3年の歳月を要しました。

一方で伊勢国では、国司北畠満雅が永享元年(1429)12月21日に敗死します。
しかし、当主を失ってもなお北畠氏は雲出川以南で頑強に抵抗を続け、戦況は膠着状態に陥っていました。
足利義教より国司討伐の命を受けていたのが伊勢守護職の土岐持頼(世保家)です。
彼はこの時期、国司征伐が遅々として進まないことを義教に責められていますが、裏を返すとこれは義教の焦りなのかもしれません。『満済准后日記(永享元年十月二十八日条)』

「守護土岐大膳大夫、兼テハ十月比、雲津川ヲ越シ、国司ヲモ可令退治之由申処、于今遅々条不被得御意事也、」
(守護土岐大膳大夫だいぜんのたいぶ(土岐持頼)、かねては十月頃、雲津川(雲出川)を越し、国司(北畠氏)をも退治すべしの由と申すところ、今に遅々に候条、御意を得られずの事なり。)

 (※合戦に勝利した土岐持頼が、満済を通じて義教から御褒美を賜る話は前回記事の「上方からも資金と軍事力を期待された関・長野の二大勢力」で取り上げました。『満済准后日記』(正長二年六月十九日条)

敗戦の爪痕

 国司満雅が討死したにも関わらず、北畠氏は頑強に抵抗を続けておりました。
しかし、いくさの長期化は北畠氏も望んでおらず、家督を代行していた北畠顕雅あきまさ(のちの大河内おかわち顕雅)は永享元年(1429)に三宝院満済を通じて赦免を願い出ます。
その結果、翌年4月以降に北畠氏の領分は一志・飯高の2郡と確定した上、改めて神三郡(度会・飯野・多紀)および大和国宇陀郡は北畠氏のものではないことが再確認されました。

一方、大和永享の乱は一進一退の泥沼の攻防が続いており、その戦乱中にかねてから足利義教と不和な関係であった弟の義昭ぎしょう(前の大覚寺門跡)が大和国天川で反旗を翻します。
この際、北畠氏もこれに加わったのではないかと世上の噂に上っていた様子ですが、実際のところは義教の命を忠実に守り、義昭討伐に従軍しました。

(史料3) 『建内記(永享十一年六月六日条)』より抜粋

後聞、北畠中将持康朝臣、為伊勢国司北畠故中将子、小生也、在国小生之間、伯父僧還俗相代在京、当時中将顕雅朝臣也、而進発大和国致軍忠在陣之時分也、爰有種々浮説、令恐怖歟之由風聞、御退治進発勢州云々、実否可尋記、後聞、非其儀、大覚寺前門(主脱カ殿御坐勢州、依為被退治申被仰彼所了、顕雅朝臣自和州日(同カ)向之、長野同可向之、

(書き下し文)
後聞、北畠中将持康朝臣(木造持康)、伊勢国司((故北畠中将=北畠満雅)の子、小生(幼少)なり。小生の間は在国し、伯父の僧還俗げんぞくし、(国司に)相代わり在京す。当時は中将顕雅(のちの大河内顕雅)朝臣なり。然して大和国へ進発し、在陣・軍忠致す時分なり。ここに種々の浮説有り。恐怖せしめ、かの風聞の由)御退治のため勢州へ進発と云々
実否を尋ねるべく記す。
後聞、その儀にあらず。
大覚寺前の門主(大覚寺義昭)殿勢州に御座。
仍って退治なさるためと申し、かの所を仰されおわんぬ。
顕雅朝臣、和州(大和国)よりこれに向かい、長野(長野満高カ)もこれ向かうべく・・・

つまり、在京中の木造持康(北畠と同族の分家当主)が北畠教顕(のちの教具)を討伐するために伊勢へ下向したと聞いた。
しかし、後に聞いた話によるとそうではなく、持康は大覚寺義昭を討つために伊勢へ戻ったようだ。
国司代行の北畠顕雅(満雅の弟)も大和国より長野氏とともに馳せ向かったとするものです。
その他の記述からも疑いの目は北畠氏に向けられていたようで、2度にわたる挙兵が影を落としていた様子が窺えます。
結局、義昭は伊勢にはおらず、大和永享の乱も大きなしこりを残したまま鎮圧されました。

北畠教具・政郷による強引な現状変更

 嘉吉元年(1441)6月24日
室町幕府6代将軍足利義教は赤松満祐によって暗殺されました。
力で抑え込んだはずの大和国も、再び激しい戦乱の時代に逆戻り。
義教を支えた畠山家もかつての力はなく、幕府の土台は足元が揺らいでいました。

そんな中、伊勢国司満雅の忘れ形見である嫡男は成長し、北畠教具と名乗ります。
南勢2郡の領主に過ぎない北畠家でしたが、教具の執政期に伊勢神宮領が多く存在する度会・飯野・多紀の3郡へ積極的に横領を繰り返します。
その一方、援助を求めてきた親戚の赤松氏を見限り、幕府には恭順の姿勢を取りました。(北畠大河内顕雅の娘を赤松家へ嫁いでいた)

その成果もあってか幕府との関係は改善し、北畠家初の伊勢守護職にも任ぜられました。

教具の嫡男として家督を継いだ政郷まささと政具まさとも・政勝)も強気な外交路線を引き継ぎ、さかんに領国外に進出(横領)を繰り返しました。
幕府は政郷の行動を問題視しはじめ、これを詰問する面白い史料があります。

(史料4)『大乗院寺社雑事記(長享二年二月二十三日条)』

一、唯心今日勢州下向之由申、國司方入道殿返事申之、給彼使了、自公方國司方被仰出条々唯心相語、

 一、参宮路次關所共立之、雅意以外事云々、御返事畏入候、國司事小分限事候間、以關務内者共加扶持可奉公所存也、則此子細、代々至當御代、経上意御許可、御教書拜領之由申入之、


 一、公方奉公無沙汰不可然旨事、返事、此条就國務在國仕候、仍爲代官分一族  定在京仕候、朝恩無之一向爲私沙汰立進之上者、一向無奉公事無之旨申入之、


 一、神三郡事、國司横領不可然事、返事、此事ハ彼三郡地下人共侍分者共槌失之、凡下ナメンタラト申事ヲ行候キ、天下沙汰以外次第也、爲國司可沙汰旨、蒙仰之間、如上意成敗仕了、其忠ニ被仰付候、雖然御神事物等ハ、爲一事無違乱申付候、更以非私儀之由申入之、土民共興成、爲諸國不可然旨及御沙汰了、


 一、去々年
宮焼失事、國司所行旨被仰下事、此事内宮宇治ト下宮山田ト相論確執事在之、自内宮沙汰也、於國司内宮方合力ハ勿論候、更以非私所行之由申入之、
  以上

(書き下し文)
一、唯心(人名カ)、今日勢州下向の由と申し、国司方入道(北畠政郷)殿返事を申す。かの使を給いおわんぬ。
公方くぼう(将軍)より国司方へ仰せ出さる条々唯心相語る。

 一、参宮路次関所ともにこれを立て、我意もってのほかの事と云々。御返事かしこみ入り候。国司の事、小分限(小勢力・小禄)の事に候間、関務を以て内者どもに扶持を加え、奉公すべく所存なり。すなわちこの子細、代々当御代に至りて上意の許可を経て、御教書を拝領の由、これを申入る。

 一、公方奉公無沙汰然るべからざる旨の事。返事。この条、国務に就きて在国仕り候。仍って代官分として、一族を定めて在京仕り候。朝恩(朝廷への恩)一向にこれ無く、私沙汰わたくしざたとして立てまいらすの上は、一向無奉公の事これ無きの旨申入る。

 一、神三郡(度会・飯野・多紀郡)の事、国司横領然るべからざるの事。返事。この事は、かの三郡の地下人ども・侍分者どもこれを槌失し、凡下なめんたらと申す事を行い候き。天下の沙汰もってのほかの次第に候なり。国司として沙汰すべきの旨、仰せ蒙るの間、上意の如く成敗仕りおわんぬ。その忠に仰せ付けられ候。しかれども、御神事物等は、一事として違乱無く申し付け候。さらに以て私儀にあらずの由、これを申し入れ、土民どもに成し興し、諸国のため御沙汰に及ぶの旨、然るべからずおわんぬ。

 一、去々年外宮焼失の事、国司所行の旨と仰せ下さる事。この事、内宮宇治と下宮山田と相論・確執の事これあり。内宮よりの沙汰なり。国司に於いては、内宮方合力は勿論に候。さらに以て私所行の由にあらずと申入る。
   以上

文中に「参宮路次支配関所共立之、雅意以外事」の一文があります。
参宮路次とは大和国宇陀郡~伊勢神宮へ繋がる峠街道のことで、これを横領したり、恣意的に封鎖をする北畠氏を幕府は厳しく非難しています。

これに対して北畠氏は「恐れながら、我々は小禄の身なので、被官衆を養うために関を与えて知行させている。このことは代々上意の御許可を頂いている」と開き直っています。

さらに、伊勢神宮領三郡横領の件に関しても、「庶民や下級地侍たちを救済するための行いであって、決して利己的なものではない。御神事物等は一切の違乱はしていない」と、これまた詭弁に等しい回答をしています。

宇陀三将と呼ばれる秋山・澤・芳野の三氏は代々北畠氏に従属する国人領主です。
しかし、その宇陀郡における正当な支配者は興福寺とされ、北畠氏による宇陀での活動は、幕府や興福寺に公認されたものではありませんでした。
(※通説では宇陀郡の分郡守護は明徳3年(1392)から応永6年(1399)まで大内義弘、次に北畠顕泰、奥御賀丸、山名調心が任ぜられ、各氏のあとは北畠氏が代々歴任したとされているが、近年は大薮海氏を中心に再検討されつつあるようだ)

正当な名分がなければ人々がついてこないがは世の常です。
政郷は宇陀支配を画策して、横領や軍事侵攻とは異なるアプローチからこの問題に切り込みます。

後継者不足に悩む東門院門跡

 それが一門を興福寺へ送り込むという戦略です。
北畠系の一門が興福寺の政治を動かす1人になるように計らい、御家にとって都合の良い工作を行うというわけです。
とはいえ、興福寺にとって北畠氏は南北朝以来の敵であり、現在も宇陀郡において興福寺の所領(少なくとも興福寺はそのように認識していた)を脅かす張本人です。
到底受け入れるとは思えません。

そこで政郷は、子院のひとつである東門院に着目します。
東門院の正確な開山時期は不明ですが、当時は宇陀郡に(少なくとも1ヶ所は)所領を持っていた寺院でした。
この寺門は大乗院(九条流)や一乗院(近衛流)とは異なり、歴代の院主はさまざまな家の子息から招かれていました。
さらに、足利義教期に一時断絶状態となっていたようで、永享8年(1436)7月に足利義教の計らいにより、困窮していた光明院隆秀(鷲尾隆敦の子で義教の寵愛を受けていたようだ)を院主に据えます。『看聞日記(永享八年七月十八日条)』
ところが嘉吉の変で足利義教が討たれると、大和国で大規模な動乱が発生し、義教の寵を受けていた隆秀は失脚します。

(史料5) 『大乗院日記目録(嘉吉元年七月十日条より抜粋)』

十日、六方蜂起、東門院坊事、如元可被返付仏地院之由、問答隆秀僧正畢、可返渡云々、此間儀者、為上意故無力云々、
次寺務職事、可被辞退之由同申之、得其意云々

(書き下し文)
十日(嘉吉元年=1441 7月10日)、六方(興福寺六方衆ろっぽうしゅう)蜂起。
東門院坊の事、元の如く仏地院を返付せらるべきの由、隆秀僧正が問答おわんぬ。
返し渡すべきと云々。
この間の儀は上意として無力故に云々。
次いで寺務職の事、辞退せらるべきの由、同じくこれ申す。
その意を得云々。

研究者大薮海氏によると、そこから混乱があった末に小島持言の子息である孝祐こうゆうが東門院の院主となったようです。
小島氏は公家の家系で、飛騨の国司である姉小路家嫡流の家系です。
興福寺では過去にその家系から子息を受け入れた前例がなく、極めて異例の出来事であったと考えられます。
孝祐は僧籍として大出世を遂げ、応仁元年(1467)には興福寺別当に就任しています。

しかしながら、孝祐には継がせるべき後継者がなかったと見え、なんとしても存命中に後継者を迎えねばなりませんでした。
宇陀郡支配への正当な名分がほしい北畠氏にとって、これほど都合の良い寺院はなかったのではないかと大藪氏は考察されています。

孝祐の意図は不明ですが、東門院にとっても大乗院派・一乗院派が牛耳る興福寺に一石を投じ、その上で北畠氏の豊富な財力に魅力を感じていたのかもしれません。

北畠氏系東門院主の誕生

 実際に政郷がどのような工作をしたのか。
それを裏付ける史料は乏しいものの、大乗院の尋尊じんそんが著した『大乗院寺社雑事記だいじょういんじしゃぞうじき(尋尊大僧正記)』には、わずかながらその痕跡が感じられます。

(史料6) 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月九日条より抜粋

一、定清五師申、宇多闕事、代々相傳之、本来ハ衆中闕也、闕料衆中へ致其沙汰、然而一段爲衆中定清先祖ニ許可之、然而号野田東之跡、山城炭篭致知行、自炭篭方以東門院、伊勢國司方ニ成下様令申之、令知行云々、此子細自定清方國方高柳ニ申遣、則御判物衆中以下許可書状献之間、定清理運也、但自東門院口入之間、東門院書状無之者、定清へ不可付之旨高柳返答云々、仍東門院書状事、定清申之、内々東門院へ相傳之處、東門院返事、炭篭事坊人一分ハ、定清五師方より野田東方へノ去状以下、明鏡證文等持来候て申候間、國司方へ引付まてにて候、地理非事ハ、当方与定清可開候、其時更以東方不可引汲候、無落居以前一事両様ニ國司方へ難申之由返事也、此子細尤也、可仰定清之由仰了、但定清所存ハ、就東門院可申所存旨相存云々、不得其意事也、大略定清無理申歟云々、此闕事及數年定清与故東令相論題目也、結句落居ハ自定清方去状出之了、則東方致知行云々、本證文之有無事也云々、

(書き下し文)
定清五師申す。
宇陀欠事、代々これを相伝。
本来は衆中の闕なり。
闕料衆中へその沙汰を致す。
然して一段の衆中として、定清先祖これを許可す。
然して野田東の跡と号し、山城炭篭が知行致し、炭篭方より東門院を以て、伊勢国司方に成し下すよう、これ申さしめ、知行せしめ云々。
この子細、定清より国司方(高柳)に申し遣す。
すなわち、御判物は衆中以下の書状を許可し献ずるの間は、定清の理運なり。
ただし、東門院より口入りの間は、東門院の書状これ無くは、定清へこれ付くべからざるの旨、高柳に返答し云々。
仍って東門院の書状のこと、定清これを申す。
内々東門院へ相伝えるのところ、東門院の返事は
「炭篭の事、坊人一分は、定清五師方より野田東方への去状(さりじょう=離別状)以下、明鏡証文しょうもん等を持ち来たり候て申し候間、国司方へ引付ひきつけ(くばり引付か。そうである場合は訴訟関連の状)までにて候。
理非事は当方と定清が開くべく候。
その時、さらに以て東方を引汲すべからず候。
落居無き以前、一事両様に国司方へ申し難き」
の由の返事なり。
この子細もっともなり。
定清仰すべきの由と仰ぎおわんぬ。
ただし定清の所存は、東門院に就きて申すべき所存の旨と相存じ云々。
その意を得ざる事なり。
大略、定清が無理を申すかと云々。
この欠事、数年に及び定清と(故東?)が相論せしむる題目なり。
結句、落居は定清方より去り状を出しおわんぬ。
すなわち、東方が知行致し云々。
本証文の有無の事なりと云々。

こうした北畠氏による根回しは数年前から進められていたと見え、前例のない強引な工作に、興福寺側も戸惑いを隠せない様子です。
畿内では応仁・文明の乱が勃発し、世間が騒然としていた時期でした。

文明4年(1472)4月13日。
北畠政郷の舎弟(教具の子)は東門院に入室します。
彼は当時12歳。
東門院孝祐の弟子となり、2年ほど後に得度した際「孝尊こうそん」と称します。

(史料7) 『大乗院寺社雑事記』文明四年四月十二日条~十七日条より抜粋

十二日
(中略)
一、伊勢國司舎弟東門院入室事、自學呂相支子細在之、比興言悟道斷次第也、無故實中々沙汰外至也、然而近日岩内在陣之間、依計略無爲、無相違之旨、學侶申之云々、伊勢与當取事云々、


十三日
(中略)
一、東門院弟子入室、板輿、騎馬五騎・遁一人云々、十二歳云々、


十五日
月蝕
(中略)
一、伊勢軍勢今日番替罷上畢、


十七日
一、於東門院猿樂在之、
室生、内物以下取立云々、東北院僧正等見物云々、松殿少将被出了、

以後、東門院は代々北畠氏の子息が院主に就任し、宇陀郡を支配するために一定の役割を果たしました。
孝尊の次代は孝緑こうえん(政郷の子)、その次々に孝憲こうけん(晴具の子)と続きます。
(院主職は基本的に、同族の甥にあたる人物が相続する習わしがある)

北畠氏の政治的意図は明らかで、東門院領における宇陀の代官には北畠氏の奉行人が務めるようになります。
また、東門院寺内に北畠氏の被官衆がたびたび出入りすることで、孝祐は憤りを隠せない様子が史料からは窺えます。『大乗院寺社雑事記』文明九年四月二十二日条など

「近日禅公沙汰、彼披官等不浄物出入歎入之由、僧正連々申」
 (近日孝尊の沙汰、かの被官等不浄の者が出入りし、嘆き入るの由、孝祐がつらつらと申し・・・)

(他にも同史料からは孝祐が不満を露わにした記述がいくつかある)

1世紀ほど後の話となりますが、孝憲(晴具の子)が院主を務めた時期に三瀬の変が起き、北畠具教をはじめとする多くの一族が命を落としました。
その後彼は還俗し、北畠具親ともちかと名乗り御家再興のため兵を挙げます。
それに伴い東門院は断絶しました。

時代はいよいよ戦国時代へ。
次は北畠氏が応仁・文明の乱をどう切り抜けたのかを見ていきましょう。

北畠氏は応仁・文明の乱をどのように切り抜けたのか

(※ここからは、『大乗院寺社雑事記』からの引用が多くなります。
翻刻の抜粋は年月日とともに本記事最下部にまとめておりますので、そちらも併せてご参照ください)

京都周辺では長禄4年(1460)頃から飢饉や天災が断続的に続いていました。
特に寛正かんしょう2年(1461)の飢饉では多くの民が餓死し、賀茂川が死骸の山で埋まったと伝えられています。
当時は足利義政の執政期です。
守護大名家の家督を巡る御家騒動は畠山氏・斯波氏・佐々木六角氏などで発生しており、幕府が介入せざるを得ないほど収拾がつかぬありさまでした。
しかし、義政がどのように裁定を下しても、結局は武力抗争に発展してしまいます。
南勢を治める北畠氏も、この抗争に否応なく巻き込まれます。

(史料8) 『大乗院寺社雑事記』文正二年正月十九日条より抜粋

 十九日
一、昨日京都合戦云々、十七日畠山政弘屋形自放火、率人勢上御靈ニ陣取之、公方ニ義就・山名入道宗全・一色等閉籠故也、京極入道等今出川邊ニ罷上陣取、政弘爲合力也、細川勝元一黨悉以爲政弘合力相集云々、然而公方事外御迷惑、可及御生涯之間、山名・細川両人両方合力事可止旨、平ニ被仰請云々、依其義就令腹立、罷立御前押寄御靈之陣、昨日自早旦至夕方一日合戦、両畠山之儀、勝負可有一途者也、雑説種々無是非、今日飯尾肥前守之種御免、赤松之在馬同御免云々、

(書き下し文)
一、昨日京都で合戦云々。
十七日、畠山政弘(畠山政長)館に火を放つにより、人勢を率い御霊に陣取り、公方(足利義政)に義就(畠山義就)・山名入道宗全・一色(一色義直)等を閉め籠め、京極入道(京極持清)等は今出川辺りに罷り上って陣取る。
政弘合力の為なり。
細川勝元一党ことごとく以て政弘合力のため相集まり云々。
然して公方(足利義政)殊の外御迷惑、御生害及ぶべきの間、山名・細川両人・両方への合力を止めるべきの旨、平に仰せ請けられ云々。
それにより義就立腹せしめ、御前に罷り立ち御霊の陣へ押し寄せ、昨日早旦より夕方に至りて一日合戦す。
両畠山(畠山義就と畠山政長)の儀、勝負一途あるべくものなり。
種々の雑説ぞうせつ是非も無し。
今日飯尾肥前守之種御免、赤松之在馬同じく御免と云々。

(史料9) 『大乗院寺社雑事記』文正二年正月二十日条より抜粋

 廿日雨下
一、一昨日御靈合戦事、義就・山名入道爲両人沙汰政弘責戦之間、政弘打負退散、不便無極次第也云々、細川・京極入道等、兼ハ可合力之由雖申之、望其期而違反、一向失弓矢之道之由及其沙汰、

(書き下し文)
一、一昨日の御霊合戦の事、義就(畠山義就)・山名入道(山名宗全)両人の沙汰として政弘(畠山政長)を攻め戦うの間、政弘打ち負け退散。
不便極まり無きの次第なりと云々。
細川(細川勝元)・京極入道(京極持清)等、かねては合力すべしの由と申すといえども、その期に臨みて違反、一向弓矢の道を失うの由、その沙汰に及ぶ。

御靈神社にて撮影

御靈神社にて撮影

これは、文正ぶんしょう2年(1467)1月18日から翌日にかけて行われた御霊ごりょう合戦を記したものです。
いわゆる応仁の乱の始まりとされる戦いで、以後、有力者たちが東西の陣営に分かれて11年間断続的に激しい戦いを繰り広げます。

元号が応仁と改まった同年(1467)5月末には、山名宗全が守護する播磨国に赤松政則の衆が攻め込み、斯波義廉よしかどが守護する越前国には斯波義敏の衆が攻め込みます。
数日後、京都市中でも細川勝元・赤松政則・京極生観(京極持清)が室町御所を接収して自陣営に取り込み、阿波守護の細川成之しげゆきと若狭守護の武田信賢が一色義直邸に攻め込み、これを焼き払います。

(史料10)『大乗院寺社雑事記』応仁元年五月二十六日条より抜粋

一、京都合戦在之之由風聞、今日宗旦ヨリ事也云々、去正月大乱響當月歟、武田・讃州爲一所押寄一色屋形焼亡就此事山名以下押寄、細川屋形相戦云々、

(書き下し文)
一、京都で合戦これ有る由の風聞。
今日早旦よりの事なりと云々。
去正月の大乱、当月に響くか。
武田(武田信賢)・讃州(細川成之)が一所として押し寄せ、一色の館(一色義直の館)焼亡。
この事に就きて山名(山名宗全)以下が押し寄せ、細川の館(細川京兆邸)で相戦うと云々。

これにより、畿内を中心に至る所で合戦が繰り広げられます。
同年8月には畠山義就・山名宗全陣営として西国から大内政弘が大軍を率いて上洛。
足利義政を奉戴する細川勝元・畠山政長らは苦戦を強いられます。

なお、この時期にはすでに「東軍」・「西軍」の呼称で両陣営が分けられており、大内勢上洛後も続々と旗幟を鮮明にした地方の大名・小名たちが京を目指しました。
(※京都の堀川を挟んで東側が細川京兆邸、西側が山名邸があったことからその呼称がついた。)

将軍の実弟足利義視、北畠氏を頼る

 ところで、足利義政には世継ぎ候補がありました。
実弟の足利義視よしみです。 
彼は将軍家の慣例に倣って浄土寺の門跡となりましたが、義政が男子に恵まれずに悩んでいたことから、将軍たっての願いにより還俗げんぞく(俗世に帰ること)し、次期将軍に内定しました。

しかし、ほどなくして義政には嫡男(のちの義尚よしひさ)が生まれます。
義視と義政の関係は親密なままでしたが、政所執事まんどころしつじの伊勢貞親と、将軍御台所みだいどころの日野富子とは激しく対立しました。

この時期の政局で、事態を複雑にした大きな要因としてよく取り挙げられるのが、義視自身の行動です。
応仁の乱勃発の際、彼は将軍義政とともに東軍に属しており、ともに戦いの調停に奔走しています。

ところが、8月に西国から大内政弘が上洛すると、ちょうど入れ替わるように京都を離れ行方を眩ませました。
この不可解な行動は依然謎に包まれており、「よくわからないが東軍を寝返って西軍側の旗頭となった」とされています。

歴史学者の大薮海氏は「信憑性は不確かながら」と前置きした上で、足利義視の著した『都落記』を研究し、以下のように述べています。


「京都を脱走して行方を眩ませた義視は、京都に常駐する木造教親の手引きにより伊勢国平尾に辿り着いた。
そこで、北畠教具・政郷父子に手厚く迎えられ、その庇護を受けた。
教具は東軍に属してはいたが、特に細川氏と昵懇な関係ではないので、足利義政と似たような立ち位置だったのではないか。
政郷は西軍の畠山義就と近しい関係から、心情的には西軍寄りだったと思われるが、基本的には父の意向に従っていた。

『都落記』によると、この時期の義視は足利義政とさかんに連絡を取り合っていたようだ。
(確かにこの時期、神宮側の史料で内宮一禰宜(ないぐういちのねぎ)の荒木田氏経が、義視に仮殿遷宮についての書状を提出している。『氏経卿神事記』『氏経卿引付』
また、『大乗院寺社雑事記』の応仁元年(1467)六月十三日条にも「伊勢国司が上洛しようとしたものの、公方の命によって差し止められた」とあり、整合性は取れているように思える。)


北畠氏はすぐさま兵を起こして上洛しようと画策したが、「青侍共の違乱」によって実現しなかった。
この青侍が何を指すのかは不明であるが、北畠氏の東軍参戦を拒む勢力だった可能性が高い。
この時期、伊勢国では伊勢守護職を罷免された一色義直(西軍)と、新たに伊勢守護職に補任された土岐(世保)政康が争っていた。
この戦いに政康が勝利し、旧領を回復したものの、なぜかその後すぐに西軍に鞍替えする。(これを記すものは『応仁別記』などの後世の書のみで信憑性は疑問)
北畠教具はこれを討つため、北伊勢へたびたび兵を繰り出している。

このような情勢の中、上洛の道筋が立たない北畠氏に見切りをつけ、足利義視は教具の慰留を蹴って上洛を果たした。
義視はすぐさま将軍義政に対し、日野勝光の排斥を要求する諫書を提出。
しかし、将軍御台所の日野富子や、政治の表舞台に復帰していた伊勢貞親らによって黙殺された。
義視はかつて京都を離れる原因であった細川勝元と手を結び、富子らの排斥を画策する。
しかし、義視と親しかった有馬元家が赤松政則によって殺害されると、義視は身に危険を感じ、比叡山延暦寺に逃げ込んだ。

追い詰められた義視は、ついに兄を見限ることに決し、西軍の旗頭として担ぎ上げられる。
義政は日野富子や伊勢貞親らの入れ知恵もあってか、義視の官位剥奪を朝廷に要請。
加えて御花園法皇からは治罰院宣いんぜんが、さらに、義政からはそれを施行する御判の御教書が発給され、両者の関係性は完全に破綻した。
朝敵となった義視には、西軍の総帥として疑似幕府を創設するしか道が残されていなかったのかもしれない。

  大薮海(2021)『列島の戦国史2 応仁・文明の乱と明応の政変』吉川弘文館より大部分を引用

この時期の西軍には勢いがありました。
足利義政を奉戴する東軍は分国中から諸将をかき集めるものの、大内政弘をはじめ、山名宗全や畠山義就の奮戦により押され始めます。
物資の面でも西軍は、大内氏の分国からは兵糧4万石分が堺へ運ばれる『大乗院寺社雑事記(文明二年七月九日条)』など自給が可能であった一方、細川氏ら東軍は、物資不足に悩まされていたのか、洛中の土倉酒屋への略奪行為が目立ちます。

北畠教具の逝去

 東軍は盛んに調略を行い巻き返しを図ります。
文明3年(1471)5月。
越前国斯波氏の被官であった朝倉孝景(英林)を東軍に寝返らせることに成功します。
西国では、大内政弘の留守を狙って大内道頓(教幸)が将軍の支持を背景に反乱を起こし、足並みを乱すことに成功しました。

さらにこの時期、足利義政は北畠氏の心を繋ぎ止めるためなのか、北畠教具を伊勢守護職に任じています。
天下の趨勢は、徐々に細川氏ら東軍へと流れつつありました。
 (なお、『勢州軍記』には「國司北畠大納言教具卿者、守護皇家之故不興之、其後兵革更不止」との記述がある)

そのような情勢の中、文明3年(1471)3月に北畠四代目当主教具は49歳の若さで病没します。
後を継いだのは嫡男の政具まさとも政郷まささと)です。

彼は父の外交路線を引き継ぎ、国司としてそして伊勢守護職として土岐(世保)・長野氏を討つため、たびたび兵を繰り出します。
文明4年(1472)3月には将軍義政の命を受けて分家の岩内顕豊を山城国木津へ派遣し、大内勢と戦うこともありました。『大乗院寺社雑事記(文明四年三月十六日条)』
翌5年(1473)には、当時美濃でもっとも勢いのあった斎藤妙椿みょうちん(の名代として世継ぎの斎藤利国)が長野氏の援軍として駆けつけ、北畠氏と激しく争いました。『大乗院寺社雑事記(文明五年十月十一日条)』

定まらぬ北畠政郷の去就

 この頃になると、京都での戦いは散発的になり、戦乱の主舞台は地方へと移っていました。

(史料11) 『大乗寺寺社雑事記』文明九年五月二十六日

一、去十八日ヨリ廿一日マテ、於北方伊勢国司及合戦畢、国司方打勝、城二ヶ所被責落了、両方数十人手負打死、舎弟坂内手負引退、

(書き下し文)
一、去十八日より二十一日まで、北方に於いて伊勢国司(北畠政郷)合戦に及びおわんぬ。
国司方が打ち勝ち、城二ヶ所を攻め落とされおわんぬ。
両方数十人手負・討死。
舎弟坂内さかないも手負して引き退く。

これは文明9(1477)年5月に北畠政郷が一色義直と戦い、弟の坂内房郷ふささとが負傷するも、城二ヶ所を落として勝利したとする記事です。
前回記事の「三郡にも大きな利害をもった坂内氏」の項でも触れたもので、「伊勢国守護職を得て、北伊勢への進出を図った北畠政勝(政郷=教具の子)と、前守護一色義直との合戦に関する記述である」と述べました。

実はこれには続きがあります。

件之一事両様之御成敗故如此也、北方事被仰付国司、色々辞退申、不可叶云々、仍無力成敗之処、又不能是非而被仰付一色之間、入代官云々、仍及合戦、国司近来ハ東方分也、於于今者一向成西方歟、越智申請旨風聞

(書き下し文)
件の一事、両様の御成敗、かくの如き故なり。
(伊勢国)北方の事を国司(北畠政郷)に仰せ付けらるるも、色々辞退申し、叶うべからずと云々。
仍って力無く成敗致すのところ、また、是非に能わずと一色(一色義直)の間へ(伊勢守護職を)仰せ付けられ、(現地に)代官が入りうんぬん。
仍って(北畠氏がこれを攻め)合戦に及ぶ。
国司近来は東方分なり。
今に於いては一向西方に成りつるか。
越智風聞の旨を申し受くる。

つまり、伊勢守護職であったはずの北畠氏は、守護職を辞退したいと申し出た。
しかし、幕府をこれを許さなかったので、渋々守護職を務めていた。
将軍は仕方あるまいと思ったのか、一色義直を再び伊勢守護職に補任した。
義直の代官が現地に入国したところ、政郷はこれを激しく攻め立て、城を二ヶ所落としてしまった。
同じ東軍陣営であったはずなのに、このような行動をとるとは・・・。
まさか西軍側へ寝返ったのではないか。

この記事にはそのようなことが記されています。
守護職を辞めたいと申し出たにも関らず、それが叶った途端に西軍側に寝返ったのでしょうか。
たしかに政郷は西軍の畠山義就に心を寄せており、いつ寝返ってもおかしくない状態でした。
しかしながら、北畠氏は「家」として完全に西軍に傾くことはなく、以後も東軍陣営として怪しい去就を繰り返しています。

政郷が一門を東門院に送り込んだのはこの時期のことで(文明4年)、同じ東軍に属す興福寺を敵に回すのは得策ではないと考えていたのかもしれません。
元来、伊勢守護職に限っていえば、鈴鹿郡を本拠に三重・河曲かわわ両郡にかけて関氏が知行し、安濃・奄芸あんきは長野氏、一志・飯高に加えて実力で神三郡(度会・飯野・多紀郡)を支配する北畠氏が存在。
他にも員弁いなべ郡には北方一揆が、朝明あさあけ郡には十ヶ所人数と呼ばれる幕府直属の奉公衆が守護不介入が許された勢力でしたので、絶対的な権限は持ち得なかったのでしょう。

伊勢国国郡マップ01

伊勢国郡図(国土地理院より)

応仁・文明の乱以後の北畠氏

 文明9年(1477)冬。
11年に及んだ応仁・文明の乱がようやく終結します。
東軍最大の有力者であった細川勝元はすでに世を去り、これと激しく争った山名宗全もこの世にいませんでした。
大内政弘や斎藤妙椿ら音に聞こえる勇士たちも国元へ引き上げます。

しかし、乱発生の元凶ともされる畠山義就の戦意はいまだ旺盛で、幕府の仲裁を無視して畠山政長が影響力を持つ河内国を攻め取ります。
さらに、大和国へもさかんに兵を繰り出し、その勢いはとどまるところを知りませんでした。
以下の史料はその時期のものです。

(史料12)『大乗院寺社雑事記』文明十一年十一月三日条(国立公文書館 デジタルアーカイブより)

『大乗院寺社雑事記』文明十一年十一月三日条(国立公文書館 デジタルアーカイブより)
『大乗院寺社雑事記』文明十一年十一月三日条(国立公文書館 デジタルアーカイブより)

途中で読めないところがあり誠に恐縮ですが、そちらは別書の翻刻を参照しました。

来廿七日祭礼事可有始行旨、願主方以下自學侶相触之云々、河内勢可有發向之由、爲實說者且如何、十市ハ止合戦引籠山内了、筒井ハ福住引籠、内者共不合期不和也云々、猶、原・箸尾同所ニ在之云々、各止軍、成身院以下中山寺ニ引籠、是又止合戦、彼等各迷惑難義生涯也云々、伊勢國司、伊賀・宇多郡衆相率、同可發向云々、難義不可過之、河内守護、伊勢國司親子分也、依之自他申合云々、

(書き下し文)
来たる二十七日、祭礼事の始行有るべきの旨、願主方以下、学侶よりこれを相触れ云々。
河内勢(畠山義就の手勢)発向有るべきの由、実説たるは且つ如何、十市は合戦を止め山内に引き籠りおわんぬ。
筒井は福住に引き籠り、内者ども不和・不合期なりと云々。
なお、原・箸尾は同所にこれ在りと云々。
各々止軍、成身院以下は中山寺に引き籠もり、これまた合戦を止め、彼ら各々迷惑難儀な生涯なりと云々。
伊勢国司(政郷)、伊賀・宇陀郡の衆を相率い、同じく発向すべしと云々。
難儀これに過ぐべからず。
河内守護(畠山義就)と伊勢国司(北畠政郷)は親子分なり。
これにより、自他申し合わすと云々。

つまり、畠山義就と北畠政郷は「親子分なり」と記されるほど親密な関係性で、大和国に蔓延る畠山政長(あるいはそれに味方する細川被官衆)の影響力を削ぐことを目的として挟撃を企てたかもしれない(実説たるは且つ如何)といった内容です。

実際にはこの計画は、北畠氏が長野政高との戦いに大敗したことで頓挫しましたが、文明14年(1482)に幕府が義就討伐の大号令を発した際は、政郷は義就を支援しています。

その後、各方面から和睦の斡旋が入り、文明18年(1486)に義就と北畠家は幕府から赦免されます。
しかしながら、将軍足利義尚は北畠氏を敵視しており、先々代の北畠満雅が2度にわたる挙兵を敢行した頃の外交関係に逆戻りしていました。

先述した(史料4)『大乗院寺社雑事記(長享二年二月二十三日条)』で示した、北畠氏による「参宮路次関所の実効支配」や「神三郡横領」を幕府が厳しく詰問する話は、まさにこの時期のものなのです。

将軍義尚から警戒されていた北畠氏でしたが、それも長くは続きませんでした。
なぜならば、長享3年(1489)3月に義尚が近江の陣中で病没したからです。
その後、”あの”足利義視の子である義材よしきが将軍となったことで両家の関係性は大きく改善。
政郷の嫡男である具方は義材から偏諱へんきを賜り(一字を拝領すること)、「材親きちか」と名乗りました。

なお、その後の足利義材は想像を絶する苦難の人生を歩み、政郷・材親父子もまた、御家はじまって以来の内紛を引き起こすこととなるのです。
世にいう国司兄弟合戦は目前に迫っていました。

応仁・文明の乱における北畠氏と足利義視の行動~『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正記)』文正元年(1466)12月~文明2年(1470)を中心に~

 廿七日
一、遊佐昨日自筒井上洛、京都之儀風聞分、當畠山政長ハ屋形之四方ニ矢倉上之、赤松次郎法師・六角以下閉籠、與力京極・細川云々、公方同御合力、爲兵粮料京中酒屋・土籠(蔵カ)伇銭申懸之、以使者責立云々、
畠山義就ハ千本地蔵院ニ取陣、山名・武衞以下、合力、毎事申合云々、同京中兵粮米等可相懸之旨、其沙汰云々、可減落中一時云々、
讃州一色所存不見、但公方ニ可参歟云々、
今出川殿御身上何共不見、一昨日夕夜打入御所云々、何方沙汰哉不知云々、先日夜打色々御糺明云々、如何、珍事々々、

(一、遊佐昨日筒井より上洛。
京都の儀の風聞、当畠山政長は館の四方に矢倉を上げ、赤松次郎法師(赤松政則)・六角以下を閉め籠め、与力は京極(京極持清)・細川(細川勝元)に云々。
公方(足利義政)同じく御合力。
兵糧料として京中の酒屋・土蔵に役銭を申し懸け、使者を以て攻め立て云々。
畠山義就は千本地蔵院に陣取り、山名(山名宗全)・武衛(斯波義廉)以下合力し、毎事申し合わせ云々。
同じく京中の兵糧米等を相懸くべきの旨、その沙汰にうんぬん。
洛中一時減るべく云々。
讃州(細川成之?)・一色(一色義直)の所存は見えず。
ただし公方に参るべくかとうんぬん。
今出川殿(足利義視)の御身上なれども見えず。
一昨日夕夜に御所へ討ち入ると云々。
いずれかたの沙汰なるか知らずとうんぬん。
先日夜討いろいろ御糺明と云々。
いかが、珍事珍事。
『大乗院寺社雑事記(文正元年十二月二十七日条より)』

【御霊合戦1】文正2年(1467)1月19日

 十九日
一、昨日京都合戦云々、十七日畠山政弘屋形自放火、率人勢上御靈ニ陣取之、公方ニ義就・山名入道宗全・一色等閉籠故也、京極入道等今出川邊ニ罷上陣取、政弘爲合力也、細川勝元一黨悉以爲政弘合力相集云々、然而公方事外御迷惑、可及御生涯之間、山名・細川両人両方合力事可止旨、平ニ被仰請云々、依其義就令腹立、罷立御前押寄御靈之陣、昨日自早旦至夕方一日合戦、両畠山之儀、勝負可有一途者也、雑説種々無是非、今日飯尾肥前守之種御免、赤松之在馬同御免云々、
『大乗院寺社雑事記(文正二年正月十九日条より)』

【御霊合戦2】

 廿日雨下
一、一昨日御靈合戦事、義就・山名入道爲両人沙汰政弘責戦之間、政弘打負退散、不便無極次第也云々、細川・京極入道等、兼ハ可合力之由雖申之、望其期而違反、一向失弓矢之道之由及其沙汰、剰世上無爲御礼大名以下申入之、相加其人數令参賀歟云々、

 (一、一昨日の御霊合戦の事、義就(畠山義就)・山名入道(山名宗全)両人の沙汰として政弘(畠山政長)を攻め戦うの間、政弘打ち負け退散。
不便極まり無きの次第なりと云々。
細川(細川勝元)・京極入道(京極持清)等、かねては合力すべしの由と申すといえども、その期に臨みて違反、一向弓矢の道を失うの由、その沙汰に及ぶ。
『大乗院寺社雑事記(文正二年正月二十日条より)』

【上京の合戦】

一、京都合戦在之之由風聞、今日宗旦ヨリ事也云々、去正月大乱響當月歟、武田・讃州爲一所押寄一色屋形焼亡就此事山名以下押寄、細川屋形相戦云々、

(一、京都で合戦これ有るの由風聞。
今日宗旦よりの事なりと云々。
去正月の大乱、当月に響くか。
武田(武田信賢)・讃州(細川成之)が一所として押し寄せ、一色の館(一色義直の館)焼亡。
この事に就きて山名(山名宗全)以下が押し寄せ、細川の館(細川京兆邸)で相戦うと云々。)
『大乗院寺社雑事記(応仁元年五月二十六日条より)』

【長野氏は細川勝元らの東軍側】

「細川公方ニ祗候、伊勢守率、関・長野か勢今日可京著之由云々、昨日書状今日到來了、
『大乗院寺社雑事記(応仁元年五月三十日条より)』

【尋尊から見た対立構造】

 西ハ
山名入道 同相模守 同大夫 同因幡守七郎守護此外一類 斯波武衞 畠山衛門佐 同大夫 土岐 六角以下十一人大名、廿个國勢共也、
 東ハ
細河右京大夫 同讃州 同和泉守護 同備中守護
此外一類 京極入道 赤松次郎法師 武田
西大将ハ山名入道 畠山衛門佐
東大将ハ武田 成身院法師
(中略)
公方ハ今出河殿若君以下御一所ニ御座、只今儀一向御迷惑之御風情也、云々
『大乗院寺社雑事記(応仁元年六月二日条より)』

【北畠教具上洛の噂】

伊勢國司近日可上洛云々、
『大乗院寺社雑事記(応仁元年(1467)六月八日条より)』

【教具の上洛は将軍義政に止められる】

伊勢國司上洛ハ先以自公方被止之闕・長野ハ悉不上洛
『大乗院寺社雑事記(応仁元年(1467)六月十三日条より)』

【細川勝元、足利義視に出家を勧める】

近日京都両陣止合戦、難知子細事也、今出川殿上洛以後如此云々、室町殿御内損大略御大事可出來歟、依之今出川殿御出家事、頻細川方申勧云々、
『大乗院寺社雑事記(応仁二年(1468)十月一日条より)』

【足利義視、再び出奔】

今出川殿今度自伊勢御上洛以後、就内府事不及御對面、剰次郎法師沙汰次第以下、物忩義共時々在之、御用心故歟、去十五日御遂電、田村一人被召具、御座在所未聞、希代事也、
『大乗院寺社雑事記(応仁二年(1468)十一月十七日条より)』

【足利義視は比叡山延暦寺にいた】

今出川殿山門ニ御座歟由風聞云々、烏丸中納言被追御陣、於門前被仰付武田可被沙汰之由、治定之間、以内者計略相語細川而、數百人迎取之了、珍事様也云々、
『大乗院寺社雑事記(応仁二年(1468)十一月二十一日条より)』

中納言一昨日領萩原庄事、自伊勢國司方可請旨所望之、雖然可直務旨、六方集儀、沙汰衆定源下向云々、
『大乗院寺社雑事記(応仁二年(1468)十一月二十三日条より)』

【足利義視、西軍に?】

今出川殿西方陣義廉廿三日暁自山入御、廿四日大内以下参賀云々之在所ニ入御之由風聞、如何不及覚悟者也、
『大乗院寺社雑事記(応仁二年(1468)十一月二十七日条より)』

定源房來、榼(樽)一荷・両種持参、自萩原庄只今上洛、自伊勢國司方就懇望色々物云在之、仍代官一両人置之、於定源者先以上洛云々、去月廿一日下向彼庄畢、
『大乗院寺社雑事記(応仁二年(1468)十二月三日条より)』

伊勢國司より色々魚物進上、殿下之由聞之、今時分念比沙汰也、
『大乗院寺社雑事記(文明元年(1469)十一月九日条より)』

自伊勢國大納言方色々令進殿下云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)四月三日条より)』

【大乗院の政治スタンス】

一、土岐息下向三乃國、可参東方用意云々、所詮於西方者、雖何邊近日儀ハ迷惑云々、西方大名ハ
斯波西方管領治部大輔義廉 畠山右衛門佐義就 山名右衛門佐入道宗全 一色左京大夫義直 義統 山名相模守教之 政清 土岐成頼 大内弘義
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)五月二十五日条より)』

【北畠氏による参宮街道封鎖】

就宇多萩原闕所事、國司被官与六方公事到(出カ)來、仍伊勢詣上下停止通路、在々所々申付之以外厳蜜云々、初瀬路・鉢伏両所被留之、自土州参宮山路迷惑由申入之、昨日先参詣長谷之處、本来伊勢道者之間、不可叶旨、慈恩寺申之押留云々、自道今日注進之間、長谷寺参詣分ニ可通旨仰遣慈恩寺方畢、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)六月十日条より)』

古市被官人二人切頭了、不便、此外若薰一族等三十人逐電、就伊勢高荷事相乱子細在之故也、無力次第不便々々、
萩原庄之内ニ開補之藥師堂領有之、寺門直務ニ此分ハ可被相除之由開補申之、相尋實否之處、無其儀云々、此間多武峰請切之時モ、自峯寺知行、叉故光宣法印請申時モ同前也、只今掠申之間、不可叶旨昨年事舊了、雖然押而自開補方致知行了、寺門不及力之間拾(捨)置處、當年闕所幷萩原庄へ數百貫文料足懸之、日々致催促、此条以外緩怠之間、於開補者頭ニ三百貫文料足懸之、幷國司被官之間、参宮以下之打止通路、令申子細
國司云々、仍甲乙人以下悉以通路不叶者也、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)六月十二日条より)』

伊勢荷共於在々所々落取之、五个所以聞聲士等沙汰也、寺門下知故也、可止通路まてなり、如此雑物等事落取之条、不可然事哉、不顧後難義、寺門成敗歟、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)六月十四日条より)』

六方蜂起、紀寺郷之内伊勢屋座頭三郎、進發了、伊勢通路近日致其沙汰故也、去十一日荷共自當所出之故云々、以外厳蜜也、去十四日伊勢荷之内、浄法院所緑方物有之云々、山村落取分得六方許可、仰古市取返之了、三千貫計雑物也、金・水金等済々有之、古市成敗厳蜜ニ申付之、無雲(翻刻では「にくづきに雲」)隠者也、六方事訓英計略之、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)六月十八日条より)』

【西軍大敗?】

京都事種々雑説有之、山名入道可降参之由申之、但大内新助同可有御免之由望申云々、此儀者細川不可叶之由申歟、仍無一途、山名者降参必定云々、
今出川殿よりハ被閣上意者、畠山右衛門佐
可被切腹之由御申云々、右衛門佐ハ有御免者可奉打今出川殿之由申入之云々、両方無□(是カ)非御返事歟云々、土岐内々申合子細日來より有之上、可降参云々、一色同前、其余大名悉以可有降参云々、所詮無一途ハ、今出川殿・畠山右衛門佐義就・大内新助両三人云々、此畠山・大内両人ハ、京都幷東山・西山霊地共悉以焼失發向、前代未聞悪行、佛法・神道之敵人、不可過之両人者也、然上者可蒙天罸条勿論事也、可被開公方御運者也、但如近来御成(政)道者、始修(終)御運ハ無心元者歟、殊更近臣ニ不道輩済々参候、猶以不可有正躰、能々廻思案ニ、今度乱ハ併佛法・王法・公家滅亡基也、如形本複(復)義不可有之者也、時剋到來、可歎々々、竹薗・攝禄・靑花・名家・諸大夫・両局・醫(医)陰両道・神道・儒門・諸流顕蜜・聖教・祖師・先徳之筆跡等、人道・佛道・神道併悉皆以滅亡、無残所者也、近來諸大名諸國々人等、以武威之号、寺社本所領等任雅意横領、爲本私奉軽公儀、尾籠緩怠中々無是非次第、只如畜生也、此後和州國人等叉如此事可有之、近來議緩怠不法珍事毎々出來、皆以何等所行也、必定可蒙天罸条、不能左右事也、可歎可恐、西方被官人毎日五人十人歿落、不知親子我前与遁出云々、越智兵粮米百□分可上支渡(度)也、路次不叶云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)六月十八日条より)』

吉田相語、南方御蜂起事、於于今者事實云々、西方大名同心、此間者畠山右衛門佐就紀州(河 脱カ)内両國事、令存六借歟、不同心處、諸大名幷権大納言殿被仰子細之間、於畠山モ同心云々、和州儀越智計略云々、伊勢國司一左右未聞云々、於南主者近所ニ御座歟云々、御手者少々紀州合戦云々、高野山ハ南方云々、根比ハ北朝方也、當國布施以下可歸國支度、來秋可有合戦云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)六月二十五日条より)』

【大内氏の領国から兵粮4万石が堺に到着】

大内方米四万石到堺云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)七月九日条より)』

【南朝についての記述】

昨日宗藝法師來、於當國可有合戦歟云々、布施・高田等可打入之由支度歟云々、越智十方 相語、先可入和泉・河内云々、此条不審事、但自去年爲西方大名之沙汰、被成和泉守護職之由風聞、則可入國之由支度之處、于今不及是非条、誠以不審事也、伊勢國司ニ申合子細有之歟之由云々、南朝御事哉、南主ハ御座越智之館壺坂、給云々、
『(文明二年(1470)七月十八日条より)』
 
(これ以後、南朝系皇子についての記述が散見されるが、本記事では触れていない)

【西軍巻き返し】

栄清大來、昨日下醍醐幷山階焼失、大将逸見自自害云々、東方迷惑事也、攝州赤松勢共引退、在々所々様悉以東方珍事也云々、越智近日可出陣云々、國中十方相語之、或可出陣泉州云々、或京都西方ニ可罷上云々、両様申之相語畢、古市今朝相具筑前守行向于越智方、椿井以下罷下云々、如何様近日可出陣云々、先日京都奉書自十六日所々一乗院被相触之云々、奉書到来時、内々可相触歟否事、被仰越智方之間支申之、然而栄清之異見ニテ、十六日所々被成廻文云々、越智方ニ被仰合分太無益事也、大方奉書也、自何方雖被仰之、可相触事也、殊更此奉書ニ越智之事一切無之、東西引汲心中ハ、諸國皆以有之、於寺門幷両門者、東西儀何も可爲同篇事也、自何方仰事雖有之、東方引汲者ニハ可有仰合事也、只仰分可加下知行至極事也、条々物語分記之、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)七月二十日条より)』

自筒井方申給、山城・氏・水牧・山階等、悉以東方歿落、十六人、細川方披官十二人西方ニ降参了、今四人ハ木津・田ナヘ・井手別所・狛也、於此分者定可歿落、然者山城事悉以可成西方、如今者奈良中事、足軽共數万人有之間、可乱入条不能左右、京都衆以下御座事也、可得其意云々、山階へ尾帳手者武田等罷入歟事、一向無跡形事也云々、東方様ハ只如籠中島也、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)七月二十三日条より)』

【河内合戦】

自昨日於河内國合戦有之、若江城東方畠山城西方武家□(責カ)、誉田東方城西方武家幷越智責之、今度大乱以後者越智自身出陣之始也、傳聞可成和泉守護用也云々、於國民輩者過分所存也、但近日ハ不見土民・侍之皆汲之時莭也、雖爲三黨(党)非人之輩、可成守護・國司之望条、不能左右者也、筒井律師爲東方合力、同可令出陣歟云々、是又無益也、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)八月五日条より)』

昨日太閤(一条兼良?)被仰出、来月始伊勢幷三乃國可有御下向、人夫・傳馬等事仰付之、可召進云々、畏入了、但御成立不審事也、且御出立等事御大儀事哉、人夫・傳馬等至國司館可召進之云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)八月十四日条より)』

【斎藤妙椿の躍進?】

・自勢州随心院殿御文到来、三乃國物忩之間、不可有御下向、近日可成還御云々、又自美乃是心院殿僧來了、是も物忩之由事也、京極入道他界以後、近江國無正躰之間、所々より可責彼國云々、近日近江事ハ可成西方歟云々、
・伊賀國守護仁木出陣、山城國光明山、一國物忩以外次第也云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)九月九日条より)』

太閤(一条兼良?)還御、自伊勢國司念比ニ申入云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)九月十六日条より)』

※念比=懇ろ

成身院法印被來、今度於伊勢國司所一献事、山海珍物進之云々、御前衆
太閤・随心院各四方、國司大納言・堀川宰相入道・同息宰相中将各三方、國司息中将・成身院・松戸殿・招月各足付也、御配膳等國司一族幷難波中将等也云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)九月十九日条より)』

松林院申給、近江國事、大略御敵ニ成云々、多賀之出雲・若宮・各京極被官人、六角亀壽丸・六郎爲一所成西方了、爲御敵了、多賀豊後ハ伊勢國へ落畢、相憑關云々、京極故大膳大夫入道之孫幷入道次男六郎両人ハ、東御陣ニ在之云々、所詮多賀豊後与出雲両人、日來不快故、一家破出來了、北郡以下皆以成御敵之間、寺門領以下珍事也云々、但昨日自公方御歌點被申太閤、公方・御臺・青蓮院・日野前内府以下御詠云々、希代事也、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)九月二十二日条より)』

※御歌點=御歌点、御臺=御台

【???】

畠山義就之猶子、於越前國朝倉手打之、父子不和故如此云々、實子在之故也、畠山大夫之舎弟也、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)十月五日条より)』

【北畠教具、上意により北郡へ出陣】

東門院僧正來、両種持参了、對面被相語、伊勢國司爲北郡沙汰被出陣云々、
『大乗院寺社雑事記(文明二年(1470)十月六日条より)』

ここで北畠教具病没

【足利義政の命を受け木津へ出兵】

伊勢國司勢、木津ニ著云々、公方御下知故也、一族石内中将云々、大将歟
『大乗院寺社雑事記(文明四年三月十六日条より)』

【斎藤妙椿嫡男の利国、長野氏に加勢 北畠氏と戦う】

一、石左衛門、持是院(斎藤妙椿)書状持來、三乃綿五把送給之、東御方御不例悉以本複(復)之由見書状、千万ヽヽ、忝畏入者也、祝著不可過之、可悦々々、次自三乃出陣伊勢國、土岐本國故也、大将持是院猶子新四郎云々、長野引入之、國人共不及一合戦而、各引籠梅津城、於此城可有合戦歟之由、及其沙汰云々、日々注進在之云々、爲国司可為迷惑者也、飛騨両國司被佛國中、京極悉以爲守護、土岐・遠山以下廿人余人、公方御使三乃國治罸云々、彼御使衆上下卅余人、於三川國召取之、御判物・御内書以下悉以取之云々、如此於在々所々得其力、其後一天下事可申入云々、又自鎌倉御兄弟方、持是院事御憑子細在之、京方鎌倉殿同御憑云々、
『大乗院寺社雑事記(文明五年(1473)十月十一日条より)』

【畠山義就と北畠政郷の共同作戦】

来廿七日祭礼事可有始行旨、願主方以下自學侶相触之云々、河内勢可有發向之由、爲實說者且如何、十市ハ止合戦引籠山内了、筒井ハ福住引籠、内者共不合期不和也云々、猶、原・箸尾同所ニ在之云々、各止軍、成身院以下中山寺ニ引籠、是又止合戦、彼等各迷惑難義生涯也云々、伊勢國司、伊賀・宇多郡衆相率、同可發向云々、難義不可過之、河内守護、伊勢國司親子分也、依之自他申合云々、
『大乗院寺社雑事記(文明十一年十一月三日条より)』

らいそくちゃん
らいそくちゃん

ご覧いただきありがとうございました。
次回は分家の木造氏を中心に解説します。
国司兄弟合戦勃発~織田信長に降るまでを書く予定です。

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主要参考文献
西山克(1979)「<論説>戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」,『史学研究会 (京都大学文学部内)』, 62,215-250.
大薮海(2011)「興福寺東門院の相承:文明四年北畠氏子弟入室の前提」,『三田史学会』, 80,19(295)-52(328).
大薮海(2013)『室町幕府と地域権力』吉川弘文館
大薮海(2021)『列島の戦国史2 応仁・文明の乱と明応の政変』吉川弘文館
西ヶ谷恭弘(1998)『国別 守護・戦国大名事典』東京堂出版
泉谷康夫(1997)『興福寺』吉川弘文館
藤田達生(2004)『伊勢国司北畠氏の研究』吉川弘文館
三重県(1999)『三重県史 資料編 中世1(下)』三重県
三重県(1999)『三重県史 資料編 近世1』三重県
辻善之助(1932)『大乗院寺社雑事記 第4巻,尋尊大僧正記 31-50』三教書院
辻善之助(1933)『大乗院寺社雑事記 第5巻,尋尊大僧正記 57-71』三教書院
辻善之助(1933)『大乗院寺社雑事記 第6巻,尋尊大僧正記 72-87』三教書院
辻善之助(1933)『大乗院寺社雑事記 第9巻,尋尊大僧正記 126-143』三教書院
『大乗院寺社雑事記 第71冊』(国立公文書館デジタルアーカイブより)
経済雑誌社 (1899)『国史大系. 第10巻 公卿補任中編』経済雑誌社
塙保己一(1923)『続群書類従 第21輯ノ上 合戦部』続群書類従完成会
久保田昌希(2003)『決定版 図説・戦国地図帳』学習研究社
林陸朗(1989)『古文書・古記録難訓用例大辞典』柏書房

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