【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう③(佐竹義重・今川義元編)

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【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう③(佐竹義重・今川義元編)
らいそくちゃん
らいそくちゃん

「翻刻を読んでみよう」のシリーズ3回目です。
翻刻とは、くずし字で記された原文を語順等を組み替えず活字化したものを指します。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

今回は佐竹義重今川義元の史料を紹介します。

甲駿手切 佐竹義重が上杉輝虎(謙信)に関東への出馬を求める

 佐竹義重坂東太郎ばんどうたろうと恐れられた常陸国の戦国大名です。
永禄8年(1565)に父が病死し、若くして家督を相続。
瞬くうちに小田氏治領の大半を攻略するなど武名を轟かせます。
同盟国の上杉謙信とともに北条氏と激戦を繰り広げますが、「越相同盟」を機に武田氏に近づき、さらに織田信長・豊臣秀吉と通じるなど機を見るに敏でもありました。
隠居後は秋田の地へと移り、66歳の波乱に満ちた生涯を閉じます。

今回題材にしている史料は、義重の生涯を語る上で外交上の大きな転機となった時期のものです。
宛先は越後の上杉輝虎(謙信)。
さて、どのようなことが記されているでしょうか。

(翻刻)

去比者、以使僧承候、本望之至候、存分及廻報候キ、然者
武田晴信駿州江被及事切、駿符相破、小田原取乱、
不及是非由申候、早々御越山此时候、少々無人衆候共、
一刻片时も御急ニ極候、羕躰太田美濃守可申越候間、
不能具候、恐々謹言


    極月廿七日  義重(花押)
     山内殿


      御宿所

『(永禄十一年)十二月二十七日付佐竹義重書状(米沢市上杉博物館所蔵文書)』

(永禄十一)十二月二十七日付佐竹義重書状 解説

 1行目の「去比者、以使僧承候、本望之至候、
「去比者」で「去頃は」と読みます。
昔は「者」を”~は”といった助詞として用いる傾向にありました。
同じように
「江」で”~へ”
「与」で”~と”
「茂」で”~も”
などがよく出る助詞です。
史料によっては脇に小さく書かれている場合もあります。

以使僧承候、
今回も当然のように返読文字が出てきました。
返読文字とはいったい何か。

古代日本は漢字という筆記文字を大陸から取り入れました。
元々日本には独自の話し言葉がありましたが、大陸の漢語とは語順が異なります。
そこで古代日本政府は、文字自体は漢文で記すが、読み方だけは日本語のままで教育を進めました。

やがて時代が進むと日本独自の言葉も筆記で使われ始めます。
それが「仮名文字」であり、「侍(さぶろう)」・「給(たもう)」・「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」などです。

中世日本は書簡にも礼が非常に重んじられた時代でしたので、権威や家格の高い人たちは、自分が軽く見られないように、そうしたルールを創り上げていきます。
返読する文字も、ある程度のルールに従って用いられていました。
すなわち

動詞っぽい単語
可・・・ベク・ベキ ~すべき
被・・・ラレ・ラル ~される、~なさる (受け身)
令・・・シム・セシメ ~する、~させる、~させていただく
遣・・・ツカワス・ツカワシ 派遣する
尽・・・ツクス・ツクシ 尽力する
など

有り 無し 多い 少ない 肯定 打ち消し
有・・・アリ・アル 有る
無・・・ナシ・ナク 無い
不・・・フ・ス・ズ ~にあらず(否定形)
多・・・オオイ・オオク・オオキ 多い
少・・・スクナク・スクナキ 少ない
など

前置きに用いる単語・文と文を繋ぐ単語
従・・・ヨッテ 従って
然而・・・シカシテ しかし
以・・・モッテ ~をもって(前提を示す)
若・・・モシ 仮に
尤・・・モットモ 道理に、ただし
剰・・・アマツサエ その上、それだけでなく
為・・・タメ、ナス、ナシ、タル ~のため、~となす
雖・・・イエドモ ~だけども
など

今回は「以使僧承候、」ですので「以(~をもって)」が返読文字となります。
返読文字は後で読むため、「使僧(しそう)」から読み始めましょう。
この場合「使僧(を)→以→承(り)→候」となります。

使僧(しそう)とは、外交の使者として赴く僧侶のことです。
戦国時代には教養があり、読み書きが堪能。
且つ、口の上手い僧侶が重宝されました。
寺社勢力に中立的な印象が少なからずあったというのも重宝された理由の一つでしょう。

本望之至候、
「本望の至りに候」ですね。
本来は望みに達して喜びを感じること。満足であることとの意味ですが、文脈的にはご連絡ありがとうございます。と解釈してよいでしょう。

はじめから読み下すと
去頃は、使僧を以って承り候。本望の至りに候。

すなわち
「先日は使僧を遣わしてのご連絡ありがとうございます。」
といった文意になります。

存分及廻報候キ、

こちらも返読文字の「及(オヨビ)」がありますね。
そのため「及」はあとで返って読みます。

存分は 廻報に 及び 候き。
と読みます。
存分は考えや意見。または思い通りになることを差します。
廻報=回報(かいほう)は答書・返書のことです。

少し難しいですが、
「私の考えは返書に認めた通りです。」
との語訳で良いでしょう。

然者武田晴信駿州江被及事切、駿符相破、小田原取乱、不及是非由申候、

本文書の核となる部分です。
少し長い一文ですが、文節ごとに解説いたします。

まず「然者」で「しからば」と読みます。
「然り」に「者(~は)」を合体させた形ですね。

「武田晴信(信玄)駿州江」
駿州というのは駿河国のことで、現在の静岡県東部にあたります。
当時は今川氏真という大名が領していた土地です。
〇州とする表現は、国家の中での行政区分で、古代中国からきた呼び方です。
「江」はさきほど説明した通り、”~へ”という助詞です。

「被及事切、」
ここは「被(ラレ)」、「及(オヨビ)」と返読文字が2字続けて登場します。
「被(ラレ・ラル)」は受け身を現す漢字で、今日でも”被害者”などの単語がありますね。
日本語風に読めば被害者(がいせらるもの)となります。

この場合は「事切れ」から読み始め「及(オヨバ)」→「被(レ)」と順に返っていきます。
事切れとは手切れとなる、関係が終わるという意味です。

「駿符相破、」
「駿府相(あい)破れ」と読みましょう。
「符」は当て字のようなものなので、冒頭の「去比(さるころ)」と同じような感じです。
駿府相破れ・・・つまり、武田勢が今川勢との戦いに勝利し、という意味です。

この時期、武田信玄は大軍を率いて駿河の今川氏真領へ攻め入り、三河の徳川家康も同時に攻め入ります。
いわゆる信玄による第一次駿河侵攻です。
今川氏真はこれに対抗すべく縁者の北条家へ救援を要請。
さらに、もしもの事態に備えて友好関係を築いていた上杉輝虎(謙信)にも助けを求めます。

しかしながら、今川方の家老衆はすでに武田へ内通していたため情報は筒抜けでした。
今川軍は薩埵さった峠で武田軍を迎え打つものの、徳川勢と挟み撃ちにされては満足に戦えません。
氏真はたまらず駿府を捨てて遠江掛川城ヘ逃れます。

「小田原取乱」
「小田原取乱」は「小田原取り乱れ」
つまり、小田原の北条氏は取り乱れており・・・といった様子を現しています。

「不及是非由申候、」
返読文字が2字続きます。
「是非(に)→及(およば)→不(ずの)→由(よしに)→申(もうし)→候(そうろう)」と読みましょう。
是非に及ばずは、事態の程度が甚だしくて言うまでもないこと、是非を論ずるまでもないという意味です。

「然者武田晴信駿州江被及事切、駿符相破、小田原取乱、不及是非由申候、」
読み下しますと
しからば武田晴信駿州へ事切れに及ばれ、駿府相破れ、小田原取り乱れ、是非に及ばずの由申し候。

すなわち
「さて、ここ最近の関東の情勢を入手しました。即ち武田晴信(信玄)が駿河の今川と手を切り、駿府は陥落。小田原の北条が混乱しているのは言うまでもないことです。」
といった解釈でよいでしょう。

早々御越山此时候、少々無人衆候共、一刻片时も御急ニ極候、

越山(えつざん)というのは険しい山を越えるときを意味する単語ですが、ここでは上杉謙信による関東遠征を意味します。
以下は乃至政彦氏の「謙信越山」から抜粋したものです。


謙信は関東へ「十数回」の遠征を繰り返した。この遠征は「越山」と呼ばれている。謙信が越後から関東に入るとき、険しい山々を越えたことから、この呼び名が定着されることになった。
 とはいえ本来、越山とは、関東への遠征のみをいうのではない。謙信が隣国越中の海岸に立ち、そこから能登半島を遠望して詠んだ漢詩に「越山併得能州景」と、山を越えて能登の景色を楽しんだことが見えるように、北陸遠征も越山と呼ばれていたのだ。

(中略)
越山は、謙信31歳のときから45歳のころまで、15年ほど続けられた。

   乃至政彦氏著「謙信越山」より

「此时候、」は「この時に候。」と読み、輝虎(謙信)に早く関東まで越山する重要性を説いています。
「时」は”時”の異体字となります。
古文書にはこうした異体字・旧字が多く登場します。

「少々無人衆候共、一刻片时も御急ニ極候、」
無人衆(ぶにんしゅう)とは人数が少ないこと、無人数という意味です。
「候共」で候へども。文と文をつなぐ接続詞の役割を果たしています。
史料によっては”候へ共”あるいは”候得共”と記すパターンもあります。

読み下しますと
早々御越山、この時に候。少々の無人衆に候へども、一刻片時も御急ぎに極め候。

すなわち
「またとない好機ですので、上杉殿は早々に関東へ越山の上、決戦におよぶべきかと存じます。少々兵が集まらずとも、ここは一刻も早く出馬した方が上分別です。」
といった文意になります。

羕躰太田美濃守可申越候間、不能具候、
羕躰(ようだい)は多くの翻刻には”様躰”と記されていますが、原文にはきへんがありませんので、こちらの字を使うことにしました。
さまざまな意味を持つ単語ですが、ここでは”詳しい状況は”と解釈した方が意味がつながりそうです。

太田美濃守おおたみののかみは人物の名で、武蔵国岩付城を根城にしていた反北条氏派の有力武将です。
この書状の当時は居城を逐われて常陸の佐竹義重にもとに身を寄せていました。
実名を太田資正すけまさ
当時は入道して三楽斎と名乗っています。

「可申越候間、」
「可(ベク)」が返読しますので、「申し越すべく候間」と読みましょう。
「候間(そうろうあいだ)」は”~ですが”、”~ですので”といった接続詞です。

「不能具候、」
「不(アラズ)」と「能(アタウ)」2字続けて返読文字です。
「具」一字で”つぶさに”と読み、”詳しいことは”という意味です。
この場合「つぶさ(に)→あた(わ)→→候」と読みます。
つぶさにあたわずとは、省略しますという意味です。
今日でも「不可能」という単語がありますが、日本語風に読めば「あたうべからず」あるいは「あたうべからざる」となりますね。

読み下しますと
様体ようだい、太田美濃守(資正)申し越すべく候間、つぶさに能わず候。

すなわち
「詳しい状況は太田資正が申しますので、詳細は省きます。」
といった文意になります。

極月廿七日

極月は月が極まる。
12月の異称です。
廿七日は二十七日です。

恐々謹言」・「御宿所

まず「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」は直訳すれば”恐れ謹んで申し上げます”
これは書留文言かきとめもんごんの一つで、現在の敬具にあたります。
差出人と宛名の関係性により書き方が変化する傾向にあります。

「御宿所(みしゅくしょ)」は”あなた様の側近の人たちへ”という意味です。
転じて”私はあなたに直接お手紙をお出しできる身分にはありません”とへりくだった表現となります。
これは脇付わきづけの一つで、現在の机下や案下、あるいは侍史の部分にあたります。
他にも人々御中(ひとびとおんちゅう)・進之候(これをまいらせそうろう)などがあります。
次章の今川義元編にも別パターンが登場しますので、どれが脇付なのか探してみるのも面白いかもしれません。

(永禄十一)十二月二十七日付佐竹義重書状 書き下し文

 去頃は、使僧を以て承り候。
本望の至りに候。
存分は回報に及び候き。
しからば武田晴信駿州へ事切れに及ばれ、駿府相破れ、小田原取り乱れ、是非に及ばずの由申し候。
早々御越山、この時に候。
少々の無人衆(ぶにんしゅう)に候へども、一刻片時も御急ぎに極め候。
様体(ようだい)、太田美濃守(資正)申し越すべく候間、つぶさに能わず候。恐々謹言

    極月二十七日  義重(花押)
     山内殿

      御宿所

(永禄十一)十二月二十七日付佐竹義重書状 現代語訳

 先日は使僧を遣わしてのご連絡ありがとうございます。
私の考えは返書に認めた通りです。
さて、ここ最近の関東の情勢を入手しました。
即ち武田晴信(信玄)が駿河の今川と手を切り、駿府は陥落。
小田原の北条が混乱しているのは言うまでもないことです。
またとない好機ですので、上杉殿は早々に関東へ越山の上、決戦におよぶべきかと存じます。
少々兵が集まらずとも、ここは一刻も早く出馬した方が上分別です。
状況については太田資正が申しますので、詳細は省きます。敬具

(1568年)12月27日。 義重(花押)
山内(上杉輝虎)殿

 あなた様の側近の人たちへ

武田信玄による駿河侵攻がいかに影響が大きかったかを物語っているようですね。
これにより、武田-今川-北条間の三国同盟は完全に崩壊。
北条氏政は正室である武田信玄の娘と離縁して里に帰します。
そして、義兄弟の間柄にある今川氏真を支援しました。

またとない好機を逃すまいと、佐竹義重は越後の上杉氏へ出陣を求めます。
こうして生まれたのが『(永禄十一)十二月二十七日付佐竹義重書状(本状)』です。

月イメージ

しかし、上杉輝虎(謙信)は関東へ出陣しませんでした。
北条氏もまた武田信玄との戦いに備え、共通の敵をもつ上杉氏との和睦へと舵をきっていたからです。
もとより関東出馬への意義が失われかけていた輝虎にとっても、これは悪い話ではなかったのです。

この時期の目まぐるしく変わる外交情勢に、佐竹義重もまた生き残りを賭けて危ない橋を渡ることとなります。

関連記事:信玄西上!息子を人質に取られた信長が、上杉謙信に送った決意とは(3)

武田信虎の維持費に困惑する今川義元

 続きまして今川義元の書状をご紹介します。
永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いで命を落とした義元ですが、これはそれよりもはるか前の天文10年(1541)のものです。

内容が内容だけに有名な史料だと思いますので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
しかしながら、本史料は難しい表現がいくつかあります。
以下の解説をご覧いただき、理解度の補強になると幸いです。

(翻刻)


内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候
際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易筮可有御越之由尤候、於此方も可申付候、
旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎
御隠居分事、去六月雪斎幷岡部美濃守
進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事
御不弁御心痛候、一日も早被仰付、員数等
具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、
猶惣印軒口上申候、恐々謹言


  九月廿三日  義元(花押)


  甲府江 参

『(天文十年)九月二十三日付今川義元書状(堀江文書)』

(天文十年)九月二十三日付今川義元書状 解説

 「内々以使者可令申之処、

早速返読文字が登場しました。
返読文字の傾向については前章で記した佐竹義重書状の解説をご参照ください。
ここでは「以(モッテ)」・「可(ベク)」・「令(セシメ)」の3字が返読します。

この場合「内々、→使者(を)→もっ(て)→申→せしむるべきところ、」と読みます。
令は~せしめ、~せしむと読みますが、ここは文脈から”申せしむる”とした方が自然かもしれません。

惣印軒可参之由承候際、令啓候、

「惣印軒」は人物の名です。
詳細は不明ですが『甲府市 史』資料編第一巻によると由比安里、冷泉為和の門人とあります。

「可参之由」
返読文字の「可(ベク)」はそろそろ慣れてきたでしょうか。
「参るべきの由」と読みます。

「承候際、」
「承り候の際、」と読みます。

「令啓候、」
「啓せしめ候。」です。
「啓」は申し上げるという意味。
「令(セシメ・セシム)」は”~させる(使役)”、”~なさる(尊敬)”以外にも”~いたす”といった謙譲語の役割もあります。
この場合は後者ですので、相手を丁重に敬っています。
その相手は一体誰でしょうか。

はじめから読み下すと
内々使者を以て申しむるべきのところ、惣印軒参るべきの由承り候の際、啓せしめ候。

すなわち
「内々に使者を遣わして申し入れるつもりでしたが、ちょうど惣印軒がそちらへ参ると聞き及びましたので、彼に使者を頼むことにしました。」
といった文意です。

信虎女中衆之事、入十月之節、被勘易筮可有御越之由尤候、

「信虎」とは、甲斐武田源氏18代目当主武田信虎のことです。
この年(天文10年)、嫡男晴信(信玄)にクーデターを起こされ領国を逐われました。
この当時、信虎は娘婿である今川義元を頼っていました。
義元としては、甲斐でこのような御家騒動が起きてもなお外交関係を壊すまいと苦心している様子が窺えます。

「入十月之節」
「入」が返読文字となるため後で読みます。
“十月(に)入(る)之節”では日本語としては適切ではないため、今回の場合は「十月之節(に)入(り)」と読んだ方が良さそうです。

「被勘易筮可有御越之由尤候、」
「筮」は難読文字ですね。
うらなう/うらない/めとぎ/ぜい/と読む現在漢検一級レベルの漢字です。

易筮(えきぜい)とは、筮竹(ぜいちく)を用いて易占いをすることです。
従って易筮は一つの名詞として読んでみましょう。

読み方を現すと「易筮(を)→かんぜられ、→御越(し)→有(る)→べきよし、→もっとも(に)→そうろう。」となります。

“(信虎の女中衆らは)えき占いで吉日を選んでお越しなさるとのことです。”と解釈して良いでしょう。
どうやら信虎女中衆はまだ甲斐国に留まっているようですね。
この追放劇がいかに突然の出来事だったのかを物語っているのかもしれません。

「尤(もっとも)」は道理であるといった肯定的な意味合いの単語です。
ここでは敢えて訳さない方が自然かもしれません。

この文節を読み下しますと
信虎女中衆の事、十月の節に入り、易筮を勘ぜられ、御越し有るべきの由、尤もに候。

すなわち
「信虎殿の女中衆が、十月の吉日を選んでお越しになるとのこと。」
といった文意になります。

今川義元が「啓せしめ候」と敬意を払った相手。
それは武田信虎を追放して甲斐武田氏の指導者となった武田晴信(信玄)でした。

於此方も可申付候、

「於(オイテ)」は”~において”と読む返読文字です。
ひらがな”お”の字母でもあります。

「此方(こなた)」はこちらという意味です。

読み下すと
此方に於いても、申し付くべく候。

すなわち
「こちらも受け入れる態勢を整えておきます。」
といった文意になります。

旁以天道被相定候者、本望候、

「旁以(かたがたもって)」は”いずれにしても”、”どのみち”という意味です。
「以(モッテ)」は返読文字となる場合が多いですが、今回は「旁以」を一つの単語として読んだ方が良さそうです。

「天道被相定候者、本望候」
これで「天道(と)→相定あいさだ(め)→られ候者そうらはば、→本望(に)→候。」と読みます。

「被」はこれまで何度も登場しましたが、~される、~せらるという受け身を現す返読文字です。

「相定め」の「相」に特別な意味はありません。
単に語調を整えるために用いられる接頭語せっとうごにあたります。
他にも
・使者を差し遣わし(差し)
・いくさ打ち続き(打ち)
・志賀郡に於いて扶助せしむる侍共に至っては、明智ニ相付くべきの事。(相)
などがあります。

「候者」で”候はば”と読みます。
~でございますので・・・と後に続く接続詞です。
「者」は”もの”/”しゃ”と現在は読みますが、かつては”~は”と助詞の表現でも非常によく使われました。
史料によっては”候ハゝ”・”候ハ者”などと記される場合もあります。

読み下しますと
かたがた以って天道と相定められ候はば、本望に候。

すなわち
「舅(信虎)殿も、これが天の定めだと受け入れてくださるとありがたいのですが・・・。」
といった文意になります。
舅が転がりこんできて困惑するのは当然かもしれませんね。

就中信虎御隠居分事、去六月雪斎幷岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、

ここから本文書の核心部分に入ります。
「就中(なかんずく)」は”その中でも”、”とりわけ”という意味です。
語訳しますと「さて、信虎の隠居扶養分の件ですが」です。

「雪斎」とは今川義元の腹心として歴史シュミレーションゲームでもおなじみな太原雪斎(たいげんせっさい)です。
彼は対武田家の外交取次を行い、のちに今川-武田-北条の甲相駿三国同盟を主導した人物です。
先ほどの佐竹義重の書状は、この三国同盟の破局を物語るものでしたね。

「幷」は”并”の旧字です。
併せると同じ意味ですが、中世日本では”ならびに”とよく読みました。
書き下す際も”並びに”とした方が伝わりやすいでしょう。

「岡部美濃守」とは岡部久綱という武将です。
一般的には岡部正綱の父とされている人物です。

「進候刻」は”まいらせそうろう(の)きざみ”と読みます。
「進(まいらせ)」は書簡や物を差し上げる際の丁寧な表現となります。
“進之候”と記されている場合は、”これをまいらせそうろう”です。
「雪斎と岡部をそちらへ派遣しましたときに・・・」という意味です。

「御合点之儀候」
「御合点の儀に候」すなわち、”あなたも同意したはずです。”という意味です。

読み下すと
就中なかんずく、信虎隠居分の事、去六月、雪斎並びに岡部美濃守まいらせ候きざみ、御合点の儀に候。

現代語訳すると
「さて、その信虎殿の隠居扶養分の件ですが、去る六月に太原雪斎・岡部美濃守(岡部久綱)をそちらへ遣わした際、あなたも得心して合意したはずです。」
といった文意になります。

漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、
ここで義元は肉親への同情に訴えかけます。

読み下すと
ようやく寒気に向い候。毎事御不便御心痛に候。

すなわち
「だんだんと寒い季節へと向かっています。信虎殿は何事にも御不便、御心痛でいらっしゃることでしょう。」
といった文意にあります。

一日も早被仰付、員数等具承候者、

「一日も早」で”一日も早く”
「被仰付」で”仰せ付けられ”です。

「員数等具承候者、」
「具(ツブサニ)」とは詳らかに・詳細にという意味です。

読み下すと
一日も早く仰せ付けられ、員数いんずう等つぶさに承り候はば、

すなわち
「一日も早く員数などをお送りいただければ・・・」
といった文意になるでしょう。

彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、

古文書では「彼」一字のみで”かの”と読む場合があります。
その場合、彼〇〇とあとに文が続くのでわかりやすいかもしれません。

「可申届候、」
こちらは「申し届くべく候。」です。

読み下しますと
かの御方へ御心得有るべきの旨、申し届くべく候。

現代語訳すると
「そうすればかの御方へ納得のいくように、私の方からも申し伝えます。」
といった文意になります。
他家のごたごたに巻き込まれ、約束したはずの隠居代金未払いに困惑する今川義元の姿が見えてくる気がしますね。

猶惣印軒口上申候、

「猶」は”なお、”と何かを補足する際に用いるいわば決まり文句です。
文書によっては「尚」と記されている場合もあります。
「惣印軒」は冒頭に登場したちょうど甲府へと行く予定があるらしい人物です。

読み下しますと
猶、惣印軒口上申し候。

すなわち
「なお、くわしいことは惣印軒が口上で申し述べるでしょう。」
といった文意になります。

九月廿三日」・「恐々謹言」・「甲府江」・「

「九月廿三日」は九月二十三日です。
廿は”廾”と記されるパターンもあります。

「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」は先ほどの佐竹義重編にも登場した書留文言かきとめもんごんの一つで、直訳すれば”恐れ謹んで申し上げます”といった一種の決まり文句のようなものです。
現在の”敬具”、”かしこ”にあたる部分です。

「甲府江(甲府へ)」は宛名を示しています。
宛先は当然武田晴信(信玄)なので、”武田大膳大夫だいぜんのたいぶ殿”などとするのがよくあるケースです。
しかしながら、相手方の居住地を指す「甲府へ」としているのは、書札札しょさつれいにおいて厚礼なものとされ、「小路名(こうじな)」・「御在名(ございめい)」あるいは「所書(ところがき)」などと呼ばれています。

この時代、高貴な身の上の人物に直接書簡を出すのは礼儀を欠くものでした。
もっとも厚礼とされる書簡の出し方は、側近の人物へ宛てて書くことです。
現在でも秘書を介してやりとりすることがありますが、もしかするとその名残なのかもしれません。

今川義元と武田晴信は、同じ名門武家の当主同士なので、義元があまりにへりくだりすぎるのも好ましいことではありません。
そこで義元は、直接相手に宛てる形式にしつつ、極力礼儀を重んじた書き方を選択したのかもしれませんね。

これによって、相手に直接宛てて書状を出しているというニュアンスを薄め、丁重に書状を送っているという気持ちを表現しているのです。

「参(まいる)」
これは脇付わきづけです。
現在の机下や案下、あるいは侍史の部分にあたります。
先の佐竹義重の章では”御宿所(みしゅくしょ)”と記されていました。
「参(まいる)」も同じように、相手方へ敬意を払った丁重な書き方をしています。
古文書がまだ読めなくても博物館などで書状を鑑賞した際に、こういった部分に注目するのも面白いかもしれません。

(天文十年)九月二十三日付今川義元書状 書き下し文

 内々使者を以て申しむるべきのところ、惣印軒参るべきの由承り候の際、啓せしめ候。
信虎女中衆の事、十月の節に入り、易筮えきぜいを勘ぜられ、御越し有るべきの由、もっともに候。
此方こなたに於いても申し付くべく候。
かたがた以って天道と相定められ候はば、本望に候。
就中なかんずく信虎隠居分の事、去六月、雪斎並びに岡部美濃守まいらせ候きざみ、御合点の儀に候。
ようやく寒気に向い候。
毎事御不便御心痛に候。
一日も早く仰せ付けられ、員数いんずうなどつぶさに承り候はば、かの御方へ御心得有るべきの旨、申し届くべく候。
なお、惣印軒口上申し候。恐々謹言

 (天文十年)九月二十三日 義元(花押)

  甲府へ まいる

(天文十年)九月二十三日付今川義元書状 現代語訳

 内々に使者を遣わして申し入れるつもりでしたが、ちょうど惣印軒がそちらへ参ると聞き及びましたので、彼に使者を頼むことにしました。
信虎殿の女中衆が、十月の吉日を選んでお越しになるとのこと。
こちらも受け入れる態勢を整えておきます。
舅(信虎)殿もこれが天の定めだと受け入れてくださるとありがたいのですが・・・。
さて、その信虎殿の隠居扶養分の件ですが、去る六月に太原雪斎・岡部美濃守(岡部久綱)をそちらへ遣わした際に、あなたも得心して合意したはずです。
だんだんと寒い季節へと向かっています。
信虎殿は何事にも御不便、御心痛でいらっしゃることでしょう。
一日も早く員数いんずうなどをお送りください。
そうすればかの御方へ納得のいくように、私の方からも申し伝えます。
なお、くわしいことは惣印軒が口上で申し述べるでしょう。

1541年9月23日 今川義元(花押)

甲府(武田晴信)殿へ

本文書には「去六月に太原雪斎・岡部美濃守(岡部久綱)をそちらへ遣わした」と興味深い記述がありましたね。
信虎隠居料の行方はその後どうなったのか・・・。
それは定かではありませんが、その後の今川-武田間の外交関係を見ると、支払ったのでしょう。

ハイタカ(鳥)

4年後の天文14年(1545年)、義元は敵対している北条氏が領する河東かとう地域へ攻め込みます。
いわゆる第二次河東一乱です。
北条氏とも誼を通じていた武田氏は難しい立場に立たされました。

そこで武田晴信は積極的に今川-北条の間に立ち、和睦の仲介に奔走します。
それが実を結び、北条氏は河東地域を手放すことで一応の決着を見ました。
甲相駿三国同盟が成立する約10年前の出来事です。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

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参考文献
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 東日本編』柏書房
山梨県立博物館(2021)『山梨県立博物館開館15周年記念特別展 生誕500年武田信玄の生涯』山梨県立博物館
乃至政彦(2021)『謙信越山』JBpress
丸島和洋(2013)『戦国大名の「外交」』講談社選書メチエ
古典籍の会(2013)「早稲田大学図書館所蔵 『諸家文書写』の紹介」,『早稲田大学図書館紀要. 早稲田大学図書館紀要編集委員会編』, 60,pp.39-84.
甲府市市史編さん委員会(1989)『甲府市史. 史料編 第1巻 (原始・古代・中世)』甲府市
鈴木正人,小和田哲男(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
など

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