【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう(島津義久・山中幸盛・森長可編)

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【古文書解読初級】 翻刻を読んでみよう(島津義久・山中幸盛・森長可編)
らいそくちゃん
らいそくちゃん

お久しぶりです。
皆さん、お正月は有意義に過ごせましたでしょうか。
私はこの1月は寝てばかりでした(^^;

らいそくちゃん
らいそくちゃん

さて、今回の記事は「翻刻を読んでみよう!」と題しまして、活字化された古文書の読み方を解説するものです。
翻刻とは、博物館などで漢文じみた日本語が展示されているあの文のことです。
今回は細かい時代背景は述べません。
ただひたすら文の読み方を解説いたします。

島津義久(龍伯)が島津忠恒に大隅の地へ移ることを伝えた書状

 はじめは薩摩の大名島津義久です。
島津氏は龍造寺氏や大友氏を破り、九州最大の勢力に成長しました。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐に屈し、降伏・臣従します。

以下の書状は豊臣秀吉から国元への帰国を許された島津龍伯(義久)が、鹿児島の内城から大隅の地へ移る旨を島津忠恒(家久)に伝えたものです。

(翻刻)

拙者大口へ可罷移之通、於京都申入候へ共、餘々住居難成在所候之間、大隅之濱之市近所ニ屋敷を構候て、年内必可罷移之企にて候事、

 文禄四年霜月十二月  龍伯(花押)


 又八郎殿

『出典不明(島津義久と国分隼人-舞鶴城築城四百周年-P19)』

島津義久(龍伯)書状 解説

 それでは、さっそく読んでみましょう。
翻刻を読むうえで難しく感じる部分は、やはり語順を自分で組み替える必要があるところでしょう。
そうした部分のことを「返読文字」といいます。

最初の文の
拙者大口へ可罷移之通、於京都申入候へ共、

ここでは「可(べく)と於(おいて)」が返読文字になっています。
どこの文字が返読するのか始めのうちは難しいかもしれません。
しかし、おおよそ返読する部分には一定の決まりがあります。

1.動詞っぽい単語はだいたい返読する

・・・べく、べき
(意味)ある事柄についてそれが可能となるように、あるいは実現されるように。~すべきといった感じ

・・・られ、らる、され
(意味)~なさる。受け身・受動態

・・・しむ、せしめ、せしむ
(意味)~させる。~なさる、~あそばす。~させていただく。命令や尊敬語など幅広く用いられる。

・・・つかわす、つかわし
(意味)行かせる、使いとしてやる、つかわす、(物品を)贈る

・・・つくす、つくし
(意味)尽きるまでする。他のもののために精一杯働く。尽力する。

などがあります。
場合によっては返らない場合もあるので注意が必要です。

2.有り 無し 多い 少ない 肯定 打ち消しなどの単語はだいたい返読する

・・・あり・ある
(意味)有る、有り

・・・なし・なく・ない
(意味)無い

・・・す、ず、ふ
(意味)~にあらず。否定形。
先に述べた「可(べく)」と合体すると「不可(べからず)」となる。
さらに「有」も合わさると「不可有(あるべからず)」となる。

・・・あらず
(意味)そうではない

・・・おおい・おおく・おおき
(意味)多い

・・・すくない・すくなく・すくなき
(意味)少ない

などです。

3.前置きに用いる単語(前置詞) 文と文を繋ぐ役割の単語(接続詞)も返読する場合がある

・・・もって
(意味)前提を示す。~をもって

・・・もし
(意味)かりに

・・・もっとも
(意味)道理に、ただし

・・・あまつさえ
(意味)そのうえに、それだけでなく、おまけに

為・・・ため、なす、たる
(意味)「~のため」「~となす」

乍去・・・さりながら
(意味)しかしながら

然者・・・しからば
(意味)そうであるならば、そうならば

然上者・・・しかるうえは
(意味)そうであるからには。こうなったからには

候得共候共・・・そうらえども、そうろうとも
(意味)~であるが

候間・・・そうろうあいだ
(意味)~なので

・・・いえども
(意味)~だけど、~だと(語訳する際は「〇〇に候といえども」と候の後に雖もが入る場合もある)

などです。


これらを踏まえた上で、初めの文節を読み下すと
拙者大口へ罷り移るべきの通り、京都に於いて申し入れ候へども
となります。
大口とは地名のことで、現在でも鹿児島県大口市に大口城があります。

続いて読んでみましょう。
餘々住居難成在所候之間、

「餘」は”余”の旧字です。
古文書にはこのような旧字や異体字も数多く登場します。

「難成」で「成し難く」
つまり、達成することが困難であることを表現しています。

「在所(ざいしょ)」とは住んでいる場所、あるいは国元を意味します。

読み下すと「余々住居成し難く、在所候の間、」となります。
ここまでを現代語訳しますと
「拙者は大口へ引っ越すことを予定していたけれども、それが整わなかったので」
といった文意になります。

続けて読んでみましょう。

大隅之濱之市近所ニ屋敷を構候て、年内必可罷移之企にて候事、
ここは何となく読める方も多いでしょうか。
読み下すと「大隅おおすみの濱之市近所に屋敷を構え候て、年内必ずまかり移るべきの企てにて候事そうろうこと
となります。

「企てにて」とありますが、別に悪事を企んでいるわけではありません。
「大隅」はかつての行政区分を表す国名のことで、現在の鹿児島県霧島市あたりから東の地域です。
「浜之市」は現在も鹿児島県霧島市に存在し、近くに島津義久が居を構えた冨隈城跡があります。

冨隈城跡
冨隈城跡

最後の「文禄四年霜月十二月 龍伯(花押)
 又八郎殿

文禄四年は西暦1595年。霜月は11月のことです。
通常、判物はんもつ以外の書状には年次を記さず、〇月〇日のみが書かれることが多いので、少し珍しい例といえるでしょう。
同じく「年内必可罷移之企にて候事、」の次に「恐々謹言きょうきょうきんげん」などの書留文言かきとめもんごんが無いのも気になる点です。
私はこの文書の原文(写真)を見ていませんので、残念ながら書状の形式等は不明です。

宛名にある「又八郎殿」とは島津忠恒のことで、龍伯(義久)の甥にあたります。
忠恒は正式に家督を継いだ後、名を家久と改めました。

(書き下し文)
拙者大口(鹿児島県大口市)へまかり移るべきの通り、京都に於いて申し入れ候へども、大隅おおすみ(国)の濱之市(鹿児島県霧島市)近所に屋敷を構えそうらいて、年内必ず罷り移るべきの企てにて候事そうろうこと
 文禄四年霜月しもつき十二月  龍伯(花押)
 又八郎殿

(現代語訳)
拙者は(秀吉様の命で内城を出て)大口へ引っ越すことを予定していたけれども、それが整わなかったので、大隅国浜之市近辺に引っ越すこととなりました。年内には必ず居を移します。
1595年11月12月 龍伯(花押)
又八郎(忠恒)殿

山中鹿之助生涯最期の書状

 次は山中鹿之助生涯さいごのものとみられる書状を読んでみましょう。
山中鹿之助は、毛利氏によって滅ぼされた尼子家の再興に人生を賭けた人物として知られています。

(翻刻)

永々被遂牢、殊當城籠城之段、無比類候、
於向後聊忘却有間敷候、
然者何へ成共可有御奉公候、
恐々謹言

 七月八日 幸盛(花押)

 (以下は捻封ウハ書部分)
 ト遠藤勘介殿  山鹿

『七月八日付山中幸盛書状』(吉川史料館所蔵文書)

早速読んでみましょう。
紙に書き下し文を書いてみるのも良いかもしれません。

山中鹿之助生涯最期の書状 解説

永々被遂牢

まず、はじめの「永々(ながなが)」は、同じ読みから”長々”である可能性を考えましょう。

「被(られ)」は受動態を意味する返読文字ですので、後で読みます。

「遂」は”ついに”と読む場合もありますが、ここでは「~を遂(と)げ」と読んだ方が意味が繋がりそうです。

「牢」は”牢屋・牢獄”をイメージするかもしれませんが、”浪人”のことを「牢人」と書く場合もありました。
この場合は後者だと考えた方が良さそうです。

ここまでを読み下すと「長々牢(浪人)を遂げられ、」となります。

続いて読んでみましょう。

殊當城籠城之段、無比類候、

「殊」一文字で「殊に」と読みます。

「當」は”当”の旧字です。
もし”當山”と書いてあれば”富山”と誤読してしまいそうですが、”当山”という意味になります。

「無比類候」は、「無」が打消しの返読文字となりますので、ここだけ読み飛ばして「比類無く候(ひるいなくそうろう)」と読みましょう。

読み下すと「殊に当城籠城の段、比類無く候」となります。
現代語訳すると
「(これまで尼子家再興のために)長きに渡って浪人として過ごされ、さらに今回の戦いにも参陣し、あなたは他に並ぶものがないほどの活躍をされました。」
となるでしょう。
当城の戦いとは、天正6年(1578)に起きた上月城こうづきじょうの籠城戦です。

於向後聊忘却有間敷候、

「於(おいて)」は前置詞を現す返読文字ですので、後で読みます。

「向後」現在は”こうご”と読むでしょうが、戦国時代当時は”きょうこう”と読んだようです。
江戸時代に入ってから次第に現在の読み方へと変化しました。
従って、戦国時代の史料を読む際は”きょうこう”としたほうが自然なのかもしれません。(こだわらなければどちらでもよい)

「聊」は一文字で”いささか”と読みます。
ほんのすこし、わずかという意味です。

「有間敷」は”あるまじく”と読み、あってはならないという意味です。
「忘却」に対して「有間敷」がかかっているので、”忘れてはいけない”転じて”忘れることはない”となります。

読み下すと
向後に於いて聊かも忘却有るまじく候」。
すなわち
「今後も(あなたの活躍と恩義は)決して忘れません」
という文意になります。

然者何へ成共可有御奉公候、

「然者」で”しからば”と読みます。
「然(しかり)」と助詞の「~は(者)」が合体した形となっています。
他にも「~江(へ)」や「~二(に)」など、古文書では助詞にも漢字が充てられました。

「可有御奉公候」
慣れていないとやや難しいかもしれませんが、「可(べく)」と「有(ある)」が2字続けて返読文字となっています。
この場合は「御奉公」から読み始め、「有る」「可(べく)」と順に返り、最後に「候」と読みましょう。
読み下すと
「然らば、いずれへ成りとも御奉公有るべく候」。
現代語訳にすると
「されども(もはや敗れた上は)、あなたはどこへなりとも仕官し、新しい主人をもってください」
といった文意になります。

次の「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」は書留文言の一つで、現在の書簡でいう”敬具”にあたる部分です。
もともと漢字が中国から伝来したころには、このようなものはなかったようですが、日本で武家社会が形成されるにつれて、「給ふ」・「侍ふ」・「能ふ」などと共にこのような言葉が生まれました。
直訳すると”恐れ謹んで申し上げます”となるでしょうか。

 七月八日 幸盛(花押)
 (以下は捻封ウハ書部分)
 ト遠藤勘介殿  山鹿

基本的に判物はんもつ以外の書状には、年次が記されることは稀なため、いつの7月8日なのかさまざまな視点から考察する必要があります。
この書状は天正6年(1578)に尼子勝久や山中鹿之助らが籠る播磨はりま上月こうづき城が落城した時のものと見てほぼ間違いないでしょう。
最後に山鹿とありますが、幸盛のところに花押かおうが捺してあるため、山中鹿之助幸盛が書いたものだろうと推察できます。

宛名にある遠藤勘介がその後どのような消息を辿ったのかは不明ですが、この書状が現存していることを考えると、彼もまた鹿之助と志を同じくした忠義の士だったのかもしれません。
なお、鹿之助はこの数日後に毛利方によって殺害されてしまいました。

山中幸盛肖像(安来市立歴史資料館所蔵)

山中幸盛肖像(安来市立歴史資料館所蔵)

(書き下し文)
長々牢(=浪人)を遂げられ、殊に当城(=上月城)籠城の段、比類無く候。
向後に於いて忘却有るまじく候。
然らばいずれへなりとも御奉公あるべく候。
恐々謹言

 七月八日 幸盛(花押)

 (以下は捻封ウハ書部分)
 ト遠藤勘介殿  山鹿

(現代語訳)
(これまで尼子家再興のために)長きに渡って浪人として過ごされ、さらに今回の戦いにも参陣し、あなたは他に並ぶものがないほどの活躍をされました。
今後もあなたの活躍と恩義は決して忘れません。
しかしもはや敗れた上は、あなたはどこへなりとも仕官し、新しい主人をもってください。敬具

森長可が家族へ宛てた遺書

 最後は少し長いですが、森長可(もりながよし)の書状です。
森長可は織田信長家臣森可成よしなりの世継ぎとなり、鬼武蔵おにむさしと恐れられた人物として有名です。
母たち女性にも見せるためなのか、ひらがなが多い傾向にあります。
想像力を働かせて、これはと思う漢字を当てはめて読んでみましょう。

(翻刻)

  覚

一、さわひめのつほ、秀吉様へ進上、但いまハ宇治にあり、

一、たいてんもく、秀吉様へ進上、ふだにあり

一、もしうちしに候はゝ、此分ニ候、
母ニ候人ハ、かんにんぶん秀吉様へ御もらい、京ニ御いり候へく候、
せんハ今のことく御そはに奉公之事、

一、我々あとめ、くれゝゝいやにて候、
此城ハかなめにて候間、たしかなるものを秀吉様よりおかせられ候へと御申之事、
一、おんな共ハいそき大かきへ御越候へく候、


(中略)

 天正十二三月廿六日 あさむさし
 尾藤甚右衛門さま申給へ


又申候、京のほんなミところに、ひそうのわきさし二つ御いり候、
せんニとらせ申候、
尾甚ニ御申候へく候、

おこう事、京のまち人に御とらせ候へく候、
くすしのやうなる人に御しつけ候へく候、

はゝに候人ハ、かまいてゝゝ京ニ御いり候へく候、
せんこゝもとあとつき候事、いやにて候、

十まんニ一ツ、百万ニ一ツさうまけニなり候ハゝ、ミなゝゝひをかけ候て、御しに候へく候、
おひさにも申候以上、

森長可が家族へ宛てた遺書 解説

一、さわひめのつほ、秀吉様へ進上、但いまハ宇治にあり

さわひめのつほ(沢姫の壺)とは茶道具のことです。
この壺を、権力を手にして間もない羽柴秀吉様へ進上してほしい。
ただ、今はここ(美濃兼山城)には無く、京都の宇治にある。
という意味でしょう。

一、たいてんもく、秀吉様へ進上、ふだにあり、
たいてんもく(台天目)、これも茶道具のことです。
長可ながよしは豪勇の誉高い武将でしたが、茶の湯を嗜む一面もあったようです。
これも秀吉様へ進上してほしい。
「ふだにあり」が難解ですが、歴史学者の小和田哲男氏をはじめとする先生方の見解では、京都にある仏陀(寺)(ぶっだじ)のことではないかとのことです。

一、もしうちしに候はゝ、此分ニ候、

ひとつ、もし(私が)討死しそうらはば、かくの分に候」と読みます。
「此」は”この”と読む場合もありますが、”かくの”と表現することもありました。
“如此”で”かくのごとし”あるいは”かくのごとく”です。
“斯くの如し”または”如斯”と記される場合もあります。

母ニ候人ハ、かんにんぶん秀吉様へ御もらい、京ニ御いり候へく候、

返読文字がないので読めるでしょうか。
読み下すと
母に候人そうろうひとは、堪忍分(を)秀吉様へおん貰い、京に御入おいり候べく候
と読みます。

せんハ今のことく御そはに奉公之事、

千は今のごとく(秀吉様の)御側に奉公の事
と読みます。
この千という人物は、内容から察するに森長可の妻であるせん(池田恒興娘)ではなく、長可実弟の千丸のことでしょう。

この一条を現代語訳すると
「もし私が討死したならば、上に書いた条々の通りにしてください。そして母上は隠居料を秀吉様から頂き、京で余生を送ってください。千丸は今までの通りに秀吉様の御側に仕えていなさい。」
となります。

続いて読んでみましょう。

一、我々あとめ、くれゝゝいやにて候、

ひとつ、我々跡目、くれぐれ(も)嫌にて候
つまり、(千丸に)私の跡目を継がせるのは絶対に嫌ですと書いています。
その理由がこちらです。

此城ハかなめにて候間、たしかなるものを秀吉様よりおかせられ候へと御申之事、

読み下すと
この城は要にて候間そうろうあいだ、確かなる者を秀吉様より置かせられ候へとおん申すの事
すなわち
「この城は戦略的に非常に重要な要害であるため、城主としてふさわしい大将を秀吉様から派遣していただきたい」
と記されています。

一、おんな共ハいそき大かきへ御越候へく候、

「大かき」は地名のことで、現在の岐阜県大垣市にある大垣城を指します。

読み下すと
一、女共は急ぎ大垣へお越し候べく候
つまり
「(私が討死したならば)女性は急いで大垣城へ落ち延びよ」
という意味です。

中略を挟んで「天正十二三月廿六日 あさむさし

ここから書状をしたためた年月日は「天正十二年(1584)三月二十六日」であることがわかります。

「あさむさし」とあるのは、「(天正12年3月26日)朝 武蔵」です。
森長可は武蔵守(むさしのかみ)という受領名ずりょうめいを名乗っていたため、森武蔵守殿もりむさしのかみどの武州殿ぶしゅうどのなどと呼ばれていたのでしょう。

この時期の美濃の情勢は、織田信雄を支援した徳川家康と羽柴秀吉方の諸将が睨み合いを続けており、美濃兼山城主の森長可は秀吉方として参陣していました。
これより少し前の3月13日に森長可と舅の池田恒興が尾張犬山城を攻め落とし、この日をもって信雄・家康連合軍との具体的な戦闘が始まったといわれております。

さらに長可は3月17日、羽黒砦のさらに南の八幡林はちまんばやしに軍を進めるも、徳川方の酒井忠次、榊原康政らの急襲を受け、3000の軍勢が総崩れになって敗走するという事態となりました。(羽黒の陣)

この報せを大坂で聞いた羽柴秀吉は、3月21日に大軍を率いて濃尾へ出陣。
同月27日に犬山城に入ります。
長可がこの書状をしたためたのはまさにそうした時期のことで、羽黒の陣で招いた自らの失態に苛まれていたのかもしれません。

尾藤甚右衛門さま申給へ

「尾藤甚右衛門じんえもん」というのは、当時森家の家老を務めた尾藤知宣(びとうとものぶ)のことです。
様と敬称を用い、さらに申し給えとしているのは、よほど信を置いているからでしょうか。

ここからは猶々書なおなおがきと呼ばれる追伸部分です。

又申候、京のほんなミところに、ひそうのわきさし二つ御いり候、
せんニとらせ申候、
尾甚ニ御申候へく候、

読み下すと
また申し候。京の本阿弥ところに、秘蔵の脇差二つ御入り候。千にとらせ申し候
となります。
千とは長可実弟のこと。
形見として脇差を与えたいと書いています。

尾甚に御申し候べく候。おこう事、京のまち人に御とらせ候へく候、
くすしのやうなる人に御しつけ候へく候、

「尾甚」は先ほど登場した尾藤甚右衛門知宣のことです。

読み下すと「尾甚びじんに御申し候べく候。おこう事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師の様なる人に御しつけ候べく候。

語訳すると
「尾藤知宣に伝えたいことがあります。
おこうは武家ではなく京の町人に娶らせるのが良い。
薬師のような職業ならば丁度よいのではないか」
となるでしょうか。

高貴な身の上なのに、京都の町人へ嫁がせるというのは不思議な気もしますが、森家は父可成よしなりをはじめ、兄の可隆なりたか、弟の成利、長隆、長氏が相次いで討死しており、残された妻や子のことを考えると、思うところがあったのかもしれません。

はゝに候人ハ、かまいてゝゝ京ニ御いり候へく候、
せんこゝもとあとつき候事、いやにて候、

読み下すと
母に候人は、構いて構いて京に御入り候べく候。
爰元ここもと跡継ぎ候事、嫌にて候。

つまり、母には重ねて京で暮らしてもらうことを頼んでおり、弟の千丸には私の跡を継いでほしくないと重ねて念を押しています。

これが最後の文です。

十まんニ一ツ、百万ニ一ツさうまけニなり候ハゝ、ミなゝゝひをかけ候て、御しに候へく候、
おひさにも申候以上、

最後はくりかえしの文字が頻出してやや読みにくいでしょうか。
読み下すと
十万に一つ、百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て、御死に候べく候。
おひさにも申し候。以上。
です。

大変なことが記されていますね(^^;
一廉の武将の死生観が見えてくる気がします。
残念ながらおこうやおひさ、長可生母のその後の消息は不明です。

長可が何を考えて生きたのか。
戦国時代の共通した死生観とは何なのか。
当時を生きた人の胸の内は私などには分かる由もありません。

長可がこの書状を書いた2日後の3月28日。
秀吉は家康が本陣とした小牧山から20町ほどの距離にある楽田に布陣し、両軍が睨み合ったまま4月を迎えました。
秀吉はなんとか汚名を挽回したいと三河への急襲を主張する長可・恒興らの進言を認めます。

そして4月7日。
羽柴秀次を総大将に池田恒興・元助父子、森長可、堀秀政ら1万6000の軍勢が三河を攻めますが、徳川軍の待ち伏せに遭い、森長可と池田父子が討死するという散々な敗北を喫しました。
この2月からの一連の戦いは小牧・長久手の戦いといわれています。

森長可肖像(可成寺所蔵)

森長可肖像(可成寺所蔵)

なお、この史料にある千(千丸)という人物は、秀吉近習の時代を経て森家の家督を相続。
元服して森忠政と名乗ります。
信濃川中島を治めたのち、初代美作津山藩主となりました。

(書き下し文)
  覚

一、沢姫の壺、秀吉様へ進上。但し今は宇治にあり。
一、台天目、秀吉様へ進上。仏陀(寺)にあり。
一、もし討死候はば、此分(このぶん)に候。
母に候人は、堪忍分秀吉様へ御もらい、京に御入り候べく候。
千は今のごとく、御側に奉公の事。
一、我々跡目、くれぐれいやにて候。
此城は要にて候間、たしかなる者を秀吉様より置かせられ候へと御申しの事。
一、女共は急ぎ大垣へ御越候べく候。
 (中略)
 天正十二(1584)三月二十六日朝 武蔵(森武蔵守長可)
 尾藤甚右衛門(びとうじんえもん=尾藤知宣とものぶ)様申し給へ

<以下猶々書き(追伸)部分>
又申し候。
京の本阿弥ところに、秘蔵の脇差二つ御入り候。
千にとらせ申し候。
尾甚に御申し候べく候。
おこう事、京の町人に御とらせ候べく候。
薬師の様なる人に御しつけ候べく候。
母に候人は、構いて構いて京に御入り候べく候。
爰元ここもと跡継ぎ候事いやにて候。
十万に一つ、百万に一つ総負けになり候はば、皆々火をかけ候て、御死に候べく候。
おひさにも申し候。以上。

(現代語訳)
  覚

1.沢姫の壺は秀吉様へ進上してください。
 ただ、今は京都の宇治にあります。
2.台天目も秀吉様へ進上してください。
 これも京都の仏陀(寺)にあります。
3.もし私が討死したならば、ここに書いた条々の通りにしてください。
そして母上は隠居料を秀吉様から頂き、京で余生を送ってください。
千丸は今までの通りに秀吉様の御側に仕えていなさい。
4.千丸に私の跡目を継がせるのは絶対に嫌です。
この城は戦略的に非常に重要な要害であるため、城主としてふさわしい大将を秀吉様から派遣していただきたいと考えています。
5.女共は急ぎ大垣城(岐阜県大垣市)へ落ち延びてください。
 (中略)
1584年3月26日 朝 武蔵(森長可)
尾藤知宣様へお願いします。

(追伸)
京都の本阿弥に秘蔵の脇差が二つあります。
これを形見として千丸にとらせます。
尾藤知宣に伝えたいことがあります。
おこうは京の町人に娶らせるのが良いと思います。
薬師のような相手であれば丁度良いのではないでしょうか。
母上には重ねて京で暮らしていただけるようにお願い申し上げます。
千丸に私の跡目を継がせるのは嫌です。
もし、十万に一つ、百万に一つ羽柴全軍が総崩れとなり大敗を喫したならば、兼山城(岐阜県可児市)に火をかけ、皆さん死んでください。
これはおひさにも申しました。
以上。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

ご覧いただきありがとうございました!
読解力向上のお役に立てましたら幸いです。

参考文献
甲斐保之,有川和秀,伊地知南,小野郁子,加治木郁夫,福元静男,花薗正志(2004)島津義久と国分隼人-舞鶴城築城四百周年-,国分・隼人郷土史研究会
小和田 哲男(2010)『戦国武将の手紙を読む』(中公新書)
など

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