「翻刻を読んでみよう」のシリーズ4回目です。
翻刻とは、くずし字で記された原文を語順等を組み替えず活字化したものを指します。
今回は伊達輝宗の史料を紹介します。
年次の解釈一つで意味合いが大きく変わる伊達輝宗の書状
伊達輝宗は奥羽の名門・伊達家の棟梁として、近隣諸国に大きな影響力をもった人物です。
天文24年(1555)に元服した際、将軍足利義輝から一字を賜り、総次郎輝宗と称しました。
しかし、父晴宗やその家臣と外交路線などを巡ってしばしば衝突。
伊達家は天文の乱以来の内紛を起こします。
若き輝宗は出羽の最上義守、会津の蘆名盛氏との同盟を軸に家中の統制に成功。
相馬氏との戦いを有利に進めるなど、奥羽11郡をほぼ支配するに至りました。
東北の戦国大名の中で、いち早く織田信長と誼を通じたことでも知られています。
また、能をよく嗜んでいたようで、輝宗自らが記した日記によると、能楽師を召し抱えて師事するほどのめりこんでいたようです。
嫡男の政宗が多趣味なのも、輝宗の影響を受けたからなのかもしれませんね。
伊達輝宗肖像(仙台市博物館所蔵)
今回題材にしている史料は、輝宗が相馬盛胤・義胤父子と激戦を交わしていた時期のものです。
常陸国飯野平を領する岩城常隆へ宛てた書状で、援軍の要請と同心を求めた内容です。
常隆は輝宗の甥にあたる人物ですが、南の佐竹義重とも昵懇にしており、先代ほど伊達家に協力的というわけではありませんでした。
前置きが長くなりましたが、さっそく翻刻をご覧いただきましょう。
どの部分が年次の解釈一つで意味合いが大きく変わるのか、想像力を働かせながら読んでみるのも面白いかもしれません。
(翻刻)
態令啓之候、抑相、当間錯乱付而、御手合之事、
数度雖令懇望候、于今無御納得候、更々意外此事候、
会津為始一味中、至当年も度々助成候処ニ、第一之憑
存候、御当方御手延之儀、侘言至極候、急度彼口被及
後詰候者、可為本望候、扨又、上方衆関東口乱入之上、
自今以後、御挨拶如何可有之候哉、連々御工夫
千言万句候、会、最為始、奥口諸家中可准当方
之由、令相談候、此等之儀も、御当方眼前骨肉之間と云、
一国と云、御同心可然之上、不可過御塩味候、仍次郎所江、以
誓書被仰合候、大慶此事候、於向後者、大細事弥々
不可有御隔心候、書余大和田新右衛門尉任口状候、恐々謹言
林鐘五日 輝宗(花押)
岩城殿
『(年次不詳)六月五日付伊達輝宗書状(仙台市博物館所蔵文書)』
(年次不詳)六月五日付伊達輝宗書状 解説
1行目の「態令啓之候、」
“わざとこれをけいせしめそうろう”と読みます。
今回も冒頭から、さも当然のように返読文字が出てきましたね。
古代の日本列島に住む人たちは、独自の話し言葉がありましたが、筆記というテクノロジーをもっていませんでした。
古代の日本人は、進んだ文明を持つ漢民族から、使節を派遣してさまざまな技術を学びました。
その中の一つが「漢字」です。
しかしながら、日本語と漢語では語順がまるで異なります。
そこで古代日本政府は、文字自体は漢文で記すが、読み方だけは日本語のままで教育を進めました。
私は あなたを 愛しています (日)
例えばこの一文を漢語にすると
我爱你=
私は 愛しています あなたを (漢)
となります。
英語と少し似ていますね。
I love you=
私は 愛しています あなたを (英)
私たちは、学校の古文の授業でレ点や一二点が入った漢文を学んだと思いますが、昔の読み書きが堪能な人たちはそのようなものが無くとも読めていました。
しかし、学校でそのような訓練を受けていない我々が、いきなり読むのは難しいでしょう。
そこで、私独自の解釈になりますが、返読する文字のおおよそのパターンを載せておきます。
つまり
動詞っぽい単語
可・・・ベク・ベキ ~すべき、~すべく
被・・・ラレ・ラル ~される、~なさる (受け身)
令・・・シム・セシメ ~する、~させる、~させていただく
遣・・・ツカワス・ツカワシ 派遣する
尽・・・ツクス・ツクシ 尽力する
など
有り 無し 多い 少ない 肯定 打ち消し
有・・・アリ・アル 有る
無・・・ナシ・ナク 無い
不・・・フ・ス・ズ ~にあらず(否定形)
多・・・オオイ・オオク・オオキ 多い
少・・・スクナク・スクナキ 少ない
など
前置きに用いる単語・文と文を繋ぐ単語
従・・・ヨッテ 従って(順接)
然而・・・シカシテ しかし(逆接)
以・・・モッテ ~をもって(前提を示す)
若・・・モシ 仮に
尤・・・モットモ 道理に、ただし
剰・・・アマツサエ その上、それだけでなく(添加)
為・・・タメ、ナス、ナシ、タル ~のため、~となす
雖・・・イエドモ ~だけども(逆接)
など
ただ、ここに示した文字も、文脈によっては返読しない場合もあります。
深く理解するためには、多くの古文書を読む必要があるでしょう。
今回は「態令啓之候、」ですので「令(~せしめ)」と「啓(けい)」が返読文字となります。
まずは「態(わざと)」から読み始め、返読文字の部分は語順を組み替えつつ読みましょう。
この場合「態(と)→之(を)→啓→令→候」となります。
“わざとこれをけいせしめ”
現代人から見れば随分と上から目線な印象を受けますが、これは書簡の書き出しとして非常によくパターンです。
「態(わざと)」は故意に、意図的に〇〇をやったという意味ではなく、単に”こちらから〇〇致します”という表現です。
車や鉄道の無い時代ですから、書状を使者に持たせて届けるのに日数を要します。
そのため、相互のやり取りでトラブルを避ける意味もあって、「こちらから使節を仕立てます」と前置きしているのです。
他にも、初めてやりとりする相手の場合は「雖未申通候(いまだもうしつうせずそうろうといえども=今までご挨拶したことがありませんが)」、返書を認める場合は「御札拝覧申候(ぎょさつはいらんもうしそうろう=あなた様からの書状を拝見しました)」などがあります。
「之」は通常、”~の”とする表現が多いのですが、今回の場合は”これ”と読みます。
よく出る例として「進之候(これをまいらせそうろう)」があります。
“これを差し上げます”という意味です。
「令(せしめ)」は前述の動詞っぽい単語に入れたもので、~する、~させる、~させていただくなど、さまざまな意味を持つ単語です。
今回は「令啓(けいせしめ)」なので、”~させていただく”といった謙譲語です。
読み下すと
「わざとこれを啓せしめ候。」
すなわち
「こちらから書状を差し上げます」、あるいは「取り立てて申し上げます」
といった文意です。
「抑相、当間錯乱付而、」
「抑」これ一字で”そもそも”と読みます。
史料によっては”抑々”と記される場合もあります。
「相、当間」
この史料は伊達輝宗が相馬盛胤・義胤父子と激戦を交わしていた時期のもので、常陸国飯野平を領する岩城常隆へ宛てた書状です。
つまり、「相」とは相馬家のこと。
「当」とは当家(伊達家)です。
続いて読んでみましょう。
「錯乱付而、」
今日用いられる「錯乱」は、精神的に混乱状態にあることを差しますが、この時代は合戦のことを指す場合が多いです。
他にも”干戈“・”鉾楯“などと表現する場合があります。
「付而」は”~につきて”と読みます。
「而」はこのように助詞的な役割を果たす場合が多くあるので、覚えておくと便利です。
他にも
達而(たって)・・・どうあってもと無理に望むさま
然而(しかして)・・・しかし・しかしながら
定而(さだめて)・・・必ず。きっと。まちがいなく
などがあります。
読み下すと
「そもそも、相・当間錯乱に付きて、」
語訳は次の文節と合わせて致します。
「御手合之事、数度雖令懇望候、」
この場合の「御手合」とは合戦の事を指します。
さきほど登場した「之」は”これ”でしたが、今回は”~の”と読みます。
少しややこしいですが、文脈から判断するしかありません。
「雖」はこれ一字で”いえども”と読み、返読文字となります。
次の「令(せしめ)」も返読しますので、この場合は「数度懇望せしめ候といえども、」と読みましょう。
このように返読文字が2字続くパターンも多くあるので、徐々に慣れていきましょう。
読み下すと
「御手合の事、数度懇望せしめ候といえども」
前の文節から現代語訳すると
「相馬家との合戦の際、幾度も援軍を派遣してほしいと懇望したにも関わらず」
といった文意になります。
主語が抜けているため、誰が誰に何をしたのかをしっかりと把握する必要がありますね。
「于今無御納得候、更々意外此事候、」
「于今」これで”今に”と読みます。
「于」は返読文字です。
「無御納得候、」
「無」が返読文字となります。
この場合「御納得無く候」と読みます。
余談ですが、今日でも”無断”という単語がありますね。
日本風にすると”断り無く”です。
たまに”無断駐車おことわり!”との看板を見かけることがありますが、”断り無き駐車、おことわり!”と想像してしまって思わず顔が緩んでしまいます。
読み下すと
「今に御納得無く候。さらさら意外この事に候。」
すなわち
「ついに我が陣営にご参陣いただけなかったことは心外の至りです。」
といった文意になります。
「会津為始一味中、至当年も度々助成候処ニ、第一之憑存候、」
「会津」は地名のことで、蘆名氏を意味しています。
「為始」は”始めとして”と読みます。
「為」は他にも”~のため”や”~たる”と読む場合があります。
可為祝着候とある場合は、”祝着たるべく候”です。
「一味中」は味方という意味です。
つまり、蘆名氏を始めとして一味中・・・と、同盟国を例に挙げて岩城氏を味方に誘おうとしているのです。
伊達家と蘆名家は犬猿の仲として知られていますが、輝宗が父の反対を押し切る形で、妹を嫁がせた経緯があります。
しかしながら、蘆名氏の家運はすでに斜陽に転じており、伊達よりも常陸の佐竹義重に心を寄せるものが増え始めていた時期でした。
「至当年も」
「至」が返読文字ですので、「当年に至りても」と読みます。
「度々助成候処ニ、」
ここはそのまま素直に読んで大丈夫です。
「たびたび助成候ところに、」つまり、伊達家を支援してくれる味方たちがたびたび加勢してくれているが、といったニュアンスです。
「第一之憑存候、」
現在では「憑」はホラー映画を感じさせるものがありますが、古文書では”たのみ”と読みます。
“御取合憑存候(おとりあい、たのみぞんじそうろう)”などよく出る表現です。
読み下すと
「会津を始めとして一味中、当年に至りても、たびたび助成候ところに、第一の頼みと存じ候」
すなわち
「会津の蘆名家を初めとして、お味方は今に至るまで、たびたび加勢してくれています。しかし、私は貴家を第一の頼りと考えています。」
といった文意になるでしょう。
伊達輝宗が岩城家を味方につけたかった理由、その一つが血縁関係でしょう。
輝宗の兄は養子として岩城家を継いだ岩城親隆です。
親隆はかつて輝宗が窮地に陥ると、たびたび和睦の仲介を取り持ってくれた心強い存在でした。
妻は佐竹家からの姫です。
この書状が発給された頃は子の常隆の代となっており、幼い常隆の取り巻きは親佐竹派で固められていた時代でした。
次が解釈が難しい部分です。
「御当方御手延之儀、侘言至極候、」
「当方」とはこちらという意味。”此方“と記される場合もあります。
「手延(てのべ)」はなすべきことが延び延びになるさまです。
「侘言・詫言(わびごと)」は①謝罪・降伏を申し入れること②心苦しい心中を述べること③歎願すること です。
この一文は抽象的な言い回しなので、正直なところ私にはわかりません。
可能性として有り得るのが以下のパターンかと思います。
- 御当方、つまり伊達家による相馬家討伐が長引いているのは、味方の蘆名家などに面目が立たず心苦しい次第である。
- 伊達家による相馬家討伐の予定が延び延びとなっているのは、一向に加勢に現れない岩城家の責任である。貴家による詫び言があって然るべきである。
- さまざまに思うところはあるけれども、手心を加えて当家は貴家への討伐を先延ばしにしている。手遅れにならぬうちに詫び言を申した方が良いと思うが・・・
どれが正解なのかはわかりかねますが、解釈一つでまるで意味が違うものになりますね。
現代語訳の恐ろしいところです。
(2021年6月17日追記)
「御当方」と「御手延」はともに岩城家を指しているとのコメントをいただきました。
つまり、岩城殿が御加勢に現れないことを遠回しに非難し、圧力をかけているのではないかという説です。
「急度彼口被及後詰候者、可為本望候、」
「急度(きっと)」は速やかに・必ず間違いなくという意味です。
今回の場合は”速やかに”と解釈した方が意味がつながりそうです。
「彼口」は、彼(か)の口と読み、攻め口つまり、伊達陣営を意味します。
「被及後詰候者、」
被(ラレ・ラル)は受け身を現す返読文字です。
今日でも”被害者”といいますが、日本風にすると”害せらる者”となります。
後詰(ごづめ)とは援軍のことです。
候者(そうらはば)は、”~ですので”といった接続詞の役割をしています。
最初の2文字が返読文字ですので、この場合は「後詰(ごづめ)」から読み始め、「及(およば)」→「被(れ)」と順に返り、最後に「候者(そうらはば)、」と読みましょう。
次の文節も同じように読んでみてください。
「可為本望候、」
“本望たるべく候”です。
「可為」は”~たるべく”という古文書で頻出する返読文字で、それが私の望みであるという意味です。
読み下すと
「きっと、かの口に後詰に及ばれ候はば、本望たるべく候」
すなわち
「急ぎ我らの陣営に御参陣くださることを期待しております。」
といった文意になります。
ここから話が変わります。
「扨又、上方衆関東口乱入之上、自今以後、御挨拶如何可有之候哉、」
「扨又、」は”さてまた、”と読む、話題を転換する際に用いる接続詞です。
この文から本題に入ると仮定すると、岩城氏の参陣は前置きの挨拶のようなもので、輝宗はここから伊達家の影響力の大きさを見せつけようと凄んでいるのかもしれません。
「上方衆関東口乱入之上、」
上方衆(かみがたしゅう)とは畿内の諸軍勢を指します。
輝宗治世の時代に、畿内の軍勢が関東口に攻め入った年。
一体いつの書状でしょうか。
「自今以後、」は今後という意味ですね。
日本語風にすれば「今自(より)後を以て」となるでしょうか。
「御挨拶如何可有之候哉、」
“ごあいさつ、いかがこれ有るべく候や”です。
今回の「之」は”これ”と読みます。
「可(ベク)」・「有(アル)」と2字続けて返読しますので、如何これ有るべくとなるわけです。
読み下すと
「さてまた、上方衆関東口乱入の上、自今以後、御挨拶如何これ有るべく候哉」
すなわち
「さて、上方の軍勢が関東の手前まで兵を出しましたが、貴家は今後、中央政権へどのように御挨拶なさるでしょうか。」
といった文意になります。
「連々御工夫、千言万句候、」
連々(れんれん)は①引き続き、②かねがねという意味。
千言万句(せんげんばんく)はたくさんの言葉、くどくど言うさまを意味します。
ここの語訳は自信がありませんが、中央政権に対し、手を替え品を替えて粘り強く交渉することが大事であると説いているのかもしれません。
「会、最為始、奥口諸家中、可准当方之由、令相談候、」
「会、最為始、」は、”会(津)・最(上)を始めとして、”という意味です。
当時の蘆名家当主は蘆名盛隆。
最上家当主は最上義光です。
輝宗は最上の姫を妻に迎えており、義光とは義兄弟の間柄です。
「奥口諸家中、」
「奥口」は奥州口という意味でしょう。
特に下野国から北上して伊達領へ入る仙道筋は、小峰の白川氏・三芦の石川氏・須賀川の二階堂氏・三春の田村氏・二本松の畠山氏・塩松の大内氏などの中小勢力がひしめき合い、百年以上にわたって和戦を繰り返していました。
なお、蘆名家当主の盛隆は二階堂氏からの養子。
伊達輝宗の嫡男である政宗は、田村氏の姫を妻としています。
「可准当方之由、」
「可(ベク)」・「准(ジュン)」と2字続けて返読文字のため、「当方」から読み始めます。
「当方に准ずべきの由、」ですね。
「准(ジュン)」は”準ずる”というよりは、”批准”に近いイメージで読んだ方が意味がつながりそうです。
「令相談候、」
「令(セシメ)」が返読文字のため、「相談ぜじめ候」です。
読み下すと
「会(津)・最(上)を始めてとして、奥口諸家中、当方に准ずべきの由、相談ぜじめ候。」
すなわち
「会津の蘆名・山形の最上を始めとして、仙道筋の諸家中は我が伊達家の意に従い、連携するとのこと。」
といった文意です。
もちろんこれは輝宗の大言壮語ですので、事実とは異なる点があるでしょう。
次に輝宗は、親戚同士のつながりを利用して岩城氏にも連帯を呼びかけます。
「此等之儀も、御当方眼前、骨肉之間と云、一国と云、御同心可然之上、不可過御塩味候、」
“これらの儀も、御当方眼前、骨肉の間と言い、一国と言い、御同心然るべきの上、御塩味過ぐべからず候“と読みます。
「骨肉(こつにく)」は親子や兄弟など一族のことを指します。
「同心(どうしん)」は同意すること。
「塩味(えんみ)」はいろいろな事情を考慮して物事を処理することを意味します。
現代語訳すると
「岩城殿も我らと血縁の結びつきが強く、東北勢同士の繋がりもあることゆえ、我らの陣営に入ることを御検討いただきたく存じます。」
といった文意になるでしょうか。
ただ、この書状の正確な年次は特定されておらず、輝宗は今後、どのような外交戦略を考えていたのかは定かではありません。
詳しいことは後述しますが、いよいよ関東口に中央政権の影響力が迫ってきたため、これに対抗するために連帯を呼びかけたのか。
それとも、岩城家における佐竹義重の影響力を削ぐために連帯を呼びかけたのか。
いったい輝宗の真意はどこにあったのでしょうか。
「仍次郎所江、以誓書被仰合候、大慶此事候、」
「仍」はこれ一字で”よって”と読み、”したがって”・”ゆえに”・”そのため”と同じ意味です。
「次郎所」は私の勉強不足でわかりかねます。
「江」は”~へ”という助詞です。
他にも
向後者(きょうこうは)
今度改而(このたびあらためて)
ゆめ能又ゆめ(ゆめのまたゆめ)
などがあります。
「以誓書被仰合候、大慶此事候、」
“誓書をもって、仰せ合わせられ候。大慶この事に候。”と読みます。
誓書は誓紙・起請文のことです。
読み下すと
「仍って次郎所へ、誓書を以って仰せ合わせられ候。大慶この事に候。」
となります。
「於向後者、大細事弥々不可有御隔心候、」
「於向後者、」
「於」は”~において”と読む返読文字です。
この場合、「向後に於いては」となります。
「向後(きょうこう)」は今後という意味で、先ほど登場した”自今“と同じです。
現在はビジネス用語として”こうご”と読むかと思いますが、戦国時代当時は”きょうこう”と読むのが一般的でした。
“きょうご”と読んでも間違いではありません。
「者」は”~は”という助詞の役割を果たしています。
「大細事弥々」
「大細(たいさい)」はおおまかなことという意味です。
「弥々」は”いよいよ”と読みます。
「不可有御隔心候、」
最初の3字は続けて返読文字のため、「御隔心」から読み始めましょう。
「不可有」は有(ある)→可(べから)→不(ず)で、”~してはいけない”という意味です。
「隔心(かくしん)」とは隔てる心、つまり、疎意があるという意味です。
読み下すと
「向後に於いては、大細の事、いよいよ御隔心有るべからず候」
すなわち
「これまで互いに小さな遺恨はあったでしょうが、今後は疎意無く仲良くしていきましょう。」
といった文意になります。
「書余大和田新右衛門尉任口状候、恐々謹言」
「書余(しょよ)」とは、その他のことの意です。
「大和田新右衛門尉(おおわだしんえもんのじょう)」は伊達家家臣の名です。
つまり、「その他詳しいことは大和田新右衛門尉の口上に任せます」としているわけです。
「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」は直訳すれば”恐れ謹んで申し上げます”
これは書留文言の一つで、現在の敬具にあたる部分です。
差出人と宛名の関係性により書き方が変化する傾向にあります。
読み下すと
「書余、大和田新右衛門尉の口状に任せ候。恐々謹言」
すなわち
「その他のことは、大和田新右衛門尉が直接口上で申し述べるでしょう。敬具」
といった文意になります。
いよいよ次が最後の解説です。
「林鐘五日 輝宗(花押)」
林鐘(りんしょう)は陰暦6月の異称です。
前回記事の佐竹義重書状では12月の異称である極月が登場しました。
花押(かおう)とは、自署の代わりに書く記号のことで、その形が花模様に似ているところからその名が付きました。
他にも押字(おうじ)・判(はん)・判形(はんぎょう)・書判(かきはん)とも呼ばれています。
花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、個人の模倣・偽作を防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされています。
伊達輝宗の花押・印章
(今回の書状は左)
日本では10世紀ごろに大陸から伝わります。
はじめは自署を行書で書くのが慣例でした。
そこから草書へ変わり、次第に二字の区別がつかなくなって図様化しました。
これを草名といいます。
戦国時代中期以降は、しだいに名前とは全く関係のない図形が花押として使われるようになります。
(年次不明)六月五日付伊達輝宗書状 書き下し文
わざとこれを啓せしめ候。
そもそも相・当間錯乱に付きて、御手合の事、数度懇望せしめ候といえども、今に御納得無く候。
さらさら意外この事に候。
会津を始めとして一味中、当年に至りても、度々助成候ところに、第一の頼みと存じ候。
御当方御手延の儀、詫び言至極に候。
急度彼口後詰に及ばれ候はば、本望たるべく候。
さてまた、上方衆関東口乱入の上、自今以後、御挨拶いかがこれ有るべく候哉。
連々御工夫、千言万句に候。
会・最始めとして奥口諸家中、当方に准ずべきの由、相談ぜじめ候。
これらの儀も、御当方眼前、骨肉の間と言い、一国と言い、御同心然るべきの上、御塩味過ぐべからず候。
仍って次郎所へ、誓書を以て仰せ合わせられ候。
大慶この事に候。
向後に於いては、大細事いよいよ御隔心有るべからず候。
書余大和田新右衛門尉口状に任せ候。恐々謹言
林鐘五日 輝宗(花押)
岩城殿
(年次不明)六月五日付伊達輝宗書状 現代語訳
こちらから書状を差し上げます。
相馬家との合戦の際、幾度も援軍を派遣してほしいと懇望したにも関わらず、ついにご参陣いただけなかったことは残念です。
会津の蘆名家を初めとして、お味方は今に至るまで、たびたびご加勢くださります。
しかし、私は貴家を第一の頼りと考えています。
相馬家討伐が長引くことは天下に面目が立たず、誠に心苦しい次第です。
急ぎ我らの陣営に御参陣くださることを期待しております。
さて、上方の軍勢が関東の手前まで兵を出しましたが、貴家は今後、中央政権へどのように御挨拶なさるでしょうか。
いろいろと手を替え品を替えて、粘り強く交渉することが肝要です。
会津の蘆名・山形の最上を始めとして、仙道筋の諸家中は我が伊達家の意に従い、連携するとのこと。
岩城殿も我らと血縁の結びつきが強く、東北勢同士の繋がりもあることゆえ、我らの陣営に入ることを御検討いただきたく存じます。
従って、次郎所へ誓詞を以て仰せ合わされば有難い限りです。
これまで互いに小さな遺恨はあったでしょうが、今後は疎意無く仲良くしていきましょう。
その他のことは、大和田新右衛門尉が直接口上で申し述べます。敬具
12月5日 輝宗(花押)
岩城殿
この書状はいつのもの?
さて、冒頭で「年次の解釈一つで意味合いが大きく変わる」と述べましたが、皆さんは何年の6月5日のものだとご想像されましたか。
また、どの一文でそうだと解釈されましたか。
実は、江戸時代中期に仙台伊達藩が編纂した『性山公治家記録』には天正11年(1583)のものであると記されています。
伊達政宗が家督を相続する1年前ですね。
しかしながら、この文書には
「さてまた、上方衆関東口乱入の上、自今以後、ご挨拶如何これ有るべく候や。」
とあります。
天正11年といえば本能寺の変の翌年にあたります。
上方衆は羽柴秀吉と柴田勝家・織田信孝を中心とする勢力が争っていた時期であり、関東口で上方衆が争ったとは考え難いですね。
上野国を領した滝川一益も北条氏に敗れ、関東における所領の全てを失い国元に戻りました。
とすると、天正11年説では説明がつかなくなります。
では、天正10年(1582)はどうでしょうか。
この年の2月から3月にかけて、織田信長が大規模な動員をかけて武田勝頼を滅ぼした時期にあたります。
この書状の3日前に、織田信長は本能寺の変で自害して果てますが、情報が伊達領に届くのは、それよりも1~2か月先だったでしょう。
一説によると、伊達輝宗は東北の血縁の繋がりを利用して連帯を呼びかけ、織田信長に対処しようとしていた。
この史料はその裏付けであるとしているようです。
「御当方眼前、骨肉の間と言い、一国と言い、御同心然るべきの上、御塩味過ぐべからず候」の部分ですね。
私個人の考えでは、この書状ではそうとは限らない。
岩城氏を佐竹義重の手から切り離し、伊達陣営に引き込みたいと考えたのではないかと思いますが、皆さんはどのように解釈されたでしょうか。
「仍って次郎所へ、誓書を以て仰せ合わせられ候。大慶この事に候。」
この部分が分かると、また解釈が変わってくるのかもしれません。
伊達輝宗の治世下で上方衆が関東口へ迫ってきたのは、この2年しか考えられません。
また、輝宗は織田信長と昵懇の仲であり、柴田勝家とも書状のやりとりをして、ともに上杉景勝領へ攻め入ったこともあります。
徳川家康が関東の北条氏政と争った時期もありますが、はたして輝宗が家康を上方衆と認識したのか。
わざわざ東北に連帯を呼びかける必要があったのかなど、疑問が残ります。
伊達家の史料は比較的多く残っているので、ご興味のある方は調べてみると面白いかもしれませんね。
ご覧いただきありがとうございます。
皆さんはどのように考えられたでしょうか。
年次が一つ違うだけで、意味合いが大きく変わってきます。
古文書の面白いところであり、怖いところでもありますね。
参考文献
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林英夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
鈴木正人,小和田哲男(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
など