こんばんは~。
今回は織田信長による越前一向一揆討伐戦の際に、一向一揆勢として織田軍と戦った生き残りが遺したと思われる謎の丸瓦の解読をします。
そこに見えるはりつけ、釜茹でとは?
今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、当時の時代背景もご紹介します。
前田利家という人物について簡単に
前田利家 (1536~1599)
若い頃から織田信長の馬廻として佐々成政らとともに活躍。
血気盛んな性格で槍の又左衛門と恐れられた。
越前一向一揆討伐戦後に北陸地方の抑えとして柴田勝家の与力となった。
本能寺の変後は親友の羽柴秀吉に仕え、その覇業を支える。
加賀百万石を領して経済・文化の振興も図ったが、秀吉没後の翌年に死去。
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越前小丸城跡から出土した前田利家への呪いの瓦
早速だが最初にその瓦をご覧いただこう。
原文
釈文
此書物、後世二御らんしられ、
御物かたり可有候、然者五月廿四日
いきおこり、其まゝ前田
又左衛門尉殿、いき千人はかり
いけとりさせられ候也、御
せいはいハ、はりつけかまニいられあふられ候
(哉、如此候、一ふて書とゝめ候)
原文に釈文を記してみた
書き下し文
この書き物、後世に御覧じられ
御物語あるべく候。然らば五月二十四日
一揆起こり、そのまま前田
又左衛門尉(利家)殿、一揆千人ばかり
生け捕りさせられ候也。御
成敗は、磔(はりつけ)釜に炒られあぶられ候
(哉。かくのごとく候。一筆書き留め候。)
原文に書き下し文を記してみた
難読箇所や留意点の解説
可有候=(あるべくそうろう)
「可」が返り文字となっている。有る可候。
然者=(しからば)
「者」は「~は」という表現を昔は普通に使っていた。
廿四日=(にじゅうよっか)
昔は「二十」を「廿」または「〹」という字を用いていた。
如此候=(かくのごとくそうろう)
如も返り文字になる確率が高い。
武田信玄の風林火山で有名な
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
の如も全て返り文字である。
現代語訳
後世の人たちに知ってほしい実話がある。
去る五月二十四日。
(越前国で)一揆が起こった。
(そこで織田軍と交戦したが)
前田利家殿が一揆勢1000人ばかりを生け捕りにした。
(その仕置きに彼らを)磔(はりつけ)にして釜に入れ、あぶる(という残虐非道なものだった。)
このような事実があったので、(後の世の人に知ってもらうために)一筆書き留めた。
この書状の時代背景
この時代の天下様は織田信長
この時期、甲斐の武田信玄は既にこの世に無く、足利将軍家は追放されていた。
信長包囲網の主力を担っていた浅井家・朝倉家は滅亡し、畿内で組織的に信長に対抗する勢力は消滅しつつあった。
天正3年(1575)5月。
織田信長は盟友の徳川家康とともに長篠・設楽原の合戦で武田勝頼を打ち破った。
同年の8月には越前国の一向一揆討伐のため、3万を超える大軍で出陣する。
越前一向一揆討伐戦 信長の並々ならぬ決意による撫で斬り
この時、越前征伐に加わったのは柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、細川藤孝、武藤舜秀、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)、氏家直昌、安藤守就、不破光治、阿閉貞征、前田利家、佐々成政、梁田広正、織田信忠、織田信包、北畠信雄、神戸信孝、津田信澄といった音に聞こえた勇士らであった。
さらに海上からも丹後・若狭から数百艘の水軍衆らが出撃。
港と浦を抑えて一揆勢の補給路を遮断した。
織田軍は羽柴秀吉、明智光秀を先陣に、難なく木ノ芽峠を越え、越前平野部に乱入する。
杉津城に籠城していた堀江景忠が信長に内応したことにより、下間頼照・七里頼周らが指揮する越前一揆勢は総崩れとなった。
越前一向一揆討伐戦での信長の非道な行いと一揆勢の怨念
下間頼俊、下間頼照などが討ち取られた後も信長は攻撃の手を緩めなかった。
一揆勢の立て籠もる城々を攻め落とし、山中に逃れた一揆勢にも執拗に追い回して撫で斬りにした。
様々な記録によると、この越前一向一揆討伐戦で織田軍が討ち取った一揆勢は1万2250に上ったという。
信長は敵対する者には容赦はしない。
新しい領国統治への並々ならぬ決意と、積年の強い恨みがそうさせたのかもしれない。
これは小丸城跡北西の乾櫓から出土されたもの
越前の一向一揆は完全に平定され、織田信長による新しい領国経営が始まった。
長年の功績に報いるため、老臣の柴田勝家に越前の大部分を知行として与えた。
さらに、信長の旗本として長年忠節を尽くしてきた佐々成政、前田利家、不破光治に府中10万石の地を与えて目付役とし、大野郡には金森長近、さらに原長頼を配置した。
この呪いの瓦が出土されたのは、小丸城跡北西の乾櫓(いぬいやぐら)である。
出土された年が昭和7年(1932)のようなので驚きだ。
この当時、小丸城は佐々成政が城主だった。
ここでいくつかの疑問が浮かんでくる。
考察 前田利家を呪った瓦がなぜ佐々成政の城で出土されたのか
佐々成政が越前府中の小丸城に入府したのは、恐らくこの戦いが終わってすぐだと思われる。
一連の戦いにより越前国はひどく荒廃していたと考えられるので、小丸城も城の修築普請をしなければならなかっただろう。
普請をするにはどうしても労働力が必要になる。
そこで、近隣の百姓農民らが集められ、普段の農作業とは別にこうした労役が課せられるのだ。
こうして人足として駆り出された人のうち、何名かが一向一揆の生き残りであった可能性が高い。
彼らは非業の死を遂げた同胞たちを思って、バレないように瓦に文字を刻んで焼き上げ、呪いの瓦が完成したのではなかろうか。
しかし、前田利家は小丸城主ではなく府中城主だ。
恐らく小丸城でこの瓦が出土されたのは、たまたまそうした恨みを持つ人々が、佐々成政の知行地の人足として駆り出されたのだろう。
織田信長ではなく、前田利家をなぜ呪ったのかという理由はわからない。
利家が信長の命を受けて撫で斬りや釜茹でを実行したのは言うまでもないが、親類縁者が利家の隊によって非業の最期を遂げたのであろうか。
「前田又左衛門尉殿」と呼び捨てにしていない点も気になるが。
後世の人に知ってほしいと冒頭に記されているので、さぞかし無念な想いだったのだろう。
これを記した人物はただの百姓農民ではないのかもしれない。
この当時、ある程度の教育を受けたものでしか文字の読み書きができないからだ。
当たり前の話だが、これを書き記した人物のその後の足跡は一切わからない。
いつの世もこうした凄惨な戦乱や事件は起きるものだ。
現在を生きる我々も、先祖やその土地で生まれ亡くなった方々への慰霊の念を忘れてはならないと強く思う。
ご覧いただきありがとうございました。
越前の城巡り行ってみたいなぁ。
特に敦賀の地形や木ノ芽峠付近の城とか面白そうです。