織田信長の家臣・佐々成政(さっさなりまさ)に関する記事はコチラ
河尻秀隆はどこにいた?長島一向一揆戦から見える信長公記の信憑性
伊勢長島一向一揆勢の最後の戦いとなった天正2年(1574)夏。この時期に信長が河尻秀隆へ宛てた書状から、織田の諸将がどのように動いたのか。さらにこの時期の『信長公記』がどの程度信用の置ける史料なのかを探ります。当サイトは戦国時代の面白さを古文書から伝...
【古文書講座】猿の出世は早かった!? 秀吉が出した最古の書状から見えるもの
秀吉が発給した最古の文書を解読します。この書状は信長の花押がなく、秀吉ほか4名の連署状となっています。そのうち花押を据えているのは秀吉と島田秀満だけですが、これでも書状に効力があったというのが面白いです。今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、さらに時代背景も入れてご説明します。
前田利家を呪った謎の屋根瓦 小丸城跡から出土した古文書を解読
織田信長による越前一向一揆の殲滅作戦は残虐非道なものだった。それを裏付ける史料として小丸城跡から発掘された丸瓦の古文書を解読してみる。そこには前田利家が「一揆千人ばかりを生け捕りにし、磔・釜であぶられ・・・」とあるが、どういうことなのか。今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、さらに時代背景も入れてご説明します。
姉川の合戦 前半 元亀の争乱時代が幕を開ける
姉川の合戦の詳細記事前半です。今回は姉川の合戦に至った経緯、堀秀村・樋口直房の調略、信長出陣 小谷山城下に肉薄、小谷城下放火、姉川の合戦の前哨戦 八相山の退口、三河から徳川家康参陣 浅井側も朝倉軍到着、大依山と竜ヶ鼻にそれぞれ陣取り、睨み合う、異説・姉川の合戦、朝倉義景はなぜ自ら出馬しなかったのか・・・です。
【信長包囲網成立】野田・福島の戦いを図で解説 後編
織田信長と三好三人衆らが戦った野田城福島城の戦いをわかりやすく解説します。今回は後編ということで、石山本願寺の挙兵から正親町天皇と将軍・足利義昭の仲介で和議が成立するまでを記事にしています。
【悲報】信長の馬廻り、倒した敵の首を巡って口論になり、首を取らずにそのまま退却
信長の馬廻りを務める毛利秀頼(河内守)と兼松正吉(又四郎)が合戦中に倒した敵の首を巡って口論となり、そのまま首を取らずに退却してしまったというお話です。しかも、首の取り合いではなくて譲り合いというのが面白い点です。
織田信長の年表ちょっと詳しめ 覇王上洛
今回は織田信長の年表5回目です。永禄10年(1567)から永禄11年(1568)までとなっております。この間の主な出来事は、岐阜城改名と居城移転、天下布武の印判使用、浅井長政と婚姻同盟、南近江攻略、足利義昭を奉じて上洛、将軍宣下、六条本圀寺の戦い、二条御新造の建設、伊勢北畠家討伐戦、突然の帰国です。
十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー
永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・