
こんばんはー!
今回は50回目の投稿になります。誠にありがとうございます(´;ω;`)
本項は永禄10年(1567)10月から永禄12年暮れまでを記事にしている。
(これまでの流れ)
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569) イマココ
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)
この年表の見方
- 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
- 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
- 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
- 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
- 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
- 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「閏」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
- キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
- 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
- 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く
信長の年表(詳しめ5)
岐阜と天下布武の朱印
永禄10年(1567)
34歳
この頃
居城を小牧山から稲葉山に移転。
10月2日
細川六郎(のちの昭元)、山城国大原口・栗田口の山科率分領を横領か。
山城言継、三好長逸と石成友通に子細を説明し、細川六郎の行為を改めさせる旨を歎願する。『言継卿記』永禄十年十月二日条
澤路隼人佑來、内蔵寮率分東口之事、細川六郎違亂云々、折紙持來、
城州大原口栗田口山科率分今村分事、被差越上使上者、役銭等如先々可致沙汰彼代由状如件、
永禄十
九月廿八日 爲房 判
諸役所中
不能承引、上使追返云々、重可來之由申云々、仍今日隼人佑三好日向守・石成主税助所へ指下、書状如此、
急度注進申候、禁裏御料所城州大原口栗田口等率分之事、去年以来各依御入魂無別儀之段、御祝着之叡慮候、然處從六郎殿被號今村分、可有押領之由、如此被越上使候、無別儀之様被仰届候者、可為神妙候、於我等も可満足候、尚委曲澤路入道可申候、恐恐謹言、
十月一日 言継
三好日向守殿 石成主税助殿両通調遣之、
(書き下し文)
澤路隼人佑来たる。
内蔵寮率分東口の事、細川六郎(のちの細川昭元)違乱し云々。
折紙持ち来たる。
「城州大原口・栗田口、山科率分・今村分の事、上使を差し越さるるの上は、役銭等先々の如く沙汰致すべし彼代の由状くだんの如し。
永禄十(1567)
九月二十八日 為房 判
諸役所中」
承引能わず。
上使を追返し云々。
重ねて来るべきの由を申し云々。
仍って今日隼人佑を三好日向守(三好長逸)・石成主税助(石成友通)所へ指し下す。
書状かくの如し。
「急度注進申し候。
禁裏御料所城州大原口・栗田口等率分の事、去年以来各御入魂別儀無きの段に依りて、御祝着の叡慮に候。
然るところ、六郎殿より今村分を号され、押領有るべきの由、かくの如く上使を越され候。
別儀無きの様仰せ届けられ候はば、神妙たるべく候。
我らに於いても満足すべく候。
なお委曲澤路入道申すべく候。恐恐謹言」(以下略)
(備考)
この返書は『言継卿記』永禄十年十月十二日条に見える。
内容はタブ内で。
澤路入道自攝州上洛、和州之儀各取亂云々、日向守返事有之、
「尊書致拜見候、仍禁裏御料所率分儀付而、様躰蒙仰候、何も各令談合、有様才覺可申候、不可有油斷候、此由宜令披露給候、恐々謹言、
十月十一日 長逸 判
澤路筑後入道殿」
今夜就南都之儀、京中終夜馳走也、明日敵出張云々、
(書き下し文)
澤路入道摂州より上洛。
和州の儀各取り乱ると云々。
日向守(三好長逸)返事これ有り。
「尊書拝見致し候。
仍って禁裏御料所率分の儀に付きて、様体を仰せ蒙り候。
何れも各談合せしめ、有様才覚申すべく候。
油断有るべからず候。
この由宜しく披露せしめ給い候。恐々謹言。」
(中略)
今夜南都の儀に就きて、京中終夜馳走なり。
明日敵出張(奉公衆)と云々。
10月3日
信長奉行人の坂井政尚と森可成、武儀郡の武芸八幡宮へ所領を安堵する旨の書状を発給。『武芸八幡宮文書』永禄十年十月三日付坂井政尚・森可成連署状
当寺領之儀ニ付て、西方より違乱之旨候、御制札之上者、不可有异儀候、前々より不相替候条、弥被仰出候、尤存候、重而違乱におゐて者、両人可申届候、恐惶謹言、
十月三日 森三左衛門尉可成(花押)
坂井右近尉政尚(花押)
武芸八幡寺
御坊中
(書き下し文)
当寺領の儀に付きて、西方より違乱の旨に候。
御制札の上は、異儀有るべからず候。
前々より相替わられず候の条、いよいよ仰せ出され候。
尤もに存じ候。
重ねて違乱においては、両人に申し届くべく候。恐惶謹言。(以下略)
語訳)当寺領について西方から違乱があるとのことである。しかし、信長からの御制札がある上は異儀がない。
織田が新たにこの地を統治することになったが、前々からの決まりで相違無い旨を信長が仰せになった。これはもっともなことである。従って、重ねて違乱する者があれば、坂井と森の両人に届け出るように。
(備考)
文書内に見える「御制札之上者」とは、同年10月日付で発給された織田信長制札『武芸八幡宮文書』(※詳細は下記参照)であろう。
ここにも戦乱の混乱に乗じて押領をする者がいたことが窺える。
10月10日
大和国東大寺に於いて三好三人衆と松永久秀が合戦。
大仏殿が消失。 『言継卿記』永禄十年十月十一日条
去夜南都東大寺大佛殿炎上云々、三國一之伽藍、歎入之儀也、不可說、鑓中村以下數十人討死、東大寺之内之衆敗軍、其外之衆堅固也云々、松永弾正少弼久秀朝大理云々、
(書き下し文)
去夜、南都東大寺大仏殿が炎上と云々。
三国一の伽藍、嘆き入るの儀なり。
不可説。
槍中村以下数十人討死。
東大寺の内の衆敗軍、そのほかの衆は堅固なりと云々。
松永弾正少弼久秀朝大理云々、
10月20日
[参考]『言継卿記』永禄十年十月二十日条
炭山へ奉公衆三淵弾正左衛門大将出張、三好兵庫助大将播州衆、西岡衆、小泉、山本以下罷向、三淵敗軍討死云々、首卅六捕之云々、山名又五郎、布施彌太郎、
10月
信長、稲葉山城下で加納市場に還住する者を優遇する旨の制札を発給。『円徳寺文書』永禄十年十月日付織田信長制札
定 楽市場
一、當市場越居之者、分国往還不可有煩、幷借銭・借米・地子・諸伇令免除訖、雖為譜代相伝之者、不可有違乱之事、
一、不可押買・狼藉・喧嘩・口論事、
一、不可理不尽之使入、執宿非分不可懸申事、
右条々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、
永禄十年十月日 (織田信長花押)
(書き下し文)
定め
一、当市場に越居の者、分国の往還に煩い有るべからず。
並びに借銭・借米・地子・諸役を免許せしめおわんぬ。
譜代相伝の者たりといえども、違乱有るべからざるの事。
一、押買・狼藉・喧嘩・口論すべからざるの事。
一、理不尽の使を入るるべからず。
宿を取り、非分を申し懸くべからざるの事。
右の条々、違犯の輩に於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って下知くだんの如し。
永禄十年十月日 (織田信長花押)
語訳)定め。①加納市場に移住する者は、織田分国内での往来の自由を保証する。また、借銭・借米・地子銭(借地料)などの諸役(いろいろな雑役)を免除する。たとえ織田の譜代からの臣であっても、秩序をみだしてはならない。②不法(強引)な買い入れを行ったり、狼藉・喧嘩・口論をしてはならない。③理不尽なことを要求する使者を入れてはならない。また、宿をとり、秩序を乱すようなことを要求してはならない。(以下略)
(備考)
これは信長が稲葉山城下に発布した還住を呼びかける制札である。
円徳寺が所蔵するこの檜板に記された制札は36.5cm×33cm、厚さ1.0cmであり、近年まで信長がいわゆる「楽市・楽座」をよびかけたとする根拠となっていた。
翌永禄11年(1568)9月に加納市場へ出した制札『円徳寺文書』には、「一、楽市・楽座之上、諸商買すへ畿事」との文言が入っており、多くの書籍で取り上げられてきた。
これまでの常識では「この地に座席を持つ商人でなければ、自由に商買をすることができない」という制約を取り払い、「一定の税を納めさえすれば、誰でも商買ができるようにする」ことを示すものとされてきた。
しかし、近年の研究では、これは戦乱によって離散した住民たちを呼び戻し、速やかに平時の状態に戻す政策ではないかとの見解が主流となりつつある。
というのは、これ以降、信長は同地に対して複数回制札を出しているが、次第に借銭・借米などを免除する要素が減っていき、逆に権利者(債権者)の権利を保障する内容が増えていくのである。
確かに、先入観を捨てて素直に文書を読んでみると、還住政策の一環と見るのが自然なのかもしれない。(※以後の加納市場の制札についても追記予定)
10月
信長、稲葉山城下の美江寺へ禁制を発給。『美江寺文書』永禄十年十月日付織田信長禁制
禁制 美江寺十弐坊
一、甲乙人等執宿、附、新儀之諸伇免許之処、無謂子細申懸之事、
一、寺領諸奇進幷新堂地・坊地年貢及違乱之事、
一、相破先例之寺法事、
右条々、於違反之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、
永禄十年十月日 (信長花押)
(書き下し文)
禁制 美江寺十二坊
一、甲乙人等宿を取ること。
附けたり、新儀の諸役免許のところ、謂われ無き子細を申し懸くるの事。
一、寺領諸寄進並びに新堂地・坊地の年貢を違乱に及ぶの事。
一、先例の寺法を相破るの事。
右の条々、違反の輩に於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って下知くだんの如し。(以下略)
(備考)
美江寺は城下にある天台宗の寺院で、現在も美江観音として知られている。
もとは本巣郡十六条村にあったが、戦国時代にこの地に移転。
その経緯は諸説あるそうだが、美江寺は天文8年(1539)12月日付の斎藤左近大夫(利政・道三)発給の禁制を所蔵している。
文書内に見える「十二坊」は門前の両側にあったとみられ、かつては正覚院・観昌院などの子院を持つ大きな寺院だったのだろう。
10月
信長、武儀郡の武芸八幡宮へ制札を発給。『武芸八幡宮文書』永禄十年十月日付織田信長制札
寺社領幷門前之諸伇、如前々不可有相違、若於違犯之族在之者、可加成敗之状如件、
永禄十
十月日 (信長花押)
武芸八幡
衆僧中
(書き下し文)
寺社領並びに門前の諸役、前々の如くに相違有るべからず。
もし違犯の族(やから)これ有らば、成敗を加うるべきの状くだんの如し。(以下略)
(備考)
本制札は、同年10月3日付で同地へ発給された坂井政尚と森可成の連署状『武芸八幡宮文書』を裏付けるものであろう。
11月3日
勧修寺晴秀(黄門)・山科言継ら、摂州富田の足利義栄(左馬頭殿)と対面。『言継卿記』永禄十年十一月三日条
(3日)
佛暁出立、誘引勧修寺黄門、倉部等攝州富田へ罷下、供者大澤右兵衛大夫、澤路隼人佑、雑色與右衛門、孫左衛門、隼人小者兩人、人夫孫右衛門等也、勧之供侍雑色人夫等三人計也、於廣瀬畫休申付了、未下刻攝州富田へ下着、則畠山式部少輔入道安枕齋守肱、所へ以使者澤路、爲御禮下向仕候間、可然之様御披露之由申遣之、他行之由返答、重使有之、則令披露之處、軈可有御對面、時分可案内申云々、勧修寺黄門は別之宿程遠云々、暮々可参之由被申送之間則参、先予、勧中被参、軈左馬頭殿御對面、予、勧、内蔵頭次第御禮申之、太刀、金、申次畠山伊豆守、安枕之息也、安枕馳走也、次入道御所へ申入、御咳氣之由有之無御對面、以同申次各太刀金、進上之、次田宮御局へ以申次申了、御外奉公衆伊勢伊賀守、西郡三川守、同息龍千世、其外十一二三之若衆三人計也、次退出了、次軈西郡三州禮に被來云々、
(書き下し文)
佛暁に出立。
勧修寺黄門(勧修寺晴秀)・倉部等を誘引し、摂州富田へ罷り下る。
供者は大澤右兵衛大夫・澤路隼人佑・雑色の与右衛門・孫左衛門・隼人小者両人、人夫の孫右衛門等なり。
勧(勧修寺氏)の供侍雑色人夫等三人ばかりなり。
広瀬に於いて書休を申し付けおわんぬ。
未の下刻に摂州富田へ下着。
則ち畠山式部少輔入道(安枕斎守肱)、所へ使者澤路を以て、御礼のため下向仕り候間、然るべきのよう、御披露の由、これを申し遣す。
他行の由の返答。
重ねての使いこれ有り。
則ち披露せしむるのところ、やがて御対面有るべきの時分を案内すべしと申し云々。
勧修寺黄門は別の宿で程遠しと云々。
暮ぐれに参るべきの由、申し送らるるの間、則ち参る。
まず予、勧中(勧修寺中納言)参らる。
やがて左馬頭殿(足利義栄)と御対面。
予、勧、内蔵頭と次第を御礼申す。
太刀(金)、申次に畠山伊豆守(安枕の息なり)安枕が馳走なり。
次いで入道が御所へ申し入る。
御咳気の由これ有り御対面無く、同じく申次を以て、おのおの太刀(金)これを進上す。
次いで田宮御局へ申次を以て申しおわんぬ。
御外に奉公衆の伊勢伊賀守・西郡三河守・同息の龍千世、そのほか十一・二・三の若衆三人ばかりなり。
次いで退出しおわんぬ。
次、やがて西郡三州(三河守)が礼に来られ云々。
※「黄門(こうもん)」は中納言の唐名。
※「雑色(ぞうしき)」は蔵人所の下級職員。
公卿の子弟などが任ぜられることが多い。
※「畫休(かきやすらう)」は「書き休らう」。
休憩がてらに筆を執ったのだろうか。
※畠山式部少輔入道は足利義栄側近の人物か。
※他行(たぎょう)はよそへ出かけていること。
※進物の太刀は太刀代としての金銭を表しているのだろうか。
(4日)
早旦安枕齋へ予、倉部等禮に罷向、倉部兩人へ太刀絲卷、遣之、則安枕、伊豆守等見参、酒有之、次西郡三州へ禮申之、他行云々、勧黄門被來、雖然倉部令勞之間同道不可叶之間、先へ可被上洛之由示之、
倉部馬雖令調法不調之間、従巳刻閑に發足、かぢをりにて馬令調法、山崎迄令乗之、於山崎竹内左兵衛佐長治朝臣所へ罷向、馬之事申之、先吸物にて一盞有之、頻に留之間今日逗留了、晩飡上下申付了、雑談移刻、音曲等有之、湯積にて又一盞有之、
(書き下し文)
早旦に安枕斎(畠山守肱)へ予・倉部等礼に罷り向かう。
倉部両人へ太刀(糸巻)これを遣す。
則ち安枕・伊豆守等見参。
酒これ有り。
次いで西郡三州へ礼を申す。
他行に云々。
勧黄門(勧修寺晴秀)来たる。
然れども倉部労をせしむるの間、同道叶うべからずの間、先へ上洛せらるべきの由これを示す。
倉部の馬調法せしむるといえども、調わずの間、巳刻より閑に発足。
かぢをりにて馬を調法せしめ、山崎までこれを乗りせしめ、山崎に於いて竹内左兵衛佐長治朝臣所へ罷り向かう。
馬の事これを申す。
先ず吸物にて一盞これ有り。
頻りに留むの間、今日逗留しおわんぬ。
晩飡上下を申し付けおわんぬ。
雑談し刻を移す。
音曲等これ有り。
湯積にてまた一盞これ有り。
※絲卷(いとまき)・・・太刀の糸巻きは、柄や鞘の部分を組糸で巻いた部分。
※発足(ほっそく)・・・出立すること。
※一盞(いっさん)・・・1つのさかずき。1杯の酒を呑むこと。
※晩飡(ばんそん)・・・夕食。夕餉。晩餐のこと。
(備考)
山科言継は前日の11月2日に、勧修寺黄門(勧修寺晴秀)から同道するように誘われていた。『言継卿記』十一月二日条
同文書によると、3日に義栄らと対面。
4日に義栄側近らに礼を述べ、そのまま帰路についた。
その途中、山崎の竹内長治宅へ立ち寄り、もてなしを受ける。
翌5日、竹内宅を発ち暮れに帰宅。
6日に御所等に赴き報告を終えたようだ。
11月7日
石山本願寺の門跡顕如、織田信長へ美濃・伊勢平定を祝す旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
今度濃州勢州平均事、無比類次第候、仍可有御上洛之由尤珍重候、就中太刀一腰一文字、赤熊□唐衣裳三、虎草(革カ)二枚、馬一疋青毛推進之候、猶上野法橋可令演說候、穴賢々々、
十一月七日 — —
織田尾張守殿
(書き下し文)
この度濃州・勢州を平均の事、比類無き次第に候。
仍って御上洛有るべくの由、尤も珍重に候。
就中太刀一腰(一文字)・赤熊□唐衣裳三・虎草(革カ)二枚・馬一疋青毛、これを推しまいらせ候。
猶上野法橋(下間頼充カ)演説せしむべく候。穴賢穴賢(以下略)
11月9日
正親町天皇、御倉職の立入宗継を織田信長に遣わし、美濃・尾張の御料所回復を命ず。(正親町天皇綸旨案)『道家祖看記』『立入宗継文書』
今度国々属本意由、尤武勇之長上、天道之感応、古今無双之名将、弥可被乗勝之□(条カ)為勿論、就中両国御料□(所カ)□(且カ)被出御目録之条、厳重被申付者、可為神妙旨、綸命如此、悉之以状、
永禄十年十一月九日 左中弁晴豊(花押)
織田尾張守殿
(書き下し文)
この度国々本意に属するの由、尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、いよいよ勝に乗ぜらるべきの条もちろんたり。
就中両国の御料所且つは御目録を出さるるの条、厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの旨、綸命かくの如し。これを悉(つく)せ、以て状す。(以下略)
(備考)
これとは別に同日付で万里小路惟房が信長に宛てた書状案(『経元卿御教書案』)には
「今般隣国早速属御理運、諸人崇仰之由奇特、誠以漢家・本朝当代無弐之壽策、武運長久之基、併御幸名無隠候、就其被成勅裁之上者、被存別忠、毎端御馳走肝要候、・・・」とあり、上記の書状と同じく最大限の賛辞を送っている。
私はまだ未確認であるが、この万里小路惟房の案文は『立入宗継文書』に所載されているそうだ。
11月
信長、家臣の坂井利貞(文助)へ知行を安堵する旨の書状を発給。『坂井遺芳』永禄十年十一月日付織田信長朱印状
為扶助、旦嶋内弐拾貫文申付上、全知行、不可有相違之状如件、
永禄十
十一月日 信長(朱印)
坂井文助殿
(書き下し文)
扶助として、旦の嶋のうち、二十貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違有るべからざるの状くだんの如し。(以下略)
(備考)
「旦の嶋」は美濃国厚見郡にあり、現在も岐阜市内にその名がみえる。
かつては川と川に挟まれた輪中地区だったのかもしれない。
この文書が現存する中で、織田信長が発給した最古の朱印状である。
楕円形で輪郭一重の形状で「天下布武」と記したものである。
以後、信長の権力が増大するにつれて朱印状の割合が増え、やがて朱印から黒印へ、書留も「~候也(そうろうなり)、」で締めるものが多くなる。

宛所の坂井利貞は、織田家古参の奉行衆で弘治元年(1555)12月28日付で知行を宛行われている。『坂井遺芳』
以後も織田の奉行人として活躍し続け、のちに織田信忠にも仕えた。
なお、公卿の山科言継との親交も深いとみえ、『言継卿記』にも信長上洛の永禄11年(1568)以降しばしば登場する。
11月
信長、家臣の高木貞久(彦左衛門)へ判物を発給。『高木文書』永禄十年十一月日付織田信長判物
其方当知行、不可有違乱候、非分以下申懸者於在之者、厳重可申付者也、謹言、
永禄十
十一月日 (信長花押)
高木彦左衛門とのへ
(奥裏書)
「信長公御直筆」
(書き下し文)
その方の当知行、違乱有るべからず候。
非分以下を申し懸くる者これ在るに於いては、厳重に申し付くるべきものなり。謹言。(以下略)
(備考)
高木貞久は美濃駒野城主として近年まで安藤守就に属していた『重修譜』。
弘治2年(1556)9月20日付で新九郎高政(斎藤道三嫡子)より庭田・西駒野等6ヶ所を安堵されている。『高木家文書』
谷口克広著『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』によると、安藤守就よりもいち早く信長に降っており、市橋長利の仲介で永禄6年(1563)には既に織田方となっていたとある。
なお、後年に長島一向一揆との戦いに際し、貞久の領する駒野は長島との国境近くであるため、高木家臣の中には一揆勢に同調する者も多かった。
信長は猪子高就に命じて貞久家臣の糺明と、場合によっては貞久本人の成敗を命じている。『猪子文書』
11月
信長、家臣の矢野弥右衛門に美濃河野の地20貫文を宛行う。『尊経閣文庫文書』保包四六四 永禄十年十一月日付織田信長朱印状
為扶助、河野内弐拾貫文申付上、全知行不可有相違之状如件、
永禄十
十一月日 信長(朱印)
矢野弥右衛門尉殿
(書き下し文)
扶助として、河野のうち二十貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違有るべからざるの状くだんの如し。(以下略)
(備考)
宛所の矢野弥右衛門は、美濃の地侍と思われる。
河野は羽島郡笠松町の木曾川沿いにある地だろう。
前年にあたる永禄9年(1566)閏8月8日にあったとされる河野島の戦いの舞台であるが、史料に乏しく実態は不明。
河野もかつては輪中地域だったのかもしれない。
11月
信長、家臣の兼松正吉(又四郎)に美濃河野の地10貫文を宛行う。『兼松文書』永禄十年十一月日付織田信長朱印状
為扶助、河野内拾貫文申付上、全知行不可有相違之状如件、
永禄十
十一月日 信長(朱印)
兼松又四郎とのへ
(書き下し文)
扶助として、河野のうち十貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違有るべからざるの状くだんの如し。(以下略)
(備考)
兼松正吉は信長の馬廻の一人。
兼松は以前、6月10日付で佐々平太とともに「河野之嶋」の地22貫文を含め都合30貫文を宛行われ、昨年の11月には兼松弥四郎の跡職を安堵されている。『兼松文書』
正吉は以後の戦いもたびたび参陣し、天正元年(1573)の朝倉氏追撃戦では朝倉の臣中村新兵衛を討ち取り、信長から称賛されている『信長公記』『兼松文書』。
その後も寛永4年(1627)まで活躍し、最終的には丹羽・羽栗両郡にて2600石を知行する大出世を遂げた。
戦国の立身出世は彼のためにあるのかもしれない。
11月
信長、丸毛不心斎宛で禁制を発給。『吉田文書』
禁制 多芸
丸毛不心斎
一、買得之田畠幷年記・当作・借銭・質物等違乱事、
一、非分要脚等申懸事、
一、理不尽之使不可入事、
右条々不可有相違、然上者徳政等申事候共、令免許上、若此旨於違背之輩者、可加成敗者也、仍状如件、
永禄十年十一月日 (信長朱印)
(書き下し文)
一、買得の田畠並びに年期・当作・借銭・質物等違乱の事。
一、非分の要脚等を申し懸くるの事。
一、理不尽の使を入るべからざるの事。
右の条々、相違有るべからず。
然る上は、徳政等を申す事候えども、免許せしむるの上、もしこの旨違背の輩に於いては、成敗を加うるべきものなり。仍って状くだんの如し。
語訳)①私的に買い入れた田畠並びに年月を限って買い入れた田畠・本年耕作して手に入った田畠・借銭・借米・質物等に違乱すること。②不当に金銭を要求すること。③不当に使者を送ること。右の条々に背いてはならない。この上は、徳政等が発布されたとしても、丸毛不心斎には無効とする。これらの掟に背いた者があれば、処罰を加えるものとする。
(備考)
宛所の丸毛不心斎の詳細は不詳。
谷口克広著『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』によると、美濃多芸郡の人であることは明らか。
丸毛光兼とは同族の可能性が高いが、同一人物である可能性は低いとある。
不心斎は丸毛長照『寛政重修譜家譜』の斎号である可能性もあるが、実否は不詳。
なお、光兼は稲葉一鉄の娘を正室としている。
12月1日
織田信長、大和の興福寺衆徒へ加勢する旨の朱印状を発給。『柳生文書』(永禄十)十二月一日付織田信長朱印状
御入洛之儀、不日可致供奉候、此刻御忠節肝要候、就其対多聞、弥御入魂専一候、久秀父子不可見放旨、以誓紙申合候条、急度可致加勢候、時宜和伊予可有演説、猶佐久間右衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月一日 信長(朱印)
興福寺御在陣衆御中
(書き下し文)
御入洛の儀、不日に供奉致すべく候。
この刻み御忠節肝要に候。
それに就きて、多聞(松永久秀・久通父子)に対し、いよいよ御昵懇 専一に候。
久秀父子も見放すべからざるの旨、誓紙を以て申し合わせ候条、急度加勢を致すべく候。
時宜は和伊予(和田惟政)演説有るべし。
なお佐久間右衛門尉(佐久間信盛)申すべく候。恐々謹言。(以下略)
語訳)信長は、足利義秋を供奉して近日のうちに上洛する。その時、義秋に対して忠節を尽くすことが肝要である。それについて、松永父子とも連絡を密にし、昵懇となることを第一と考えてほしい。信長は松永父子を見捨てず、起請文を交換したからには、必ず加勢をする。時宜については義秋奉行人の和田惟政が申し述べる。佐久間信盛が副状を発給するゆえ、そちらも合わせてご覧されたし。
(備考)
信長は新たに支配することとなった美濃国で政務に忙殺される一方、将軍となることを目的とする足利義秋と連絡を密に取っていた。
和田惟政(伊予守)も義秋奉行人としてその任に当たっていたのだろう。
和田は少なくとも永禄8年(1565)12月には、すでに織田信長と接点を持っている。『東京大学史料編纂所所蔵文書』(永禄八)十二月五日付織田信長書状
同日
織田信長、松永久秀老臣の岡国高(因幡守)へ加勢する旨の朱印状を発給。『岡文書』『集古文書』711-712(永禄十)十二月一日付織田信長朱印状
御入洛之儀、不日可致供奉候、此刻御忠節肝要候、就其対多聞、弥御入魂専一候、久秀父子不可見放旨、以誓紙申合候条、急度可致加勢候、時宜和伊予可為演説、猶佐久間右衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月一日 信長(朱印)
岡因幡守殿
御宿所
(備考)
文面は同日付の『柳生文書』とほぼ同じ。
「時宜和伊予可為演説」に唯一ささやかな違いがある。
この時期にはすでに佐久間信盛が、大和方面における取次役として副状を発給できる立場であることも注目に値する。
なお、脇付の「御宿所」であるが、久秀本人ではなく、その取次に宛てた上、「あなた様の御宿へ」として直接宛てることを避けた大変厚礼なものとなっている。
12月3日
公卿の山科言継、足利義栄側近の畠山守肱(畠山式部少輔入道)へ所領の返還を歎願する旨の書状を発給。『言継卿記』永禄十年十二月五日条
稱號之地之事に、澤路筑後入道富田へ可罷下之由申付了、畠山式部少輔入道江書状調遣之、如此、
先度祗候之刻、御馳走千萬畏入存候、就中稱號之地大宅郷・同散在四宮河原野村西山等之儀、被返渡候様、別而御入魂奉頼存候外無他候、尚々委細之段、澤路入道可申入候也、恐々謹言、
十二月三日 言継
安枕齋 床下
(書き下し文)
称号の地の事に、澤路筑後入道を富田へ罷り下るべきの由を申し付けおわんぬ。
畠山式部少輔入道(畠山守肱)へ書状これを調い遣す。
かくの如し。
「先度は祗候のきざみ、御馳走千万畏み入り存じ候。
就中、称号の地大宅郷・同じく散在の四宮河原野村西山等の儀、返し渡され候よう、別して御入魂存じ頼み奉り候ほか無く候。
尚々委細の段、澤路入道申し入るべく候なり。恐々謹言。
十二月三日 言継(山科言継)
安枕斎(畠山守肱) 床下」
12月5日
正親町天皇に対し、綸旨と女房奉書、そし紅衫?を下賜されたことを謝し、さらに勅命の条々についても忝く拝受した旨を大納言万里小路惟房に伝え、その執奏を願った請文を発給する(熱田神宮所蔵文書)
12月
信長、美濃の阿願寺に引得(買い入れ地)分以下の所領を安堵。『阿願寺文書』永禄十年十二月日付織田信長朱印状
当寺引得分以下令免許上、如前々不可有相違之状如件、
永禄十
十二月日 (信長朱印)
嶋
阿願寺
(書き下し文)
当寺引得分以下、免許せしむるの上は、前々の如く相違有るべからざるの状くだんの如し。(以下略)
(備考)
嶋はもと島村、岐阜島といい、岐阜市西北の長良川の分流の中にある。
阿願寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、現在も岐阜市東島に所在する。
阿願寺には織田信長発給文書のほか、土岐政房・同頼芸・斎藤利茂・同利政(道三)などの文書も所蔵している。
伊勢侵攻
この頃
信長、妹の市を北近江の浅井長政へ嫁ぐ。『古文書慕』『総見記』など
(備考)
輿入れの時期は諸説あり判然としない。
永禄11年(1568)
35歳
2月8日
信長、越後の上杉氏の重臣直江景綱(大和守)へ無音を詫び、進物を贈る旨の書状を発給。『上杉家文書』一 (永禄十一)二月八日付織田信長書状案
態以使者申達候、其以来者、路次無自由故無音、本意之外候、然者雖無見立候、糸毛之腹巻・同毛之甲進覧、誠御音信計ニ候、猶重而可申宣由、可得御意候、恐々謹言、
二月八日 尾張守信長
謹上 直江大和守殿
(書き下し文)
わざと使者を以て申し達し候。
それ以来は、路次自由無き故に無音、本意のほかに候。
然らば見立て無く候といえども、糸毛の腹巻・同じく毛の兜を進覧。
誠に御音信ばかりに候。
なお重ねて申し述ぶべきの由、御意を得るべく候。恐々謹言(以下略)
(備考)
織田信長が「尾張守」を名乗る数少ない文書の一つである。
「尾張守」が最初に見られるのは『多聞院日記』の永禄九年(1566)七月十七日条から。
上洛に向けての軍事行動を活発化させた永禄11年(1568)5月から、信長は「弾正忠」を称しはじめる。
なお、この文書は署名のみあり、花押や印判、脇付はないようである。
同日
足利義秋と将軍争いをしていた足利義栄が、朝廷から将軍宣下がなされ、第14代征夷大将軍に任命される。
(備考)
後日詳細を追記予定。
2月
信長、藤八へ安堵状を発給。『中村林一氏所蔵文書』永禄十一年二月日付織田信長朱印状
吾分名田、如前々不可(「有」脱カ)相違之状如件、
永禄十一
二月日 (信長朱印)
藤八
(書き下し文)
吾分(あがぶん)の名田、前々の如く相違有るべからざるの状くだんの如し。(以下略)
(備考)
藤八が誰なのか、どこの領地なのか全くの不明。
本能寺の変の際に討死した信長の中間衆に藤八の名がみえるが『信長公記』、それだけでは何とも言えない。
2月
織田信長、伊勢へ出陣。(出展不明)
2月
三男の三七を神戸友盛の養嗣子とし、弟の織田信包を長野家へ、さらに一族の織田(津田)掃部助一安を安濃津の守将として送り込む。
(備考)
・津田一安
津田一安(掃部助)は織田一族ではあるが、遠い親戚のような扱いである。
信長とどの程度縁遠なのか詳細は不明。
『張州府志』には、日置村の住人織田丹波守の子とある。
「織田丹波守」の名は『言継卿記』や谷宗牧の『東国紀行』に見える。
身分や状況からして一安本人の可能性を感じるが、断定はできない。
また、『織田系図』の中に寛貞の子「掃部助忠寛」の名がある。
事蹟は載っていないので、同一人物なのかは不明。
のちに一安は、北畠具豊(織田信雄)の奉行人として織田家の南伊勢や大湊支配に大きく貢献することになる。
・長野家
長野具藤は北畠具教の次男として生まれ、長野藤定の養嗣子となる。
永禄5年(1562)5月、藤定の死去により家督を継ぐ『勢州軍記』。
六角氏の陣営に与した関氏と三重郡塩浜で戦い、敗北したこともあった『勢州軍記』。
このたびの織田信長の侵攻に際し、一族の細野藤敦は徹底抗戦の姿勢を取り信長と戦うが、その弟の分部光嘉らは降る。
長野家中は、具藤を実家へ逐い、信長の弟である信包を当主として迎え入れた。
そこで故長野藤定の娘を娶り、名を長野信良と改めた『勢州軍記』。
クーデターに近い形での追放劇だったのかもしれないが、南北朝の頃より北畠・長野の両家は長年の宿敵であったため、北畠氏に従属していたとはいえ、長野家中の胸中は穏やかではなかったのかもしれない。
長野氏代々の有力な被官衆は工藤・雲林院・分部・細野・中尾・川北氏らである。
長野氏のもともとの出自が藤原の流れを汲む工藤氏であるため、長野工藤と呼ばれることも多い。
以後、長野信良は、少しずつ被官衆を粛清していき、家中を完全に織田色に染め上げてから名を織田に戻すこととなる。
・神戸家
神戸家は南近江の六角氏に従う関氏の一族で、ほかに国府・鹿伏兎・峯氏などが有力な被官として存在する。
応永22年(1415)の足利義持執政期には、六角・長野・雲林院・関・峯・千草家らが共同して挙兵した北畠満雅と戦っている。『木造記(聞書集本)』など
その後、神戸氏は北畠政郷の子である具盛(楽三)が家督を継ぎ、中勢~北勢にかけて北畠氏が影響力を伸ばした時期もあった。『勢州軍記』巻上
このたびの織田信長の侵攻当時、神戸家の当主は具盛(友盛)であった。
彼は六角氏の臣である蒲生定秀の娘を娶っており、将来的に神戸家の当主の座を関盛信の子に譲り渡す約束があったらしい『勢州軍記』『高野家譜』。
(これは具盛が永禄2年(1559)5月に亡くなった兄利盛の家督を継承していたことが関係しているのかもしれない。)
しかしながら、神戸家が織田に降る際、信長の三男である三七を養嗣子として迎え入れることとなった。
高岡城に拠って頑強に織田氏に抵抗したとされる山路弾正は、『勢州兵乱記』に見える神戸氏の重臣である。
永禄10年(1567)に滝川一益を先陣とする大軍の織田勢を追い払ったとする逸話には疑問が残る。
『伊勢国司御一族家諸侍幷寺社記』という文書には、山路玄蕃允という人物が、山路弾正少弼の弟とあるらしい。
『勢州兵乱記』には山路弾正とともに神戸四百八十人衆の大将の1人としてその名がみえる。
その後、養父神戸具盛と三七は不和となり、元亀2年(1571)正月、信長の命により具盛は隠居させられ、三七が新たな当主となった。『勢州軍記』『神戸録』
この際、大幅な家中粛清が行われ、山路弾正忠は切腹。
その他120人におよぶ臣が追放された。
引き続き神戸家に仕えた者は480人と『高野家譜』には記されている。
元亀二辛未年正月、神戸蔵人友盛公隠居し玉ふ、其子細ハ初神戸家男子なき故、兼而関盛信の子息勝蔵殿を養子にせんと約有しに、引替て三七君を名跡ニ居玉ひ候程に、関も神戸も其趣意有て三七君心よかざる仕方等相聞へける故、信長公憤り、蔵人友盛公年賀を申上ん為安土江参勤有しを留置、国へ帰らしめず、日野蒲生左京太夫秀賢に預らる、則三七君を継目ニ立られ、神戸三七信孝と号す、此節可夕入道に可奉仕よし進メ給へども、年老たりと称じて不奉仕、嫡子五郎右衛門甥の次右衛門を召出されん事を乞ひ、奉仕して使番と成、黄母衣七騎の列と成る、又信孝公は高岡の城を守りし山路弾正に腹切らせ、高岡の城を三七君同母の舎弟小嶋兵部少輔に渡さる、夫によりて神戸の諸士、信長公を恨て信孝公に帰服せす、百弐拾人浪人せし也、残りし侍四百八十人衆と言て信孝公へ仕へ諸事一味せり、其侍ニ者城治郎左衛門・川北喜兵衛・太田丹後・太田監物・矢田部掃部・高野五郎右衛門・佐々木隼人・片岡平兵衛・正田助右衛門等なり、
この『高野家譜』の記述には元亀2年(1571)の話なのに、年賀を申上げんと安土へ参勤など疑問がないわけではない。
この史料は家譜として書かれたものではあるが、他書にない事情も述べているので無視できない。
ここにある高野可夕入道は神戸具盛の三男である。
彼は次男の高島政光とともに分家した。
のち、政光の孫が神戸友盛(具盛)の養子となって神戸外記政房と称し、蒲生氏郷に仕える。
そして後年、神戸政房・良政父子は『勢州四家記』『勢州軍記』を編述している。
上洛に際しての根回しと懐柔
3月
越前一乗谷に逗留中の足利義秋、上杉輝虎に対し、武田信玄と北条氏康が輝虎と講和する旨の請文が届いたことを報せ、急ぎ上洛の軍に参加するよう要請する。『上杉家文書』
(備考)
後日追記予定
4月8日
信長、甲賀の土豪たちからの音信を謝し、今後とも昵懇に願う旨の書状を発給。『山中文書』七 (永禄十一)四月八日付織田信長朱印状
先度為使者被差上富野候、殊太刀・馬祝着候、猶和田伊賀守可有演説候、恐々謹言、
卯月八日 信長(朱印)
甲賀
諸侍御中
(書き下し文)
先度は使者として富野を差し上せられ候。
殊に太刀・馬祝着に候。
なお和田伊賀守(和田惟政)演説有るべく候。恐々謹言(以下略)
(備考)
和田惟政は近江甲賀郡和田村の出身である。
その人脈を生かして、甲賀地方の懐柔を行ったのだろう。
足利義輝の執政期にあたる『永禄六年諸役人付』には、御供衆の項に
大舘伊豫守晴忠・一色式部少輔藤長・細川兵部大輔藤孝・上野陸奥守信忠・上野大蔵大輔豪孝・武田刑部大輔信實・佐々木治部大輔信堅といった面々の中に和田伊賀守の名がある。
足利義秋が大和から脱出した際も、惟政は自領にこれを迎え入れている。
4月15日
越前一乗谷に逗留中の足利義秋、名を義昭と改める。(出展不明)
(備考)
後日追記予定
4月27日
信長、甲賀の佐治為次(美作守)へ知行を与える旨の朱印状を発給。『佐治家乗』
扶助分之事
一、市子庄
一、羽田庄
一、河井跡職
一、馬淵源左衛門跡職
一、楢崎跡職
右分御知行不可有相違者也、仍状如件、
「(追筆)永禄十一」
四月廿七日 織田尾張守
信長(朱印)
佐治美作守殿
(書き下し文)
扶助分の事
一、市子庄
一、羽田庄
一、河井跡職
一、馬淵源左衛門跡職
一、楢崎跡職
右の分、御知行相違有るべからざるものなり。仍って状くだんの如し(以下略)
(備考)
佐治氏は甲賀郡小佐治郷を領する土豪。
南北朝期の康安元年(1361)5月、南近江の守護大名である六角氏頼は、小佐路(治)郷地頭職のうち、辻孫太郎跡地を料所として佐路弾正忠に預け置いた『蒲生文書』。
甲賀21家中北山9家の1つといわれる佐治氏は、もと小佐治氏あるいは大原小佐治氏と名乗り、六角氏や足利幕府にのために働いている。
この朱印状は、佐治秀寿氏が編した『佐治家乗』に東京市の佐治仲太郎氏所蔵の文書を写真版にして収めてある。
文中にある「市子庄」は蒲生郡蒲生町にかつてあった荘園。
文書によっては「市子本庄」としているものもあるが、同義のようである。『角川日本地名大辞典』25滋賀県
「羽田庄(荘)」は八日市市に存在し、戦国期には日吉社と広橋大納言家の所領があった。
ところが「文亀二壬戌年九月十六日」と記された東大寺領古絵図と大安寺古絵図によれば、羽田荘は興福寺領内官務殿惣領所とあり、興福寺政所があったようだ。『角川日本地名大辞典』25滋賀県
河井跡職(あとしき)は蒲生郡川合(現東近江市)を領していた河井氏の旧領、馬淵源左衛門跡職は蒲生郡馬淵町(現近江八幡市)を領していた馬渕源左衛門、楢崎跡職は犬上郡多賀町にあった楢崎である。
このうち、馬淵と楢崎の一族は、六角氏の重臣を勤めている。
詳しいことはわかりかねるが、信長はすでに六角氏と対決することを念頭に戦略を練っていたのかもしれない。
同日
信長、野洲郡の永原重康(越前守)へ3ヶ条からなる条書を発給。『教王護国寺文書』永禄十一年四月二十七日付織田信長条書
一、深重入魂之上、向後不可有表裏・抜公事之事、
一、知行方之儀、去年遣候如書付之、不可有相違事、
一、御進退之儀、向後見放申間敷事、
永禄十一年四月廿七日 織田尾張守
信長(花押)
永原越前守殿
(書き下し文)
一、深重に入魂の上、向後は表裏・抜け公事これ有るべからざる事。
一、知行方の儀、去年遣わし候書付の如く、相違有るべからざる事。
一、御進退の儀、向後見放し申す間敷き事。(以下略)
語訳)①深重に親しい関係になった上は、今後は命令に背いたり、欺いたりしないこと。②知行は去年遣わした目録の通りで相違ないこと。③そなたの身の上のことは、今後も見放さないことをここに約束する。
(備考)
永原氏は近江野洲郡永原を本拠とする。
重康(越前守)はその分家筋である。
両細川の乱時代から六角義賢の執政期にかけて、永原本家は六角氏の奉行人として活躍し、室町将軍から御判(花押)の御内書を与えられるほどの存在であった。『保坂潤治氏所蔵文書』『古簡雑纂』五 『筆陳』一・二
文中にある「去年遣わした書付」についてはわからない。
同年9月に足利義昭を奉じる織田信長が六角氏を攻撃した際、重康は約束の通りに主家を見限り、後藤氏らとともにこれに味方している『言継卿記』。
なお、『信長公記』には越前守も重康も見当たらず、永原筑前守の名が登場する。
ほかの文書では重康を筑前守としているものが見当たらないが、彼のことではないかと考える。
6月25日
信長、上杉輝虎側近の直江景綱(大和守殿)に甲斐武田氏との和睦について書状を発給。『歴代古案』一 (永禄十一)六月二十五日付織田信長書状写
去比種々御懇慮不知所謝候、仍自甲州可有和親之旨、度々被申越候、雖然于今無入眼候、随而越・甲御間之儀、和談雖申噯度候、貴辺依難測令遠慮候、併賢意次第可致馳走事候、後御返事様子承届、自是可申入候、委曲佐々一兵衛可申候、恐々謹言、
六月廿五日 織田尾張守
信長
直江大和守殿
(書き下し文)
去る頃、種々の御懇慮謝すところを知らず候。
仍って甲州(武田信玄)より和親有るべきの旨、たびたび申し越され候。
然りといえども、今に入眼無く候。
従って越・甲御間の儀、和談を申し扱いたく候といえども、貴辺測り難きにより遠慮せしめ候。
しかし賢意次第で馳走致すべき事にて候。
後に御返事の様子を承り届け、これより申し入るべく候。
委曲佐々一兵衛長穐申すべく候。恐々謹言(以下略)
語訳)過日からいろいろと御懇ろな御心遣いをしてくださり、お礼の申しようもありません。さて、甲州の武田信玄から、和親(講和の仲介を)したい旨をたびたび申し入れてきました。しかしながら、貴方の御心中をお察しして、まだ返答できずにいます。もし、あなたがそのおつもりでしたら、私が然るべきように取り計らい、信玄にお伝えしましょう。委細は佐々長穐が申し述べます。
(備考)
写のため花押がない。
佐々長穐(さっさながあき)は永禄年間から天正にかけて、上杉氏との交渉を担当した人物である。
佐々成政との関係は不明。
諱は長秋、通称名は権左衛門尉と記されたものもある。
彼が上杉氏と関わった文書の初見は永禄7年(1564)で、信長が直江景綱へ書状を発した際に副状を発給している。『歴代古案』永禄七年九月九日付
北陸方面の外交経験を買われてなのか、のちに長穐は簗田広正や柴田勝家の与力として織田家を陰から支えた。
なお、上杉・武田両家の和平をもっとも実現させたがっていたのは、足利義昭であることは言うまでもないだろう。
(年次不明)6月
信長、近江栗太郡の芦浦観音寺に判物を発給。『蘆浦観音寺文書』(年次不詳)六月日付織田信長判物
あしき三郷欠所方幷給人はつれの事、糾明□□□年貢等可納所候、誰々違乱有間敷候、かしく
六月日 信長(花押)
(備考)
芦浦観音寺は栗太郡芦浦(現草津市)にあり、平安時代末期、天台宗の末寺として建立された。
琵琶湖上の水運管理権の一部を握っていた(志那渡船の支配権)ことから、信長が折衝してきたのかもしれない。
天正8年(1580)9月の『観音寺文書』の「近江蘆浦観音寺領指出目録」によれば、その寺領は近辺の欲賀・杉江・山賀・駒井・長束・出庭・(播カ)持磨田の各郷内に散在していたようだ。
この文書は、信長の花押から永禄9年(1566)~同11年(1568)のものと比定されている。
芦浦三郷の欠所方(没収地)と主から給地を与えられていない者を調査した上で、これを観音寺に与え、年貢などを納めるようにさせる。何人も違乱してはならないとの文意であろう。
未だ信長の影響力が及ばない時期であるが、可能性がもっとも高いのは永禄11年(1568)だろうか。
???
この時期、信長は越前に逗留している足利義昭を美濃に迎えるため、村井貞勝、島田秀満らを越前一乗谷に遣わす。
(備考)この年の4月15日に足利義秋は、「秋」の字は不吉であるとして、「義昭」と名を改めた。
7月25日
足利義昭を美濃の立政寺に迎え入れ、義昭上洛の供奉する旨を承諾する。(信長公記など)
(備考)義昭を織田家に迎え入れた裏の立役者は、明智光秀と細川藤孝らであったようだ。
8月2日
近江甲賀の土豪に対し、近江に進発する予定日を告げ、忠節を要請する。
8月7日
信長自身も近江の佐和山に出向き、観音寺城の六角承禎(義賢)に所司代職を約して協力を要請する。(信長公記)
(備考)実は六角家は、当初は信長に協力的で、足利義昭を和田惟政の元に逃したり、義昭を矢島に迎え入れたり、信長と浅井長政の同盟も斡旋している。
8月13日
しかし、7日間の逗留もむなしく交渉は決裂。信長は岐阜へと帰る。
(備考)六角家は当初信長に協力的だったものの、三好三人衆からの交渉に応じて方針を転換。反信長派に回った。その関係で足利義昭は近江矢島から若狭へ、ついで越前朝倉家を頼っているのである。また、信長が佐和山にて浅井長政の饗応を受けている最中、信長接待を仰せつかっていた遠藤直経は、主君・浅井長政に信長暗殺を進言。しかしながら、浅井長政はそれを拒否している。
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覇王上洛
9月7日
信長上洛軍の旗の下に美濃、尾張、北伊勢さらに三河の徳川家も援軍に駆けつけ、総勢10万もの大軍を率いて岐阜城を出陣。
美濃の平尾に陣取る。(信長公記)
9月8日
近江高宮に着陣。(信長公記)
9月11日
愛知川付近に野営を張る。 (信長公記)
9月12日
箕作城を取り囲み、夜に佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉らが攻め落とす。=箕作城の戦い (信長公記)
(備考)箕作城の戦いや観音寺城の戦いについての詳細記事を書きましたので、よろしければ以下のリンクからご参照ください。
9月13日
観音寺城に立て籠もる構えを見せていた六角承禎(義賢)、義弼父子は、深夜のうちに城を捨てて伊賀に敗走する。
これにより六角家臣団たちの多くは信長に帰順した。 =観音寺城の戦い(信長公記)
(備考)『言継卿記』の永禄11年(1568)9月14日条には、
「十四日、庚申、天晴、
六角入道紹貞城落云云、江州悉焼云々、後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、久里七人、敵同心云々、京中邊大騒動也、此方大概之物内侍所へ遣之、」
(書き下し)
(永禄十一年九月)十四日、庚申、天晴
六角入道承禎の城落ち云云。
江州悉く焼け云々。
後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、久里の七人、敵へ同心云々。
京中辺り大騒動なり。
こなた大概の物、内侍所へこれを遣る。
とある。
これらの有力国衆の離反は、六角陣営にとって想定外のことだったのかもしれない。
結果、六角父子は居城を捨てて甲賀へ敗走。
南近江の諸城は悉く信長の支配下に入ることとなった。
???
六角家の臣・蒲生賢秀は1000の兵で日野城に籠城していたが、妹婿である神戸具盛が単身日野城に乗り込み、賢秀を説得して開城に導いた。
賢秀は他の六角諸将と同じく人質を信長に差し出す。
人質は賢秀の嫡子である鶴千代であったが、信長はその子の目を見て一目で気に入り、柴田勝家に預けている。
以後、蒲生家は柴田勝家の与力として力を奮うこととなる。
(備考)のちに蒲生賢秀の嫡男鶴千代は元服して蒲生賦秀(やすひで)と名乗り、信長の娘・冬姫(異説有り)を娶るという厚遇を受けている。
この人物こそが蒲生氏郷であり、会津120万石の大大名となる武将なのである。
9月14日
正親町天皇、信長に禁中の警護と、京都市中における軍勢の乱暴狼藉の禁止を命ずる。(経元卿御教書案)
9月22日
足利義昭を近江の桑実寺に迎える。
9月24日
琵琶湖を渡海して信長は三井寺の極楽寺に、義昭は光浄院に泊まる。(信長公記・年代記抄節)
9月26日
織田信長、足利義昭を奉じて入京を果たす。信長は東寺に、義昭は清水寺に陣し、細川藤孝らに御所の警護を命ず。(御湯殿の上の日記)
(備考)信長に敵対する三好三人衆らは、京洛で戦うのは不利と見て、山城勝龍寺城、摂津芥川城、越水城、河内高屋城などに立て籠もり、さらに将軍・足利義栄が摂津富田城に籠城した。
9月29日
三好三人衆の一人である岩成友通籠る勝龍寺城が織田軍の攻撃を受けて陥落。=勝龍寺城の戦い ついで摂津に軍勢を進め、10日余りのうちに諸城を攻略して三好三人衆を阿波に敗走させた。(信長公記)
9月30日
信長、足利義昭とともに芥川城に入る。信長はここに14日間逗留し、有力な家臣たちに諸城を攻めさせている。信長の元には連日連夜、五畿内の大名、土豪、商人らが服従の意思を表明しに訪れている。松永久秀もその一人であり、我朝無双といわれている唐物の茶入れ「九十九茄子」を信長に献上して、足利義輝殺しや東大寺大仏殿焼き討ち等の罪を許されている。(信長公記、多聞院日記)
(備考)先の将軍・足利義輝の実弟が足利義昭である。当然足利義昭は久秀の厳罰を求めたが、信長は取り合わなかったばかりか、本領安堵。大和一国の進退を任せるという寛大な処置をしている。信長からしたら、過去の事よりも役に立つ有能な家臣が欲しかったのであろう。なお河内若江城を三好義継、高屋城を畠山高政、芥川山城を和田惟政に与えている。(重編応仁記)
10月14日
信長は河内に一時行っていたそうだが、摂津、河内、和泉の敵対する諸城を落とした報を聞いてから、京に戻り清水寺に陣している。(言継卿記)
(備考)この頃に現将軍・足利義栄が病死したか。
10月18日
足利義昭、第15代征夷大将軍に補任される。(御湯殿の上の日記)


10月22日
足利義昭、参内する。(御湯殿の上の日記)
(備考)信長の供奉によって念願の地位に就いた義昭は、信長を「わが父」とか「武勇天下第一」と称賛し、副将軍か管領に就任するように要請するが断られ、かつて尾張守護職であった斯波家の名跡を継がせようと信長に持ち掛けたが、これも断られた。
信長はその代わりに堺、大津、草津に代官を置くことを許された。(信長公記、足利季世紀)
???
この信長の在京中にさまざまなことが取り決められている。
主要な一部の街道の関所撤廃はその一つである。
この時織田家の奉行として特に京都で活躍したのが、村井貞勝、丹羽長秀、明智光秀、木下秀吉らである。
(備考)信長上洛直後は町中大混乱であったが、織田軍の「一銭斬り」ともいわれる徹底した軍律で平静を取り戻し、公家や商人、町人までもが信長に信頼を寄せるようになった。
10月26日
信長、岐阜に帰るために京を発つ。佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉、村井貞勝らは京に残した。
(備考)この時の信長は、天下に対していささかの野心もないという体裁をアピールしておきたかったのであろう。
10月28日
岐阜に帰城する。
11月24日
京で政務に当たっている丹羽長秀と村井貞勝が、長命寺惣坊に坊領の知行分の年貢の収納を認める。(長命寺文書)
同日
丹羽長秀と村井貞勝が、沖島地下人に沖島における堅田の知行分を認める。(堅田村旧郷士共有文書)
12月16日
公卿の二条晴良、近衛前久に替わり関白・氏長者となる。『公卿補任』
12月
正親町天皇の嫡男であり、皇太子である誠仁親王が、親王宣下を受けて元服する。
(備考)朝廷の資金難で元服の儀が延び延びになっていたが、信長の拠出した資金により、ようやく元服することができた。
この後、信長は誠仁親王と友情を深め、のちに信長が正親町天皇と疎遠になってからも、二人の交流は続いたという。
六条本圀寺の戦いと殿中御掟
永禄12年(1569)
36歳
1月4日
三好長逸(日向守)、三好宗渭(釣竿斎)、岩成友通らが京へ侵入し、町中騒動となる。(言継卿記)
1月5日
上記の三好三人衆が足利義昭が宿所としている六条本圀寺を包囲し、攻撃する。=六条本圀寺の戦い
織田家の警護部隊と将軍奉公衆が必死の防戦をし、足軽衆20余人が討死、三好三人衆勢にも多数の死傷者を出す。(言継卿記・信長公記)
1月6日
三好長逸、陣を七条口に移す。(言継卿記)
(備考)南方の所々に火の手が上がるのを公家の山科言継が見ている。
同日
織田・足利方の援軍として池田勝正、伊丹衆が西方から、若江城主の三好義継(左京大夫)が南方から駆けつけ、さらに幕府奉公衆が北方から加わり、三好三人衆勢を打ち破る。(言継卿記・多聞院日記・信長公記)
(備考)『多聞院日記』によると、桂川の合戦で池田勝正軍が三好三人衆勢に敗れかかったところを三好義継が陣に馳せつけ、三人衆勢を打ち破ったとある。
また、『言継卿記』には東寺の西方の戦闘で岩成友通が北野社松梅院へ敗走し、1000余人の死傷者が出たことが記されている。
同じく『言継卿記』には三好義継が討死したとの風聞、久我晴通(入道愚庵)、細川藤孝(兵部大輔)、池田勝正(筑後守)の身の上は不明なこと、三好長逸らは八幡へ陣を引き下げたことが記されている。
かなりの戦闘だったようだ。(『多聞院日記』には三好康長は行き方知れずと記述)
1月8日
信長、この報せを聞くとすぐさま岐阜を出陣。
大雪の中を一騎掛けで京へ向かう。 (信長公記)
1月10日
織田信長、松永久秀(弾正少弼)を従えて美濃より入京する。(信長公記・言継卿記・多聞院日記)
(備考)信長、岐阜からわずか2日で京へ入る。
供の者は10騎にすぎなかったが、やがて諸将らも岐阜へ参着する。
同日
丹羽長秀(五郎左衛門尉)が京都八条遍照心院へ、信長の寄宿免除について約した朱印に、別儀ないことを通達。(大通寺文書)
1月11日
石山本願寺の門跡・顕如、織田信長へ新年の慶賀を祝す旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
年甫之吉慶、殊以可屬芳意の條、珍重候、仍太刀一腰金、馬一疋進之候、表嘉儀計候、猶下間丹後法印可令演說候、穴賢、
正月十一日 — —
織田弾正忠殿
(書き下し文)
年甫の吉慶、殊に芳意を以て属すべきの条、珍重に候。
仍って太刀一腰(金)・馬一疋これをまいらせ候。
嘉儀を表すばかりに候。
猶下間丹後法印(下間頼総カ)演説せしむべく候。穴賢
1月14日
信長、幕府の職務規定を定める殿中御掟全9ヶ条を定め、将軍義昭もこれを承認。(仁和寺文書、蜷川家文書、毛利家文書)
1月15日
石山本願寺の門跡顕如、織田信長へ上洛を歓迎する旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
御上洛尤珍重候、仍太刀一腰金、毛氈五枚赤、馬一疋栗毛進之候、猶下間丹後法印可申候也、穴賢
正月十五日 — —
織田弾正忠殿
(書き下し文)
御上洛尤も珍重に候。
仍って太刀一腰(金)・毛氈五枚(赤)・馬一疋(栗毛)これをまいらせ候。
猶下間丹後法印(下間頼総カ)申すべく候なり。穴賢(以下略)
(参考)
御上洛尤珍重候、仍五種十荷□、毛氈五枚赤進之、猶下間丹後法印可申候也、穴賢
正月十五日 — —
織田弾正忠殿
○此御札子細アリテ不被遣之
(書き下し文)
御上洛尤も珍重に候。
仍って五種十荷物□・毛氈五枚(赤)これをまいらせ、猶下間丹後法印(下間頼総カ)申すべく候なり。穴賢
正月十五日 — —
織田弾正忠殿
○この御札、子細ありてこれを遣わされず
1月16日
幕府に出した「殿中御掟」に、信長はさらに7条を追加。
これも義昭もこれを承認。 (仁和寺文書)
(備考)この計16ヶ条に及ぶ「殿中御掟」は、一見将軍である足利義昭をないがしろにし、実権を奪うものだと見られがちであるが、近年の研究ではそれは否定されている。
足利義昭自身が大名の家臣に対しても大名の頭越しに御内書が出したり、幕臣(義昭の家臣)が寺社領を押領する事態が頻発するなどの問題が起き、上方の社会が混乱した。
天下の静謐の為には、信長が義昭の権力行使を規制しなければならなかったという見方もある。
この「殿中御掟」は義昭との不和を決定的にさせるものではなく、この頃はまだ義昭は信長を頼りに思っていたのではないだろうか。
1月18日
信長、明日開催予定の左義長の準備を見物し、朝廷へ警固役を申し出る。(言継卿記)
1月19日 早朝
信長、日の出以後に警護衆500人ほどを率いて禁裏へ到着。
門の各所を警護させる。(言継卿記)
同日
朝廷の主催で声聞師の松拍子にて左義長が開催される。
のちに信長を小御所の庭に呼んで酒肴を与える手はずだったのだが、既に信長が到着しているにも関わらず、銚子がなかなかこなかったため、信長はこれを辞して退出する。(言継卿記)
同日
信長、近江堅田へ全五ヶ条の定を下す。(堅田村旧郷士共有文書)
(備考)内容は堅田の権益を保護するもの。
同日
南禅寺塔頭竜華院領の件で、一卜軒が僧籍でありながら院領所有権を手放そうとしないことに対する通達を行う。(鹿王院文書)
1月21日
信長、将軍義昭の御下知の通り、烏丸光康へ摂津国上牧の知行を安堵する。(烏丸家文書)
1月24日
公家の飛鳥井雅敦、自身が影響力を持つ摂津国本興寺に織田軍が陣取りをしないように、織田信長に陳情書を出す。(本興寺文書)
(備考)どうやらこの時、織田軍の柴田勝家(修理亮)、森可成(三左衛門尉)、蜂屋頼隆(兵庫助)、坂井政尚(右近尉)が摂津表へ兵を繰り出していたようだ。
二条御新造の建設
1月26日
織田信長、真如堂蓮光院へ、将軍御座所を新設するので、場所替えをするよう命を下す。(真正極楽寺文書)
(備考)その替地として信長から真如堂蓮光院へ一条西の四丁町を寄進すること、堂領諸所の散在は歴代将軍の御下知通りに安堵することなどを通達する文書を発している。
ここが亡き将軍・足利義輝の旧邸だったのだろうか。
1月27日
山科言継、さっそく工事に取り掛かる信長と会い、しばらく雑談する。(言継卿記)
2月2日
先の六条本圀寺の変の教訓から、信長は強固な将軍家の新御所の建設を決断する。=二条御新造の着工(言継卿記)
(備考)場所は勘解由小路室町の真如堂の跡地であり、ここは足利将軍家代々の直轄地のようだ。
大工奉行には村井貞勝、島田秀満が司り、畿内近国14ヵ国から人夫が動員され、一日数千人が工事に使われたという。
この造営は信長自らが陣頭指揮に立ち、突貫工事で行われた。
造営中の逸話として、ある時、工事に従事していた一人の武士が、その前を通りかかった婦人のかぶりものを上げ、顔を見ようとした。
するとそれを目撃した信長は、一刀のもとに首を刎ねたという(フロイス日本史)
なお、フロイス日本史は大げさな記述が多い点に注意。
2月11日
織田信長と足利義昭からの使者として堺に赴いた佐久間信盛・森可成・柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚・和田惟政・結城進斎ら100人ばかりが、豪商として名を馳せる津田宗及の自宅に招かれ、茶会を開く。(宗及茶湯日記他会記)
3月1日
撰銭令を定める(京都上京文書)
3月2日
正親町天皇、信長に副将軍就任を求めるが、信長は奉答せずに勅使を帰している(言継卿記)
(備考)昨年に足利義昭が信長に求めて断られていたが、義昭は諦めきれず、朝廷に働きかけたのだろうか
3月
信長の仲介により、河内若江城主の三好義継が足利義昭の妹を娶る。『言継卿記』
寶鏡寺殿新御所、今夜三好左京大夫所へ嫁娵云々、信長中媒云々、
(宝鏡寺殿新御所、今夜三好左京大夫(三好義継)所へ嫁を娶り云々。信長の中媒と云々。)
『言継卿記』永禄十二年三月十七日条より
4月1日
柴田勝家・佐久間信盛・森可成・蜂屋頼隆が連署で堺両惣中に宛てて書状を送る。
その内容は矢銭の催促であった。
(備考)これにより堺は信長に屈服し、合戦で三好家が衰退してゆくにつれて、堺の町は織田家の直轄化となっていった。


(永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状a+釈文)


(永禄十二年四月一日付柴田勝家等連署状b+釈文)
関連記事:堺の町を脅迫?柴田勝家・佐久間信盛・森可成らが大金を要求した時の書状
4月8日
宣教師のルイス・フロイス、キリスト教布教の許可を得に二条御新造を陣頭指揮中の信長を訪ねる。
(備考)フロイスは西洋人では初めて信長に会見した人物であるが、その模様を次のように書き留めている。”造営を自ら指揮していた信長は、虎の皮を腰に巻き、粗末な衣服を身に着けていた。容貌は年齢・37歳くらい。中くらいの背で、華奢な身体であり、髭は少なく、甚だ声は快調であった”これがフロイスの信長への第一印象だと言われている。これはあの一番有名な信長の肖像画と一致する部分が多いのではあるまいか。


4月13日
信長、宿所を妙覚寺に移す。(言継卿記)
(備考)二条御新造を着工してからの信長の宿所は不明であるが、恐らく現場に泊まり込んでいたのであろう。
4月14日
二条御新造が完成し、足利義昭がそこに移り住む。
4月16日
朝山日乗に命じて朝廷に内裏の修理費用一万貫を献上する(御湯殿の上の日記)
(備考)現在の価値で換算すると約9億円以上か。
同月一日に堺から巻き上げた2万貫のうち、半分を献納したとみて間違いないだろう。
4月21日
帰国の挨拶のため、足利義昭に謁見する。義昭は信長の忠節に感謝し、信長を門外まで送り出し、その姿が栗田口に消えるまで見送ったという(言継卿記)
(備考)在京中の信長は、公家衆や寺社に対して安堵状を与えているが、幕府将軍家の奉行人奉書が出されている。この事実は両者の安堵状なくしては現実に機能しえないことを表現しており、足利幕府と信長の二重行政、二重政権であることを示している。
4月下旬
信長、岐阜に帰城。
5月14日
京で政務に当たっている明智光秀、村井貞勝、武井夕庵が、妙智院に対し北山等持院が天竜寺の末寺である証明を求める。(天竜寺文書)
5月
伊勢国司・北畠具教の弟である木造具政が信長に内応を申し入れる。
7月10日
石山本願寺の門跡・顕如、織田信長へ久しく無音にしていたことを謝し、贈り物を送る旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
其以後不能音問候、依遠路兎角遅引之儀候、就中金襴十端、絞手綱、腹帯五十具進之候、任見來計候、猶下間丹後法印可申候、穴賢
七月十日 — —
織田弾正忠殿
(書き下し文)
それ以後音問能わず候。
遠路により、とかく遅引の儀に候。
就中、金襴十端・絞手綱・腹帯五十具これをまいらせ候。
見来に任せるばかりに候。
猶下間丹後法印(下間頼総カ)申すべく候。穴賢(以下略)
7月27日
公家の山科言継、岐阜に下向する。
(備考)以下はこのとき言継が目撃した事件である。信長は故斎藤義龍の後家が所持していたという壷を強引に所望するが、彼女は戦乱によって壷は紛失したと申し立て、なおこれ以上の詮議に及べば自害するほか道はないと答えた。この時、「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし、国衆大なる衆十七人、女子の男卅余人切腹すべし」といい、信長本妻の斎藤一族らが結束して信長に抵抗するという事件が起きている。ここに見える「信長本妻」とは、あの斎藤道三の娘・帰蝶のことではあるまいか。かなり大きな事件のように思えるのだが・・・。(言継卿記)
???
岐阜に帰った信長は、美濃の土豪に対して所領の宛行、所領の安堵、さらに座の組織に諸役を免除するなど国内の経営に専念している。
8月18日
佐久間信盛が堺の北庄に宛てて書状を送る。
内容は、人足の供出が滞っていることを責めるものだった。
急度申候、地頭詰夫並諸役以下難渋不相届由、信長被仰出候、早速可被勤事肝要候、不可有油断候、恐々
(今井宗久書札留)
八月十八日 佐久間信盛
さかい 北庄端郷中
伊勢北畠家討伐戦と蒲生賦秀(氏郷)の初陣
8月20日
信長、三河、遠江、尾張、美濃、近江、北伊勢などの軍勢10万を率いて出陣。伊勢北畠家討伐に向かう。この日は桑名に着陣。
8月21日
鷹狩りののち白子観音寺に移陣。
8月23日
木造に着陣。信長自身は降雨のため26日まで逗留する。
8月26日
木下秀吉らが阿坂城を攻め落とす。=阿坂城の戦い
8月28日
北畠具教、具房父子の籠る大河内城を包囲する。=大河内城の戦い
9月8日
丹羽長秀、稲葉一鉄、池田恒興ら三人に夜攻めを命ずるが降雨のため味方の鉄砲が役に立たず、多くの侍が戦死する。
10月3日
北畠具房、開城して和議を乞い、信長の次男・茶筅丸に家督を譲ることを約す。(信長公記、多聞院日記)
(備考)残念ながら南伊勢攻めの詳細な記録は少ない。信長は10万の兵を動員しながら苦戦したことは事実のようで、なんとか外交によって決着をつけたといった感じだ。南伊勢が信長の支配下に入る。
(追記 2021.10.3)
『多聞院日記 十五(十月五日条)』より抜粋
「五日、井戸へ太郎ニ書狀遣之、竹下返事在之、去三日ニ勢州國司ノ城落了由返事ニ在之、」
(十月)五日、井戸へ太郎に書状遣わし、竹下の返事これあり。去三日に勢州国司の城落ちおわんぬの由との返事にこれあり。
『信長公記 巻二(大河内國司退城之事)』より抜粋
「九月九日 瀧川左近被仰付、多藝山國司の御殿を初として悉焼拂、作毛薙捨、忘國にさせられ、城中ハ可被成干殺御存分尓て御在陣候の處、俄走入候の既端々及餓死付て、種々御詫言して 信長公の御二男 お茶箋へ家督を譲り申さるヽ御堅約尓て
十月四日 大河内之城 瀧川左近 津田掃部両人尓相渡、國司父子ハ 笠木坂ないと申所へ退城候し也、」
(九月九日
滝川左近(滝川一益)に仰せ付けられ、多芸山国司の御殿を始めとして悉く焼き払い、作毛を薙ぎ捨て、亡国にさせられ、城中は干殺に成さるべく、御存分にて御在陣候のところ、俄かに走り入り候の、既に端々餓死に及ぶに付きて、種々御詫言して、信長公の御二男 お茶筅へ家督を譲り申さるる御堅約にて、
十月四日、大河内の城を滝川左近(滝川一益) 津田掃部(津田一安)両人に相渡し、国司父子は笠木坂ないと申す所へ退城候しなり。)
織田家の人質となって岐阜城にいた蒲生賢秀の嫡男・鶴千代は、元服して「蒲生忠三郎賦秀(やすひで)」と名乗っていた。
信長はこの少年を大変気に入り、自ら烏帽子親(えぼしおや)となって織田弾正忠信長の「忠」の字を与えて忠三郎となった。
賦秀はこの大河内城攻めで初陣を果たしたのであるが、蒲生家臣の目から離れて行方不明となってしまった。
あわや忠三郎討死かと現場が騒然としたところ、賦秀は敵の兜首を取って戻ってきた。
これを聞いた信長は感激。
戦後、信長は自身の娘を賦秀に娶らせ、さらに人質の処遇をやめて日野城に帰した。
この後も蒲生賦秀は信長麾下として大活躍し、豊臣秀吉の時代に蒲生氏郷と名を改め、会津120万石の大大名となるのである。


10月5日
伊勢山田に着陣。 (信長公記)
10月6日
伊勢神宮に参拝。 (信長公記)
10月7日
木造に着陣。 (信長公記)
10月8日
上野に着陣し、兵を国もとに戻す。伊勢の仕置きとして茶筅丸の後見役に津田一安を命じ、滝川一益に安野津、渋見、木造を、弟の織田信包には上野の諸城をそれぞれ守らせる。 (信長公記)
(備考)
北伊勢における「北勢四十八家」とも呼ばれた群小地侍たちは、織田軍の伊勢侵攻に対し多少の抵抗を示すものもあったが、ほとんどは和睦・降伏してその家臣団に属した。
鈴鹿・河曲二郡を治める関一党は神戸信孝に、安濃・奄芸二郡の長野一党は織田信包に、南勢地域の北畠国司家は北畠信意(信雄)にそれぞれ引き継がれたが、信長による国外各国での戦役に駆り出されることが多く、領国治政の成果ははかばかしくなかった。
伊勢はやがて、北畠一族謀殺をはじめ、それぞれ領国内での温存勢力粛清を経ながら、旧地侍・織田系家臣混成の家臣団再編成が進められることとなる。
10月9日
大雪の中、千草峠を越える 。(信長公記)
10月10日
近江市原に宿泊。(信長公記)
10月11日
馬廻衆率いて上洛し、将軍・足利義昭に伊勢平定を報告する。 (信長公記) 『多聞院日記』
『多聞院日記 十五(十月十一日条)』
十一日、信長出京、人數三万騎云々
10月12日
京で政務にあたっている村井貞勝が、浄福寺への寄宿を免除する。(浄福寺文書)
10月13日
参内し、天盃を賜る
10月14日
松永久通(松右)、竹内秀勝(竹下)が上洛する。『多聞院日記』
10月17日
京都滞在を終えて岐阜へと発つ。(御湯殿の上の日記、信長公記)
(備考)足利義昭はかねてより北畠家の討伐に反対で、このとき信長との間に決定的な亀裂があったのではなかろうか。この信長突然の帰国は多くの人々を驚かせ、不安に陥れたらしい。それは正親町天皇が自筆の女房奉書を認めて信長を慰めていることからも窺える。(東山御文庫記録) また、多聞院日記は突然の帰国を「上意トセリアイテ下リ了ト」と記している。
10月19日
岐阜帰城か。
11月20日
石山本願寺の門跡・顕如、幕府奉公衆の明智光秀へ、阿波国の門下たちを扇動しての敵対行為を否定する旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
御内書之趣、致拜見候、仍就阿州表之儀、門下之族、爲此方依申付致馳走之由、曾以不能分別候、惣別如此之段、雙方合力助言之儀、一切無之事候、此等之旨可然様可令申入給候、恐々
十一月廿日
明智十兵衛尉殿
○此時之御使梅咲也、表書彼御使よりこのみによつて如此沙汰外〱〱
(書き下し文)
御内書の趣き、拝見致し候。
仍って阿州表の儀に就きて、門下の族、此方のためによりて申し付け、馳走致すの由、かつて以て分別能わず候。
惣別はかくの如くの段、双方合力助言の儀、一切これ無き事に候。
これらの旨、然るべき様に申し入れせしむべき給い候。恐々
十一月二十日
明智十兵衛尉(光秀)殿
○この時の御使梅咲なり。表書かの御使よりこのみによってかくの如く沙汰外々々
【参考】北畠具教参宮・瀧川一益礼銭等入途日記『太田家古文書』
(表紙)
「
辰霜月多気大御様御参宮之時よりの入みち
今度瀧川殿へ之いり道之日記
永禄十二年ミつのとのみ(ママ)(恐らく己巳)九月吉日 」
金ノかたへノ米御取かへ之分
弐石五斗 善五郎殿
三石此内壱石長一大大夫殿へ銀かたへ渡候 蔵人殿
壱石五斗 ひかし殿
壱石五斗 中沢殿
五斗 善七郎殿
五斗 又十郎殿
五斗 彦二郎殿
五斗 善八郎殿
五斗 善三郎殿
ひる川殿雑用 同送舟入ミち米取かへ之分
三升半つゝ三度ニ合壱斗半つゝ出ゆひ米
又六郎殿 与六郎殿 喜三郎殿 弥二郎殿
与十郎殿 善八郎殿 中西殿 中沢殿
浄(カ)かん 善三郎殿 う京殿 ませ殿
与二郎殿 蔵人殿 弥七郎殿 七郎衛門殿
又十郎殿 藤七郎殿 与左衛門殿 善五郎殿
与八郎殿 与七郎殿 起介殿 善七殿
彦二郎殿 善七郎殿 助八殿 ひかし殿
以上廿八人より出候
(中略)
瀧川殿御礼之時酒肴取かへ之分 九月十六日
二斗 さけ 善五郎殿
壱斗 さけ う京殿
五升 さけ 与十郎殿
五升 さけ 彦二郎殿
のしひとつ内三はもとし申候 新三郎殿
二連一ふし かつほ 与七郎殿
四丁ひやうこより 同まけ屋の物
馬ノ大豆一升つゝ取かへ之分
七郎衛門殿 彦二郎殿 浄かん 善三郎殿
与十郎殿 孫六郎殿 ほり殿 ひかし殿
弥二郎殿 又十郎殿 藤七郎殿 弥七郎殿
蔵人殿 与七郎殿 又六郎殿 与六郎殿
馬瀬殿 与八郎殿 善七郎殿 中沢殿
合廿人まめ弐斗
壱石 米出 長一大夫殿渡 与七郎殿
同日
壱石 米出 同長一大夫殿渡候 おくノ大夫殿
(この間、一紙分あく)
御礼銭渡申日記
弐牧(枚) 金子 桑名矢部右馬亮殿・水谷三郎左衛門殿 両人渡申候
又於小畑千貫文、瀧川殿御用銭被仰付候時、金子三牧(枚)にて御侘(詫)言申、金子渡申候分
弐牧(枚)朱中金子、巳ノ年(恐らく永禄12年1569)十月六日、於長楽寺、ひる川長二郎殿渡申候、又五両金、ひる川長二郎殿渡候、
午卯月(恐らく永禄13・元亀元年1570)渡、使長一大夫殿
金取かへ之分
十月六日長楽寺ニ取分
五両内朱中不足 与十郎殿
同
五両 善五郎殿
同
弐両弐分三朱々中 蔵人殿
同
壱両朱中 中西殿
同
壱両 善八郎殿
同
壱両 中沢殿
同
壱両 又六郎殿
同
壱両 ひかし殿
同
壱両弐朱此内米弐石帳役にて申渡候、来五月廿一日まて四斗八升俵也、一石五斗、四斗六升ひやう、卅五石かへノね(カ)ニすまし申候、四斗七升渡候、未六月晦日
白子
又兵衛殿御出
同
壱両三朱 弥七郎殿
合二牧(枚)朱中 ひる川長二郎殿渡口入長一大夫殿うけ取あり
右之内弐朱々中金あまりあり
(中略)
午卯月 (恐らく永禄13・元亀元年1570)
五両金 ひる川長二郎殿渡申候、使長一大夫殿
申六月(元亀三1572?)晦日右京進殿会合ニ
長一大夫殿めし、同つかい銭、彼是取かへ、まへニも米出候て、只今ひた銭弐拾貫文渡候て、前後すミ候、


次回は元亀元年(1570)から。
信長包囲網序章からとなります!
信長覇業の一番面白い所。
私が一番好きな時代です。\(^o^)/ヤッター!!


織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569) イマココ
- 血戦 姉川の戦い(1570.1~1570.7)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)