織田信長の年表ちょっと詳しめ 覇王上洛

5.0

こんばんはー!
今回は50回目の投稿になります。誠にありがとうございます(´;ω;`)

さて、前回の美濃攻略戦で信長はついに稲葉山城を攻め落とした
今回はその続きから。すなわち、永禄10年(1567)9月下旬からはじめる。

(これまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569) イマココ
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

信長の年表(詳しめ5)

岐阜と天下布武の朱印

永禄10年(1567)

34歳

9月

居城を小牧山城から稲葉山に移転。また、稲葉山や井ノ口の名を改め「岐阜」とする。さらに、この頃から「天下布武」の朱印を用いる。

 (備考)「岐阜」という名については、尾張政秀寺の住職・沢彦宗恩が「中国の周時代に武王が岐山に拠って天下を平定したという故事にちなんで命名したといわれる。「天下布武」の朱印の使用も、やはり沢彦宗恩の影響であろう。信長が岐阜を拠点に、天下統一を目指す壮大な意図と並々ならぬ決意が見て取れる。

岐阜城
岐阜城 ( 自然風の自然風だより 様より『金華山岸壁と登山者達と八幡神社・・・ 』 の画像を拝借しました。

関連記事:古地図の見方 岐阜城の古地図を徹底解説

10月

岐阜城下に楽市場の制札を掲げ、諸役などを免除する。(円徳寺文書)

 (備考)岐阜に居城を移して早速、信長は誰でも一定の金額を納入すれば商人になれ、商人の往来を自由にして市場の活性化を図ったのであろう。この時期に信長が岐阜城下の加納に出した制札について、考察記事を書いたので、よろしければご覧ください^^

10月3日

武芸八幡宮の所領を安堵する。(武芸八幡神社文書)

 (備考)この時期はまだ北美濃(武儀・郡上八幡あたり)が信長に抵抗を続けており、森可成坂井政尚らにこのあたりの鎮圧や懐柔を任せていたようである。

11月9日

正親町天皇、御倉職の立入宗継を遣わし、美濃・尾張の御料所回復を命じ、信長はそれを快く受け入れている。(立入文書)

 (備考)この時正親町天皇は「古今無双の名将」とその武功を讃え、その上で信長にかつての天皇直轄領の回復をお願いしたのだ。

11月

坂井利貞らに知行宛行の朱印状を与える。(酒井文書など)

 (備考)これは信長発給である朱印状の初見である。これまでの花押の代わりに朱印状が押される機会がこれ以後日本国内で増えてゆく。無論、信長発給の朱印とは「天下布武」である。

天下布武印判
天下布武の印判

12月1日

大和の興福寺衆徒、柳生、椿井、岡などに書状を送り、近日中に足利義秋を奉じて上洛することなどを伝える。(柳生文書など)

12月5日

正親町天皇に対し、綸旨と女房奉書、そし紅衫?を下賜されたことを謝し、さらに勅命の条々についても忝く拝受した旨を大納言・万里小路惟房に伝え、その執奏を願った請文を発給する(熱田神宮所蔵文書)

北近江浅井長政との同盟

???

この年、北近江の浅井長政と同盟を結び、実妹の「お市」を嫁がせる。(古文書慕、総見記など)輿入れの費用は全額織田家が負担しとたという。

 (備考)同盟の交渉がいつから始まったのかは不明である。嫁がせた時期も永禄7年(1564)、同8年(1565)説があり、真偽は不明である。この時期に浅井賢政が名を改め、織田信長の一字をとって「長政」と改めたとあるが、これも真偽は不明である。浅井長政に嫁いだ「小谷御前=お市」が、信長の元に送り返される天正元年(1573)までに約5人子を産んでいるが、永禄10年(1567)説をとると、これもまた無理があるように思う。

永禄11年(1568)

35歳

2月8日

足利義秋と将軍争いをしていた足利義栄が、朝廷から将軍宣下がなされ、第14代征夷大将軍に任命される。

 (備考)この義栄将軍就任に、最も公家の中で奔走したのが山科言継だったようだ。義栄は三好三人衆が後ろ盾となっていたが、松永久秀との戦が激化している最中であった。さらに、義栄自身が背中の腫物を患っていたので、将軍就任後も京へは行けず、摂津富田に留まった。恐らく将軍就任後も政治を取り仕切る有能な家臣も奉行も存在せず、政権基盤は脆弱だったであろう。

2月

北伊勢の諸城を陥れる

2月

三男・三七丸を伊勢の名門である神戸友盛の養子に、ついで弟・織田信包を同じく伊勢の名門である長野具藤の養嗣子として送り込む。

 (備考)これにより、南伊勢を根拠にする国司・北畠家と国境を接するようになり、また、北畠具教が影響力を持つ長野家を支配下に置いたことで、北畠家との関係が悪化した。

2月

津田掃部助一安を安濃津城の守将とする。(北畠物語など)

???

またこの時期、信長は上洛に際して味方を探しており、様々な大名家や国人衆らを懐柔しようと努めている。

上洛に際しての根回しと懐柔

4月27日

南近江の六角家家臣・永原重虎、佐治為次と密約を結び、その所領を安堵した。(佐治文書など)

???

この時期、信長は越前に逗留している足利義昭を美濃に迎えるため、村井貞勝島田秀満らを越前一乗谷に遣わす。

 (備考)この年の4月15日に足利義秋は、「秋」の字は不吉であるとして、「義昭」と名を改めた。

7月25日

足利義昭を美濃の立政寺に迎え入れ、義昭上洛の供奉する旨を承諾する。(信長公記など)

 (備考)義昭を織田家に迎え入れた裏の立役者は、明智光秀細川藤孝らであったようだ。

8月2日

近江甲賀の土豪に対し、近江に進発する予定日を告げ、忠節を要請する。

8月7日

信長自身も近江の佐和山に出向き、観音寺城の六角承禎(義賢)に所司代職を約して協力を要請する。(信長公記)

 (備考)実は六角家は、当初は信長に協力的で、足利義昭を和田惟政の元に逃したり、義昭を矢島に迎え入れたり、信長と浅井長政の同盟も斡旋している。

8月13日

しかし、7日間の逗留もむなしく交渉は決裂。信長は岐阜へと帰る。

 (備考)六角家は当初信長に協力的だったものの、三好三人衆からの交渉に応じて方針を転換。反信長派に回った。その関係で足利義昭は近江矢島から若狭へ、ついで越前朝倉家を頼っているのである。また、信長が佐和山にて浅井長政の饗応を受けている最中、信長接待を仰せつかっていた遠藤直経は、主君・浅井長政に信長暗殺を進言。しかしながら、浅井長政はそれを拒否している。

関連記事:信長暗殺 遠藤直経と浅井長政 お市が人生で最も幸せだった7日間

覇王上洛

9月7日

信長上洛軍の旗の下に美濃、尾張、北伊勢さらに三河の徳川家も援軍に駆けつけ、総勢10万もの大軍を率いて岐阜城を出陣。美濃の平尾に陣取る。(信長公記)

9月8日

近江高宮に着陣。(信長公記)

9月11日

愛知川付近に野営を張る。 (信長公記)

9月12日

箕作城を取り囲み、夜に佐久間信盛丹羽長秀木下秀吉らが攻め落とす。=箕作城の戦い (信長公記)

 (備考)箕作城の戦い観音寺城の戦いについての詳細記事を書きましたので、よろしければ以下のリンクからご参照ください。

9月13日

観音寺城に立て籠もる構えを見せていた六角承禎(義賢)、義治父子は、深夜のうちに城を捨てて伊賀に敗走する。
これにより六角家臣団たちの多くは信長に帰順した。 =観音寺城の戦い(信長公記)

 (備考)信長は南近江各所に点在する小城には見向きもせず、ピンポイントで要所となる城を攻めている。
比較的堅固な要塞であった箕作城の落城が、六角氏の心理に大きな影響を与えると見抜いていたのであろう。
結果、六角父子が城を捨てて逃げだし、南近江諸城は悉く信長の支配下に入ることとなった。

???

六角家の臣・蒲生賢秀は1000の兵で日野城に籠城していたが、妹婿である神戸具盛が単身日野城に乗り込み、賢秀を説得して開城に導いた
賢秀は他の六角諸将と同じく人質を信長に差し出す。
人質は賢秀の嫡子である鶴千代であったが、信長はその子の目を見て一目で気に入り、柴田勝家に預けている。
以後、蒲生家は柴田勝家の与力として力を奮うこととなる。

 (備考)のちに蒲生賢秀の嫡男鶴千代は元服して蒲生賦秀(やすひで)と名乗り、信長の娘・冬姫(異説有り)を娶るという厚遇を受けている。
この人物こそが蒲生氏郷であり、会津120万石の大大名となる武将なのである。

9月14日

正親町天皇、信長に禁中の警護と、京都市中における軍勢の乱暴狼藉の禁止を命ずる。(経元卿御教書案)

9月22日

足利義昭を近江の桑実寺に迎える。

9月24日

琵琶湖を渡海して信長は三井寺の極楽寺に、義昭は光浄院に泊まる。(信長公記・年代記抄節)

9月26日

織田信長、足利義昭を奉じて入京を果たす。信長は東寺に、義昭は清水寺に陣し、細川藤孝らに御所の警護を命ず。(御湯殿の上の日記)

 (備考)信長に敵対する三好三人衆らは、京洛で戦うのは不利と見て、山城勝龍寺城、摂津芥川城、越水城、河内高屋城などに立て籠もり、さらに将軍・足利義栄が摂津富田城に籠城した。この時期の信長による禁制の乱発、京都市中の人々の混乱ぶりを記事にしていますので、よろしければ下記のリンクからご参照ください。

9月29日

三好三人衆の一人である岩成友通籠る勝龍寺城が織田軍の攻撃を受けて陥落。=勝龍寺城の戦い ついで摂津に軍勢を進め、10日余りのうちに諸城を攻略して三好三人衆を阿波に敗走させた。(信長公記)

9月30日

信長、足利義昭とともに芥川城に入る。信長はここに14日間逗留し、有力な家臣たちに諸城を攻めさせている。信長の元には連日連夜、五畿内の大名、土豪、商人らが服従の意思を表明しに訪れている。松永久秀もその一人であり、我朝無双といわれている唐物の茶入れ「九十九茄子」を信長に献上して、足利義輝殺しや東大寺大仏殿焼き討ち等の罪を許されている。(信長公記、多門院日記)

 (備考)先の将軍・足利義輝の実弟が足利義昭である。当然足利義昭は久秀の厳罰を求めたが、信長は取り合わなかったばかりか、本領安堵。大和一国の進退を任せるという寛大な処置をしている。信長からしたら、過去の事よりも役に立つ有能な家臣が欲しかったのであろう。なお河内若江城を三好義継、高屋城を畠山高政、芥川山城を和田惟政に与えている。(重編応仁記)

10月14日

信長は河内に一時行っていたそうだが、摂津、河内、和泉の敵対する諸城を落とした報を聞いてから、京に戻り清水寺に陣している。(言継卿記)

(備考)この頃に現将軍・足利義栄が病死したか。

10月18日

足利義昭、第15代征夷大将軍に補任される。(御湯殿の上の日記)

足利義昭
足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

10月22日

足利義昭、参内する。(御湯殿の上の日記)

 (備考)信長の供奉によって念願の地位に就いた義昭は、信長を「わが父」とか「武勇天下第一」と称賛し、副将軍か管領に就任するように要請するが断られ、かつて尾張守護職であった斯波家の名跡を継がせようと信長に持ち掛けたが、これも断られた。信長にとっては義昭と主従関係になる意思がないことを示したのであろう。信長はその代わりに堺、大津、草津に代官を置くことを許された。(信長公記、足利季世紀)

???

この信長の在京中にさまざまなことが取り決められている。関所撤廃はその一つである。この時織田家の奉行として特に京都で活躍したのが、村井貞勝丹羽長秀明智光秀木下秀吉らである。

 (備考)信長上洛直後は町中大混乱であったが、織田軍の「一銭斬り」ともいわれる徹底した軍律で平静を取り戻し、公家や商人、町人までもが信長に信頼を寄せるようになった

10月26日

信長、岐阜に帰るために京を発つ。佐久間信盛丹羽長秀木下秀吉村井貞勝らは京に残した。

 (備考)この時の信長は、天下に対していささかの野心もないという体裁をアピールしておきたかったのであろう。

10月28日

岐阜に帰城する。

11月24日

京で政務に当たっている丹羽長秀村井貞勝が、長命寺惣坊に坊領の知行分の年貢の収納を認める。(長命寺文書)

同日

丹羽長秀村井貞勝が、沖島地下人に沖島における堅田の知行分を認める。(堅田村旧郷士共有文書)

12月

正親町天皇の嫡男であり、皇太子である誠仁親王が、親王宣下を受けて元服する。

 (備考)朝廷の資金難で元服の儀が延び延びになっていたが、信長の拠出した資金により、ようやく元服することができた。この後、信長は誠仁親王と友情を深め、のちに信長が正親町天皇と疎遠になってからも、二人の交流は続いたという。

六条本圀寺の戦いと殿中御掟

永禄12年(1569)

36歳

1月5日

堺衆の支援を受けていた三好三人衆が、将軍・足利義昭の宿所である六条本圀寺ろくじょうほんこくじを包囲し、攻撃する。細川藤孝明智光秀らが必死の防戦をする。 (信長公記) =六条本圀寺の変

1月6日

三好義継池田勝正らが京へ駆けつけ、三好三人衆を撃退する。 (信長公記)

1月8日

信長、この報せを聞くとすぐさま岐阜を出陣。大雪の中を一騎掛けで京へ向かう。 (信長公記)

1月10日

信長、岐阜からわずか2日で京へ入る。供の者は10騎にすぎなかったが、やがて8万の大軍が駆け付けたという。(言継卿記、信長公記)

1月14日

幕府の殿中御掟でんちゅうおんおきて」9ヶ条の掟書を定め、将軍・足利義昭に承認させる。(仁和寺文書)

 (備考)この「殿中御掟」について詳しい記事を書きましたので、是非ご参照下さい。

1月16日

幕府に出した「殿中御掟」に、信長はさらに7条を追加。これも義昭に承認させた。 (仁和寺文書)

 (備考)この計16ヶ条に及ぶ「殿中御掟」は、一見将軍である足利義昭をないがしろにし、実権を奪うものだと見られがちであるが、近年の研究では、そうとは言い切れない部分もある。

足利義昭自身が、大名の家臣に対しても、大名の頭越しに御内書が出したり幕臣(義昭の家臣)が寺社領を押領する事態が頻発しているなどがあったので、上方の社会が混乱した。
天下の静謐の為には、信長が義昭の権力行使を規制しなければならなかったという見方もある。
この「殿中御掟」は義昭との不和を決定的にさせるものではなく、この頃はまだ義昭は信長を頼りに思っていたのである。

1月19日

この日禁中では三義長の行事が行われ、信長も近習500人ばかりを従えて見物している。無論足利義昭も同席していたであろう。信長には小御所の庭で御酒を賜る予定であったが、銚子があまりにも遅かったため、そのまま退室してしまった。(言継卿記)

 (備考)性急な性格の信長と足利義昭の趣味が決定的に違うことを現わしている面白い逸話である。

二条御新造の建設

2月2日

先の六条本圀寺の変の教訓から、信長は強固な将軍家の新御所の建設を決断する。=二条御新造の着工(言継卿記)

 (備考)場所は勘解由小路室町の真如堂の跡地であり、ここは足利将軍家代々の直轄地のようだ。大工奉行には村井貞勝島田秀満が司り、畿内近国14ヵ国から人夫が動員され、一日数千人が工事に使われたという。この造営は信長自らが陣頭指揮に立ち、突貫工事で行われた。

造営中の逸話として、ある時、工事に従事していた一人の武士が、その前を通りかかった婦人のかぶりものを上げ、顔を見ようとした。するとそれを目撃した信長は、一刀のもとに首を刎ねたという(フロイス日本史) フロイス日本史は大げさな記述が多いが、織田家の軍規の厳しさと絶対服従を物語る面白い例である。

3月1日

撰銭令を定める(京都上京文書)

3月2日

正親町天皇、信長に副将軍就任を求めるが、信長は奉答せずに勅使を帰している(言継卿記)

 (備考)昨年に足利義昭が信長に求めて断られていたが、義昭は諦めきれず、朝廷に働きかけたのだろうか

4月8日

宣教師のルイス・フロイスキリスト教布教の許可を得に二条御新造を陣頭指揮中の信長を訪ねる。

 (備考)フロイスは西洋人では初めて信長に会見した人物であるが、その模様を次のように書き留めている。”造営を自ら指揮していた信長は、虎の皮を腰に巻き、粗末な衣服を身に着けていた。容貌は年齢・37歳くらい。中くらいの背で、華奢な身体であり、髭は少なく、甚だ声は快調であった”これがフロイスの信長への第一印象だと言われている。これはあの一番有名な信長の肖像画と一致する部分が多いのではあるまいか。

織田信長
紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)

4月13日

信長、宿所を妙覚寺に移す。(言継卿記)

 (備考)二条御新造を着工してからの信長の宿所は不明であるが、恐らく現場に泊まり込んでいたのであろう。

4月14日

二条御新造が完成し、足利義昭がそこに移り住む。

4月16日

朝山日乗に命じて朝廷に内裏の修理費用一万貫を献上する(御湯殿の上の日記)

 (備考)現在の価値で換算すると約9億円以上か

4月21日

帰国の挨拶のため、足利義昭に謁見する。義昭は信長の忠節に感謝し、信長を門外まで送り出し、その姿が栗田口に消えるまで見送ったという(言継卿記)

 (備考)在京中の信長は、公家衆や寺社に対して安堵状を与えているが、幕府将軍家の奉行人奉書が出されている。この事実は両者の安堵状なくしては現実に機能しえないことを表現しており、足利幕府と信長の二重行政、二重政権であることを示している

4月下旬

信長、岐阜に帰城。

5月14日

京で政務に当たっている明智光秀村井貞勝武井夕庵が、妙智院に対し北山等持院が天竜寺の末寺である証明を求める。(天竜寺文書)

5月

伊勢国司・北畠具教の弟である木造具政が信長に内応を申し入れる。

7月27日

公家の山科言継、岐阜に下向する。

 (備考)以下はこのとき言継が目撃した事件である。信長は故斎藤義龍の後家が所持していたという壷を強引に所望するが、彼女は戦乱によって壷は紛失したと申し立て、なおこれ以上の詮議に及べば自害するほか道はないと答えた。この時、「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし、国衆大なる衆十七人、女子の男卅余人切腹すべし」といい、信長本妻の斎藤一族らが結束して信長に抵抗するという事件が起きている。ここに見える「信長本妻」とは、あの斎藤道三の娘・帰蝶のことではあるまいか。かなり大きな事件のように思えるのだが・・・。(言継卿記)

???

岐阜に帰った信長は、美濃の土豪に対して所領の宛行、所領の安堵、さらに座の組織に諸役を免除するなど国内の経営に専念している。

伊勢北畠家討伐戦と蒲生賦秀(氏郷)の初陣

8月20日

信長、三河、遠江、尾張、美濃、近江、北伊勢などの軍勢10万を率いて出陣。伊勢北畠家討伐に向かう。この日は桑名に着陣。

8月21日

鷹狩りののち白子観音寺に移陣。

8月23日

木造に着陣。信長自身は降雨のため26日まで逗留する。

8月26日

木下秀吉らが阿坂城を攻め落とす。=阿坂城の戦い

8月28日

北畠具教具房父子の籠る大河内城を包囲する。=大河内城の戦い

9月8日

丹羽長秀稲葉一鉄池田恒興ら三人に夜攻めを命ずるが降雨のため味方の鉄砲が役に立たず、多くの侍が戦死する。

10月3日

北畠具房、開城して和議を乞い、信長の次男・茶筅丸に家督を譲ることを約す。(信長公記、多門院日記)

 (備考)残念ながら南伊勢攻めの詳細な記録は少ない。信長は10万の兵を動員しながら苦戦したことは事実のようで、なんとか外交によって決着をつけたといった感じだ。南伊勢が信長の支配下に入る。

織田家の人質となって岐阜城にいた蒲生賢秀の嫡男・鶴千代は、元服して「蒲生忠三郎賦秀(やすひで)」と名乗っていた。
信長はこの少年を大変気に入り、自ら烏帽子親(えぼしおや)となって織田弾正忠信長の「忠」の字を与えて忠三郎となった。
賦秀はこの大河内城攻めで初陣を果たしたのであるが、蒲生家臣の目から離れて行方不明となってしまった。
あわや忠三郎討死かと現場が騒然としたところ、賦秀は敵の兜首を取って戻ってきた。

これを聞いた信長は感激。
戦後、信長は自身の娘を賦秀に娶らせ、さらに人質の処遇をやめて日野城に帰した。

この後も蒲生賦秀は信長麾下として大活躍し、豊臣秀吉の時代に蒲生氏郷と名を改め、会津120万石の大大名となるのである。

蒲生氏郷
蒲生氏郷肖像

10月5日

伊勢山田に着陣。 (信長公記)

10月6日

伊勢神宮に参拝。 (信長公記)

10月7日

木造に着陣。 (信長公記)

10月8日

上野に着陣し、兵を国もとに戻す。伊勢の仕置きとして茶筅丸の後見役に津田一安を命じ、滝川一益に安野津、渋見、木造を、弟の織田信包には上野の諸城をそれぞれ守らせる。 (信長公記)

10月9日

大雪の中、千草峠を越える 。(信長公記)

10月10日

近江市原に宿泊。(信長公記)

10月11日

馬廻衆率いて上洛し、将軍・足利義昭に伊勢平定を報告する。 (信長公記)

10月12日

京で政務にあたっている村井貞勝が、浄福寺への寄宿を免除する。(浄福寺文書)

10月13日

参内し、天盃を賜る

10月17日

京都滞在を終えて岐阜へと発つ。(御湯殿の上の日記、信長公記)

 (備考)足利義昭はかねてより北畠家の討伐に反対で、このとき信長との間に決定的な亀裂があったのではなかろうか。この信長突然の帰国は多くの人々を驚かせ、不安に陥れたらしい。それは正親町天皇が自筆の女房奉書を認めて信長を慰めていることからも窺える。(東山御文庫記録) また、多門院日記は突然の帰国を「上意トセリアイテ下リ了ト」と記している。

10月19日

岐阜帰城か。

来世ちゃん
来世ちゃん

次回は元亀元年(1570)から。
信長包囲網序章からとなります!
信長覇業の一番面白い所。
私が一番好きな時代です。\(^o^)/ヤッター!!

来世ちゃん
来世ちゃん

織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)  イマココ
  6. 血戦 姉川の戦い(1570.1~1570.7)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

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