織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

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 こんばんは~。前回は信長は西美濃を中心に攻めていたが、一定の成果は収めたものの、美濃勢の抵抗は頑強であった。今回は信長が作戦を変更し、東美濃を中心に攻略するところから始まる。また、この頃の信長は、浅井や上杉、武田、さらには亡き将軍の実弟・足利義秋と外交をしっかり行っている点にも注目だ。信長の美濃攻略後半戦。スタート。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567) イマココ
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

信長の年表(詳しめ4)

永禄の変 将軍足利義輝横死

永禄7年(1564)

 9月28日

正親町天皇、禁裏の御倉職を務める立入宗継を尾張に遣わし、信長に御料地の回復を命ずる(道家祖看記・立入文書)

 (備考)信長の声望が中央でも次第に高まりつつあることを窺わせるものである。「立入文書」によれば、宗継が信長と会見した地を清州と記していることから、小牧山への移転はもう少し後だとみることもできる。また、この勅使下向の件を疑問視する向きもある。

11月7日

越後の上杉輝虎に使者および書状を送り、信長の子息を輝虎に迎えられることを謝す。(上杉家文書)

 (備考)この養子の一件は他の史料には見られない。もしかすると、交渉の初期段階では上手くいったものの、最終的には実現しなかったのかもしれない。なお、この件について詳しい記事を書いたので、もしよければ下記のリンクからご覧いただきたい。

永禄8年(1565)

5月19日

永禄の政変。将軍・足利義輝三好三人衆松永久秀久通父子によって襲撃され、殺害される。

 (備考)足利義輝の実弟・周暠(しゅうこう)も暗殺される。興福寺にいた覚慶は幽閉された。この後三好三人衆は、足利義親(後に義栄と改名)を将軍に擁立することになる。最近の研究によると、松永久秀は当時大和国にいて、関与していないという説がある。しかしながら、息子の久通が襲撃隊に加わっていることから、久秀が暗殺を黙認していたことは明白である。

織田信長の東美濃侵攻戦

永禄8年6月までの美濃の情勢
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永禄8年(1565)6月までの美濃の情勢と、織田信長が実施した軍事行動 (Googleマップより)

7月

美濃加治田城主の佐藤紀伊守忠能・右近右衛門尉忠康父子、丹羽長秀を介して内応を約束する。(信長公記)

 (備考)信長はこの内応を非常に喜び、黄金五十枚を与えている。また、信長の家臣・金森長近との婚姻関係を名目に寝返ったとされているが真偽は不明である。

7月28日

幽閉されていた覚慶は、亡き将軍義輝の近臣・細川藤孝一色藤長らの手によって救い出され、脱出した。

8月

斎藤家の臣・大沢次郎左衛門正秀(基康)籠る鵜沼(宇留摩)城は堅固な要害であったため、信長は伊木山に砦を築き、自ら在城して鵜沼城下を焼き払った。鵜沼城の大沢氏は木下秀吉の説得に応じて開城した。= 鵜沼(宇留摩)城 の戦い

 (備考)すぐに城を明け渡したわけではなく、翌年2月(12月説もあり)に調略に成功して秀吉に同道して清須へ赴くも信長に殺されそうになり、秀吉の策によって逃れたとあるが、『信長公記』では鵜沼城攻略を永禄7年(1564年)8月としていて、そのまま信用はできない。また、信長公記も永禄7年8月と書いているが、当ブログでは永禄8年(1565)8月鵜沼城落城、その場で大沢氏は秀吉の調略に応じて開城という説を採択することとした。うーん、ややこしい(^-^;

8月

続いて信長は同じく斎藤家の臣・多治見修理亮光清籠る猿啄城を攻め立てる。ここもまた天険の要害であったが、先鋒の丹羽長秀が城を見下せる大ぼて山に攻め上り水源を断ち、さらに河尻秀隆が激しく攻め立ててついに落城した。=猿啄城の戦い

 (備考)この戦いで活躍した河尻秀隆は、のちに猿啄城主となっている

8月

信長、軍を北上させ、中濃の堂洞城を攻撃。 この日は強風で、火の回りが早いだろうと判断したのだろうか。信長は松明を持ち、塀際まで詰め寄ったら四方から投げ入れるように命を下したという。一方敵側は、信長の別動隊を牽制してか、足軽を繰り出さなかった。夕刻。とうとう本丸へ追い詰めた織田軍は怒涛の如くなだれ込んだ。ついで夕方には河尻秀隆が天守に一番乗りを果たし、攻め落とした。かなりの激戦だったらしく、大将格はほぼ討ち取ったようである。 =堂洞城の戦い

 (備考)この戦で活躍したのは河尻秀隆、丹羽長秀、そして太田牛一である。太田牛一は、この時高い建物の上から無駄なく矢を射かけた。信長は三度も使いを寄こし、見事な働きだと称賛したという。後に牛一は知行を大幅に加増された。そう、この太田牛一とは織田信長の一代記で、現在信長関連の史料では最も歴史的信憑性の高い「信長公記」の著者その人である

堂洞城の戦い
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落城を見届けた後、その日は加治田城に泊まる。佐藤忠能と息子の忠康は涙を流して信長を迎えたという。

 堂洞合戦の顛末、八重緑の悲劇については詳しい記事を書いたので、是非ご覧ください。

???

翌日、首実検を行う。800の兵で尾張へ凱旋中に斎藤龍興、長井道利らの手勢3000の兵の攻撃を受けるが、うまくかわして撤退している。(信長公記)

8月?

斎藤家の家老・長井道利の支城である天険の要害・烏峰城も、森可成らの攻撃によって落城した。=烏峰城の戦い

 (備考)この戦いの後、信長は可成にこの地を知行として与えた。烏峰に移った可成は、早速この城を金山城と改め城下町が整備される。以後、子の忠政が関ケ原の恩賞で信州中島へ移封されるまでの35年間、森家の居城であり続けた。森可成という人物については、過去の記事を参照してほしい。

9月1日

斎藤家の家老・長井道利籠る関城を攻める。加治田城主の佐藤忠能を先陣に、丹羽長秀、河尻秀隆が続々と津保川を渡り、関城周辺の砦を攻撃。信長自身は本陣を肥田瀬砦に移し、一気に関城を攻め立てた。長井道利の子・道勝は討死。落城した。=関城の戦い

9月9日

 津田掃部守一安を甲斐の武田信玄に遣わし、養女と信玄の子・勝頼との縁組を申し入れる。信長は東美濃の苗木城主・苗木勘太郎(信長の妹婿)の娘を養女とした。

 (備考)この時期には既に織田家の影響力が岩村・苗木・明知城にまで浸透していると見える。

11月1日

美濃の斎藤新五郎利治に平賀など十三ヵ所二、一八四貫文の知行を宛行う。(備藩国臣古証文)

 (備考)新五郎利治とは、斎藤家一門の筆頭格と目される人物である。道三の末子あるいは龍興の舎弟とする説もあるが定かではない。堂洞城攻略戦の恩賞であろうか。少なくともこの時期には、斎藤一門までもが主家を見限り、織田家についていることは間違いないようだ

足利義秋を奉じての上洛を意識

11月13日

先の甲斐武田家との縁組がトントン拍子で決まったと見え、この日輿入れした。(甲陽軍鑑)

 (備考)しかし、甲陽軍鑑とだけあって、年月には正確性はない

12月5日

亡き将軍足利義輝の実弟・覚慶の側近である細川藤孝に返書して、覚慶の帰洛について供奉する旨などを報ずる(史料編纂所所蔵文書)

 (備考)この時の覚慶一行は近江矢島におり、諸国の大名に義兵を募っていた。

永禄9年(1566)

3月

覚慶改め足利義秋の仲裁で織田家と斎藤家が和睦する。(中島文書・上杉家記)

4月11日

朝廷に馬・太刀の代として銭三千疋(三十貫文)を献上する。(御湯殿の上の日記)

5月13日

側室の生駒殿(吉乃・信忠や信雄の生母)没する。(織田家雑録)

7月

近江矢島に逗留する誓書を出し、足利義秋に軍勢を率いて「8月28日」に近江矢島に参陣し、義秋を奉じて上洛する旨を確約する。 (和田文書・中島文書)

 (備考)信長は斎藤家と和睦している隙に上洛を果たすつもりだったのであろうが、それは合理的な判断ではなかったようだ。

???

しかし、三好三人衆や六角義賢などの妨害工作により断念する。

 (備考)具体的には、美濃の斎藤龍興に対して織田家との和睦を破棄するように働きかけていた。さらに、三好三人衆はかつての宿敵であった六角家を味方に引き入れ、信長の上洛計画は現実的ではなくなった。信長は義秋から誹をうける羽目となり、ついには天下の嘲笑の的となったのである。

8月21日

大和の柳生宗厳に初めて書状を送り「三好三人衆の妨害により足利義秋を奉じて上洛することを断念した」と伝える。(柳生文書)

8月29日?

信長、稲葉山城を攻略せんと出陣。木曽川を渡り濃尾の国境である河野島で陣を張る。対する斎藤龍興もすぐさま河野島へ進軍し、それを知った織田軍は川べりまで後退して布陣。

 (備考)信長の上洛計画が頓挫すると、斎藤家と再び敵対関係に逆戻りした。やはり美濃の中心の城である稲葉山城の攻略と、西美濃も征服する必要があると考えたのであろう。

8月30日?

この日は暴風雨だったらしい。木曽川が洪水となったため、両者は睨み合ったまま動かなかった。

閏8月8日?

この日ようやく水が引いたようだ。信長は時期が悪いと判断したのか撤退を開始。そこに油断が生じたのか、斎藤軍は川を渡って追撃を開始した。織田軍は支えきれず多数の兵が溺死、または討死し、織田軍は武器を捨てて逃げ惑う有り様であった。=河野島の戦い(中島文書)

 (備考)この時期は田畑の刈り入れ時である。長々と軍事作戦をしていれば、それだけ収穫が減るのだ。

8月

この時期、大和国あたりで信長が足利義秋を奉じて大軍で上洛するとの虚報がしきりに流れる。

 (備考)もはや美濃の多くの侍は信長方に属し、稲葉山の陥落が間近であると世評になっていたのであろう。

11月16日

越後の上杉輝虎、禁裏へ黄金・布・綿などを献上。『言継卿記』

十六日、癸酉、陰、自申下刻雨降
自禁裏被仰十全大
補湯一兩合但本登内五兩半、長橋局被申人参丁香散一濟但半濟也、調合了、大補湯長橋局へ持参了、自越後國黄金・布・綿等進上云々、綿予、薄に百文目宛拜領、忝者也、

(書き下し文)
越後国より黄金・布・綿等進上と云々
綿を予、薄に百文目ずつ拝領。
忝きものなり

11月

兼松正吉、埴原常安に所領を宛行い、服部小藤太に新規の諸役を免除する。(兼松文書など)

12月7日

足利義栄、摂津国越水(小清水)から総持寺へ居を移す。
三好長逸(日向守)ら、禁裏へ米を献上。『言継卿記』永禄九年十二月八日条

八日、乙未、天睛、土用、天一天上、五墓日、
南方之武家、昨日攝州自小清水總持寺へ被移御座云々、高倉奉公衆各自去五日下向云々、


早々長橋局へ参、近衛殿へ之儀、甘露寺内々御請之由申候了、次三好日向守以下、禁裏へ米進上云々、其内一俵可被下之由有之、巳刻叉参、甘露寺祗候之間、猶様體申含了、

(書き下し文)
南方の武家(足利義栄)、昨日摂州越水より総持寺へ御座を移さると云々
高倉奉公衆、各々去五日より下向と云々。
早々長橋局へ参る。
近衛殿への儀、甘露寺へ内々に御請けの由を申し候おわんぬ
次いで三好日向守(三好長逸)以下、禁裏へ米を進上と云々。
そのうち一俵を下さるべしの由これ有り。
巳の刻また参る。
甘露寺へ祗候の間、なお様体を申し含めおわんぬ。

12月16日

三好三人衆ら、禁裏へ御扶持米として三十俵を献上。『言継卿記』

十六日、癸卯、天睛、土用、天一天上、
(中略)
禁裏三好日向守、同下野入道、石成主税助等爲各、御扶持卅俵進上云々、其内予、薄等に一俵宛拜領了、忝者也、

(書き下し文)
禁裏に三好日向守(三好長逸)・同下野入道(三好宗渭)・石成主税助(石成友通)等各として、御扶持三十俵を進上と云々。
その内予、薄等に一俵ずつ拝領しおわんぬ。
忝きものなり。

12月21日

[参考]『言継卿記』永禄九年十二月二十一日条

廿一日、戊申、天睛、天一天上今日迄、土公酉方(六日)、
句之間令行水、掛春日名號、神樂少々吹之、縿唯識論看経如例、
自勧修寺黄門使有之、當月末武家御叙爵、陣宣下上卿参之間、石帯、平緒、沓等可借用之由被申、同心了、
(中略)
次賀二位知行分山科諸陵郷可引渡之由、昨日三好日向守申渡之間
、内内可披露之由使有之間、同令披露、然者安二位有春卿可召上之由申之、
高倉相公へ猪革之儀、此間馳走祝着之由禮申之、次内山所へ立寄、久我、西林等将基雙六有之、次勧修寺へ罷向、甘露寺同被來、宣下之儀共尋之、同御名字高辻勧進之、大高檀紙一枚書之、禮紙表裏立紙有之、書様如此、於勧修寺一蓋有之、


    御名字事
 義榮
ひて 義順 義文
            式部大輔菅原長雅


  
可為義榮之由有之、勧修寺一品二條殿へ可持参之由有之、自二条殿被傳進之、先例也、
予番代倉部参了、三好日向守、同下野入道今朝坂下へ罷向、江州衆と談合之子細有之云々、

(備考)
黄門は中納言の唐名。
勧修寺黄門とは勧修寺晴秀。

上卿は朝廷で太政官の行う行事・会議などを指揮する公卿のこと。
またはそうした会合が開かれた際、長として臨時に呼ばれた者。
大臣・大納言・中納言の中から選ばれた。

久我は久我通俊、甘露寺は甘露寺経元、二条は摂関家の二条晴良。
菅原道真の末裔にあたる高辻は高辻長雅(式部大輔)のことか。

永禄9年(1566)ごろの美濃の情勢
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永禄9年(1566)ごろの美濃の情勢(Googleマップより)

永禄10年(1567)

三好義継が松永久秀と合力 三好三人衆と争う

1月5日

足利義栄(源義栄)、従五位下じゅごいのげ左馬頭さまのかみに補任。
消息宣下を受ける。『言継卿記』

攝州之武家従五位下源義榮今日被任左馬頭云々、消息宣下云々、

(書き下し文)
摂州の武家従五位下源義栄、今日左馬頭に任ぜられ云々
消息宣下に云々。

(備考)
消息宣下とは陣儀を招集せずに上卿以下が在宅のまま手紙の遣り取りによって持ち回り形式で宣下するもの。
つまり、太政官や院庁が発する公式な命令を消息(手紙)形式の文書で行う略式の手続きを取る。
鎌倉時代以降、陣儀での宣下は親王宣下や摂関等の高官に限られるようになり、それ以下の職は消息宣下による命令交付が主流となった。

1月13日

足利義栄、一条内基に御内書を発給。
内容は不明。『言継卿記』

従一條殿御使有之、従武家御内書可被進候、表書以下可有如何之由御尋云々、予申云、一條殿、義榮此分歟、近衛殿へ如此歟之由存之由申入了、

(書き下し文)
一条殿より御使これ有り
武家(足利義栄)より御内書まいらさるべく候。
表書おもてがき以下は如何あるべきの由かと御尋ね云々
予申し伝う。
一条殿、義栄はかくの分か、近衛殿(近衛前久)へはかくの如くかの由を存じ由、申し入れおわんぬ

 (備考)
一条内基は関白や左大臣を歴任した一条房通の子。
当時20歳の若者。
父は弘治2年(1556)に早逝している。
山科言継に助言を求めたのは身寄りが少なかったためか。

2月13日

[参考] 『言継卿記』永禄十年二月十三日条

勧修寺一品江罷向、将軍宣下上卿之事可存知之由、一昨日内々被申、可参之由返答了、但日時于今未定、重可申之由有之、次内侍所へ罷向、明日賀茂諏訪信乃守旅宿へ可音信之由さいに申之、然共先へ可罷之由被申間、約束了、

(書き下し文)
勧修寺一品へ罷り向かう。
将軍宣下上卿の事を存ずべきかの由、一昨日内々に申さる。
参るべしとの由を返答しおわんぬ
ただし日時は今に未定。
重ねて申すべしとの由これ有り。
次いで
内侍所ないしどころへ罷り向かう。
明日賀茂の諏訪信濃守が旅宿へ音信すべきの由さいにこれを申す。
然れども先へ罷るべきの由を申さるの間、約束しおわんぬ。

2月14日

[参考] 『言継卿記』永禄十年二月十四日条

賀茂へ罷越、諏訪信濃守所へ罷向、錫代十疋油煙一丁、遣之、吸物にて酒有之、内侍所之さい先へ被行、越州敦賀之武家仰之様體御返事等令談合、近日越州へ下向云々、軈罷歸了、

(書き下し文)
賀茂へ罷り越す。
諏訪信濃守所へ罷り向かう。
錫代十疋・油煙一丁これを遣わす。
吸物にて酒これ有り。
内侍所のさい先へ行かる。
越州敦賀の武家へこれを仰す様体の御返事等を談合せしむ
近日越州へ下向と云々。
やがて罷り帰りおわんぬ。

2月16日

三好義継(三好左京大夫)が三好三人衆らの敵に回ったことにより、摂津や和泉国において動乱が発生。『言継卿記』永禄十年二月十七日条

十七日、癸卯、自丑刻雨降、天一天上、
中山に約束之厚き杉原所望、一帖到、次将軍宣下之次第借之被寫與之、
(中略)
三好方池田内等昨日破云々、叉可及大亂、笑止之儀也、三好左京大夫、同山城守、安見等、遠里小野へ打出云々、三好日向守、同下野入道、石成主税助和泉境に有之云云、松永弾正少弼衆蜂起云々、池田之内七十五人引破云々、

(書き下し文)
三好方池田内等を昨日破ると云々。
また大乱に及ぶべし。
笑止の儀なり。
三好左京大夫さきょうのたいぶ(三好義継)・同山城守・安見等が遠里小野おりおの(和泉国)へ打ち出で云々
三好日向守(三好長逸ながやす)・同下野入道(釣竿斎宗渭)・石成主税助(石成友通)和泉堺にこれ有ると云云。
松永弾正少弼だんじょうしょうひつ(松永久秀)衆蜂起と云々。
池田の内七十五人引き破ると云々。

(備考)
将軍足利義輝弑逆後、三好三人衆らと不和となっていた三好義継がこの2月に謀反。
一説(『足利季世記』?)によると、2月16日に三好康長・安見宗房とともに出陣したと見せかけ、少数の兵を引き連れて高屋城を脱出。
堺で松永久秀と合力したとある。

3月10日

公家の山科言継、三好長逸(日向守)と宗渭(下野入道)に宛て、三好義継(左京兆)の進退が気がかりだとする旨の書状を発給。『言継卿記』永禄十年三月十日条

澤路筑後入道今日南方へ下云々、三好日向守・同下野入道に書状遣之、左京兆進退無心元之由申之、

(書き下し文)
澤路筑後入道今日南方へ下り云々
三好日向守(長逸)・同下野入道(宗渭)に書状を遣す。
左京兆さけいちょう(三好義継)の進退心元無きの由これを申す。

4月6日

松永久秀、三好義継を伴い大和国信貴山城に入る。『言継卿記』永禄十年四月七日条

昨日松永弾正少弼自堺出張、三好左京兆兩人志貴城へ入云々、人數河内方々焼之云々、
 (昨日松永弾正少弼(久秀)堺出張より、三好左京兆(義継)両人と信貴城へ入り云々。
人数(軍勢)は河内(国)の方々でこれを焼くと云々。)

4月18日

三好三人衆ら、1万余の軍勢で多聞山を攻め激戦に及ぶ。『多聞院日記』四月条

   卯月十八日結願了、同十九日大雨ニ今井迄下向了
一去五六日頃松少堺ヨリ此國へ入、筒井順慶奈良ノ陳ヲ引テ七日ノ夜半城へ入了、
十一日ニ多聞山へ松少入、
十八日ニ三人衆人數一万余打越、ナラ近邊陳取了、
  (中略)
廿四日、天満山大乗院山へ三人衆幷筒井被寄陳了、寺内ニハ塔幷南大門上テ鉄砲放、両陳ノ巷晝夜只如雷電、片時無安堵之思、嗚呼々々、
  (中略)
廿五日、
(中略)一、當方卅講合戦ノ巷ノ間、出仕依難叶延引、先代未聞ノ式也、
一、興善院講問延引了、浅猿々々、
廿六日、戦動之間ニ開示抄ノ賛攝尺義昧等ノ所、以摺本ノ點寫之、

(書き下し文)
 (前略)
一去五六日頃、松少(松永久秀)堺より此の国へ入り、筒井順慶奈良の陣を引きて七日の夜半に城へ入りおわんぬ。
十一日に多聞山へ松少入る。
十八日に三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)人数一万余が打ち越す。
ナラ近辺に陣取りおわんぬ。
  (中略)
廿四日、天満山大乗院山へ三人衆並びに筒井(筒井順慶)陣を寄せられおわんぬ。
寺内には塔並びに南大門に上りて鉄砲を放ち、両陣の巷昼夜、ただ雷電の如し。
片時も安堵の思い無し。嗚呼嗚呼。
(以下略)

5日2日

石成友通と摂津の池田衆、1万ばかりの兵で東大寺に陣を移す。
松永久秀は戒壇院に立て籠もる。『多聞院日記』五月二日条

二日、石成幷池田衆以下一万計にて東大寺へ陳替、念佛堂・大佛之廻廊等ニ陣取了、松弾衆ハ戒壇院ニ楯籠、大天魔ノ所爲ト見タリ、浅猿々々、

(書き下し文)
二日、石成(石成友通)並びに池田衆以下一万ばかりにて東大寺へ陣替え。
念仏堂・大仏の廻廊等に陣取りおわんぬ
松弾(松永久秀)衆は戒壇院に立て籠もる。
大天魔の所為と見たり。
浅まし浅まし。

5月15日

松永久秀(松永弾正少弼)、三好義継(三好左京大夫)を伴い大和国信貴山城に入る。『言継卿記』永禄十年五月十五日条

今日攝州之池田・篠原等、和州へ陣立云云、八千計云々、三好下野以下、二月堂、東大寺大佛殿、高畠等方々陣取、一萬二千計有之、三好左京大夫、松永弾正少弼、同右衛門佐以下、多門城・興福寺・東大寺之戒壇等持之云々、五千計云々、

(書き下し文)
今日摂州(摂津国)の池田・篠原等、和州(和泉国)へ陣立ち云々
八千ばかりと云々。
三好下野(宗渭)以下、二月堂・東大寺大佛殿・高畠等方々に陣取る。
一万二千ばかりこれ有り
三好左京大夫さきょうのたいぶ(義継)、松永弾正少弼だんじょうしょうひつ(久秀)、同右衛門佐うえもんのすけ(久通)以下、多聞城・興福寺・東大寺の戒壇等これを持ち云々。
五千ばかりと云々。

 (備考)
なお、『多聞院日記』永禄十年五月五日条には以下の記述がある。

五日、路次不通之間社参不叶日中後雨下了、
一、池田衆幷三好山城守番替として四五千程越了、

5月17日

[参考]『多聞院日記』永禄十年五月十七日条

十七日、攝州池田自身越テ今日西方寺ニ陳取了、下野守ハ此間天満山ニアリシモ、西へ廻テ西ノ坂ニ陳取、以上七八千ほと西へ廻し了、石成大将として念佛堂ニありし衆ハ、氷室山法雲院の後の畠ニ取寄了、筒井ハ大乗院山同所也、寺内へ通路絶了、

(書き下し文)
十七日、摂州池田(池田勝正)自身が越して今日西方寺に陣取りおわんぬ
下野守(三好宗渭入道)はこの間天満山にありしも、西へ廻りて西ノ坂に陣取る。
以上七・八千ほど西へ廻しおわんぬ。
石成(石成友通)大将として念仏堂にありし衆は、氷室山法雲院の後の畠に取り寄せおわんぬ。
筒井(筒井順慶)は大乗院山同所なり。
寺内への通路を絶ちおわんぬ。

5月18日

摂津の池田衆、宿院の城へ夜襲をしかけるも敗北。『多聞院日記』永禄十年五月十九日条

一、昨夜宿院ノ城へ夜打シテ池田衆損了、㝡福寺へコミ入了、事終次第也、坊舎ヲ下村重介死了、百計ノ大将ト云々、モコホチ了、幷金龍院ヲモフルヰ了、日中後尊藏院ヲモコホツ由也、定テ宿院辻之城ノ火用心ニ、坊ヲ可壊取之由被申歟、浅猿々々、

北伊勢へ侵攻

この春

尾張蟹江城主の滝川一益を大将に北伊勢へ侵攻を開始する。

5月27日

娘・五徳、徳川家康の嫡男・竹千代に嫁ぐ。(神君御年譜)

???

北伊勢の長島、桑名、多渡あたりまで攻略。
これにより、員弁(いなべ)、桑名の2郡の土豪である上木(あげき)、木俣、茂福らが次々に信長に帰服した。

6月10日

家臣の佐々平太と兼松正吉(又四郎)に美濃国河野島など知行30貫を宛う。

関連記事:【古文書講座】猿の出世は早かった!? 秀吉が出した最古の書状から見えるもの

6月16日

[参考]『言継卿記』永禄十年六月十六日条より

十六日、庚子、天睛、土用、天一天上、土公地中(八日)、
 
(中略)
山門東塔西谷大教坊、福仙坊申事破、取合云々、勝軍地藏、一乗寺等福仙坊持之、江州進藤・永原・高瀬等大教坊合力に發向、京邊土悉左右方へ合力也、一乗寺焼之、勝軍へ取懸、福仙坊敗軍云々、近邊各馳走也、予見物、歸路に石谷孫九郎宅へ被誘引、一盞有之、

※一盞(いっさん)・・・1つのさかずき。1杯の酒を呑むこと。

8月

それを聞いた信長は自ら軍勢を率いて出陣。桑名に着陣すると、降伏したばかりの北伊勢の諸家・宇野部、後藤、菅生らが兵を引き連れて合流する。(出展不明)

???

信長、北伊勢の楠十郎籠る楠城を攻略。=楠城の戦い(出展不明)

7月8日

大和古市郷の土豪古市氏、松永方へ寝返る。『多聞院日記』永禄十年七月八日条

一、古市方多聞山へ裏歸了、發心院へ新發意儀付、從三人衆申事在之、咲止々々、

(書き下し文)
古市方が多聞山(松永久秀)へ裏返りおわんぬ。
発心院へ新たに発意の儀に付き、三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)より申す事これ在り。笑止笑止。

 (備考)
古市氏は代々、興福寺を守護する官符衆徒の一家。
特に古市澄胤ちょういんは、応仁・文明の乱や両畠山家の争いで多くの功を立てた人物として有名である。
以後、劣勢であるはずの松永方へ寝返る者が続出し、上方の情勢はいっそう混迷を極めるのである。
なお、同月11日には古市郷が焼き払われている。『多聞院日記』永禄十年七月十一日条より

7月13日

越後の上杉輝虎、信長に宛て稲葉山城陥落と美濃攻略を祝す書状を発給。(出展不明)

急度馳筆候、仍聞得分、濃州一変、殊因幡山被則由、雖不初儀候、無比類擬、目出度、為其不取敢、以脚力申送候、何様重可申遣候、恐々謹言、
   七月十三日    輝虎(花押)

    織田尾張守殿

(書き下し文)
急度筆を馳せ候。
仍って聞き得る分は、濃州一変、殊に稲葉山を測らるの由、初めざるの儀に候といえども比類無き擬(くらべ)、めでたく、その為取り敢えず脚力を以て申し送り候。
何様(なにさま)重ねて申し遣わすべく候。
恐々謹言(以下略)

 (備考)
この文書の出展は不明であるが、奥野高廣氏の『増訂 織田信長文書の研究 上巻(1988)』に収録されている。
「その為取り敢えず脚力を以て申し送り」とあるのが輝虎の人柄を現わしているようで興味深い。
なお、信長が稲葉山を攻め取ったとあるが、これは誤報である。

というのは、同年(永禄10)6月15日付で飛騨の三木良頼が、輝虎に宛てて以下の内容の書状を発給しているからだ。『伊佐早文書』

就濃刕之儀、尾張守如存分被申付、為祝儀、宝蔵院差越被申珍重候、殊更時宜可然之由候、於良頼本望候、弥長久被仰談候者、尤候、於様躰者、宝蔵院竜蔵坊可被申候条、不能具候、恐々謹言、
   六月十五日     良頼(花押)


    山内殿

(書き下し文)
濃州の儀に就きて、尾張守(織田信長)存分の如くに申し付けられ、祝儀として宝蔵院差し越し申され、珍重に候。
殊さら時宜然るべきの由に候。
良頼に於いて本望に候。
いよいよ長久に仰せ談ぜられ候はば尤に候。
様体に於いては、宝蔵院竜蔵坊申さるべきに候条、つぶさに能わず候。
恐々謹言(以下略)

これらの書状からは、当時の信長が「尾張守」を名乗っていたことが窺える。
また、『多聞院日記』の永禄九年(1566)七月十七日条時点で、すでに尾張守を名乗っていたことが記されている。
なお、上洛の軍事行動を活発化させた永禄11年(1568)5月から、信長は「弾正忠」を称しはじめる。

同日

松永方、敵陣所付近を放火か。『多聞院日記』永禄十年七月十三日条

刁剋之始より卯半迄、今御門・餅飯殿・橋本・角振・小西大略焼了、多聞衆より放火云々、浅猿爲躰也、

(書き下し文)
刁剋(ちょうこく?)の始めより卯の半まで、今御門・餅飯殿・橋本・角振・小西を大略焼きおわんぬ。
多聞衆より放火と云々
浅ましき 体たらくなり。

7月14日

三好長逸が上洛。『言継卿記』永禄十年七月十四日条より

敵中出之沙汰有之間、三好日向守上洛、此邊徘徊也、

この頃

公家の山科言継、松永久秀が劣勢であるとの報に接する。『言継卿記』永禄十年七月十八日条より

自廣橋内府入道一昨日書狀到、返事、同亜相へ書狀遣之、父子に香蘇散一兩宛遣之、内衆四五人、十三日に忍て上洛、南都多門松永拔也、明日下云々、

(書き下し文)
広橋内府入道(広橋兼秀)より一昨日書状到る。
返事。
同亜相へ書状これを遣す。
父子に香蘇散一両ずつこれを遣す。
内衆四・五人、十三日に忍びて上洛。
南都多聞の松永(松永久秀)を抜くなり。
明日下ると云々。

※亜相は大納言の唐名。つまり広橋氏のこと。

7月23日

奈良東大寺で三好方と松永方が交戦。
戒壇院が焼け落ちる。『言継卿記』永禄十年七月二十五日条・『多聞院日記』永禄十年七月二十三日条

 『言継卿記』永禄十年七月二十五日条より

一昨日於東大寺合戦有之云々、三好衆之者廿人計、松永者五人討死云々、戒壇院焼之云々、

(書き下し文)
一昨日東大寺に於いて合戦これ有ると云々。
三好衆の者二十人ばかり、松永は五人討死と云々。
戒壇院これを焼くと云々。

 『多聞院日記』永禄十年七月二十三日条より

今日午剋戒壇院千手堂焼了、三人衆調略故五人裏歸テ焼了、終ニ内ノ人數ハ不迦相拘了、希異也、寄衆數多手負在之、

7月27日

柳本・波多野・赤井氏等の丹波勢4000、松永方として山城国西岡にしのおかへ出陣。
三人衆方の西岡衆と交戦に及ぶ。『言継卿記』永禄十年七月二十七日条

自丹州柳本・波多野松永弾正少弼方・赤井等人數西岡四千計云々へ出云々、葉室近所萬石、下山田等焼之、西岡衆與合戦、左右方四五人宛討死云々、

(書き下し文)
丹州より柳本・波多野・赤井等(松永久秀方)の人数(四千ばかりと云々)西岡へ出云々。
葉室近所万石、下山田等これを焼き、西岡衆と合戦。
左右方四・五人ずつ討死と云々。

8月2日以前

紀州の根来寺衆8000・和州の井戸・大州郡山の辰巳氏等が松永久秀(松永弾正少弼)に合力。
根来衆は和泉国へ出張。『言継卿記』永禄十年八月五日条

根來寺之衆兩三日以前、爲松永弾正少弼合力、泉州へ人數八千出張云々、和州之井戸、郡山之辰巳等同心云々、

(書き下し文)
根来寺の衆両三日以前、松永弾正少弼(松永久秀)の合力として、泉州へ人数八千で出張と云々。
和州の井戸・郡山の辰巳等同心と云々。

8月5日

公卿の広橋兼秀(内府入道)、多聞城に於いて没す。『言継卿記』永禄十年八月八日条

8月16日

松浦氏、松山氏らが裏切り、各所を放火。『言継卿記』永禄十年八月二十五日条・『多聞院日記』永禄十年八月十六日条

去十六日、和州南都之儀、松浦、松永彦十郎等自興福寺出、日向以下同心、池田手へ出云々、廿三日に松山安藝守、飯盛城乍居松永方へ同心云々、河州徘徊焼之云々、都鄙各馳走也、
 『言継卿記』永禄十年八月二十五日条より

(書き下し文)
去十六日、和州南都の儀、松浦・松永彦十郎等、興福寺より出、日向以下に同心。
池田手へ出云々。
二十三日に松山安芸守、飯森城に居ながら、松永方へ同心と云々。
河州を徘徊しこれを焼き云々。
都鄙の各々へ馳走なり。

一、早旦より三人東西へ出勢了、午剋ニ松浦・松山人數二百計にて裏歸、西之手へ出了、十八間癩病ノ宅焼了、不便至極、幷坂ノ穢多カ所ヲモ焼拂、無殊儀人數打入了、
 『多聞院日記』永禄十年八月十六日条より

(書き下し文)
一、早旦より三人東西へ出勢しおわんぬ。
午の剋に松浦・松山人数二百ばかりにて裏返り、西の手へ出おわんぬ。
十八間癩病の宅これを焼く。
不便至極。
並びに坂ノ穢多カ所をも焼き払い、事なき儀の人数へ打ち入りおわんぬ。

 (備考)
なお、飯盛城にて松山与兵衛が松永久秀(松少)方へ寝返ったとの記述が『多聞院日記』永禄十年八月二十五日条に見える。

飯盛城ニテ松山与兵衛、松少へ裏返リ、内ニテ取あふよし注進云々、如何、

8月21日

松永方の超昇寺と三人衆方の池田衆が交戦。『多聞院日記』永禄十年八月二十一日条

超昇寺トノ人數池田衆出合及一戦、少々双方死了、
 (超昇寺との人数、池田衆と出合い一戦に及ぶ。少々双方死におわんぬ。)

8月

信長、尾張の蓮台寺へ判物を発給。(八月日付織田信長判物写『張州雑志抄』十七)
内容は、蓮台寺が領有する津島の道場の堀から外の屋敷と寺領は、僧侶が支配してよいとしたもの。

九品山蓮台寺、在今市場、境内三反八畝十五歩、備前檢除、時宗、属江州番場蓮花寺、
 (中略)
    織田家証状
津嶋東之道場、自掘外之屋敷
寺領、為衆僧可有裁許候、申付上脱アラン、不可有相違者也、
  八月日       信長(花押)


  蓮台寺

(書き下し文)
 (前略)
津島東の道場、堀より外屋敷並びに寺領、衆僧として裁許あるべく候。
申し付くる上は脱アラン、相違あるべからざるものなり。
(以下略)

8月~9月

降伏した楠城主・楠十郎に案内役を命じ、山路紀伊守籠る高岡城を攻める。城下で放火、略奪、暴行を行い敵の士気を削ごうとするが逆効果となり、より激しく抵抗した。織田軍は波状攻撃を繰り返すが城を落ちなかった。その時、信長の元に驚くべき報せがもたらされる。これまで頑強に抵抗を続けてきた西美濃三人衆の稲葉良通、安藤守就、氏家ト全が斎藤龍興を見限り、信長に内応したというのだ。信長は桑名に滝川一益を押さえとして残し、高岡城攻撃を打ち切って尾張へ帰った。=高岡城の戦い

(後日修正を加える)

稲葉山城の戦い

9月上旬

信長、軍勢を率い稲葉山城攻略へ出陣。 (信長公記)

 (備考)三好三人衆から人質を受け取るために村井貞勝と島田秀満を派遣しているが、信長はその人質が来ぬうちに出陣したようだ。(信長公記)

9月上旬

稲葉山つづきの瑞龍寺山へ攻めのぼり、城下に火を放って裸城にする。

その翌日

四方に鹿垣を結び稲葉山城を取り囲む。

9月15日

斎藤家当主・斎藤龍興は城を明け渡し、飛騨川伝いに舟で伊勢長島に退去する。これにより稲葉山城は陥落。斎藤家は滅亡した。=稲葉山城の戦い(信長公記・ 瑞龍寺紫衣輪番世代帳)

後日加筆

来世ちゃん
来世ちゃん

次回は本拠を小牧山から稲葉山城に移し、「岐阜」と名を改めるところから始めます。
織田信長公の覇業はまだはじまったばかりです\(^o^)/ヤッター!!

来世ちゃん
来世ちゃん

織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567) イマココ
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

コメント

  1. Exceptional post however I was wondering if you could write a litte more on this topic?
    I’d be very grateful if you could elaborate a
    little bit further. Bless you!

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