織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

5.0

 こんばんは~。前回は信長は西美濃を中心に攻めていたが、一定の成果は収めたものの、美濃勢の抵抗は頑強であった。今回は信長が作戦を変更し、東美濃を中心に攻略するところから始まる。また、この頃の信長は、浅井や上杉、武田、さらには亡き将軍の実弟・足利義秋と外交をしっかり行っている点にも注目だ。信長の美濃攻略後半戦。スタート。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567) イマココ
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

信長の年表(詳しめ4)

永禄の変 将軍足利義輝横死

永禄7年(1564)

 9月28日

正親町天皇、禁裏の御倉職を務める立入宗継を尾張に遣わし、信長に御料地の回復を命ずる(道家祖看記・立入文書)

 (備考)信長の声望が中央でも次第に高まりつつあることを窺わせるものである。「立入文書」によれば、宗継が信長と会見した地を清州と記していることから、小牧山への移転はもう少し後だとみることもできる。また、この勅使下向の件を疑問視する向きもある。

11月7日

越後の上杉輝虎に使者および書状を送り、信長の子息を輝虎に迎えられることを謝す。(上杉家文書)

 (備考)この養子の一件は他の史料には見られない。もしかすると、交渉の初期段階では上手くいったものの、最終的には実現しなかったのかもしれない。なお、この件について詳しい記事を書いたので、もしよければ下記のリンクからご覧いただきたい。

永禄8年(1565)

5月19日

永禄の政変。将軍・足利義輝三好三人衆松永久秀久通父子によって襲撃され、殺害される。

 (備考)足利義輝の実弟・周暠(しゅうこう)も暗殺される。興福寺にいた覚慶は幽閉された。この後三好三人衆は、足利義親(後に義栄と改名)を将軍に擁立することになる。最近の研究によると、松永久秀は当時大和国にいて、関与していないという説がある。しかしながら、息子の久通が襲撃隊に加わっていることから、久秀が暗殺を黙認していたことは明白である。

織田信長の東美濃侵攻戦

永禄8年6月までの美濃の情勢
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永禄8年(1565)6月までの美濃の情勢と、織田信長が実施した軍事行動 (Googleマップより)

7月

美濃加治田城主の佐藤紀伊守忠能・右近右衛門尉忠康父子、丹羽長秀を介して内応を約束する。(信長公記)

 (備考)信長はこの内応を非常に喜び、黄金五十枚を与えている。また、信長の家臣・金森長近との婚姻関係を名目に寝返ったとされているが真偽は不明である。

7月28日

幽閉されていた覚慶は、亡き将軍義輝の近臣・細川藤孝一色藤長らの手によって救い出され、脱出した。

8月

斎藤家の臣・大沢次郎左衛門正秀(基康)籠る鵜沼(宇留摩)城は堅固な要害であったため、信長は伊木山に砦を築き、自ら在城して鵜沼城下を焼き払った。鵜沼城の大沢氏は木下秀吉の説得に応じて開城した。= 鵜沼(宇留摩)城 の戦い

 (備考)すぐに城を明け渡したわけではなく、翌年2月(12月説もあり)に調略に成功して秀吉に同道して清須へ赴くも信長に殺されそうになり、秀吉の策によって逃れたとあるが、『信長公記』では鵜沼城攻略を永禄7年(1564年)8月としていて、そのまま信用はできない。また、信長公記も永禄7年8月と書いているが、当ブログでは永禄8年(1565)8月鵜沼城落城、その場で大沢氏は秀吉の調略に応じて開城という説を採択することとした。うーん、ややこしい(^-^;

8月

続いて信長は同じく斎藤家の臣・多治見修理亮光清籠る猿啄城を攻め立てる。ここもまた天険の要害であったが、先鋒の丹羽長秀が城を見下せる大ぼて山に攻め上り水源を断ち、さらに河尻秀隆が激しく攻め立ててついに落城した。=猿啄城の戦い

 (備考)この戦いで活躍した河尻秀隆は、のちに猿啄城主となっている

8月

信長、軍を北上させ、中濃の堂洞城を攻撃。 この日は強風で、火の回りが早いだろうと判断したのだろうか。信長は松明を持ち、塀際まで詰め寄ったら四方から投げ入れるように命を下したという。一方敵側は、信長の別動隊を牽制してか、足軽を繰り出さなかった。夕刻。とうとう本丸へ追い詰めた織田軍は怒涛の如くなだれ込んだ。ついで夕方には河尻秀隆が天守に一番乗りを果たし、攻め落とした。かなりの激戦だったらしく、大将格はほぼ討ち取ったようである。 =堂洞城の戦い

 (備考)この戦で活躍したのは河尻秀隆、丹羽長秀、そして太田牛一である。太田牛一は、この時高い建物の上から無駄なく矢を射かけた。信長は三度も使いを寄こし、見事な働きだと称賛したという。後に牛一は知行を大幅に加増された。そう、この太田牛一とは織田信長の一代記で、現在信長関連の史料では最も歴史的信憑性の高い「信長公記」の著者その人である

堂洞城の戦い
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落城を見届けた後、その日は加治田城に泊まる。佐藤忠能と息子の忠康は涙を流して信長を迎えたという。

 堂洞合戦の顛末、八重緑の悲劇については詳しい記事を書いたので、是非ご覧ください。

???

翌日、首実検を行う。800の兵で尾張へ凱旋中に斎藤龍興、長井道利らの手勢3000の兵の攻撃を受けるが、うまくかわして撤退している。(信長公記)

8月?

斎藤家の家老・長井道利の支城である天険の要害・烏峰城も、森可成らの攻撃によって落城した。=烏峰城の戦い

 (備考)この戦いの後、信長は可成にこの地を知行として与えた。烏峰に移った可成は、早速この城を金山城と改め城下町が整備される。以後、子の忠政が関ケ原の恩賞で信州中島へ移封されるまでの35年間、森家の居城であり続けた。森可成という人物については、過去の記事を参照してほしい。

9月1日

斎藤家の家老・長井道利籠る関城を攻める。加治田城主の佐藤忠能を先陣に、丹羽長秀、河尻秀隆が続々と津保川を渡り、関城周辺の砦を攻撃。信長自身は本陣を肥田瀬砦に移し、一気に関城を攻め立てた。長井道利の子・道勝は討死。落城した。=関城の戦い

9月9日

 津田掃部守一安を甲斐の武田信玄に遣わし、養女と信玄の子・勝頼との縁組を申し入れる。信長は東美濃の苗木城主・苗木勘太郎(信長の妹婿)の娘を養女とした。

 (備考)この時期には既に織田家の影響力が岩村・苗木・明知城にまで浸透していると見える。

11月1日

美濃の斎藤新五郎利治に平賀など十三ヵ所二、一八四貫文の知行を宛行う。(備藩国臣古証文)

 (備考)新五郎利治とは、斎藤家一門の筆頭格と目される人物である。道三の末子あるいは龍興の舎弟とする説もあるが定かではない。堂洞城攻略戦の恩賞であろうか。少なくともこの時期には、斎藤一門までもが主家を見限り、織田家についていることは間違いないようだ

足利義秋を奉じての上洛を意識

11月13日

先の甲斐武田家との縁組がトントン拍子で決まったと見え、この日輿入れした。(甲陽軍鑑)

 (備考)しかし、甲陽軍鑑とだけあって、年月には正確性はない

12月5日

亡き将軍足利義輝の実弟・覚慶の側近である細川藤孝に返書して、覚慶の帰洛について供奉する旨などを報ずる(史料編纂所所蔵文書)

 (備考)この時の覚慶一行は近江矢島におり、諸国の大名に義兵を募っていた。

永禄9年(1566)

3月

覚慶改め足利義秋の仲裁で織田家と斎藤家が和睦する。(中島文書・上杉家記)

4月11日

朝廷に馬・太刀の代として銭三千疋(三十貫文)を献上する。(御湯殿の上の日記)

5月13日

側室の生駒殿(吉乃・信忠や信雄の生母)没する。(織田家雑録)

7月

近江矢島に逗留する誓書を出し、足利義秋に軍勢を率いて「8月28日」に近江矢島に参陣し、義秋を奉じて上洛する旨を確約する。 (和田文書・中島文書)

 (備考)信長は斎藤家と和睦している隙に上洛を果たすつもりだったのであろうが、それは合理的な判断ではなかったようだ。

???

しかし、三好三人衆や六角義賢などの妨害工作により断念する。

 (備考)具体的には、美濃の斎藤龍興に対して織田家との和睦を破棄するように働きかけていた。さらに、三好三人衆はかつての宿敵であった六角家を味方に引き入れ、信長の上洛計画は現実的ではなくなった。信長は義秋から誹をうける羽目となり、ついには天下の嘲笑の的となったのである。

8月21日

大和の柳生宗厳に初めて書状を送り「三好三人衆の妨害により足利義秋を奉じて上洛することを断念した」と伝える。(柳生文書)

8月29日?

信長、稲葉山城を攻略せんと出陣。木曽川を渡り濃尾の国境である河野島で陣を張る。対する斎藤龍興もすぐさま河野島へ進軍し、それを知った織田軍は川べりまで後退して布陣。

 (備考)信長の上洛計画が頓挫すると、斎藤家と再び敵対関係に逆戻りした。やはり美濃の中心の城である稲葉山城の攻略と、西美濃も征服する必要があると考えたのであろう。

8月30日?

この日は暴風雨だったらしい。木曽川が洪水となったため、両者は睨み合ったまま動かなかった。

閏8月8日?

この日ようやく水が引いたようだ。信長は時期が悪いと判断したのか撤退を開始。そこに油断が生じたのか、斎藤軍は川を渡って追撃を開始した。織田軍は支えきれず多数の兵が溺死、または討死し、織田軍は武器を捨てて逃げ惑う有り様であった。=河野島の戦い(中島文書)

 (備考)この時期は田畑の刈り入れ時である。長々と軍事作戦をしていれば、それだけ収穫が減るのだ。

8月

この時期、大和国あたりで信長が足利義秋を奉じて大軍で上洛するとの虚報がしきりに流れる。

 (備考)もはや美濃の多くの侍は信長方に属し、稲葉山の陥落が間近であると世評になっていたのであろう。

11月

兼松正吉、埴原常安に所領を宛行い、服部小藤太に新規の諸役を免除する。(兼松文書など)

永禄9年(1566)ごろの美濃の情勢
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永禄9年(1566)ごろの美濃の情勢(Googleマップより)

永禄10年(1567)

北伊勢へ侵攻

この春

尾張蟹江城主の滝川一益を大将に北伊勢へ侵攻を開始する。

5月27日

娘・五徳、徳川家康の嫡男・竹千代に嫁ぐ。(神君御年譜)

???

北伊勢の長島、桑名、多渡あたりまで攻略。これにより、員弁(いなべ)、桑名の2郡の土豪である上木(あげき)、木俣、茂福らが次々に信長に帰服した。

8月

それを聞いた信長は自ら軍勢を率いて出陣。桑名に着陣すると、降伏したばかりの北伊勢の諸家・宇野部、後藤、菅生らが兵を引き連れて合流する。

???

信長、北伊勢の楠十郎籠る楠城を攻略。=楠城の戦い

8月~9月

降伏した楠城主・楠十郎に案内役を命じ、山路紀伊守籠る高岡城を攻める。城下で放火、略奪、暴行を行い敵の士気を削ごうとするが逆効果となり、より激しく抵抗した。織田軍は波状攻撃を繰り返すが城を落ちなかった。その時、信長の元に驚くべき報せがもたらされる。これまで頑強に抵抗を続けてきた西美濃三人衆の稲葉良通安藤守就氏家ト全が斎藤龍興を見限り信長に内応したというのだ。信長は桑名に滝川一益を押さえとして残し、高岡城攻撃を打ち切って尾張へ帰った。=高岡城の戦い

 (備考)西美濃三人衆の寝返りが8月1日という説もある。この後滝川一益は戦略の転換を図り、調略によって多くの地侍や土豪を信長に降させている。滝川一益という人物について、詳細記事を書きましたので、よろしければご覧ください。

稲葉山城の戦い

9月上旬

信長、軍勢を率い稲葉山城攻略へ出陣。 (信長公記)

 (備考)三好三人衆から人質を受け取るために村井貞勝島田秀満を派遣しているが、信長はその人質が来ぬうちに出陣したようだ。(信長公記)

9月上旬

稲葉山つづきの瑞龍寺山へ攻めのぼり、城下に火を放って裸城にする。

その翌日

四方に鹿垣を結び稲葉山城を取り囲む。

9月15日

斎藤家当主・斎藤龍興は城を明け渡し、飛騨川伝いに舟で伊勢長島に退去する。これにより稲葉山城は陥落斎藤家は滅亡した。=稲葉山城の戦い(信長公記・ 瑞龍寺紫衣輪番世代帳)

 (備考)この戦で木下秀吉は、若き堀尾吉晴の道案内を頼りに崖をよじ登り、二の丸になだれ込んだとされるが真偽は不明である。また、

稲葉山城陥落があった年について
永禄7年(1564)説永禄10年(1567)説があり、長年議論が続いているが、河野島の戦いが閏8月8日になっているため、前後の状況からして年次は閏8月のあったのは永禄9年(1566)としか考えられない。よって永禄9年の段階ではまだ信長は斎藤氏を倒していないことになり、それより前の永禄7年に稲葉山城が落ちていたとは考えられない。ということになる。

来世ちゃん
来世ちゃん

次回は本拠を小牧山から稲葉山城に移し、「岐阜」と名を改めるところから始めます。
織田信長公の覇業はまだはじまったばかりです\(^o^)/ヤッター!!

来世ちゃん
来世ちゃん

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  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567) イマココ
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)

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