織田信長の年表ちょっと詳しめ 織田信重(信忠)の初陣

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織田信忠
  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 12.) 当該記事
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

元亀3年(1572)

39歳

嫡男・信重(織田信忠)の初陣

7月1日

松永久秀(弾正殿)へ来たる7月7日に江北小谷城へ出撃を命じる。
また、城塞を構築するため兵卒に鋤・鍬を持参させること。
織田軍が朝倉氏・浅井氏と一戦に及んだら、時節を見合わせて攻撃を仕掛けることを通達。
『願泉寺文書(元亀三年七月一日付け織田信長印判状案)』

来七月七日、郷北至小谷表相働候、不違即刻、不撰老若、可打立候、仍而取出相構候間、鋤鍬以下可令持候、為其廻文指遣候、果而朝倉浅井可及一戦候、時節見合伐懸可討果候、仍如件、
 元亀三
   七月朔日     信長

    松永弾正殿

    郷南
     国衆中

(書き下し文)
来たる七月七日、江北小谷表に至りて相働き候。
即ち時を違えず、老若を選ばず、打ち立つべく候。
仍って砦を相構え候間、すきくわ以下を持たしむべく候。
その為に廻し文を指し遣わし候。
果たして朝倉・浅井と一戦に及ぶべく候。
時節を見合わせて斬り懸け討ち果たすべく候。
仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
この印判状案は宛名を「松永弾正殿」としているので、真偽のほどは怪しいとのコメントを頂いた。
「松永山城守殿」とする方が妥当とのこと。
確かにそのようにも感じられる。
なお、信長が前回江北に出陣した際、永田景弘(刑部少輔殿)へも同様の書状を送っているが、こちらも疑問な点がいくつかある。
『武家雲箋』『武家事紀 二十九(三月三日付織田信長朱印状写)』

同日

木下秀吉(木藤)右筆のト真斎、京都紫野大徳寺へ便宜を図る旨の書状を発給。『真珠庵文書 二(七月朔日付ト真斎書状案)』

紫野より御理之儀、藤吉郎前事、弥無疎意可致馳走候、可然様ニ可被仰上候、於我等聊不可有如在候、恐惶謹言
    七月朔日      ト真斎
                仁勇

     玄忠様人々御中


 (端書)
   返々、彼等之旨、可預御心得候、
ト真ト云ハ、木藤物書也、当寺領事、重而木藤是非不被申様ニ、可申調由被申候、其証状□

(書き下し文)
紫野より御理おんことわりの儀、藤吉郎(木下秀吉)前の事、いよいよ疎意無く、馳走致すべく候。
然るべきの様に、仰せ上げらるべく候。
我等に於いてもいささか如在有るべからず候。恐惶謹言
    七月朔日      ト真斎
                仁勇

     玄忠様人々御中

 (端書)
   返すヽヽ、彼等の旨、御心得に預かるべく候。
ト真と云うは、木藤(木下秀吉)の物書ものかきなり。
当寺領の事、重ねて木藤是非を申されざる様に、申し調うべき由を申され候。その証状□

 (備考)
紫野大徳寺から道理を申されたことは、藤吉郎前において、少しも疎意無く奔走する。
そのように申し上げられたい。
我等はいささかも如在はない。
端書(端書の端は書状の書き初の部分をいうが、この場合は案書であるから、奥に記されてあるのかもしれない)の部分の記述は大徳寺側のものであろうか。
ト真(ト真斎)とは木下秀吉の書記官である。
ト真斎からは、秀吉に是非を言われないように、うまく取り繕ったほうが良いと申されたとある。
なお、ト真斎の名は天正5~6(1577~1578)年頃のものと思われる竹生島宝厳寺所蔵の『竹生島奉加帳』にもみられ、そこには羽柴藤吉郎秀吉以下一族近臣たちの名の中に、「二百文 ト真斎」とある。
『織田信長文書の研究上巻(奥野高廣著,1988,吉川弘文館)』には、文中の「藤吉郎前」とは、これは百姓前という言葉から来ているのではないか。秀吉の前身を暗示するとの記述がある。
しかしながら、これだけで判断するのは早計だろう。

7月3日

信長が幕臣の細川藤孝(兵部太輔殿)に宛てて書状を送る。
摂津大坂石山本願寺への通行者が商人に偽装・往復していることにつき、注意を喚起し、不審者は捕獲することを通達する。『米田氏所蔵文書』

大坂へ通路之者、商人ニ相紛徃覆之由、其聞候、然者於其地、堅可彼(被カ相改候、於不審之輩者、搦取可有注進候、無油断可被申付之状如件、
  元亀参
    七月三日     信長(朱印)

     細川兵部太輔殿

(書き下し文)
大坂へ通路の者、商人に相紛れて往復の由、その聞こえに候。
然らばその地に於いて、堅く相改めらるべく候。
不審の輩に於いては、搦め取り注進有るべく候。
油断無く申し付けらるべきの状くだんの如し。(以下略)

 (備考)
同様の指令を下した書下は、元亀2年(1571)正月に木下秀吉宛のものがある。
ご想像の通り、密使の路次通行は命がけの行動であった。
信長のこうした警戒が実を結んだのか、本年(1572)5月に朝倉家が河内若江の三好義継へ宛てた密使(飛脚の僧侶)の捕縛に成功し、京都の一条戻橋で火炙りの刑に処したという。『年代記抄節』

7月4日

稲葉一鉄、山城大徳寺聚光院へ大徳寺祠堂領の件についての書状を発給『大徳寺文書 二』

 (懸紙)
「                  稲葉伊予守
 拝答 聚光院 尊報            一鉄」

尊書条々致拜悦候、扇子一箱十本、拜受忝候、仍当寺詞堂方之儀、今度賀茂領勘落付而、奉行共違乱申之由、信長以使僧御理之処、於御寺納、毛頭不可有煩之旨、猶重而以朱印被申入候、尤可然存候、奉行不可有申事候、将又料紙廿帖進献候、憚多存候、恐惶敬白
   七月四日        一鉄(花押)

    拜答
     聚光院 尊報

(書き下し文)
尊書の条々拝悦致し候。
扇子一箱(十本)、拝受忝なく候。
仍って当寺祠堂(しどう)方の儀、今度賀茂領勘落(かんらく)に付きて、奉行共違乱申すの由、信長へ使僧を以て御理おんことわりのところ、御寺納に於いては、毛頭煩いあるべからざるの旨、猶重ねて朱印を以て申し入れられ候。
もっとも然るべく存じ候。
奉行は申す事有るべからず候。
はたまた、料紙二十帖を進献候。
憚り多く存じ候。恐惶敬白(以下略)

(備考)
大徳寺の祠堂しどう領で賀茂神社の境内に所在する分が、賀茂社領のうちを没収するについて、その奉行たちが不法を働いたとて、訪問を受けたので、その土地は寺領として年貢を収納することに少しの妨げもない旨を、なお重ねて朱印状で申し入れられた。
過去の大徳寺のやり取りを見るに、賀茂神社領のうちを没収するというのは、徳政一揆が発生したことに関係するのだろう。

7月11日

甲斐武田家臣の穴山信君、幕臣の一色藤長(式部少輔殿)へ御内書を拝見したこと、信玄へ御下知されたことを尊重する旨の書状を発給。『青山短期大学所蔵文書(七月十一日付穴山信君書状写)』

被成下候御内書、謹頂戴、仍対信玄御下知之旨、奉得其意候、委曲頼御使僧口上存候趣、宜預御披露候、恐々謹言
  七月十一日 信君

   一色式部少輔殿

(書き下し文)
成し下され候の御内書、謹みて頂戴。
仍って信玄に対し御下知の旨、その意を得奉り候。
委曲御使僧より口上存候おもむき、宜しく御披露を預かり候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
恐らく将軍義昭から織田-本願寺間の和睦を仲介してほしい旨の内容ではないかと思う。
同年8月13日付で、信玄が下間頼慶へ宛てた和睦斡旋の書状が遺されている。『本願寺文書 一』

7月13日

織田信長、美濃国専福寺へ大坂の石山本願寺への出入りを禁じる旨の書状を出す。
天下に対し造意を企んだ石山本願寺は前代未聞であり許し難いもので、織田分国中の門下が大坂への出入することを停止し、専福寺には「代坊主」を設けて、末寺は7月15日までに門徒を退散させるべきこと、違反者は成敗することを通達。『専福寺文書』『美濃国史料』

今度対天下、本願寺企遠(造)意次第、前代未聞、無是非候、所詮分国中門下之者、大坂へ可令停止出入、然者代坊主之儀、先可立置候、脇々寺内来十五日限て可引払、両条共以違背之族在之者、可為成敗之状如件、
     七月十三日     信長(朱印)

      専福寺

(書き下し文)
この度天下に対し、本願寺造意を企つるの次第、前代未聞、是非無く候。
所詮分国中の門下の者、大坂へ出入りを停止ちょうじせしむべし。
然らば、代坊主の儀、まず立て置くべく候。
脇々の寺内は来たる十五日を限りて引き払うべし。
両条ともに以て違背のこれあらば、成敗たるべきの状くだんの如し。(以下略)

 (備考)
元亀元年(1570)の9月に石山本願寺が蜂起して以降、門徒はその組織力を活かし、兵や物資を各地から大坂の石山本願寺に送っていた。
信長分国内も例外ではなく、真宗大谷派の美濃専福寺も密かに本願寺に協力していたようだ。
専福寺は、各所の末寺にも呼びかけ、門徒を集めて共同謀議に及んだことが信長の知るところとなった。(住職の忍悟が大坂で討死)
そこでこのたび信長は、分国内の専福寺門下が大坂へ出入りすることを禁じ、代理責任者(代坊主)を設け、末寺は十五日を限り門徒を退散させるように命じたのである。
なお、専福寺は今日も岐阜城下の加納に存在する。

7月19日

信長、浅井長政討伐のため岐阜を出陣。
初陣の嫡男信重(信忠)とともに、この日は美濃赤坂に着陣。 『原本信長記(信長公記)』※以下『信長公記』と記す


七月十九日 信長公之嫡男 (闕字)奇妙公 (闕字)御具足始尓信長被成御同心、御父子 (闕字)江北表尓至て御馬を被出、其日赤坂尓御陣取、次日横山尓御陣を居られ

 (書き下し文)
七月十九日 信長公の嫡男 (闕字)奇妙公 (闕字)御具足始めに信長御同心成され、御父子 (闕字)江北表に至りて御馬を出され、その日赤坂に御陣を取る。
次の日横山に御陣を据えられ

  『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

7月20日

近江横山城に入る。『信長公記』

7月21日

小谷城下の町家を壊し、浅井長政を挑発する。『信長公記』


廿一日 浅井居城大谷へ推詰めひはり山、虎御前山へ御人數上られ、 佐久間右衛門、 柴田修理、 木下藤吉郎、 丹羽五郎左衛門、 蜂屋兵庫頭被仰付、町を破らせられ、一支もさヽへす推入、水之手まて追上、數十人討捕、 柴田修理、 稲葉伊豫、 氏家左京助、 伊賀伊賀守、 是等を先手尓陣とらせ次日、 阿閉淡路守楯籠居城山本山へ、木下藤吉郎 被差遣麓を放火可然間、城中之足輕共百騎計罷出相支へ、 藤吉郎見計噇と切かヽり、切崩候て、頸數五十余討捕、 信長公御褒美不斜、

 (書き下し文)
二十一日 浅井居城小谷へ押し詰め、雲雀山、虎御前山とらごぜやまへ御人数のぼせられ、佐久間右衛門(佐久間信盛)・柴田修理しゅり(柴田勝家)・木下藤吉郎(木下秀吉)・丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)・蜂屋兵庫頭ひょうごのかみ(蜂屋頼隆)に仰せつけられ、町を破らせられ、一糸も支えず押し入り、水の手まで追い上げ、数十人討ち取る。
柴田修理・稲葉伊予(稲葉一鉄)・氏家左京助(氏家直昌)・伊賀伊賀守(安藤守就)、これらを先手に陣取らせ。
次の日(22日)、阿閉淡路守(阿閉貞征)立て籠もる居城の山本山へ、木下藤吉郎差し遣わされ、麓を放火し然るべく間、城中の足軽ども百騎ばかり罷り出で(たのを)相支え、藤吉郎(頃合いを)見計らい、とうと斬りかかり、切り崩し候て、首数五十余り討ち取る。
信長公の御褒美斜めならず。

   『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

7月22日

木下秀吉(藤吉郎)に命じて阿閉貞征あつじさだゆきの籠もる山本山城を攻撃させる。
阿閉、足軽100騎余りを出撃させるも、秀吉の返り討ちに遭い、五十余りが討ち取られる。『信長公記』

7月23日

さらに北上して越前国境付近まで兵を進めて放火。
余呉・木ノ本の地蔵坊中を始めとして堂塔伽藍・名所旧跡を一字残さず焼き払う。 『信長公記』

7月24日

竹生島を舟で攻め寄せ、火矢・大筒・鉄砲で攻めかける。『信長公記』


七月廿四日 草野之谷是又放火候、幷尓大吉寺と申して高山能搆五十坊の所候、近里近郷の百姓等、當山へ取上候、前者嶮難のほり難きに依て麓を襲ハせ、夜中より 木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門うしろ山續尓攻上、一揆僧俗數多切捨られ、海上者打下の 林與次左衛門、 明智十兵衞、 堅田之 猪飼野甚介、 山岡玉林、馬場孫次郎居初又二郎被仰付、圍舟を拵、 海津浦、 鹽津浦、與語之入海、江北之敵地焼拂、竹生島へ舟を寄、火屋、大筒、鐵炮を以て被攻候、此中江北尓不聞一揆と云事を企、徘徊之奴原、風に木葉之散様にちり失候て、今ハ一人も無之、猛勢とり詰巻、田畠苅田尓申付られ候間、淺井人數ハ次第ヽヽ尓手薄尓罷成也、

 (書き下し文)
七月二十四日 草野の谷、これまた放火し候。
並びに大吉寺と申して、高山のよき構え、五十坊の所に候。
近里近郷の百姓等、当山へ取り上り候。
前者は険難のぼり難きによりて麓を襲わせ、夜中より木下藤吉郎(木下秀吉)・丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、後ろ山続きに攻め上げ、一揆僧俗数多斬り捨てられ、海上は打ち下ろしの林与次左衛門(員清)・明智十兵衛(明智光秀)・堅田の猪飼野甚介(猪飼昇貞)・山岡玉林(山岡景猶)・馬場孫次郎・居初又二郎に仰せ付けられ、囲い舟を拵え、海津浦・塩津浦・余呉の入海・江北の敵地を焼き払い、竹生島へ舟を寄せ、火矢・大筒・鉄砲を以て攻められ候。
この中、江北に聞かざる一揆と云う事を企て、徘徊の奴原やつばら、風に木葉の散る様に散り失せ候て、今は一人もこれなく、猛勢と取り巻詰め、田畠苅田に申し付けられ候間、浅井人数は次第次第に手薄に罷り成るなり。

    『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

 (備考)文中にある林与次左衛門とは浅井方の武将である林員清のこと。
猪飼野甚介(猪飼昇貞)と馬場孫二郎および居初又二郎の三名はともに堅田衆である。
堅田衆は当初浅井方に属していたが、明智光秀らの調略に応じて帰順した。
山岡玉林(山岡景猶)は近江勢多の武士で、元は六角氏の臣。
山岡景隆とは兄弟の関係である。
これらの武将は明智光秀と同列に記されているが、恐らくは光秀の指揮下に入って与力として行動していたと考えられる。

この一連の軍事行動は柴田や佐久間、木下、明智、丹羽、美濃三人衆など音に聞こえた勇士も参陣していることから、かなり大規模な作戦だったのであろう。
この一次史料ではない『信長公記』からも、近江一向宗がいかに根強い勢力であったかが窺い知れる。

7月26日

甲斐の武田信玄、曼殊院覚恕へ返書と回報、並びに条書を発給。『曼殊院文書』『延暦寺文書』
(上二つが『曼殊院文書』。下が『延暦寺文書』)

 (懸紙ウハ書)
「庁務法眼御房 法性院
         信玄」

(端裏切封)
(墨引)

従 門主尊書謹頂戴候、仍僧正之事被御申調之由忝候、雖然斟酌候、愚存之旨、既与慈光坊口舌候之条、定可被披露歟、随三緒之袈裟被下候、過分候、又腰物正広献之候趣、冝令洩申給候、恐々謹言
     七月廿六日  信玄(花押)

      庁務法眼御房

 (懸紙ウハ書)
「庁務法眼御房  信玄
      回報」

(端裏切封)
(墨引)

慈光坊不図下向、就之拙僧極官之事、勅許被仰調之由、自門主披露御書候、誠冥伽之至候、殊三緒之袈裟被下候、令頂戴候、愚存之旨、以条目申候、冝預執奏候、随御腰物正広進上候、悉皆御指南可為本望候、恐々謹言
     七月廿六日  信玄(花押)

      庁務法眼御房
           回報

   条目
一、僧正之事、
 付、雖斟酌候、末代之儀候間、被成倫旨者、可為祝着之事、
一、三緒之袈裟衣拝領之事、
一、刀一腰
正広、進上之事、
一、吉祥院下向急度候事、
一、条々相調為下向者、於信州少地可進置之事、
   以上
    七月廿六日  (「晴信」朱印)

       慈光坊

7月27日

小谷城に対する最前線の防衛拠点として、虎御前山とらごぜやまに着目し、砦の築城に取り掛かる。
尾張の河内長島の一揆が蜂起し、濃尾の通路を遮断。
朝倉義景、越前より約1万5000の兵を引き連れ江北へ出陣する。『信長公記』


七月廿七日より 虎御前山御取出之御要害被仰付、然者浅井方より越前之 朝倉かたへ注進之申様、尾州河内長島より 一揆蜂起候て、尾濃之通路をとめ、既難儀尓及ハせ候間、此莭 朝倉馬を出さ候へハ、尾濃之人數悉討果之由、偽申遣し候、注進實尓心得、朝倉左京太夫義景人數壱万五千計尓て、

(書き下し文)
七月二十七日より、虎御前山御砦の御要害仰せ付けられ、然らば浅井方より越前の朝倉方へこれを注進申す様、尾州河内長島(現在は三重県桑名市長島であるが、当時は尾張国であった)より 一揆蜂起候て、尾・濃の通路をとめ、既に難儀に及ばせ候間、この節、朝倉(朝倉義景)馬を出させ候へば、尾・濃の人数悉く討ち果たすの由、偽りを申し遣わし候。
注進実にと心得、朝倉左京太夫(朝倉義景)人数一万五千ばかりにて

   『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

同日

信長、越後の上杉謙信(不識庵)に武田との和睦を仲裁する旨の書状を発給。
『保阪潤治氏所蔵文書(筆陳 二)』

越甲御間和与可然之旨、去春被加上意候き、以其筋目只今使節被差下之条、自此方両人相添進之候、貴辺之儀多年申通候、信玄亦無等閑候、其次第申旧候、然而数年之御執相可見除申事、外聞実儀如何候間、不顧遠慮啓達候、上意之処、難被黙止候、此節被遂一和候□□□(はてはカ)、余無尽期候、旁被抛万事、於和談者、可為珍重候、越、甲共以被対公儀、連々無御疎略候、同者内外共ニ有純熟、天下之儀御馳走所希候、猶友閑斎、佐々権左衛門尉可申候、恐々謹言
    七月廿七日      信長(花押)

     不識庵
        進覧之候、

越・甲の御間おんあいだ和与然るべきの旨、去春上意を加えられ候き。
その筋目を以て、只今使節を差し下さるるの条、此方より両人を相添えまいらせ候。
貴辺の儀、多年申し通じ候。
信玄もまた等閑無く候。
その次第申しふり候。
然りて数年の御執り合い、見除申すべき事、外聞実儀如何に候間、遠慮を顧みず啓達し候。
上意のところ、黙止もだされ難く候。
この節一和いっかを遂げられ候□□□(果てはカ)、余に尽期じんご無く候。
かたがた万事をなげうたれ、和談に於いては、珍重たるべく候。
越・甲ともに以て公儀に対せられ、連々御疎意無く候。
同じくは内外ともに純熟あって、天下の儀御馳走願うところに候。
なお友閑斎(松井友閑)・佐々権左衛門尉申すべく候。恐々謹言

    七月二十七日      信長(花押)

     不識庵(上杉謙信)
        これを進覧候

(備考)
これも将軍足利義昭主導で行われた和平仲介の痕跡である。
本状は、信長がその意を受けて上杉謙信(不識庵)と武田信玄の和睦を仲介する旨の書状である。
要約すると「貴辺とは多年に渡り友好関係をもっていた。
武田信玄ともまた良好な関係である。
しかしながら、数年間にわたる合戦を無視するということは、外聞といい内実といい、好ましいことではないので、この際遠慮をしないで申し上げる。
上意(将軍の意)を黙殺するのは心苦しいであろう。
この時点において講和をしないようでは、あまりにゆとりのないことだ。
かたがた万事をなげうたれ、和議に応じた方が上分別である。
これまで上杉・武田ともに公儀に対し、疎意無く接してこられた。
同じことならば、内外ともに和平の調儀を進められ、天下のために奔走することを願うばかりだ。
なお、松井友閑・佐々権左衛門尉の副状もご覧いただきたい」
との内容である。

謙信が武田との和平に前向きではない様子が文中から読み取れる。
この講和問題はすんなりとは調わず、本年10月に将軍の上使と信長の使節が謙信を訪ねた。
謙信は使者に小袖を贈呈して、疎意にしない旨を伝えている。『上杉古文書 十六』

一方武田信玄は、元亀2年(1571)9月に信州の御料所を返還すると述べ、足利義昭の歓心を買い、『石川県立図書館所蔵文書「雑録追加 三(九月二十六日付武田信玄書状写)」』本年8月には、将軍義昭の依頼に応じて織田-本願寺間の和平仲介に奔走することとなる。『本願寺文書 一(同年8月13日付信玄書状)』

以下は私の個人的な見解である。
これまでの通説とは異なり、当時の足利義昭の真意は、一刻も早く武田信玄を上洛させ、織田・武田・毛利を始めとする強力な政権基盤を築こうとした。
そのためには是が非でも武田-上杉間の和睦と、織田-本願寺間の和睦が必要であった。
これは、義昭が織田信長のみの後ろ盾では心もとないと考えた結果の行動ではないかと私は考える。

しかし、やがて事態は最悪な方向へと向かうこととなる。

7月29日

朝倉義景、1万5000の兵を率いて小谷の大嶽砦に入り信長と対峙する。『信長公記』

〔参考〕『多聞院日記』


一、近日京ヨリ蓮藏院藤井若衆可被召上之由、寺門へ被仰出了、蓮無同心、尤ヽ、
一、山城國へ松城被打出了ト云々、如何、

  『多聞院日記 十八(元亀三年七月二十九日条)』

この頃

織田勢と浅井・朝倉勢の間で小競り合いか。


七月廿九日 浅井居城大谷へ参着候、雖然此表之爲体見及難抱存知高山大ずくへ取上居陣也、然處を足輕共尓可責を被仰付、則若武者とも野尓臥山尓忍入のほりさし物道具を取頸二ツ三ツ宛取不参日も無之、高名之隋輕重被加其御褒美之間、彌嗜ミ大方ならす、

 (書き下し文)
朝倉左京太夫人数一万五千ばかりにて)七月二十九日 浅井居城の小谷へ参着候。
然れどもこの表のていたらくを見及び、抱え難く存じ、高山大嶽おおずくへ取り上り居陣なり。
然るところを足軽どもに攻むべきを仰せ付けられ、則ち若武者ども、野に伏せ山に忍び入り、のぼり・指物・道具を取り、首二つ三つ宛て取り、参らざる日もこれ無し。
高名の軽重に従い、その御褒美加えらるるの間、いよいよ嗜み大方ならず。

   『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

8月6日

信長、奥州塩松先達職を大祥院が勝仙院から預け置かれた件で、 檀那を連れて上洛し、熊野参詣を許す旨の朱印状を発給。『青山文書 一(元亀三年八月六日付織田信長朱印状案)』

奥州塩松先達職之事、従勝仙院如被預置、熊野参詣檀那共被相催、上洛可然候、不可有違乱之状如件、
 元亀三
   八月六日      信長

    田村蒲倉
     大祥院

(書き下し文)
奥州塩松先達職の事、勝仙院より預け置かるる如く、熊野参詣の諸檀那ともに相催され、上洛然るべく候。
違乱あるべからざるの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究』吉川弘文館によると、この文書は朱印状か判物かは不明だが、恐らく朱印状とのこと。
塩松は現在の福島県二本松市上長折かみながおりに位置し、当時は大内氏が治めていた。
田村蒲倉は、郡山市蒲倉にあたる。
田村荘六十六郷は、紀伊熊野山新宮領。
大祥院が勝仙院から塩松の先達職(修験道用語か。諸山の参詣者の道案内者と思われる)を預けられたので、熊野参詣の檀那を連れて上洛することを許した内容である。

8月8日

朝倉家臣の前波吉継(九郎兵衛)父子三人、信長の陣所を訪れ投降する。『信長公記』

8月9日

朝倉家家臣の富田長繁(彌六)・戸田与次(與次)・毛屋猪介も信長に降る。『信長公記』


八月八日尓 越前の 前波九郎兵衛父子三人、此御陣へ被参候、 信長公之御祝着不斜、則御帷、御小袖、御馬皆具共尓拜領被申候、翌日又 富田彌六、 戸田與次、 毛屋猪介被参、是又色々被下忝次第不成大方、虎御前山御取出御普請無程出來訖、御巧を以て 當山之景氣有興仕立生便敷御要害、不及見聞之由尓て、各耳目被驚候、

(書き下し文)
八月八日に 越前の 前波九郎兵衛(前波吉継)父子三人、この御陣へ参られ候。
信長公の御祝着斜めならず。
則ち御帷子・御小袖・御・皆具(道具一式。ここでは前述の道具3種で1セットだろう)ともに拝領申され候。
翌日また、富田弥六(富田長繁)・戸田与次・毛屋猪介も参られ、これまたいろいろ下され忝き次第、おおかたならず。
虎御前山の御砦御普請程無くできおわんぬ。
御巧みを以て当山の景気起こり有りて、おびただしき御要害に仕立て、各々耳・目を驚かされ候。

   『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

同日

〔参考〕『多聞院日記』


一、美濃ノ土岐殿、此間此城ニ被渡、國ヨリ諸牢人出トテ呼下、今日下國了、如何、

  『多聞院日記 十八(元亀三年八月九日条)』

この頃

虎御前山の砦が出来上がり、信長はそこへ陣を移す。
さらに小谷山城攻略の拠点である横山城との間に八相山、宮部両城を築き、宮部城には宮部継潤を置いてつなぎとする。『新集古案(上杉謙信宛九月二十六日付織田信長書状写)』『信長公記』
信長、側近の堀秀政(久太郎)を使者として朝倉義景の陣所へ遣わし、せっかく江北まで出兵されたのだから、この際日限を定めて決戦をしようと申し出るも、なかなか返答に及ばず。
虎御前山に木下秀吉(藤吉郎)を入れ置く。『信長公記』


虎ごせ山より横山迄間三里也、程遠く候間、其繋として八相山宮部郷兩所尓御要害被仰付、 宮部村ニハ宮部善祥坊入をかせられ、八相山ニハ御番手之人數被仰付、虎御前山より宮部迄、路次一段あしく候、武者之出入之爲道之ひろさ三間々中尓高々とつかせられ、其へり敵の方ニ高さ一丈尓五十町之間、築地をつかせ、水を關入、往還たやすき様尓被仰付事も生便敷御要害、申も愚尓候、朝倉此表尓候ても不苦候間、横山尓至て (闕字)信長公御馬を可被納之旨候、其一兩日以前に 朝倉かたへ使者を立させられ、迚も是迄出張之事候間、日限をさし以一戦被果候てと、 堀久太郎を以て雖被仰遣候、中々不及返答之間、虎御前山にハ 羽柴藤吉郎 定番とし而入被置、

(書き下し文)
虎御前山より横山までの間、三里(約12km)なり。
程遠く候間、その繋ぎとして、八相山・宮部郷両所に御要害仰せ付けられ、宮部村には宮部善住坊(宮部継潤)を入れ置かせられ、八相山には御番手の人数を仰せ付けらる。
虎御前山より宮部まで、路次一段悪しく候。
武者の出入りの為、道の広さ三間(約5.4m)、間中に高々とつかせられ、そのへりに、敵の方に高さ一丈に五十町(約5.5km)の間に築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすきように仰せ付けらる事も、おびただしき御要害、申すも愚かに候。

朝倉この表に候ても苦しからず候間、横山に至りて (闕字)信長公御馬を納めらるべきの旨に候。
それ一両日以前に、朝倉方へ使者を立てさせられ、とてもこれまで出張の事に候間、日限を差し以て一戦を果てられ候てと、堀久太郎(堀秀政)を以て仰せ遣わせられ候。
中々返答に及ばずの間、虎御前山には羽柴藤吉郎(木下秀吉)を定番じょうばんとして入れ置かる。

  『信長公記 巻五(奇妙様御具足初尓虎御前山御要害事)』より抜粋

武田信玄による織田-本願寺間の和睦調停

8月13日

甲斐の武田信玄、将軍義昭の意向に従い、本願寺-織田間の和睦調停を行う。『本願寺文書 一』

従京都被下御両使、貴寺、信長和睦、信玄中媒尤之趣、御下知候、因茲先以飛脚申候、是非急度可預回札候、委曲自竜雲軒、堀野左馬允所可被申越候、恐々謹言
   八月十三日      信玄(花押)
    下間上野法眼御房
          進之候

(書き下し文)
京都より下さるる御両使、貴寺(本願寺)・信長の和睦に、信玄(武田信玄)中媒ちゅうばい尤もの趣き、御下知おんげちに候。
これにより、まず飛脚を以て申し候。
是非急度回札に預かるべく候。
委曲竜雲軒、堀野左馬允さまのじょう所より申し越さるべく候。恐々謹言。(以下略)

(備考)
京都より下さるる御両使とは、足利将軍家の使いだろう。
宛名は下間しもづま頼慶らいけい(上野法眼)である。

同日

甲斐の武田信玄、某へ宛てて書状を発給。『津金寺文書』

態令啓札候、従京都為御使節、大和淡路守、竹田梅咲軒下国、貴寺、信長和平儀、信玄可致媒介之旨、被仰出候、雖斟酌候、申述候、被応将軍之命、尤ニ候、依御報、以使可申候之趣、冝令洩申給候、恐々謹言
    八月十三日      信玄(花押)

(書き下し文)
わざと啓札せしめ候。
京都より御使節として、大和淡路守・竹田梅咲軒下国、貴寺・信長和平の儀、信玄媒介致すべきの旨、仰せ出され候。
斟酌候といえども、申し述べ候。
将軍の命に応ぜられ、もっともに候。
御報により、使いを以て申すべく候の趣き、宜しく洩し申さしめ給うべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
この文書は宛名を欠いている。
文脈から本願寺の坊官宛だろうか。
足利義昭は大和淡路守と竹田梅咲軒を使者として甲斐府中へ下し、信玄に和平の仲介を求めた。
義昭が本願寺の顕如光佐にも使者を出して信長との和平を勧め、信玄が媒介すると指示している。
同年9月10日付の信玄宛の書状に、顕如は「信長に対し遺恨深重であるが、貴辺の斡旋を尊重する」としているものがある。『顕如上人御書札案留』

8月14日

岩村城主の遠山景任が死去。

 (備考)この当時、遠山一族は織田家と武田家に両属していた。
景任正室は信長の叔母、あるいは大叔母にあたる。

この頃

信長、子息のいない岩村へ五男の御坊丸を養子として送り込む。

8月15日

室町幕府第15代将軍・足利義昭の嫡男生まれる。『兼見卿記』

 (備考)
のちに出家し義尋と名乗る。

8月19日

〔参考〕『多聞院日記』


廿日、於柳本森本十九日ナリ、左京生害了、幷伊源二郎、森主召籠了、如何可成行哉、家中噯永代破切了、沈思ヽヽ、

  『多聞院日記 十八(元亀三年八月二十日条)』

8月28日 夜明け方

松永久秀、木津を苅田して撤兵か。『多聞院日記 十八』

一、昨暁久秀木津表被引退了ト、『多聞院日記 十八(元亀三年八月二十八日条)』

(九月)一日、木津へ爲毛見等春、マコ四郎、少太郎下之處、坊領不苦、只一、二ヶ所少ツヽ苅田了、損免ハ思ノ外遣之、併信力ニテ當坊領計不苦之由申、安堵了、『多聞院日記 十八(元亀三年九月一日条)』

9月2日

石山本願寺門跡の顕如、細川昭元(右京大夫殿)へ書状を発給。『顕如上人御書札案留』

芳墨遂披覧候、今度於御城中不慮之次第、旨趣具承候、就其軈而以誓詞示預候、相應之儀、不可有如在候、猶頼充、頼廉可申入候、—  —
   九月二日   —   — 御判無之

   右京大夫殿
(細川信良カ、信良永禄十一年左京太夫トナル)

(書き下し文)
芳墨ほうぼく被覧を遂げ候。
この度御城中に於いて不慮の次第、旨趣ししゅつぶさに承り候。
それに就きて、やがて誓詞を以て示し預かり候。
相応の儀、如在じょさい有るべからず候。
なお頼充(下間頼充)・頼廉(下間頼廉)申し入るべく候。
   九月二日  —  —御判これ無く

   右京大夫(細川昭元)殿
(細川信良か。信良永禄十一年(1568)左京大夫となる)

(備考)
細川昭元は足利義昭に降り、同年3月下旬に石成友通(主税頭)とともに信長と面会している。『信長公記』
文中に「御城中不慮」とあるが、昭元の籠もる摂津中嶋城が攻められ、本願寺が降伏を勧めたのだろうか。

9月3日

信長、山城国革島一宣へ、細川藤孝の与力を申し付け、参陣と普請以下の連絡は速やかに行う旨を通達。『革島文書』

其方進退之事、御入洛之刻、細川兵部太輔方令与力筋目、今以不可有相違、陣参、普請已下、速令相談事、簡要之状如件
  元亀三
    九月三日       信長(朱印)

     河嶋越前守殿

(書き下し文)
その方進退の事、御入洛じゅらくきざみ、細川兵部大輔ひょうぶのたいふ(細川藤孝)方与力せしむる筋目、今もって相違有るべからず候。
陣参・普請以下速やかに相談ずるべく事、肝要の状くだんの如し(以下略)

 (備考)
革島氏は山城国革島荘の土豪。
当主であった革島一宣は、足利義昭が永禄11年(1568)に上洛した際、いち早くこれに降った実績がある。
しかし、翌正月の六条本国寺の戦いの際、阿波三好方に組して所領を没収された。
さらにその翌年にあたる元亀元年(1570)4月、金ヶ崎の戦いで戦功を立て、旧領を還付される。
この文書は、細川藤孝の与力として参陣と普請以下の通達は、速やかに相談するとの朱印状である。

9月10日

武田信玄による織田-本願寺間の和平周旋難航か。
石山本願寺門跡の顕如、武田信玄に宛て書状を発給。『顕如上人御書札案留』

就信長當寺和平之儀、爲武家被下置御使者、信玄可有入魂趣、被仰出由候、對信長遺恨深重候、雖然貴邊之儀、不可有贔屓偏頗之御調略之條、従是旨趣以使者可申展候、委細頼充法眼可令申候間、不能詳候、穴賢
   九月十日  — —

   法性院殿

○此御札は信玄より大かた案文到来候畢、内證有子細此分也

(書き下し文)
信長・当寺和平の儀に就きて、武家として御使者を置き下され、信玄昵懇有るべきの趣き、仰せ出さるの由に候。
信長に対し遺恨深重に候。
然りといえども貴辺の儀、贔屓有るべからず偏頗へんぱの御調略の条、これにより旨趣使者を以て申し述ぶべく候。
委細頼充法眼(下間頼充)申せしむべく候間、詳らかには能わず候。穴賢あなかしく
   九月十日 — —

   法性院(武田信玄)殿

○この御札は信玄よりおおかたの案文到来に候おわんぬ。
内証は子細有りてこの分なり。

(備考)
同日付の信玄宛でもう1通ほぼ同じ内容の書状あり。
※偏頗(へんぱ)=片寄って不公平なこと

9月14日

北近江の信長陣に加わっていた幕臣の細川藤孝と三淵藤英が上洛する。『兼見卿記』

9月15日

北近江の信長陣に加わっていた明智光秀も上洛。『兼見卿記』

9月16日

信長父子、虎御前山に木下秀吉を残し横山城に入る、やがて岐阜へ帰城。『信長公記』

 (備考)信長が陣を引き払った後の11月3日に浅井・朝倉勢が虎御前山に攻めかかるが、木下はこれを撃退している。『信長公記』(次章に詳述)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572 6.)
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 12.) 当該記事
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

参考文献:
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
上松寅三(1930)『石山本願寺日記 下巻』大阪府立図書館長今井貫一君在職二十五年記念会
柴辻俊六,黒田基樹(2003)『戦国遺文武田氏編第三巻』東京堂出版
竹内理三(1978)『増補 續史料大成 第三十九巻(多聞院日記二)』臨川書店
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
山科言継(1915)『言継卿記 第四』国書刊行会
久野雅司(2019)『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版
瀬野精一郎(2017)『花押・印章図典』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
鈴木正人(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
など

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