織田信長の年表ちょっと詳しめ 織田信重(信忠)の初陣

織田信忠
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。

今回はついに嫡子・織田信忠が初陣します。

信長は大胆にも浅井・朝倉連合軍に決戦を挑み、雌雄を決しようとしました。

今回は元亀2年(1571)9月下旬からはじめる。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.) イマココ

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

松永久秀が謀反

元亀2年(1571)

38歳

9月17日

小早川隆景に使僧を遣わして、この年の6月に死去した毛利元就の弔意を表すとともに、阿波の篠原長房を撃退したことへの祝意、畿内は平穏である旨の書状を送る。(小早川家文書)

同日。信長、公家の烏丸光康へ摂津上牧の所領を安堵する。(烏丸家文書)

9月18日

今日を発ち近江永原城に泊まる。(言継卿記、信長公記)
言継卿記からは蜂屋頼隆は大和へ、島田秀満は摂津へ出陣とあるから、家臣団のうち数名は京での政務をさせていたであろう。

同日、竹内季治を近江永原城にて自害させる。(言継卿記)

9月20日

岐阜に帰城する。(言継卿記、信長公記)

9月24日 早朝

明智光秀、摂津高槻へ兵1000ばかりを率いて出陣。(言継卿記)

9月25日

足利義昭家臣の一色藤長一色昭秀上野中務太夫(恐らく上野秀政のこと)らも摂津へ出陣。(言継卿記)

同日。信長、越後の上杉謙信に鷹をもらうために鷹師を派遣し、その希有である様に感激し、秘蔵自愛する旨の書状を出す。(上杉家文書)

9月27日

信長、河内石清水八幡宮祠官の田中長清へ神領狭山郷を御牧摂津守が違乱したことにつき、御牧摂津守の押領を排除する旨の書状を送る。(石清水文書)

9月30日

信長家臣の松田秀雄塙直政島田秀満明智光秀が連署で山城阿弥陀寺と妙顕寺および上賀茂神社に公武御用途という名目で賦課(ふか=税金などを割り当てて負担させること)する。
さらに10月15日から20日以前に運上命令(年貢などを京に運送し上納すること)を通達する。(上賀茂神社文書、妙顕寺文書、阿弥陀寺文書)

9月

信長、尾張国府宮へ3ヶ条の条書を下す。(大津延一郎氏所蔵文書)

10月3日

相模の大名・北条氏康

10月10日

松永久秀、山城宇治槙島城を攻撃する。(言継卿記)
松永久秀謀叛

10月14日

足利義昭の家臣・細川藤孝に山城勝竜寺城の普請を命じる。(米田氏所蔵文書)

同日。松永久秀が山城木津城周辺を苅田し焼き払う。(多聞院日記)

10月15日

松田秀雄、塙直政島田秀満明智光秀が洛中立売組中へ
・「禁裏様御賄」としての八木を京中へ貸し付けること。
・1町に5石を割り当てること。
・利率は3割とすること。
を通達。
また、来年正月より毎月1町より1斗2升5合充を進納すべきことなどを命ずる。(京都上京文書)

10月17日

筒井順慶の軍勢が大和「タチカラ?」近辺で出撃。(多聞院日記)

10月26日

織田軍先発衆が上洛する。(多門院日記)

(備考)信長の先衆が上洛とあるだけで、信長自身がこの時上洛したのかは不明。

10月

織田信長、借物の返弁できず、神事の勤仕も怠った尾張津島の牛頭天王神社の神主へ本銭を10年で返済する旨を通知し、銭主が信長の決定に違背すれば成敗する旨を通達。(張州雑誌抄)

10月

織田信長、尾張国津島神社神官の真野善二郎へ(文状=譲り状)に任せて故父真野兵部の跡職を安堵する。(服部藤太郎氏所蔵文書)

11月1日

織田信長、京都の足利義昭に上申したとおりに奉行人を出向させた伊勢三郎へ政所役を安堵。
また、摂津高槻城の番手にも触れ、詳細は武井夕庵が伝える旨の書状を出す。(本法寺文書)

11月8日

山科言継、慈専(泉涌寺役者)の来訪を受ける。
木下秀吉が泉涌寺の寺領を横領したという訴えを聞き、足利義昭と木下秀吉に対して女房奉書の発給を依頼される。

11月9日

正親町天皇、山科言継の上奏を受け、将軍・足利義昭と信長家臣・木下秀吉へ横領禁止を通達する女房奉書を発給する。

11月15日

松田秀雄、塙直政、島田秀満、明智光秀が上京立売組中へ「禁裏様為御賄」として八木の進納を割り当てる。(京都上京文書)

11月21日

織田信長、松永久秀の籠もる大和国多聞山城の攻撃のために、近日中に上洛する予定であることを京都賀茂惣中へ告げる。
そこには筒井順慶と談合し、急ぎ付城を築いて攻略するようにと記されている。(沢房吉氏所蔵文書)

12月7日

信長の命で佐久間信盛が、山城狭山郷の件で田中長清(石清水八幡宮祠官)との交渉を無視した御牧摂津守の被官である片岡俊秀へ、来春の信長上洛以前に押領地返還を指示する。(前田家所蔵文書、石清水文書)

12月9日

山科言継、岐阜に下向して織田信長と会談。
昨年比叡山焼き討ちにあった延暦寺法主・覚恕法親王(正親町天皇の弟)を話題にあげる。(言継卿記)

12月10日

正親町天皇が織田信長へ綸旨を下す。
その内容は比叡山の旧領を信長が明智光秀らに知行として与えたことで、明智らが横領したとし(信長は関知しないとする配慮・遠慮)、その返還を求める内容であった。(言継卿記)

12月14日

岐阜から出て尾張国で鷹狩りをする。
坂井利貞が供をする。(言継卿記)

 (備考)先月9月に上杉謙信より鷹を送られたはずなのでそれであろう。

12月15日

誠仁親王に子が生まれる。
この子が後の後陽成天皇である。

12月19日

山科言継、織田家中の山口又左衛門尉菅屋四郎右衛門(信長の近習だが、菅屋長頼とは恐らく別人)を上京させ、在庄等の件を諸門跡へ通達するよう取り計らう。(言継卿記)

同日。筒井順慶が大和国十市郷へ総攻撃を仕掛ける。(多聞院日記)

12月22日

木下秀吉、山城賀茂神社役者中へ昨年発行された徳政について、賀茂神社境内に通達。
足利義昭公の御下知と織田信長公の御朱印により徳政免除が出されたが、未だに実行されずに難渋していることは言語道断のことである。
・違反した場合は来春の上洛時に厳命する
とする内容である。(賀茂別雷神社文書)

12月23日

木下秀吉、山国狭山郷の名主・百姓中へ、石清水八幡宮田中門跡御領の年貢と諸成物などを保管しておくこと、来春の織田信長上洛の際に決着を付ける旨を通達する。(石清水文書)

(備考)このように、秀吉は横山城に常に在番していたわけではなく、京都で政務に追われている時期もあったのだ。

12月24日

山科言継、在京中の木下秀吉が今日明日中に岐阜に下向するという風聞を聞く。(言継卿記)

12月25日

村井貞勝が山科言継を訪問。
貞勝は一時的に尾張清州に帰宅しており、昨晩京都に戻ってきたようだ。(言継卿記)

12月27日 未刻

幕臣の細川藤孝、岐阜に到着。(言継卿記)

12月28日

岐阜に帰城する。
公家の山科言継は信長の帰宅を何日か岐阜城下で待っていたようだ。
信長と対面した言継は、正親町天皇からの綸旨と女房奉書、勅作之御薫物を「御杉」を以て申し渡す。
武井夕庵と大方の様子を問答、明日の来訪を通達される。(言継卿記)

12月29日

岐阜の山科言継宿にて村井貞勝明智光秀細川藤孝が集まり、茶会が催される。(言継卿記)

同日 黄昏

松井友閑が山科言継を訪れ、信長よりの贈り物として小袖、袷、肩衣袴などを贈呈する。(言継卿記)

12月

信長、佐久間信盛に所領を加増する。(吉田文書)

織田信重(信忠)、信雄、信孝 三人の息子の元服

元亀3年(1572)

39歳

正月

岐阜城で信長の子である奇妙丸(16歳)、茶筅丸(15歳)、三七丸(15歳)の三兄弟を元服させ、それぞれ勘九郎信重(のちに信忠と改名)三介具豊(のちに信雄と改名)三七信孝と名乗らせた。

次男の三介具豊はすでに伊勢北畠家の養子に出ており、北畠の通字である「具」を名乗っている。
のちに北畠家一族をことごとく虐殺し、完全に北畠家を乗っ取った後に織田姓に戻して「織田信雄」と名乗る。

三男の三七信孝も伊勢神戸家の養子に出ている。
既に信孝は養父の神戸具盛と不仲となり、具盛を伊勢沢城に強制的に隠居させた上、蒲生賢秀の近江日野城に幽閉させている。(具盛の妹婿が蒲生賢秀)
このような形で神戸家を継いだので、反対する神戸家の家老・山路弾正忠を切腹させるなど、120人の家臣を追放した。(山路とは永禄10年(1567)8~9月に信長が高岡城を攻めた際、ついに落とすことができなかった高岡城主である。)

なお、正月の祝儀に近江横山城の城代を務めていた木下秀吉もこの時列席していたが、その留守中に浅井長政の兵が横山城に攻撃を仕掛けた。
留守居を任されていた竹中重治(半兵衛)がこれを撃退する。(北畠物語・柏崎物語)

竹中重治肖像画

竹中重治(半兵衛)肖像

前年の5月にも浅井勢を退けた竹中重治であるが、この説が真実ならば、またしても浅井勢を撃退したことになる。

1月14日

本願寺光佐(顕如)武田信玄へ信長の背後を脅かすように依頼する(顕如上人御書札案留)

(備考)武田信玄は公家の三条家の息女を正室にしているが、その妹を顕如が娶っていた。
そうした繋がりから、信長への攻撃を本願寺が依頼し、信玄からは越後の一向一揆門徒衆を蜂起させるように依頼していた。

1月18日

一方、京都では信長の討伐に反対する細川藤孝と、足利義昭の側近で信長討つべしと主張する上野秀政が、足利義昭の面前で激しく口論する。

 (備考)この頃から足利義昭一番の側近である細川藤孝は次第に離心し、明智光秀と同じように信長へと心を寄せるようになる。

細川藤孝肖像画
細川藤孝(幽斎)肖像

1月19日

明智光秀、吉田神社の吉田兼和(兼見)を訪れ、念頭賀使をする。(兼見卿記)

1月21日

吉田兼和(兼見)、近江坂本に下り明智光秀を訪問。(兼見卿記)

同日。信長は飯川信堅曽我助乗に宛てて、摂津中島城、高屋城攻撃のために柴田勝家を出陣させることを通達し、これは天下のためで幕府衆も出陣するのは当然であること。
これらのことを足利義昭に報告することを指示する書状を送る。(実相院及東寺宝菩提院文書)

1月23日

佐久間信盛、近江高野荘の一向宗坊主および地侍らへ宛てて書状を送る。
その内容は、六角承禎(義賢)義治父子が一向宗徒を勧誘し、近江金森城と三宅城に於いて抗戦させていることに対し、信長からの一味内通を禁止する旨を通達し、連署起請文の提出を命ずるものであった。(福正寺文書)

1月30日

信長、腫物を煩っていた松井友閑のために、近江芦浦観音寺に滞在中の耶蘇会(やそかい)宣教師の医師を招致するよう指示を下す。(観音寺文書)

関連記事:【古文書講座】信長が病の家臣を気遣い、わざわざ宣教師の医者を呼んだ時の書状

閏1月4日

遊佐信教が河内高屋城の畠山昭高を生害させようとしたが未遂に終わる。(多聞院日記)

閏1月20日

大和国奈良で大地震が発生。
「火神動」という風聞が立つ。(多聞院日記)

2月8日

松井友閑が腫物を煩ったため、近江芦浦観音寺に滞在している耶蘇会宣教師の医師を早急に招致したい旨の使いを送ったが、一向に返答もなく、薬師も到来せず、この事態はどういうことなのかと武井夕庵を叱責する。
早急なる招致のため、夫丸・馬の件は佐久間信栄(佐久間信盛の子)が準備すること、速やかに招致に応ずることを督促。(観音寺文書)

(備考)たびたび登場する松井友閑と武井夕庵は、織田政権の文官的な立場の人物である。
特に松井友閑は信長の尾張統一時代から仕えてきた人物で、信長よりもずっと年上である。
彼は茶の湯に堪能な数寄者であった。

浅井長政討伐のため湖北に出兵

3月3日

織田信長、永田景弘へ来たる3月7日に江北小谷口を攻めるので、軍に加わる様にと通達する。(武家雲箋)

3月5日

信長、浅井長政討伐のため岐阜城を発して美濃赤坂に着陣。

3月6日

木下秀吉の横山城に入る。

3月7日

小谷と山本山の間に野陣を張り、付近を放火して浅井長政を挑発する。

3月9日

しかし、またしても浅井長政は小谷から打っては出ず、信長は横山城に帰る。

3月10日

近江常楽寺に泊まる。

3月11日

湖西の和邇に移陣して木戸・田中に砦を築き、明智光秀丹羽長秀中川重政らに守らせる。(信長公記)

3月12日

未の刻、兵700を率いて入京し、妙覚寺に陣取る。(兼見卿記)

上京の信長御座所 着工が始まる

 (備考)信長は京都に邸宅を構えず、いつも上洛の際は臨時に妙覚寺や本能寺、医師半井氏の屋敷などを宿所としていた。
将軍・足利義昭はその不便さを思い今回の上洛を機に、大納言徳大寺公維(きんふさ)の武者小路の邸地を与えた。
このように足利義昭は、信長が上洛した際にはフレンドリーに接し、信長が岐阜へ帰ると諸国に信長打倒の御内書を密かに送り、信長包囲網を強化しようとしていたのである。

同日。吉田兼和(兼見)、妙覚寺に寄宿している織田信長を訪問。
明智光秀が奏者、塙直政より弓懸2具を遣わされる。(兼見卿記)

3月24日

足利義昭主導による京都の信長御座所普請の御鍬始が行われる。
御普請奉行は村井貞勝島田秀満、大工棟梁の池上五郎右衛門であった。(信長公記)

同日。織田信長、初めて細川昭元石成友通(岩成友通)に謁見を許す。(信長公記)

(備考)この両名はずっと信長に敵対していた三好氏の有力家臣で、野田・福島の戦いでも三好方の主力として信長と戦った人物であった。
特に石成は三好三人衆の一人である。

???

この頃、本願寺光佐(顕如)より「万里江山の一軸」と「白天目」を贈呈される。(信長公記)

3月21日

信長、山城国狭山郷を押領した御牧摂津守へ紛れもなく石清水八幡宮領であり、田中長清に重ねて信長の朱印を与えたため不法停止を命じる。(田中家文書)

3月27日

三淵藤英と細川藤孝が京都の信長御座所の築城普請を奉行する。(兼見卿記)

 (備考)なお、この邸宅は完成を見ずに翌年、信長が上京を焼き討ちした際に延焼してしまう。

上京信長御座所の位置
上京信長御座所の位置

三好義継も信長に反旗を翻す

3月

織田信長、摂津尼ヶ崎長遠寺へ全7ヶ条の条書を下す。(長遠寺文書)

4月3日

吉田兼右、信長を訪問し面会する。
信長は機嫌よく暫し雑談。
金子1枚を賜わる。
明智光秀が馳走を取りなす。(兼見卿記)

4月4日

明智光秀、滝川一益、佐久間信盛、柴田勝家が連署で河内国住人の片岡弥太郎へ書状を出す。
内容は、来たる4月14日に河内へ出兵する旨を伝え、片岡弥太郎の出勢と合城を厳命する。(根岸文書)

4月5日

織田信長、毛利家の吉川元春に書状を送り、浦上宗景宇喜多直家を無視している件について「外聞如何」とし、足利義昭の意を受けて和平に応じることを通達する。
詳細は柳沢元政安国寺恵瓊聖護院道澄に伝達させる。(吉川家文書)

同日。信長、小早川隆景へ若鷹献上を謝し、3月中旬より在洛している旨を通知。

4月8日

佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉が連署で山城伏見惣中へ書状を出す。
内容は、来たる4月12日の出陣に際し、一艘も残置かないように舟の供出と、4月10日から13日までの逗留を厳命するものである。(三雲文書)

4月9日

吉田兼和、人足80余人を伴い信長御座所の築地普請に赴く。(兼見卿記)

4月10日

大和国奈良衆は、東大寺南大門に於いて集会を開き、近日中に織田軍が大和に着陣するが、信長に味方しないことを決める。(多聞院日記)

4月16日

三好義継も信長に反旗を翻し、松永久秀が信長方の畠山昭高の部将・安見新七郎籠る河内交野城を攻める。

織田軍、河内表へ出陣

信長、佐久間信盛柴田勝家明智光秀細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長ら2万の軍勢を河内表へ派遣して救援する。
松永久秀の軍勢が立て籠もる河内騎西城を攻囲する。(信長公記、兼見卿記)

4月25日

織田信長、京都紫野大徳寺へ諸塔頭領・門前賀茂境内の安堵を下す。(大徳寺文書)

4月28日

吉田兼和(兼見)、信長より京都信長御座所の築地に板葺の覆いを命じられる。(兼見卿記)

同日。大和ツタノ付城が陥落。(多門院日記)

4月

信長、山城賀茂の銭主および惣中書状を送る。
その内容は、去々年に織田信長「朱印」を発給して賀茂神社境内を「徳政」除外地としたにもかかわらず、未だに一揆の残党が徳政適用を強要していることは許し難いことであり、買主の覚悟により譴責使を派遣して収納すること。
詳細は木下秀吉に伝達させることを通知するものであった。

4月

織田信長、山城梅津長福寺へ全5ヶ条の条々を下す(長福寺文書)

5月2日

小早川隆景へ先度の若鷹献上を謝し、九州の大名・大友義鎮(宗麟)が上洛を望んでいることについて、織田家と毛利家の友好関係を考慮し、毛利家と敵対している大友義鎮の上洛を遠慮して未だ返答していないことなどとし、詳細は朝山日乗と武井夕庵に伝達させる。(小早川家文書)

同日。信長の庶兄である織田信広が病に伏しているところを吉田兼和(兼見)が見舞う。(兼見卿記)

さらに同日。朝倉義景三好義継に送った密使の僧侶二人を捕らえ、京の一条戻り橋で焼き殺す。(年代記抄節)

 (備考)この頃の反信長包囲網は本願寺一向一揆勢力、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、南近江甲賀・伊賀の六角父子、河内の三好義継、大和の松永久秀、阿波の三好三人衆、さらには甲斐の武田信玄も加わり、信長の大包囲網が形成されていた。
影で糸を引く張本人が将軍・足利義昭であることは言うまでもない。
信長にとって桶狭間以来の大ピンチが差し迫っていた。

元亀3年(1572)信長包囲網
元亀3年(1572)信長包囲網

5月4日

大和国奈良中、一両日中に織田軍が到来するという風聞に接し、大騒動となる。(多門院日記)

同日。吉田兼見、施薬院全宗と共に妙覚寺の織田信長を訪問。
木下秀吉が吉田兼見持参の菓子を披露。(兼見卿記)

5月5日

織田軍先発隊が大和国西京に着陣。
多聞院英俊は多数の山木が枯れたことを「建久ノ御詫此比ニ当、一寺頓滅ノ期至歟」と嘆き、「武家入国旁々心細者也」との心境を記す。(多聞院日記)

(備考)奈良興福寺が信長に敵対的であり、筒井よりも松永久秀に味方していることが窺える。

5月8日

吉田兼和(兼見)、織田信広より明日の朝食の招待を了承した返答を受ける。(兼見卿記)

同日。織田軍が大和国奈良へ攻め込む前に、奈良中より銀子320枚、興福寺より銀子100枚、東大寺より銀子50枚が上納され、多聞院英俊は「先以安堵了」という感慨を記す。(多門院日記)

5月9日

吉田兼和(兼見)、織田信広を朝食に招待。
織田信広は暮れに帰京する。(兼見卿記)

同日。筒井順慶が東大寺南大門に布陣。(多門院日記)

さらに織田軍が大和国大黒カ尾から多聞山城の北側まで包囲。
午刻に松永久秀の多聞山城に攻撃を仕掛ける。(多門院日記)

5月11日

吉田兼右、深草から帰宅し織田信長を見舞いのため訪問。
河内へ出陣していた軍勢が帰陣し、上洛したとする報を聞く。(兼見卿記)

5月14日

京を発し岐阜へ向かう。
吉田兼和、信長を路次にて見送る。(兼見卿記、信長公記)

5月19日

大和国興福寺をはじめ奈良中の寺々のいくつかが、筒井順慶に金銀を上納。(多門院日記)

同日。信長、岐阜に帰城。(兼見卿記、信長公記)

(備考)恐らく多聞山城の松永久秀は降伏し、信長はそれを許したのであろう。

5月23日

塙直政、清水甚介宛てで書状を送る。
内容は、石清水八幡宮領の山城国狭山郷は禁裏樣御祈祷所であり、重ねて織田信長「御朱印」が発給されたが、御牧摂津守が押領していることは許し難いことであり、上山城の件は塙直政が信長より糺明申付を命令されているので速やかに対処する旨を通達である。(田中家文書)

6月1日 巳刻終頃

再び大和の国で大地震が起きる。(多門院日記)

6月8日

織田信長、河内高屋城主の畠山昭高に書状を送る。
起請文連署中へ三好義継と松永久秀の行動は不可解であり、高屋城を堅守することを通達した上で、決して昭高を疎意に扱わないことを伝える。

6月23日

信長、京都紫野大徳寺へ賀茂境内の買得分を安堵する。
詳細は松井友閑に伝達させる。

6月

信長、阿弥陀寺清玉へ東大寺の大仏殿再興勧進の件で、信長分国中へ1人に毎月1文を勧進させることを決定しているので、「権門勢家」「貴賤上下」を選ばず勧進することを命じる。(東大寺文書)

7月1日

松永久秀へ来たる7月7日に江北小谷城へ出撃を命じる。
また、城塞を構築するため兵卒に鋤・鍬を持参させること。
織田軍が朝倉氏・浅井氏と一戦に及んだら、時節を見合わせて攻撃を仕掛けることを通達。(願泉寺文書)

7月3日

信長が幕臣の細川藤孝に宛てて書状を送る。
摂津大坂石山本願寺への通行者が商人に偽装・往復していることにつき、注意を喚起し、不審者は捕獲することを通達する。(米田氏所蔵文書)

7月4日

稲葉一鉄、山城大徳寺聚光院へ大徳寺祠堂領で賀茂神社境内に所在する分の件で、今度賀茂社領「勘落」にあたり、その奉行共が違乱を働いたというので大徳寺が織田信長に対し上申したことに対し寺領として、年貢収納することに少しの妨げの無い旨の織田信長「朱印」が再度発給されたことを通知。(大徳寺文書)

7月13日

織田信長、美濃国専福寺へ書状を出す。
天下に対し造意を企んだ石山本願寺は前代未聞であり許し難いもので、織田分国中の門下が大坂への出入することを停止し、専福寺には「代坊主」を設けて、末寺は7月15日までに門徒を退散させるべきこと、違反者は成敗することを通達。(専福寺文書)

嫡男・信重(織田信忠)の初陣

7月19日

浅井長政討伐の為、初陣の嫡男・信重(信忠)とともに岐阜を出陣し、この日は美濃赤坂に着陣する。 (信長公記)

7月20日

近江横山城に入る。 (信長公記)

7月21日

小谷城下の町家を壊し、浅井長政を挑発する。 (信長公記)

七月十九日、信長公の嫡男奇妙公御具足初(具足初め=初陣)に信長御同心なされ、御父子江北表に至りて御馬を出だされ、其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居えられ、廿一(21)日、浅井居城大谷(小谷)へ推し詰め、ひばり山、虎御前山へ御人数上せられ、佐久間右衛門(佐久間信盛)、柴田修理(柴田勝家)、木下藤吉郎(木下秀吉)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)に仰せつけられ、町を破らせられ、一支もさゝへず推し入り、水の手まで追ひ上げ、数十人討捕る。

柴田修理、稲葉伊予(稲葉一鉄)、氏家左京助(氏家直昌=氏家行宏の兄)、伊賀伊賀守(安藤守就)、是れ等を先手に陣とらせ…

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

と信長公記には記されている。

7月22日

木下秀吉に命じて山本山城を攻撃させる。
浅井方の山本山城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)は足軽100騎余り出撃させるが、秀吉の巧みな軍略で 切り崩され、多数が討ち取られた。(信長公記)

 (備考)山本山はなかなかの要害らしく、この時秀吉も無理をして攻め落としてはいない。
この報告を聞いた信長は、斜めならぬ上機嫌で木下秀吉に御褒美を与えたようだ。
阿閉貞征翌年に信長に投降し、浅井家滅亡の大きな契機となった。

然る間、城中の足軽ども百騎ばかり罷り出で、相支へ候。
藤吉郎(木下秀吉)見計らひ、焜と切りかゝり切り崩し、頸数五十余(首級50余り)討ち捕る。
信長公御褒美斜ならず。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

7月23日

さらに北上して越前国境付近まで兵を進めて放火。 (信長公記)

七月廿三(23)日、御人数をし出し、越前境、与語(余呉) 木本(木ノ本)、地蔵坊中を初めとして、堂塔伽藍、名所旧跡、一字も残さず焼き払ふ

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

7月24日

竹生島を舟で攻め寄せ、火矢・大筒・鉄砲で攻めかける。(信長公記)

七月廿四(24)日、草野の谷、是れ又、放火候。

並に、大吉寺と申して、高山能(よ)き構へ、五十坊の所に候。
近里近郷の百姓など当山へ取り上り候。
前は嶮難のぼり難きに依つて、麓を襲はせ、夜中より、木下藤吉郎(木下秀吉)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、うしろ山続きに攻め上げ、一揆僧俗数多切り捨てられ、海上は打下の林与次左衛門、明智十兵衛(明智光秀)、堅田の猪飼野甚介(猪飼昇貞)、山岡玉林(山岡景猶)、馬場孫二郎、居初又二郎に仰せつけられ、囲舟を拵へ、海津浦、塩津浦、与語(余呉)の入海、江北の敵地、焼き払ふ。

竹生島へ舟を寄せ、火屋(火矢)、大筒、鉄炮(鉄砲)を以て攻められ候。
此の中、江北に聞かざる一揆と云ふ事を企て、俳個の奴原、風に木葉の散る様に、ちり失せ候て、今は一人もこれなく、猛勢ととり詰め、悉く田畠を苅田に申しつげられ候間、浅井人数は次第に手薄に罷りなるなり。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋
嫡男・信重(織田信忠)の初陣1
元亀3年(1572)湖北出兵

(備考)文中にある 林与次左衛門とは浅井方の武将である林員清のこと。
当時の文書には句点の位置が現在とやや異なる。

堅田の猪飼野甚介(猪飼昇貞)馬場孫二郎および居初又二郎は三人とも堅田衆であって浅井方に属していたが、この頃信長に降ったと思われる。

山岡玉林(山岡景猶)も近江の武士で元は六角氏の家臣。
信長からの信頼が厚かった山岡景隆とは兄弟のようだ。

これらの武将は明智光秀と同列に記されているが、恐らくは光秀の指揮下に入って与力として行動していたと考えた方が良いであろう。

この一連の軍事行動は柴田や佐久間、木下、明智、丹羽、美濃三人衆など音に聞こえた勇士も参陣していることから、かなり大規模な作戦だったであろう。
通常、御世継の武者初めには絶対に負けないいくさを選ぶのだが、この時の信長は、一気に浅井・朝倉家と決着をつけるべく行動しているように思える。

また、文中からも石山本願寺が扇動した一向門徒衆の多くが、浅井・朝倉家の味方をして信長に激しく抵抗した様子が窺える。

7月27日

小谷城抑えの城とする為、虎御前山(とらごぜやま)の砦の築城に取り掛かる。 (信長公記)
一方、ようやく越前の朝倉義景が重い腰を上げて出陣の意を決する。

7月29日

朝倉義景、1万5000の兵を率いて小谷城の山崎丸に入り、信長と対峙する。 (信長公記)

七月廿七(27)日より、虎御前山御取出(砦)の御要害仰せつけらる。

然れば、浅井方より越前の朝倉かたへ注進の申し出、尾州、河内長島より、一揆蜂起候て、尾 濃の通賂をとめ、既に難儀に及ばせ候間、此の節、朝倉馬を出だされ候へば、尾 濃の人数悉く討ち果たすの由、偽り申し遣はし候。

注進、実に心得、朝倉左京大夫義景、人数壱万五千計にて、
七月廿九(29)日、浅井居城大谷(小谷)へ参着候。
然りと雖(いえど)も、此表の為体見及び、抱へがたく存知、高山大づく(大獄山)へ取り上り、居陣なり。

然るところを足軽どもに責むべきを仰せつけられ、則(すなわ)ち、若武者ども野に臥せ、山に忍び入り、のぼり さし物道具を取り、頸(首)二ツ三ツ宛て取り参らざる日もこれなし。
高名の軽重に随ひ、其の御褒美を加えらるゝの間、弥嗜み大方ならず。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

(備考)ここには朝倉義景の覇気のなさ、朝倉が大獄山に目を付けたことなどが記されており、さらには伊勢長島一向一揆が街道を封鎖し、商いの自由、往来の阻害に動いているともある。

この当時のいくさでも、戦争と経済戦争は深い関りがあるのだと考えさせられる興味深い記述である。

8月8日

朝倉氏重家臣の前波長俊父子が信長陣所を訪れ投降する。 (信長公記)

(備考)前波長俊は越前朝倉氏から信長へと降った第一号であった。
信長はこの前波氏を気に入り、のちに越前一国を任せている。なお・・・

8月9日

朝倉家家臣・富田長繁、戸田与次、毛屋猪介も信長方へ寝返る。 (信長公記)

八月八日、越前の前波九郎兵衛(前波長俊)父子三人、此の御陣へ参ぜられ、候。
信長公の御執着斜めならず。
則(すなわ)ち、御帷子(かたびらのこと)、御小袖、御馬、皆具ともに拝領申され候。


翌日又、富田弥六(富田長繁)、戸田与次、毛屋猪介、参られ候。
是れ又、色々下され、忝き次第、大方ならず。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

8月上旬

この頃、虎御前山の砦が出来上がり、信長はそこへ陣を移す。
さらに小谷山城攻略の拠点である横山城との間に八相山、宮部両城を築き、宮部城には宮部継潤を置いてつなぎとする。 (信長公記)

虎御前山御取出(砦)御普請程なく出来訖ぬ(おわんぬ=完了したということ)。

(中略)


虎ごぜ山より横山までの間三里(約12km)なり。
程遠く候間、其の繋ぎとして八相山 宮部郷両所に御要害仰せつけらる。
宮部村には宮部善祥坊(宮部継潤)を入れをかせられ、八相山には御番手の人数仰せつけらる。


虎後前山(虎御前山)より宮部まで路次の一段あしく候。
武者の出入りのため、道のひろき三間(約5.4m)、間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町(約5.5km)の間、築地をつかせ、水に関を入れ、往還たやすき様に仰せつけらる事も、おびただしき御要害、申すも愚かに候。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋
嫡男・信重(織田信忠)の初陣2
元亀3年(1572)湖北出兵

8月15日

室町幕府第15代将軍・足利義昭の嫡男である足利義尋が誕生。(兼見卿記)

???

しかし、浅井・朝倉連合軍は一向に挑発に乗ろうとせず、信長も何度か決戦を申し入れたが朝倉義景からの返答は得られなかった。 (信長公記)

朝倉此の表に候ても、苦しからず候間、横山に至つて、信長公御馬を納らるべきの旨に候。


其の一両日以前に、朝倉方へ使者を立てさせられ、迚(とて)も是れまで出張の間に候間、日限をさし、一戦をもつて果てられ候へと、堀久太郎(堀秀政)を以て仰せ遣はされ候と雖(いえど)も、中々返答に及ばざるの間、虎後前山(虎御前山)には、羽柴藤吉郎と定番として、入れおかる。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

(備考)ここからも朝倉義景の覇気のなさ、戦意の低さが垣間見える。
朝倉義景の窮地を助けんが為に縁者の誼を捨てて、朝倉家へ義理立てした浅井長政の心中を思うと・・・w

小谷山城は日本でもっとも標高の高い城として知られており、その峻厳な要塞を攻めるにはかなりの犠牲を覚悟せねばならなかったのだ。
信長は力攻めを思いとどまり、このまま1か月が過ぎた。

 (備考)これは私の想像だが、信長は背後の武田信玄の動向に神経を尖らせており、浅井・朝倉連合軍との決戦を焦っていたのかもしれない。
事実、信玄はこれから冬にかけて大規模な攻勢を仕掛け、徳川家康領の遠江・三河を攻めるのである。

9月14日

北近江の信長陣に加わっていた幕臣の細川藤孝と三淵藤英が上洛する。(兼見卿記)

9月15日

北近江の信長陣に加わっていた明智光秀も上洛。(兼見卿記)

9月16日

埒が明かないと判断した信長は、虎御前山の砦に木下秀吉を入れ置き、横山城に引き上げ、そのまま岐阜に帰城する。
この信長が横山へ引き上げたのを見て浅井井規(あざいいのり=七郎)を大将に、浅井、朝倉連合軍が虎御前山の砦へと襲い掛かった。
しかし、木下秀吉が迎撃してこれを撃退したという。
とりわけ滝川彦右衛門の軍功は目覚ましかったようだ。=虎御前山の戦い (信長公記)

嫡男・信重(織田信忠)の初陣3
元亀3年(1572)虎御前山の戦い
来世ちゃん
来世ちゃん

岐阜へと戻った信長は、信長包囲網の首謀者である足利義昭に異見十七ヶ条の条書を送りつけます。

そしてついに甲斐の虎・武田信玄が動きだし、信長絶体絶命の窮地に陥ることとなるのです。

来世ちゃん
来世ちゃん

万事休す。

いよいよ次回が元亀の争乱時代、一番の盛り上がりポイントです!

お楽しみに~

織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.) イマココ

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