織田信長の年表ちょっと詳しめ 織田信重(信忠)の初陣

この記事は約51分で読めます。
織田信忠
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。

今回はついに嫡子・織田信忠が初陣します。

信長は大胆にも浅井・朝倉連合軍に決戦を挑み、雌雄を決しようとしました。

今回は元亀2年(1571)9月下旬からはじめる。

(ここまでの流れ)

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.) イマココ
  10. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  11. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  12. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  13. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

元亀2年(1571)

38歳

義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革

9月17日

信長、小早川隆景へ元就逝去の弔電を送る。『小早川家文書』一『小早川家什書』七

元就御逝去、不及是非候、連々申承之条、別而痛入候、委曲輝元へ以使僧令申候、仍御分国中弥被任存分之由可然候、殊讃刕表発向珍重候、五畿内亦無別条候、於様躰者、柳沢可申候、恐々謹言
  九月十七日   信長(花押)

   小早川左衛門佐殿

(書き下し文)
元就御逝去、是非に及ばず候。
連々申し承るの条、別して痛み入り候。
委曲輝元へ使僧を以て申さしめ候。
仍って御分国中いよいよ存分に任せらるるの由然るべく候。
殊に讃州さんしゅう表発向珍重に候。
五畿内もまた、別条無く候。
様躰ようだいにおいては、柳沢(元政)申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
毛利元就は本年6月14日に75年の生涯を閉じた。
そこで信長は、小早川隆景のもとへ使僧を派遣し、弔意を示した。
柳沢元政は幕府奉公衆の一人である。

同日

信長、烏丸光康に摂津国上牧かんまきの地を改めて安堵する。『烏丸家文書』

摂州之内上牧之事、不相易可被仰付候、不可有相違之状如件
  元亀弐
   九月十七日   (信長朱印)

    烏丸殿
      雑掌

(書き下し文)
摂州の内上牧の事、相変わらず仰せ付けらるべく候。
相違有るべからざるの状くだんの如し(以下略)

(備考)
永禄12年(1569)正月、信長は烏丸光康に摂津国上牧の地を安堵した。
光康は動乱の続くこの地に、改めて信長の朱印状を要請したのだろうか。
のちに光康は足利義昭の勘気に触れ、一時蟄居している。『異見十七ヶ条』

9月18日

信長、京を発ち近江永原城に泊まる。
公家の竹内季治を同地で処刑。『言継卿記』『信長公記』

9月20日

信長、岐阜に帰城。『言継卿記』『信長公記』

9月24日 早朝

明智光秀、兵1000ばかりを率い摂津国高槻へ出陣。『言継卿記』

9月25日

一色藤長・同昭秀・上野秀政ら、摂津国へ出陣。『言継卿記』

同日

信長、鴘鷹(へんたか)を譲渡した上杉謙信に感謝し、さらに近況を伝える旨の書状を発給。『上杉家文書』一

生易之鴘鷹御随身之条、可見給之由、任せ御内意之旨、鷹師差下候き、即時遂一覧之候、誠希有之次第驚目候、秘蔵自愛更不知校量候、頓以使者御礼可申展之処、就上意之趣、去月中旬令上洛候、幾内之躰無別条候間、一両日以前納馬之式候、従之御礼延引之候、先染一翰以飛脚申候、毎々御懇情之至難謝候、必追而使者可進之候、猶期其節候、恐々謹言
  九月廿五日   信長(花押)

   上杉弾正少弼殿
         進覧之候

(書き下し文)
生易の鴘鷹御随身の条、見給うべきの由、御内意の旨に任せて、鷹師差し下し候き。
即時これ一覧を遂げ候。
誠に希有の次第、目を驚かし候。
秘蔵自愛更に校量するところを知らず候。
やがて使者を以て御礼を申し述ぶべきのところ、上意の趣きにつき、去月中旬に上洛せしめ候。
畿内のていは別条無く候間、一両日以前に納馬の式に候。
これによって御礼おんれい延引の候、先ず一簡を染め、飛脚を以て申し候。
毎々御懇情の至り謝し難く候。
必ず追って使者をまいらすべく候。
なお、その節を期し候。恐々謹言(以下略)

9月27日

信長、河内石清水八幡宮祠官の田中長清へ神領狭山郷を御牧みまき摂津守が違乱したことにつき、これを排除する旨の書状を発給。『石清水文書』三

石清水八幡宮領狭山郷之事、御牧雖令違乱、為神領上者、徐其妨、如前々領知不可有相違、仍執達如件
  元亀弐
    九月廿七日   信長(朱印)

     田中御門跡
         雑掌

(書き下し文)
石清水八幡宮領狭山さやま郷の事、御牧みまき違乱せしむるといえども、神領たるの上は、その妨げを除き、前々の如くに、領知相違有るべからず。仍って執達くだんの如し(以下略)

 (備考)
宛名の田中御門跡は、田中長清のこと。
石清水八幡宮領の山城狭山郷を、御牧摂津守が違乱した。
信長はその地を石清水八幡宮領であることを認め、御牧の横領を排除せよと田中長清に命じた。
すでに9月14日に石清水八幡宮領山城狭山郷のことについて、宮中は信長へ女房奉書を発給した。『御湯殿の上の日記』
今回信長は、これを受けて朱印状を発給したと考えられる。
とすると、「執達如件」は幕府の意というよりは、禁裏の意なのかもしれない。

9月30日

公武御用途として山城国阿弥陀寺へ段別の課税を命じる。(松田秀雄・塙直政・島田秀満・明智光秀連署状)『阿弥陀寺文書』三『妙顕寺文書』『妙蓮寺文書』鳥居大路良平氏所蔵文書所収『加茂惣中宛文書』『同御曽路池惣中文書』

為公武御用途被相懸段別之事、右不謂公武御料所幷寺社本所領、同免除之地、私領、買得屋敷等、田畠壱反別一升宛、従来拾月壱五日、廿日以前、至洛中二条妙顕寺可致運上候、若不依少分隠置族在之者、永被没収彼在所、於其身者則可被加御成敗之由、被仰出候也、仍如件

  九月晦日  明智十兵衛尉
            光秀(黒印)
        嶋田但馬守
            秀満(黒印)
        塙九郎左衛門尉
            直政(黒印)
        松田主計大夫
            秀雄(黒印)


   阿弥陀寺

(書き下し文)
公武御用途として相懸けらるる段別たんべつの事、右、公武の御料地並びに寺社本所領・同じく免除の地・私領・買得ばいとく屋敷等と言わず、田畠でんぱた反別たんべつに一升を宛て、来たる十月十五日より、二十日以前に洛中二条の妙顕寺に至りて運上致すべく候。
もし少分によらず隠し置くやからこれあらば、永くかの在所を没収せられ、その身に於いては、則ち御成敗を加えらるべきの由、仰せ出され候也。仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
反別・段別(たんべつ)=田を1反ごとに分けること。1反を単位とすること。また、それに課税すること。
文中の「田畠一反別に一升を宛て」は、田畠一反あたり一升と定めてという意味。

面積の単位は
1歩(いちぶ)=3.3m2=1坪
1畝(いっせ)=99m2=30歩=30坪
1反(いったん)=990m2=10畝=300坪
1町(いっちょう)=9900m2=10反=3000坪
※時代や地方により差異あり

1升は米10合分。時代や地方によって可変。
信長は朝廷と幕府の経済を立て直すため、洛中・洛外すべての田畠に対し、一段(反)に一升の段別米を掛け、本年9月15日から20日までの間に洛中二条の妙顕寺に持参させた。
『言継卿記』元亀二年(1571)十月九日条によると、同文書は五六百通は発給されたそうだ。
関連文書は同年10月15日付に洛中立売組中宛明智光秀等連署状案もご参照されたい。

9月

信長、尾張国府宮へ3ヶ条の条書を下す。『大津延一郎氏所蔵文書』

   定     苻中府宮

一、当市場諸役免除之事、
一、郷質、所質不可執之、押買、狼藉すべからさる事、
一、俵子、しほあひもの可出入事、
右条々、違背之輩あらは、速可処厳科者也、仍所定如件、

  元亀弐年九月日   (信長朱印)

(書き下し文)
  定     府中府宮
一、当市場の諸役しょやく免除の事
一、郷質ごうじち所質ところじち、これ取るべからず、
  押買い・狼藉すべからざる事
一、俵子・塩相物の出入りすべき事
右の条々、違背の輩あらば、速やかに厳科に処すべきものなり。
仍って定むるところくだんの如し(以下略)

 (備考)
郷質(ごうじち)は郷で抵当権を執行すること。
所質(ところじち)は場所を選ばず抵当権を執行すること。
俵子は白米の俵。
塩相物は塩漬けにした魚のこと。
府中府宮は尾張国中嶋郡の大国霊おおくにだま神社のこと。
尾張国の総社として信仰を集めた。
このたび信長は、同地の市場全ての負担の免除。
郷質や所質をとること。
不法に買い入れることや狼藉をしてはならないことなどを命じた。

10月3日

相模の大名・北条氏康没

10月10日

松永久秀、山城宇治槙島城を攻撃する。『言継卿記』

10月14日

信長、細川藤孝に山城勝竜寺城の普請を命じる。『米田氏所蔵文書』

勝竜寺要害之儀付而、桂川より西在々所々、門並人夫参ヶ日之間申付被、可有普請事簡要候、仍如件
 元亀弐
   十月十四日   (信長朱印)

    細川兵部太輔殿

(書き下し文)
勝竜寺要害の儀につきて、桂川より西の在々所々、門並びに人夫三ヶ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候。仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
長岡の勝竜寺は西国街道の要衝にあたる地。
細川頼春がはじめて築城し、応仁・文明の乱の際は畠山義就が居城。
のち石成友通が守備し、永禄11年(1568)に信長が攻め込んで以降は細川藤孝が入っていた。
昨年の野田・福島の戦い以降、摂津国は未だ不安定な地であった。
そうした情勢からなのか、このたび信長は桂川より西岸の家屋は、門毎に一人の人夫を三日間徴用して普請にあたらせるよう命じたのだろう。

同日

松永久秀が山城木津城周辺を苅田し焼き払う。『多聞院日記』

10月15日

松田秀雄、塙直政、島田秀満、明智光秀が連署で洛中立売組中へ税制の抜本的な改革を通達。『京都上京文書』一

禁裏様御賄、八木京中江被預置候、但一町ニ可為五石充条、此方案内次第罷出、八木可請取之、利平可為三話利、然而来年正月ヨリ、毎月一町ヨリ壱斗弐升五合充可進納之、仍本米為町中永代可預置之状如件
 十月十五日   明智十兵衛尉
          光秀
         嶋田但馬守
          秀満
         塙九郎左衛門尉
          直政
         松田主計大夫
          秀雄

  立売組中

(書き下し文)
禁裏様御賄おんまかないとして、八木はちぼく京中へ預け置かれ候。
但し一町に五石充てたるべきの条、此方こなた案内次第に罷り出で、八木はちぼくこれを請け取るべし。
利平は三割たるべし。
然して来年正月より、毎月一町より一斗二升五合これを充て進納すべし。
仍って本米は町中として永代預け置くべきの状くだんの如し。(以下略)

 (備考)
八木(はちぼく)=米のこと。米の字を分解すると八と木になるところから。
利平(りへい)は利息のこと。
明智光秀らが連署で公武御用途として京都中から段別の課税を命じる触れを出した。『阿弥陀寺文書』三『妙顕寺文書』『妙蓮寺文書』鳥居大路良平氏所蔵文書所収『加茂惣中宛文書』『同御曽路池惣中文書』など
これにより、洛中・洛外から集められた米520石を京都の町に貸し付け、その利息分を御所費の一部に充てた。
下京43町に215石、上京84町には305石貸し付けることに成功した。
下京一町平均5石、上京一町平均3石7斗5升と『立入文書』の「禁裏様江参御米之事」と題する冊子本に記されているようだ。
別に同家には『立入家相伝元亀二年御借米之記』という写本がある。
これらによると、下京からは215石に3割の利米をつけ、元亀3年(1572)正月から月割にして5石3斗7升5合を立入氏に納入した。
また、同家が所蔵する『上下京御膳方御月賄米寄帳』によると、上京の利米は7石6斗2升5合だから、利率は3割である。
こうして毎月上京・下京から13石が納入された。
この13石のうちで禁裏の賄米として6石6斗2升5合が使用された。『織田信長文書の研究 上』

また、『信長公記』にはこのようなことが記されている。


先年日乗上人、村井民部丞為御奉行被仰付

(中略)

其上 (闕字)御調物、於末代無懈怠様に可有御沙汰、 (闕字)信長公被廻御案ヲ、京中町人尓属詫被預置、其利足毎月進上候之様尓被仰付候、幷怠轉之公家方御相續、是又重畳御建立、天下萬民一同之満足、不可過之々々、於本朝、御名誉、御門家之御威風、不可勝計、亦御分國中、諸關諸役御免許、天下安泰、往還旅人御憐慇、御慈悲甚深ニメ、御冥加モ御果報も超、世尓彌增御長久之基也、併學道立身被欲擧御名後代故也、珍重々々

   『信長公記』巻四「叡山御退治之事」より抜粋

(註)
「淸」=清、「属託」=嘱託、「幷」=並、「轉」=伝、「續」=続、「關」=関、「彌」=弥、「增」=増、「學」=学、「擧」=挙

(書き下し文)
先年日乗上人(朝山日乗)、村井民部丞(村井貞勝)を御奉行に仰せ付けられ
(中略)
その上御調物、末代に於いて懈怠無き様に御沙汰有るべく、(闕字)信長公御案を巡らされ、京中町人に嘱託を預け置かれ、その利息を毎月進上候の様に仰せ付けられ候。
併せて退転の公家方の御相続、これまた重畳御建立、天下万民一同の満足、これに過ぐべからず云々。
本朝に於いて御名誉・御門家の御威光あげて数うべからず。
また、御分国中の諸関・諸役しょやくの御免許(免除)、天下安泰、往還旅人御憐慇、御慈悲甚深ニメ(ここ不明)、御冥加も御果報も超え、世にいよいよ増御長久の元なり。
併せて道を学び、身を立つるも、御名後代に挙げんと欲する故なり。珍重珍重。

10月17日

筒井順慶の軍勢が大和「タチカラ?」近辺で出撃。『多聞院日記』

10月26日

織田軍先発衆が上洛する。『多聞院日記』

10月

信長、尾張国津島の牛頭天王社に金銭を貸す旨の朱印状を発給。『張州雑誌抄』二十七『津嶋神社旧記』

御朱印写九通

其方借物方之事、依不辯不能返辯、神伇亦及退転之由候、所詮以本銭、限十ヶ年可為究返候、若銭主於違背者、可成敗之状如件
 元亀弐
  十月日    信長朱章

  津嶋天主
    神主殿

(書き下し文)
御朱印写九通
其の方借物方の事、不弁にして返弁あたわざるに依り、神役もまた退転に及ぶの由に候。
所詮本銭を以て、十ヶ年を限り究返たるべく候。
もし銭主違背に於いては、成敗すべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
津島の牛頭天王ごずてんのう社(現在の津島神社)は、織田氏の信仰が厚いようだ。
その神主は織田氏によって何度も経済的困窮を救われている。
本状もそうした内容で、神事の勤仕も不十分になったと聞き「元金を十ヶ年で完済せよ」としたのである。

10月

織田信長、尾張国津島神社神官の真野善二郎へ故父真野兵部の跡職を安堵する旨の朱印状を発給。『服部藤太郎氏所蔵文書』

父真野兵部跡職之事、任文状之旨、田畠、野、林、屋敷幷借付財宝以下、悉一職進退ニ申付上、無相違可任覚悟之状如件
  元亀弐
    十月日     信長(朱印)

     真野善二郎殿

(書き下し文)
父真野兵部跡職あとしきの事、文状の旨に任せ、田畠・野・林・屋敷並びに借し付けの財宝以下、悉く一職いっしき進退に申し付くるの上は、相違無く覚悟に任すべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
判物でたびたび登場する「一職いっしき進退に申し付くる」とは、心のままに扱うという意味。
真野氏は津島神社の神主である。
父の真野兵部が死去したので、それを譲り受ける旨の朱印状を信長より貰い受けたのだろう。

11月1日

織田信長、足利義昭に上申したとおりに奉行人を出向させた伊勢三郎へ、幕府政所執事の職を安堵。『本法寺文書』

今度城州段別之儀、為政所職奉行人被出可然之旨、公儀へも申上候処、其通被申付之由可然候、於政所役者、向後も不可有異儀候、将又高槻番手之事、被申付之由尤候、猶夕庵可申候、恐々謹言
  十一月朔日   信長(花押)

   伊勢三郎殿

(書き下し文)
このたび城州段別たんべつの儀、政所まんどころ職として奉行人を出され然るべきの旨、公儀へも申し上げ候ところ、その通り申し付けらるるの由、然るべく候。
政所役に於いては、向後きょうこうも異議有るべからず候。
はたまた高槻番手の事、申し付けらるるの由、もっともに候。
なお夕庵せきあん(武井夕庵)申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
信長は禁裏と幕府の経済事情を好転させるため、抜本的な改革に乗り出した。『京都上京文書(十月十五日付明智光秀ほか連署状)』『阿弥陀寺文書(九月晦日付松田秀雄ほか連署状)』
それに関連して、幕府政所執事である伊勢貞興(三郎)は、信長の上申で奉行人を出向させる。
これにより、彼は政所執事を保証された。
西国街道の要衝に位置する摂津高槻城は、義昭上洛以来和田惟政が居城としていた。
しかし、反義昭陣営との戦いにより、本年8月28日に惟政は討死。
しばらく高槻城を守備したのは、幕臣の三淵藤英であった。『言継卿記』
同時期に摂津国の各所で藤英発給の禁制が残っている。『今西文書』『原田神社文書』
なお、伊勢貞興(三郎)は当時10歳。
当然幕府の実務を担える経験は浅い。

旧叡山領における幕臣・織田家臣の違乱

11月8日

慈専(泉涌寺の奉行人か)、公家の山科言継に木下秀吉が泉涌寺の寺領を横領したと訴え、女房奉書の発給の口添えを依頼。『言継卿記』

11月9日

正親町天皇、山科言継の上奏を受け、将軍・足利義昭と信長家臣・木下秀吉へ横領禁止を通達する女房奉書を発給する。『言継卿記』

11月21日

織田信長、松永久秀の籠もる大和国多聞山城の攻撃のために、近日中に上洛する予定であることを京都賀茂惣中へ告げる。
そこには筒井順慶と談合し、急ぎ付城を築いて攻略するように指令したとあるが未確認。『沢房吉氏所蔵文書』

11月24日

石山本願寺門跡の顕如、越前朝倉義景(左衛門督)、同景鏡(式部大輔)、同景健(孫三郎)へ激励する旨の書状を発給。 『顕如上人御書札案留』

依便路不輙□不申通様候、先以世上未休之爲體、殊更今般北嶺之儀、非所及言詞候、随而江北表之儀、浅父子被相談無油斷御調略此莭候、李部へ此旨申候、併貴邊可爲御行次第事候、次虎豹皮□(五カ)枚進之候、任顕?(到カ)來計候、委細之旨、頼総法印可申入候、
   十一月二十四日  — —

   朝倉左衛門督殿

(書き下し文)
便路容易たやすからずにより、□申通さず様に候。
まず以て世上未だ休みの体たらく、ことさら今般
※北嶺の儀、言詞げんしに及ぶ所あらずに候。
従って江北表の儀、浅父子と相談ぜられ、油断無く御調略この節に候。
李部へこの旨を申し候。
併せて貴辺の御てだて次第たるべき事に候。
次いで虎豹皮□(五カ)枚これをまいらせ候。
□来に任せるばかりに候。
委細の旨、頼総法印(下間頼総)申し入れるべく候。(以下略)

※「北嶺の儀」は比叡山焼き討ちを指す

其以来兎角無音之儀候、世上難計候、我(?)不能(?)力伸候、仍江北表之儀、當分第一候、貴國憑入之外不可有他事候、切に浅被相談御調略肝要候、將亦織筋三端進之候、比興々々、猶丹後法印可令申候也、
   十一月二十四日

   朝倉式部大輔殿

(書き下し文)
それ以来とかく無音の儀に候。
世上計り難く候。
(我(?)不能(?)力伸候、 ここ不明)
って江北表の儀、当分は第一に候。
貴国に頼み入るの他は、他事有るべからず候。
切に浅と相談ぜられ、御調略肝要に候。
はたまた、織り筋三端これをまいらせ候。
比興ひきょう比興。
猶丹後法印(下間頼総)申せしむべく候なり。(以下略)

久不申承候、世上未落居之式不能是非候、仍江北表之儀爲貴國於無御合力者、果而可爲難堪候、愈御才覺此刻候、次見來候間、織筋二端進之候、左別左別、尚丹後法印可申候也
   十一月二十四日

   朝倉孫三郎殿

(書き下し文)
久しく申し承らず候。
世上未だ落居の式是非に能わず候。
仍って江北表の儀、貴国(として? ここ不明)御合力無きに於いては、果たして耐え難くたるべく候。
いよいよ御才覚このきざみに候。
次いで見来に候間、織り筋二端これをまいらせ候。
左別左別。
尚丹後法印(下間頼総)申すべく候なり(以下略)

同日

石山本願寺門跡の顕如、近江浅井長政(備前守)、久政(下野守)父子へ激励する旨の書状を発給。 『顕如上人御書札案留』

其表堅固之由珍重候、切々越州被相談調略肝要候、右之趣對義景、景鏡具ニ申贈事候、仍織筋十面進之候、任所在計候、比興々々、爰許聊無異儀候、委細丹後法印可令申候也
   十一月二十四日

   浅井備前守殿

(書き下し文)
その表堅固の由珍重に候。
切々越州と相談ぜられ、調略肝要に候。
右の趣き義景・景鏡に対し、つぶさに申し送る事に候。
って織り筋十面これをまいらせ候。
所在に任せるばかりに候。
比興ひきょう比興。
爰許ここもといささかも異議無き候。
委細丹後法印(下間頼総)申せしむべく候なり(以下略)

態染一翰候、仍就敵對城調略寔不可有油斷候、併御一身之勞令推察候、越州被相談愈於不被得大利を(ママ)果而不可有其曲候哉、彼方へ此旨申候、悉皆可在御才覺候、次梅染十端進之候、表音問計候、猶丹後法印可申宣候條、不及詳候也、———
   十一月二十四日  —  —

   浅井下野守殿

(書き下し文)
わざと一簡を染め候。
って敵対城調略に就きて、誠に油断有るべからず候。
併せて御一身の労り推察せしめ候。
越州と相談ぜられ、いよいよ大利を得られずに於いてを(ママ)、果たしてその曲がり有るべからず候
彼方へこの旨申し候。
皆悉く御才覚あるべく候。
次いで梅染十端これをまいらせ候。
音問を表すばかりに候。
猶丹後法印(下間頼総)申し述ぶべく候条、詳らかには及ばず候なり(以下略)

12月7日

信長の命をうけた佐久間信盛が、神領狭山郷横領の件で片岡俊秀へ書状を発給。『古蹟分微』十『石清水文書』三
(※石清水文書は写し)

御書拝見、本懐至極候、仍狭山郷之儀、先一着之姿、尤存知候、信長明春早々可為御上洛之条、其節如御本意可被相澄候、於我等聊不可存疎意候、随而杉原十帖被懸御意、過当候、猶御使者可有御演説由、可預御披露候、恐々謹言
  十二月七日   信盛(花押)


 (切封ウハ書)
「(墨引)      信盛(花押)
     佐久間右衛門尉
   片岡左衛門尉殿  信盛」

(書き下し文)
御書拝見、本懐至極に候。
仍って狭山郷の儀、先ず一着の姿、尤もに存じ候。
信長は明春早々に御上洛たるべきの条、その節御本意の如くに相済ませらるべく候。
我等に於いてはいささかも疎意を存ずべからず候。
従って杉原十帖を御意に懸けられ、過当に候。
なお御使者御演説あるべきの由、御披露に預かるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
本年9月27日に信長の朱印を得た田中長清は、御牧摂津守と交渉した。
摂津守はこれを承諾するが実行はしなかった。
長清の訴えを受けた信長が、佐久間信盛に命じて出したものが本状である。
来春早々に信長が上洛するから、その前に御牧が違乱した地を返還せよとのことである。
片岡俊秀(左衛門尉)は御牧摂津守の被官。

同日

佐久間信盛の被官である日比野長吉(藤十郎)も、片岡俊秀に書状を発給している。『石清水文書』三

御書謹而頂戴候、仍狭山郷之儀、先以一通之様候、尤ニ奉存候、明春信長御在洛之砌□□意、可被得達□、信栄も不存疎意候条、弥御入魂之段、連々可申聞候、細方左申入候間、可有御演説候、宜預御披露候、恐々謹言
  十二月七日   長吉(花押)

   片岡左衛門尉殿

(書き下し文)
御書謹みて頂戴候。
仍って狭山さやま郷の儀、先ず以て一通の様に候。
尤もに存じ奉り候。
明春信長御在洛のみぎりに□□意、可被得達□、信栄も疎意に存ぜず候条、いよいよ御昵懇の段、連々申し聞かすべく候。
(委が抜けているかも)細、方左申し入れ候間、御演説あるべく候。
宜しく御披露に預かるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
日比野長吉(藤十郎)は佐久間信盛の老臣。
信栄は信盛の嫡子である信栄である。

12月9日

山科言継、岐阜に下向して織田信長と会談。
昨年比叡山焼き討ちにあった延暦寺法主・覚恕法親王(正親町天皇の弟)を話題にあげる。『言継卿記』

12月10日

正親町天皇が織田信長へ綸旨を下す。
その内容は比叡山の旧領を信長が明智光秀らに知行として与えたことで、明智らが横領したとし(信長は関知しないとする配慮・遠慮)、その返還を求める内容である。『言継卿記』

12月14日

岐阜から出て尾張国で鷹狩りをする。
坂井利貞が供をする。『言継卿記』

12月15日

誠仁親王に子が生まれる。
後の後陽成天皇である。

12月17日

某による御牧摂津守宛の書状案あり。『石清水文書』三

態令啓候、仍狭山郷之儀、自往古無相違神領之由、被聞召分、対田中門跡被成御朱印候之処、拙者次第之由候而、無承引之由、不可然候、殿様被聞召候而者如何ニ候、早々御違乱可被相止事肝要候、猶使者可申候、
  十二月十七日 (署名闕)

   御牧摂津守殿

(書き下し文)
わざと啓せしめ候。
仍って狭山郷の儀、往古より相違なき神領の由、聞こし召し分けられ、田中門跡に対して御朱印を成され候のところ、拙者次第の由に候て、承引無きの由、然るべからず候。
殿様聞こし召され候ては如何に候。
早々御違乱を相止めらるべきの事肝要に候。
猶使者申すべく候。(以下略)

12月19日

織田家中の山口又左衛門尉・菅屋四郎右衛門が上洛。
在庄等の件を山科言継が諸門跡へ通達するよう取り計らう。『言継卿記』

 (備考)菅屋四郎右衛門は菅屋長頼とは別人と考えられる。
この両名は言継の岐阜来訪の際に、上洛を促されて実務に当たったと考えられる。

同日

筒井順慶が大和国十市郷へ総攻撃を仕掛ける。『多聞院日記』

12月22日

木下秀吉、山城賀茂神社役者中へ、昨年発行された徳政について通達。

  • 公方様の御下知と織田信長の御朱印により徳政免除が出されたが、未だに実行されずに難渋しているのは言語道断のこと
  • 違反した場合は来春の上洛時に厳命する

12月23日

木下秀吉、山国狭山郷の名主・百姓中へ、石清水八幡宮田中門跡領問題の件で書状を発給。『石清水文書』三

石清水八幡宮田中御門跡御領年貢、諸成物等、堅可相拘候、双方へ納所候而者、不可然候、来春可罷上候条、其刻可相済候、以上
       木下藤吉郎
 十二月廿三日   秀吉(花押)

  城州狭山郷
    名主百姓中

(書き下し文)
石清水八幡宮田中御門跡もんぜき御領の年貢・諸成物等、堅く相かかうべく候。
双方へ納所なっしょ候ては、然るべからず候。
来春に罷り上るべく候条、そのきざみ相済ますべく候。以上(以下略)

 (備考)
相拘う(あいかかう)=保管しておくこと
信長は翌年3月7日に上洛する。
そして3月21日に厳重な朱印状が出されることとなる。

12月24日

山科言継、在京中の木下秀吉が今日明日中に岐阜に下向するという風聞を聞く。『言継卿記』

12月25日

村井貞勝が山科言継を訪問。
貞勝は一時的に尾張清州に帰宅しており、昨晩京都に戻ってきたようだ。『言継卿記』

12月27日 未刻

幕臣の細川藤孝、岐阜に到着。『言継卿記』

12月28日

信長、数日間の領内巡察・鷹狩りを終えて岐阜に帰城する。
公家の山科言継は信長の帰宅を何日か岐阜城下で待っていたようだ。
信長と対面した言継は、正親町天皇からの綸旨と女房奉書、勅作之御薫物を「御杉」を以て申し渡す。
武井夕庵と大方の様子を問答する。『言継卿記』

12月29日

岐阜の山科言継宿にて村井貞勝、明智光秀、細川藤孝が集まり、茶会が催される。『言継卿記』

同日 黄昏

松井友閑が山科言継を訪れ、信長よりの贈り物として小袖袷・肩衣袴などを贈呈する。『言継卿記』

12月

信長、佐久間信盛に所領を加増する。『吉田文書』『東京大学史料編纂所所蔵文書』

元亀二年十二月日付け領中方目録写(書き下し文)

『元亀二年十二月日付け領中方目録写(東京大学史料編纂所所蔵文書)』

 (備考)
それに関する記事を過去に書いたことがあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。

関連記事:~忠義か家名存続か~戦国時代の書状から見える闕所(欠所)の無常さ

元亀3年(1572)

39歳

不穏な近江事情

この頃

信長嫡子奇妙丸、元服か。
勘九郎信重と名乗る。

1月14日

石山本願寺門跡の顕如、武田信玄(徳栄軒)へ信長の背後を脅かす旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

厥後兎角打過様候、連年異于他申談之儀、今以彌御入魂本懐候、仍太刀一腰吉包、腰物兼光、黄金五拾両推進之候、聊表音問計候、就中今般信長働無其隠事候歟、對當寺條々無謂次第、不能申展候、今春令上洛攝河表可出馬之由其聞候、随而彼軍兵等被相支之、其上當寺屬本意様御調略、可爲快然候、委細難盡紙而候、長延寺龍雲齋可申入候、偏御思慮之外無他候、猶上野法眼可令申候、———
   正月十四日   —御判無之

   徳榮軒

※同日付の顕如書状に、信玄宛で上杉謙信に対する対策を記したもの、武田勝頼(四郎) 宛で、今後とも昵懇に願う書状あり。

 (備考)
武田信玄は公家の三条家の息女を正室にしているが、その妹を顕如が娶っていた。
そうした繋がりから、本願寺は信玄に依頼したと考えられる。
しかし、当時の信玄は織田家との友好関係を保っており、武田家は本願寺-織田間の和睦に奔走することとなる。(元亀3年9月10日付顕如書状参照)
なお、信玄からは越後や能登・加賀の一向一揆門徒衆の蜂起を依頼している。

1月19日

明智光秀、吉田神社の吉田兼和(兼見)を訪れ、念頭賀使をする。『兼見卿記』

1月21日

吉田兼和(兼見)、近江坂本に下り明智光秀を訪問。『兼見卿記』

同日

信長、飯川信堅と曽我助乗に宛てて、大坂への派兵を伝える。『実相院及東寺宝菩提院文書(尊経閣文庫所蔵)』四

中嶋、高屋表調儀之子細候間、為行柴田修理亮差上候、御出勢之儀被仰出、各無弓断可被相働事簡要候、為天下候間、各軽々与出陣可然存候、此等之旨可被達上聞候、恐々謹言
  正月廿一日    信長(朱印)

   飯河肥後守殿
   曽我兵庫頭殿

(書き下し文)
中嶋・高屋表調儀の子細候間、てだてとして、柴田修理亮しゅりのすけ(勝家)差しのぼせ候。
御出勢の儀仰せ出され、おのおの油断無く相働かれるべき事簡要に候。
天下のために候間、おのおの軽々と出陣然るべく存じ候。
これらの旨、上聞に達せらるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
昨年末、細川昭元は足利義昭に降った。
若江城主の三好義継、多聞山城主の松永久秀らは、安見新七郎(河内畠山氏の被官)の河内交野城を攻撃する。
そこで信長は、大坂の中嶋・高屋地域を平定するため、柴田勝家を派遣したことを将軍足利義昭に伝えた。
加えて幕府側からも兵を出すことを催促している。
宛名となる飯河信堅(肥後守)は幕府申次衆、曽我助乗(兵庫頭)は幕府詰衆である。

1月23日

佐久間信盛、近江高野荘の一向宗坊主および地侍らへ、親類の者が六角氏に味方しないように起請文(誓詞)の提出を求める。『福正寺文書』

佐々木承禎父子、一向之僧侶をかたらい、三宅、金森之城ニ立籠候、就夫南郡一向之坊主、地子長之輩、一味内通致間敷由、此度信長より被仰出畢、依之面々誓署、請書御取収可有之旨、御治定間、被得其旨、親類之物共たり共、一味内通仕間敷由、御請書之連署可被具見参候、猶違之輩ニおゐては、急度御仕置たるへし、此趣可承引候也、

           佐久間右衛門尉
 正月廿三日         信盛(花押)

  南郡高野庄
   坊主中
   地士長等中

(書き下し文)
佐々木承禎父子、一向の僧侶をかたらい、三宅・金森の城に立て籠もり候。
それに就きて、南郡一向の坊主・地士長のともがら、一味内通致すまじきの由、このたび信長より仰せ出されおわんぬ。
これにより、面々の誓署・請書を御取り収め有るべきの旨、御治定の間、その旨を得られ、親類の者どもたりとも、一味内通仕るまじきの由、御請書の連署をつぶさに見参せらるべく候。
なお違のやからにおいては、急度きっと御仕置たるべし。
この趣き承引すべく候なり(以下略)

 (備考)
この信盛の要請により、彼らが起請文を提出にしたのは本年3月19日のこと。
その60通は勝部神社に納められ、別当寺の天台宗三光院宝勝寺に残っているようだ。『栗太志』十三
信盛らが金ヶ森城・三宅城を攻め降すのは7月のことである。

1月30日

信長、腫物を患う松井友閑のために、近江芦浦観音寺に滞在する耶蘇会宣教師の医師を招致する書状を発給。『観音寺文書』

正月晦日付け織田信長朱印状+釈文

『観音寺文書(正月晦日付織田信長朱印状)』

 (備考)このことについて過去に記事にしたことがあるので、詳細は下記のリンクから。
関連記事:【古文書講座】信長が病の家臣を気遣い、わざわざ宣教師の医者を呼んだ時の書状

1月

横山城在番の木下秀吉、参賀の挨拶で岐阜へ赴く。
その隙をつき、浅井勢が横山城を攻撃するも、竹中重治(半兵衛)によって撃退される。
『北畠物語』『柏崎物語』

 (備考)
一次史料にはこのことについての記述がなく、『信長公記』にもない。

閏1月4日

遊佐信教が河内高屋城の畠山昭高を生害させようとしたが未遂に終わる。(多聞院日記)

閏1月20日

大和国奈良で大地震が発生。
「火神動」という風聞が立つ。(多聞院日記)

2月8日

本年1月30日付の芦浦観音寺へ薬師の派遣を要請した件で、武井夕庵が改めて薬師派遣を催促する。『観音寺文書』

友閑腫物煩ニ付て、其方ニ候外教くすし早々被遣之様ニと殿様直々御折帋被遣候、于今其御返事無之、くすしも不被越候、如何なる御事候哉、早々御越あるやう、夫丸、馬之事ハ佐甚九へ成共、貴所御馳走候て成共、被仰付候て、早々御越待申候、恐々謹言
  二月八日     夕庵
             爾云

   あし浦
    観音寺
      玉床下

(書き下し文)
友閑(松井友閑ゆうかん腫物はれもの煩いに付きて、その方に候外教げきょうくすし、早々遣わさるるの様にと、殿様直々御折紙おんおりがみ遣わされ候。
今にその御返事これ無く、くすしも越されず候。
如何なる御事おんことに候
早々御越しあるよう、夫丸ぶまる・馬の事は、佐甚九(佐久間信栄)へなりとも、貴所御馳走候てなりとも、仰せ付けられ候て、早々御越し待ち申し候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
夫丸(ぶまる)とは人夫・人足のこと。
折紙・折帋(おりがみ)とは一枚の紙を半分に折ったものを指すが、ここでは単に書状という解釈で良い。
佐久間信栄(甚九郎)は佐久間信盛の嫡男。
松井友閑と武井夕庵は信長の祐筆兼側近である。

「今にその御返事これ無く、くすしも越されず候。如何なる御事に候哉。」としていることから、芦浦観音寺からの返事がなかったようである。
当時、芦浦観音寺には耶蘇会(カトリック教徒の一教団)の一団が滞在していた。外教げきょうくすしとは彼らのことだろう。
戦国時代の日本医学は、それなりに内科は発達していたものの、外科では進歩が遅れていた。
宣教師は布教の方便として医療にも従い、弟子も養成していた。

浅井長政討伐のため湖北に出兵

3月3日

織田信長、永田景弘へ来たる3月7日に江北小谷口を攻めるので、鋤・鍬を持参して参陣するようにと通達する。(近江永田景弘宛織田信長朱印状写)『武家雲箋』『武家事紀』二十九

急度申遣候、来ル七日於江北小谷口相働、不違時刻、不寄老若、彼表江可打出候、仍執出可相構候間、鋤、鍬以下申付、可令持候、為其廻状差越候、恐々
   三月三日    (信長朱印)

 天正元也
    永田刑部少輔殿

(書き下し文)
急度きっと申し遣わし候。
来たる七日、江北小谷口に於いて相働き、時刻を違えず、老若に寄らず、かの表へ打ち出でるべく候。
仍って砦を相構うべく候間、すきくわ以下申し付け、持たしむべく候。
そのために廻状まわしじょうを差し越し候。恐々(以下略)

 (備考)
永田氏は近江八幡永田の小土豪。
永禄11年(1568)に信長が六角氏を攻めた際、後藤・進藤・永原・池田・平井・久里とともに信長に内応した。
この文書は鋤・鍬を持参するようにと命じているのが興味深いが、年次を天正元年(1573)としているなど疑問な点がある。
天正元年(1573)だと信長は江北へ出陣できる余裕はないため、この書状が本当であるならば元亀3年(1572)だろう。
なお、同様の内容を記した書状は大和の松永久秀にも発給されているが、こちらも疑問な点がある。『願泉寺文書(七月一日付織田信長書状案)』

3月5日

信長、浅井長政討伐のため岐阜城を発して美濃赤坂に着陣。『信長公記』

3月6日

木下秀吉の横山城に入る。『信長公記』

3月7日

小谷と山本山の間に野陣を張り、余呉・木ノ本辺りを放火。
浅井長政を挑発する。『信長公記』

3月9日

しかし、またしても浅井長政は小谷から打っては出ず、信長は横山城に帰る。『信長公記』

3月10日

近江常楽寺に泊まる。『信長公記』

3月11日

信長、志賀郡へ兵を出し、和邇に着陣。
木戸・田中に砦を築き、明智光秀(十兵衛)・中川重政(八郎右衛門)・丹羽長秀(五郎左衛門)を入れ置く。『信長公記』

3月12日

未の刻、兵700を率いて入京し、妙覚寺に寄宿する。『信長公記』『兼見卿記』

同日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督)へ援軍の祝儀として進物が届いたことを謝す旨の書状を発給。 『顕如上人御書札案留』

就縁邊之儀、只今太刀一腰長次馬一疋鴾毛十種十荷誠以喜悦至候、長久可申断事勿論候、委曲下間上野法眼可申入候、穴賢
   三月十二日

   朝倉左衛門督殿

○同時新門主へも一腰、一疋、十種十荷代萬疋、織物三端、引合十帖被進之候、上野法眼まで披露在之、これは上野わたくしより返事を申也

(書き下し文)
縁辺に就きての儀、只今太刀一腰(長次)・馬一疋鴾毛つきげ)・十種十荷誠に以て喜悦の至りに候。
長久に申し談ずべき事勿論に候。
委曲下間上野法眼(下間頼総)申し入るべく候。穴賢あなかしく
   三月十二日

   朝倉左衛門督殿(朝倉義景)

○同時に新門主(本願寺教如)へも一腰・一疋・十種十荷代万疋・織物三端、引合十帖これをまいらされ候。
上野法眼(下間頼総)披露これあり。
これは上野わたしくより返事を申すなり。

3月19日

南郡高野庄・坊主中・地士長等中ら、佐久間信盛に六角氏へ内通しない旨の起請文(誓詞)を提出。『勝部神社文書』

  敬白天罸霊社起証文之㕝、

一、金森、三宅江出入、内通一切不可仕㕝、
右之両城江自然出入之輩在之者、任御高札之旨、雖為六親、見隠不聞隠、御注進可申上㕝、

一、万一従当郷出入、内通之輩、聞召於被出者、親類、惣中共、可被加御成敗之事、



右此旨於偽者、我心ニ奉願御本尊幷霊社起請文之御罸、深厚可罷蒙者也、

元亀三年三月廿四日   駒井さわ村惣代
              兵衛五郎(略押)

              甚左衛門(略押)
            集村惣代
              駒井兵庫介(略押)

              同左近六郎(略押)
              源太郎兵へ(略押)
            進堂村惣代
              源太郎(略押)

              右近四郎(略押)
            大萱村惣代
              磯部修理之進(略押)
               勝俊式内
             浄翁(略押)

             了慶(略押)
            穴村惣代
              直六郎(略押)

              兵衛五郎(略押)

  御両三人
   御奉行中旨

(書き下し文)
  敬白けいびゃく天罰霊社起証文きしょうもん前書の事、

一、金森・三宅へ出入、内通一切仕るべからざるの事。
右の両城へ自然じねん出入りのやからこれ在らば、御高札の旨に任せて、六親ろくしんたりといえども、見隠し聞き隠さず、御注進申し上ぐべきの事。

一、万一当郷よりの出入り、内通の輩を、聞こし召し出さるるに於いては、親類・惣中どもに御成敗を加えらるべきの事。



右、この旨偽りに於いては、我心に願い奉る御本尊ごほんぞん並びに霊社の起請文の御罰を、深厚に罷り蒙るべきものなり(以下略)

 (備考)
本年1月23日に佐久間信盛が求めた起請文が、このたび提出されたものである。
本状は牛王宝印の神符を裏返して記されている。
同起請文の前書で三月十九日付のもの、二十一日付のものがあるのを確認している。

駒井さわ村は現在の草津市駒井沢町
集村は現在の草津市集町あつまりちょう
進堂村は現在の草津市新堂町
大萱村は現在の大津市瀬田南大萱・草津市北大萱
穴村は現在の草津市穴村町

上京の信長御座所 着工が始まる

この頃

将軍足利義昭、信長が京都に邸宅を構えないのを不憫に思い、上京の武者小路の地を信長の御座所として宛行う。『信長公記』『兼見卿記』


三月十二日 (闕字)信長公直尓御上洛、二條妙覺寺御寄宿、迚も細々御参洛の條 (闕字)信長公御座所無之候てハ、如何之由にて上京むしやの小路尓あき地の坊跡在之を、御居住尓可被相構の旨、被達 (闕字)上聞候の處、尤可然之由、被仰出、則従 (闕字)公儀御普請可被仰付之旨の御斟酌被及數ヶ度候、頻 (闕字)上意之事候間被應 (闕字)御諚、尾濃江三國之御伴衆者御普請被成、御赦免不仕候、畿内之面々等在洛尓て候、

  『原本信長記』巻五 むしやの小路御普請の事より抜粋

(書き下し文)
三月十二日。
信長公は直に御上洛。
二条妙覚寺に御寄宿。
とても細々御参洛の条、(公方様は)信長公御座所これ無く候ては、いかがの由にて、上京武者小路に空き地の坊跡これ有るを、御居住に相構えらるべくの旨、上聞を達せられ候のところ、尤も然るべくの由、仰せ出され、すなわち公儀より御普請仰せ付けらるべくの旨の御斟酌、数ヶ度に及ばれ候。
しきりに上意の事に候間応えられ、御掟を尾・濃・江三国の御伴衆は、御普請を成され、御赦免仕らず候。
畿内の面々等、在洛にて候。

 (備考)
信長は京都に自身の邸宅を構えず、上洛の際は妙覚寺や本能寺、医師半井氏の屋敷などを臨時で借りていた。
義昭はこれを不憫に思い、義昭は信長に上京の武者小路徳大寺邸の跡地を宛行った。
従来の研究では、義昭は信長陣営と繋がりつつ、信長とも懇意に接していたとされていたが、近年は見直されつつある。

この頃

大坂の石山本願寺、信長に万里江山の一軸と白天目茶碗を贈る。『信長公記』

この頃

細川昭元(六郎殿)と石成友通(主税頭)、初めて信長と面会。『信長公記』

3月21日

信長、山城国狭山郷を押領した御牧摂津守へ、紛れもなく同地は石清水八幡宮領であり、田中長清に重ねて信長の朱印を与えたことを伝え、改めて違乱を停止するように通達を出す。『田中家文書』『石清水文書』三 (元亀三年三月二十一日付織田信長朱印状案)

狭山郷之事、依申掠、被捕給所候シ、八幡領無紛上者、更競望不可有之候、最前田中門跡江重而朱印進之候シ、以其筋目、自門主雖被申断候、無承引由、無是非候、早々可被停止違乱候、不然者可為曲事候、恐々謹言
  元亀三
    三月廿一日    御朱印
               信長

     御牧摂津守殿

(書き下し文)
狭山郷の事、申しかすむるにより、せられ給う所候し。
八幡領に紛れ無きの上は、更に競望これ有るべからず候。
最前田中門跡へ重ねて朱印これをまいらせ候し。
その筋目を以て、門主より申し談ぜられ候といえども、承引無きの由、是非無く候。
早々違乱を停止ちょうじせらるべく候。
然らずんば、曲事くせごとたるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
御牧摂津守は山城狭山郷の隣地に住む土豪。
信長が御牧摂津守の不法行為を禁止したのは、昨年9月27日である。
元亀2年(1571)12月17日付の佐久間信盛書状には、「信長は明春早々に御上洛たるべきの条、その筋御本意の如くに相済ませらるべく候」
としているが、どうやら御牧摂津守は横領を続けたままだったと見える。

3月24日

足利義昭主導による京都の信長御座所普請の御鍬始が行われる。
御普請奉行は村井貞勝・島田秀満・大工棟梁の池上五郎右衛門であった。『信長公記』

3月27日

三淵藤英と細川藤孝が京都の信長御座所の築城普請を奉行する。『兼見卿記』

 (備考)なお、この邸宅は完成を見ずに翌年、信長が上京を焼き討ちした際に延焼してしまう。

上京信長御座所の位置
上京信長御座所の位置

三好義継も信長に反旗を翻す

3月

織田信長、摂津尼ヶ崎長遠寺へ全7ヶ条の条書を下す。(長遠寺文書)

4月3日

吉田兼右、信長を訪問し面会する。
信長は機嫌よく暫し雑談。
金子1枚を賜わる。
明智光秀が馳走を取りなす。(兼見卿記)

4月4日

明智光秀、滝川一益、佐久間信盛、柴田勝家が連署で河内国住人の片岡弥太郎へ書状を出す。
内容は、来たる4月14日に河内へ出兵する旨を伝え、片岡弥太郎の出勢と合城を厳命する。(根岸文書)

4月5日

織田信長、毛利家の吉川元春に書状を送り、浦上宗景宇喜多直家を無視している件について「外聞如何」とし、足利義昭の意を受けて和平に応じることを通達する。
詳細は柳沢元政安国寺恵瓊聖護院道澄に伝達させる。(吉川家文書)

同日。信長、小早川隆景へ若鷹献上を謝し、3月中旬より在洛している旨を通知。

4月8日

佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉が連署で山城伏見惣中へ書状を出す。
内容は、来たる4月12日の出陣に際し、一艘も残置かないように舟の供出と、4月10日から13日までの逗留を厳命するものである。(三雲文書)

4月9日

吉田兼和、人足80余人を伴い信長御座所の築地普請に赴く。(兼見卿記)

4月10日

大和国奈良衆は、東大寺南大門に於いて集会を開き、近日中に織田軍が大和に着陣するが、信長に味方しないことを決める。(多聞院日記)

4月16日

三好義継も信長に反旗を翻し、松永久秀が信長方の畠山昭高の部将・安見新七郎籠る河内交野城を攻める。

織田軍、河内表へ出陣

信長、佐久間信盛柴田勝家明智光秀細川藤孝三淵藤英上野秀政池田勝正伊丹親興和田惟長ら2万の軍勢を河内表へ派遣して救援する。
松永久秀の軍勢が立て籠もる河内騎西城を攻囲する。(信長公記、兼見卿記)

4月25日

織田信長、京都紫野大徳寺へ諸塔頭領・門前賀茂境内の安堵を下す。(大徳寺文書)

4月28日

吉田兼和(兼見)、信長より京都信長御座所の築地に板葺の覆いを命じられる。(兼見卿記)

同日。大和ツタノ付城が陥落。(多門院日記)

4月

信長、山城賀茂の銭主および惣中書状を送る。
その内容は、去々年に織田信長「朱印」を発給して賀茂神社境内を「徳政」除外地としたにもかかわらず、未だに一揆の残党が徳政適用を強要していることは許し難いことであり、買主の覚悟により譴責使を派遣して収納すること。
詳細は木下秀吉に伝達させることを通知するものであった。

4月

織田信長、山城梅津長福寺へ全5ヶ条の条々を下す(長福寺文書)

5月2日

小早川隆景へ先度の若鷹献上を謝し、九州の大名・大友義鎮(宗麟)が上洛を望んでいることについて、織田家と毛利家の友好関係を考慮し、毛利家と敵対している大友義鎮の上洛を遠慮して未だ返答していないことなどとし、詳細は朝山日乗と武井夕庵に伝達させる。(小早川家文書)

同日。信長の庶兄である織田信広が病に伏しているところを吉田兼和(兼見)が見舞う。(兼見卿記)

さらに同日。朝倉義景三好義継に送った密使の僧侶二人を捕らえ、京の一条戻り橋で焼き殺す。(年代記抄節)

 (備考)この頃の反信長包囲網は本願寺一向一揆勢力、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、南近江甲賀・伊賀の六角父子、河内の三好義継、大和の松永久秀、阿波の三好三人衆、さらには甲斐の武田信玄も加わり、信長の大包囲網が形成されていた。
影で糸を引く張本人が将軍・足利義昭であることは言うまでもない。
信長にとって桶狭間以来の大ピンチが差し迫っていた。

5月4日

大和国奈良中、一両日中に織田軍が到来するという風聞に接し、大騒動となる。(多門院日記)

同日。吉田兼見、施薬院全宗と共に妙覚寺の織田信長を訪問。
木下秀吉が吉田兼見持参の菓子を披露。(兼見卿記)

5月5日

織田軍先発隊が大和国西京に着陣。
多聞院英俊は多数の山木が枯れたことを「建久ノ御詫此比ニ当、一寺頓滅ノ期至歟」と嘆き、「武家入国旁々心細者也」との心境を記す。(多聞院日記)

(備考)奈良興福寺が信長に敵対的であり、筒井よりも松永久秀に味方していることが窺える。

5月8日

吉田兼和(兼見)、織田信広より明日の朝食の招待を了承した返答を受ける。(兼見卿記)

同日。織田軍が大和国奈良へ攻め込む前に、奈良中より銀子320枚、興福寺より銀子100枚、東大寺より銀子50枚が上納され、多聞院英俊は「先以安堵了」という感慨を記す。(多門院日記)

5月9日

吉田兼和(兼見)、織田信広を朝食に招待。
織田信広は暮れに帰京する。(兼見卿記)

同日。筒井順慶が東大寺南大門に布陣。(多門院日記)

さらに織田軍が大和国大黒カ尾から多聞山城の北側まで包囲。
午刻に松永久秀の多聞山城に攻撃を仕掛ける。(多門院日記)

5月11日

吉田兼右、深草から帰宅し織田信長を見舞いのため訪問。
河内へ出陣していた軍勢が帰陣し、上洛したとする報を聞く。(兼見卿記)

5月14日

京を発し岐阜へ向かう。
吉田兼和、信長を路次にて見送る。(兼見卿記、信長公記)

5月19日

大和国興福寺をはじめ奈良中の寺々のいくつかが、筒井順慶に金銀を上納。(多門院日記)

同日。信長、岐阜に帰城。(兼見卿記、信長公記)

(備考)恐らく多聞山城の松永久秀は降伏し、信長はそれを許したのであろう。

5月23日

塙直政、石清水八幡宮狭山郷の件で清水甚介宛てで書状を送る。
『田中家文書』『石清水文書』三 

石清水八幡宮領狭山郷之事、禁裏様依御祈禱所、信長御朱印雖有之、御牧横領之由、無是非存候、上山城之事、糾明申付候間、弥相尋、急度可申付候、至我等聊以不存疎意候、此等之趣宜預御披露候、恐々謹言

   五月廿三日    塙九郎左衛門尉
               直政(花押)

    清水甚介殿

(書き下し文)
石清水八幡宮領狭山郷の事、禁裏様御祈祷所により、信長御朱印これ有りといえども、御牧みまき横領の由、是非無く存じ候。
上山かみやま城の事は、糾明申し付け候間、いよいよ相尋ね、急度きっと申し付くべく候。
我等に至っては、いささか以って疎意に存ぜず候。
これらの趣き、宜しく御披露に預かるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
塙直政は当時、上山城の行政責任者であった。
石清水八幡宮領の山城国狭山郷は禁裏樣の御祈祷所であり、重ねて信長御朱印が発給されたが、御牧摂津守が押領していることは許し難い。
上山城の件は塙直政が信長より糺明を申し付けたので、速やかに対処するといった内容である。

6月1日 巳刻終頃

再び大和の国で大地震が起きる。(多門院日記)

6月8日

織田信長、河内高屋城主の畠山昭高に書状を送る。
起請文連署中へ三好義継と松永久秀の行動は不可解であり、高屋城を堅守することを通達した上で、決して昭高を疎意に扱わないことを伝える。

6月23日

信長、京都紫野大徳寺へ賀茂境内の買得分を安堵する。
詳細は松井友閑に伝達させる。

6月30日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督)へ浅井と合力して織田と対抗する旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

近曾疎遠之式慮外候、抑去時分長々依御在陣高島表之儀、御理運之姿珍重候、彌浅備被相談、無油斷御行肝要候、爰元調略之儀、方々相試様候、追而可申展候、就中任現來段金十端進之候、左少々々、委細之趣頼充法眼可申入候間、不及詳候、— —
   六月晦日  — —

   朝倉左衛門督殿

(書き下し文)
近曽さいつころ疎遠の式慮外に候。
そもそも去時分、長々御在陣による高島表の儀、御理運の姿珍重に候。
いよいよ浅備(浅井長政)と相談ぜられ、油断無くおんてだて肝要に候。
爰元ここもと調略の儀、方々相試様に候。
追って申し述ぶべく候。
就中なかんずく現来に任せるの段、金十端これをまいらせ候。
左少々々。
委細の趣き、頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候間、詳らかには及ばず候。(以下略)

同日

石山本願寺門跡の顕如、江北小谷山に籠城中の浅井父子へ激励の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

久令無音候、其表長々籠城之衆、可為退屈候、雖然此筋簡要之儀候間、各無越度様可被加下知候、爰元方々調略之子細候條、追而可申越候、義景近日可有出馬由候、彌可被示合事専用候、就中鉄炮藥三十斤進之候、任所在計候、委曲上野法眼可申伸候間抛筆候也、穴賢
   六月三十日  — —

   浅井備前守殿

(書き下し文)
久しく無音せしめ候。
その表長々籠城の衆、退屈たるべく候。
然りといえども、この筋簡要の儀に候間、おのおの落ち度無きよう下知を加えらるべく候。
爰元ここもと方々を調略の子細に候条、追って申し越すべく候。
義景(朝倉義景)近日出馬あるべき由に候。
いよいよ示し合わさるべき事専要に候。
就中鉄砲薬(三十斤)これをまいらせ候。
所在に任すばかりに候。
委曲上野法眼(下間頼充
申し述ぶべく候間、筆をなげうち候なり穴賢あなかしく(以下略)

久無音之様候、不本意候、其表事長々籠城之衆、可為窮困候歟、此度之儀専用候條、無越度様軍兵等堅可被申付候、爰元方々調略之儀候、越州彌可被示合候、將又所在之條繻子二端進之候、比興比興、具上野法眼可申伸候也、
   六月三十日

   浅井下野守殿

(書き下し文)
久しく無音ぶいんの様に候。
不本意に候。
その表の事、長々籠城の衆、窮困たるべく候か。
この度の儀専要に候の条、落ち度なき様に軍兵等堅く申し付けられ候。
爰元ここもと方々を調略の儀に候。
越州といよいよ示し合わさるべきに候。
将又はたまた所在の条、繻子二端これをまいらせ候。
比興ひきょう比興。
つぶさに上野法眼(下間頼充)申し述ぶべく候なり。(以下略)

6月

信長、阿弥陀寺清玉へ東大寺の大仏殿再興勧進の件で、信長分国中へ1人に毎月1文を勧進させることを決定しているので、「権門勢家」「貴賤上下」を選ばず勧進することを命じる。(東大寺文書)

7月1日

松永久秀へ来たる7月7日に江北小谷城へ出撃を命じる。
また、城塞を構築するため兵卒に鋤・鍬を持参させること。
織田軍が朝倉氏・浅井氏と一戦に及んだら、時節を見合わせて攻撃を仕掛けることを通達。
『元亀三年七月一日付け織田信長書状案(願泉寺文書)』

7月3日

信長が幕臣の細川藤孝に宛てて書状を送る。
摂津大坂石山本願寺への通行者が商人に偽装・往復していることにつき、注意を喚起し、不審者は捕獲することを通達する。(米田氏所蔵文書)

7月4日

稲葉一鉄、山城大徳寺聚光院へ大徳寺祠堂領で賀茂神社境内に所在する分の件で、今度賀茂社領「勘落」にあたり、その奉行共が違乱を働いたというので大徳寺が織田信長に対し上申したことに対し寺領として、年貢収納することに少しの妨げの無い旨の織田信長「朱印」が再度発給されたことを通知。(大徳寺文書)

7月13日

織田信長、美濃国専福寺へ書状を出す。
天下に対し造意を企んだ石山本願寺は前代未聞であり許し難いもので、織田分国中の門下が大坂への出入することを停止し、専福寺には「代坊主」を設けて、末寺は7月15日までに門徒を退散させるべきこと、違反者は成敗することを通達。(専福寺文書)

嫡男・信重(織田信忠)の初陣

7月19日

浅井長政討伐の為、初陣の嫡男・信重(信忠)とともに岐阜を出陣し、この日は美濃赤坂に着陣する。 (信長公記)

7月20日

近江横山城に入る。 (信長公記)

7月21日

小谷城下の町家を壊し、浅井長政を挑発する。 (信長公記)

七月十九日、信長公の嫡男奇妙公御具足初(具足初め=初陣)に信長御同心なされ、御父子江北表に至りて御馬を出だされ、其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居えられ、廿一(21)日、浅井居城大谷(小谷)へ推し詰め、ひばり山、虎御前山へ御人数上せられ、佐久間右衛門(佐久間信盛)、柴田修理(柴田勝家)、木下藤吉郎(木下秀吉)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)に仰せつけられ、町を破らせられ、一支もさゝへず推し入り、水の手まで追ひ上げ、数十人討捕る。

柴田修理、稲葉伊予(稲葉一鉄)、氏家左京助(氏家直昌=氏家行宏の兄)、伊賀伊賀守(安藤守就)、是れ等を先手に陣とらせ…

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

と信長公記には記されている。

7月22日

木下秀吉に命じて山本山城を攻撃させる。
浅井方の山本山城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)は足軽100騎余り出撃させるが、秀吉の巧みな軍略で 切り崩され、多数が討ち取られた。(信長公記)

 (備考)山本山はなかなかの要害らしく、この時秀吉も無理をして攻め落としてはいない。
この報告を聞いた信長は、斜めならぬ上機嫌で木下秀吉に御褒美を与えたようだ。
阿閉貞征翌年に信長に投降し、浅井家滅亡の大きな契機となった。

然る間、城中の足軽ども百騎ばかり罷り出で、相支へ候。
藤吉郎(木下秀吉)見計らひ、焜と切りかゝり切り崩し、頸数五十余(首級50余り)討ち捕る。
信長公御褒美斜ならず。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

7月23日

さらに北上して越前国境付近まで兵を進めて放火。 (信長公記)

七月廿三(23)日、御人数をし出し、越前境、与語(余呉) 木本(木ノ本)、地蔵坊中を初めとして、堂塔伽藍、名所旧跡、一字も残さず焼き払ふ

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

7月24日

竹生島を舟で攻め寄せ、火矢・大筒・鉄砲で攻めかける。(信長公記)

七月廿四(24)日、草野の谷、是れ又、放火候。

並に、大吉寺と申して、高山能(よ)き構へ、五十坊の所に候。
近里近郷の百姓など当山へ取り上り候。
前は嶮難のぼり難きに依つて、麓を襲はせ、夜中より、木下藤吉郎(木下秀吉)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)、うしろ山続きに攻め上げ、一揆僧俗数多切り捨てられ、海上は打下の林与次左衛門、明智十兵衛(明智光秀)、堅田の猪飼野甚介(猪飼昇貞)、山岡玉林(山岡景猶)、馬場孫二郎、居初又二郎に仰せつけられ、囲舟を拵へ、海津浦、塩津浦、与語(余呉)の入海、江北の敵地、焼き払ふ。

竹生島へ舟を寄せ、火屋(火矢)、大筒、鉄炮(鉄砲)を以て攻められ候。
此の中、江北に聞かざる一揆と云ふ事を企て、俳個の奴原、風に木葉の散る様に、ちり失せ候て、今は一人もこれなく、猛勢ととり詰め、悉く田畠を苅田に申しつげられ候間、浅井人数は次第に手薄に罷りなるなり。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋
嫡男・信重(織田信忠)の初陣1
元亀3年(1572)湖北出兵

(備考)文中にある 林与次左衛門とは浅井方の武将である林員清のこと。
当時の文書には句点の位置が現在とやや異なる。

堅田の猪飼野甚介(猪飼昇貞)馬場孫二郎および居初又二郎は三人とも堅田衆であって浅井方に属していたが、この頃信長に降ったと思われる。

山岡玉林(山岡景猶)も近江の武士で元は六角氏の家臣。
信長からの信頼が厚かった山岡景隆とは兄弟のようだ。

これらの武将は明智光秀と同列に記されているが、恐らくは光秀の指揮下に入って与力として行動していたと考えた方が良いであろう。

この一連の軍事行動は柴田や佐久間、木下、明智、丹羽、美濃三人衆など音に聞こえた勇士も参陣していることから、かなり大規模な作戦だったであろう。
通常、御世継の武者初めには絶対に負けないいくさを選ぶのだが、この時の信長は、一気に浅井・朝倉家と決着をつけるべく行動しているように思える。

また、文中からも石山本願寺が扇動した一向門徒衆の多くが、浅井・朝倉家の味方をして信長に激しく抵抗した様子が窺える。

7月27日

小谷城抑えの城とする為、虎御前山(とらごぜやま)の砦の築城に取り掛かる。 (信長公記)
一方、ようやく越前の朝倉義景が重い腰を上げて出陣の意を決する。

同日

信長、不識庵謙信に武田との和睦を仲裁する書状を送る。
『(元亀三年)七月二十七日付け織田信長書状(保阪潤治氏所蔵文書『筆陳 二』)』
 (備考)将軍足利義昭の意を受けて、信長が上杉謙信に宛てたもの。

7月29日

朝倉義景、1万5000の兵を率いて小谷城の山崎丸に入り、信長と対峙する。 (信長公記)

七月廿七(27)日より、虎御前山御取出(砦)の御要害仰せつけらる。

然れば、浅井方より越前の朝倉かたへ注進の申し出、尾州、河内長島より、一揆蜂起候て、尾 濃の通賂をとめ、既に難儀に及ばせ候間、此の節、朝倉馬を出だされ候へば、尾 濃の人数悉く討ち果たすの由、偽り申し遣はし候。

注進、実に心得、朝倉左京大夫義景、人数壱万五千計にて、
七月廿九(29)日、浅井居城大谷(小谷)へ参着候。
然りと雖(いえど)も、此表の為体見及び、抱へがたく存知、高山大づく(大獄山)へ取り上り、居陣なり。

然るところを足軽どもに責むべきを仰せつけられ、則(すなわ)ち、若武者ども野に臥せ、山に忍び入り、のぼり さし物道具を取り、頸(首)二ツ三ツ宛て取り参らざる日もこれなし。
高名の軽重に随ひ、其の御褒美を加えらるゝの間、弥嗜み大方ならず。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

(備考)ここには朝倉義景の覇気のなさ、朝倉が大獄山に目を付けたことなどが記されており、さらには伊勢長島一向一揆が街道を封鎖し、商いの自由、往来の阻害に動いているともある。

この当時のいくさでも、戦争と経済戦争は深い関りがあるのだと考えさせられる興味深い記述である。

8月8日

朝倉氏重家臣の前波長俊父子が信長陣所を訪れ投降する。 (信長公記)

(備考)前波長俊は越前朝倉氏から信長へと降った第一号であった。
信長はこの前波氏を気に入り、のちに越前一国を任せている。なお・・・

8月9日

朝倉家家臣・富田長繁、戸田与次、毛屋猪介も信長方へ寝返る。 (信長公記)

八月八日、越前の前波九郎兵衛(前波長俊)父子三人、此の御陣へ参ぜられ、候。
信長公の御執着斜めならず。
則(すなわ)ち、御帷子(かたびらのこと)、御小袖、御馬、皆具ともに拝領申され候。


翌日又、富田弥六(富田長繁)、戸田与次、毛屋猪介、参られ候。
是れ又、色々下され、忝き次第、大方ならず。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

8月上旬

この頃、虎御前山の砦が出来上がり、信長はそこへ陣を移す。
さらに小谷山城攻略の拠点である横山城との間に八相山、宮部両城を築き、宮部城には宮部継潤を置いてつなぎとする。 (信長公記)

虎御前山御取出(砦)御普請程なく出来訖ぬ(おわんぬ=完了したということ)。

(中略)


虎ごぜ山より横山までの間三里(約12km)なり。
程遠く候間、其の繋ぎとして八相山 宮部郷両所に御要害仰せつけらる。
宮部村には宮部善祥坊(宮部継潤)を入れをかせられ、八相山には御番手の人数仰せつけらる。


虎後前山(虎御前山)より宮部まで路次の一段あしく候。
武者の出入りのため、道のひろき三間(約5.4m)、間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町(約5.5km)の間、築地をつかせ、水に関を入れ、往還たやすき様に仰せつけらる事も、おびただしき御要害、申すも愚かに候。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋
嫡男・信重(織田信忠)の初陣2
元亀3年(1572)湖北出兵

8月14日

岩村城主・遠山景任が死去。
景任に子息がいなかったため、信長は五男の御坊丸(のちの織田勝長)を養子として送り込む。
この当時、遠山一族は織田家と武田家に両属という形で従属していた。
また、遠山景任の妻・おつやの方は信長の大叔母であって、景任が嗣子なくして死去したために織田方を支持する家臣の申し入れにより、遠山氏を嗣がせるために信長の子をもらい受けたという事実もあった。

(備考)しかし、後にこれが不幸な結果を生むこととなる。

8月15日

室町幕府第15代将軍・足利義昭の嫡男である足利義尋が誕生。(兼見卿記)

???

しかし、浅井・朝倉連合軍は一向に挑発に乗ろうとせず、信長も何度か決戦を申し入れたが朝倉義景からの返答は得られなかった。 (信長公記)

朝倉此の表に候ても、苦しからず候間、横山に至つて、信長公御馬を納らるべきの旨に候。


其の一両日以前に、朝倉方へ使者を立てさせられ、迚(とて)も是れまで出張の間に候間、日限をさし、一戦をもつて果てられ候へと、堀久太郎(堀秀政)を以て仰せ遣はされ候と雖(いえど)も、中々返答に及ばざるの間、虎後前山(虎御前山)には、羽柴藤吉郎と定番として、入れおかる。

信長公記 巻五 奇妙様御具足初めに、虎御前山御要害の事より抜粋

(備考)ここからも朝倉義景の覇気のなさ、戦意の低さが垣間見える。
朝倉義景の窮地を助けんが為に縁者の誼を捨てて、朝倉家へ義理立てした浅井長政の心中を思うと・・・w

小谷山城は日本でもっとも標高の高い城として知られており、その峻厳な要塞を攻めるにはかなりの犠牲を覚悟せねばならなかったのだ。
信長は力攻めを思いとどまり、このまま1か月が過ぎた。

 (備考)これは私の想像だが、信長は背後の武田信玄の動向に神経を尖らせており、浅井・朝倉連合軍との決戦を焦っていたのかもしれない。
事実、信玄はこれから冬にかけて大規模な攻勢を仕掛け、徳川家康領の遠江・三河を攻めるのである。

9月2日

石山本願寺門跡の顕如、細川昭元へ書状を発給。『顕如上人御書札案留』

芳墨遂披覧候、今度於御城中不慮之次第、旨趣具承候、就其軈而以誓詞示預候、相應之儀、不可有如在候、猶頼充、頼廉可申入候、—  —
   九月二日   —   — 御判無之

   右京大夫殿
(細川信良カ、信良永禄十一年左京太夫トナル)

(書き下し文)
芳墨ほうぼく被覧を遂げ候。
この度御城中に於いて不慮の次第、旨趣ししゅつぶさに承り候。
それに就きて、やがて誓詞を以て示し預かり候。
相応の儀、如在じょさい有るべからず候。
なお頼充(下間頼充)・頼廉(下間頼廉)申し入るべく候。
   九月二日  —  —御判これ無く

   右京大夫(細川昭元)殿
(細川信良か。信良永禄十一年(1568)左京大夫となる)

(備考)
この頃、細川昭元は足利義昭に降り、同年3月下旬に石成友通(主税頭)とともに信長と面会している。『信長公記』
文中に「御城中不慮」とあるが、昭元の籠もる摂津中嶋城が攻められ、本願寺が降伏を勧めたのだろうか。

9月10日

武田信玄による織田-本願寺間の和平周旋難航か。
石山本願寺門跡の顕如、武田信玄に宛て書状を発給。『顕如上人御書札案留』

就信長當寺和平之儀、爲武家被下置御使者、信玄可有入魂趣、被仰出由候、對信長遺恨深重候、雖然貴邊之儀、不可有贔屓偏頗之御調略之條、従是旨趣以使者可申展候、委細頼充法眼可令申候間、不能詳候、穴賢
   九月十日  — —

   法性院殿

○此御札は信玄より大かた案文到来候畢、内證有子細此分也

(書き下し文)
信長・当寺和平の儀に就きて、武家として御使者を置き下され、信玄昵懇有るべきの趣き、仰せ出さるの由に候。
信長に対し遺恨深重に候。
然りといえども貴辺の儀、贔屓有るべからず偏頗へんぱの御調略の条、これにより旨趣使者を以て申し述ぶべく候。
委細頼充法眼(下間頼充)申せしむべく候間、詳らかには能わず候。穴賢あなかしく
   九月十日 — —

   法性院(武田信玄)殿

○この御札は信玄よりおおかたの案文到来に候おわんぬ。
内証は子細有りてこの分なり。

(備考)
同日付の信玄宛でもう1通ほぼ同じ内容の書状あり。
※偏頗(へんぱ)=片寄って不公平なこと

9月14日

北近江の信長陣に加わっていた幕臣の細川藤孝と三淵藤英が上洛する。(兼見卿記)

9月15日

北近江の信長陣に加わっていた明智光秀も上洛。(兼見卿記)

9月16日

埒が明かないと判断した信長は、虎御前山の砦に木下秀吉を入れ置き、横山城に引き上げ、そのまま岐阜に帰城する。
この信長が横山へ引き上げたのを見て浅井井規(あざいいのり=七郎)を大将に、浅井、朝倉連合軍が虎御前山の砦へと襲い掛かった。
しかし、木下秀吉が迎撃してこれを撃退したという。
とりわけ滝川彦右衛門の軍功は目覚ましかったようだ。=虎御前山の戦い (信長公記)

 (備考)

同年11月3日とする説もある。
精査が必要。

嫡男・信重(織田信忠)の初陣3
元亀3年(1572)虎御前山の戦い
来世ちゃん
来世ちゃん

岐阜へと戻った信長は、信長包囲網の首謀者である足利義昭に異見十七ヶ条の条書を送りつけます。

そしてついに甲斐の虎・武田信玄が動きだし、信長絶体絶命の窮地に陥ることとなるのです。

来世ちゃん
来世ちゃん

万事休す。

いよいよ次回が元亀の争乱時代、一番の盛り上がりポイントです!

お楽しみに~

織田信長公の年表を御覧になりたい方は下記のリンクからどうぞ。

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.) イマココ
  10. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  11. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  12. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  13. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
タイトルとURLをコピーしました