

こんばんはー。
今回は異見十七ヶ条を将軍に送りつけたことと、三方ヶ原の合戦で徳川・織田連合軍が武田信玄と激突するところです。
信長包囲網で四面楚歌な信長が、いかにしてこの難局を乗り切れたのか・・・。
さらなる研究が必要です。
それでは、今回は元亀3年(1572)9月下旬からはじめる。
(ここまでの流れ)
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.) ←イマココ
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
この年表の見方
- 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
- 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
- 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
- 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
- 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
- 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「閏」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
- キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
- 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く
異見十七ヶ条を将軍へ送りつける
元亀3年(1572)
39歳
9月19日
信長、山城国天龍寺塔頭の妙智院へ、院領の山城国西院安弘名を直務させる旨の書状を送る。
詳細は側近の武井夕庵に伝達。(妙智院文書)
9月26日
信長、越後の上杉謙信へ書状を送る。
- 朝倉義景が未だ近江小谷山城に籠城を続けており、なかなか帰国できないこと
- 小谷城包囲の詳細な様子
- 信長自身は近江横山城に移動したこと
- 東国の情報収集に努めること
- 上杉謙信側も、越後国周辺の戦備を充分にするべきこと
- 必ずや朝倉義景を討ち取るという意気込み
といった内容である。(新集古案)
(備考)
(元亀元年12月には既に「不識庵謙信」と称していた)
東国の情報収集、さらに上杉謙信の戦備にも触れていることから、信長が甲斐の武田信玄の動向に神経を尖らせている様子が見て取れる。

9月28日
信長、革島一宣(越前守)、革島秀存(市介)へ再度知行を安堵する朱印状を発給。
詳細は滝川一益に伝達させる。(革島文書)
9月
この時期、将軍・足利義昭に異見十七ヶ条を送りつける。(年代記抄節、吉川友康氏所蔵文書)
(備考)
これは、将軍の悪事を弾劾し、世に知らしめて信長の正当性を主張し、大義名分は信長にあるとアピールする目的があったと思われる。
内容としては、
- 将軍として成すべきことを行っていない
- 朝廷への尊敬が足りない
- 諸国へ御内書を遣わして、馬などを所望するのはよくない
- 家臣を公平に扱っていない
- 米の買い占めによる利益の貪りはよくない
- 将軍が欲にふけり、「あしき御所」だと、土民百姓までが噂する有り様だ
など、正に弾劾状である。
(時期的には恐らく信長が虎御前山、横山城から岐阜に帰城した頃だと思われる)
(異見十七ヶ条については後日詳しく書きます)
後日、この条書を目にした武田信玄は「ただの人ではない」と語ったという。(当代記)
9月
信長、近江国金森へ全3ヶ条の条書を下す。(善立寺文書)
9月
甲斐の武田信玄、美濃木越城主・遠藤胤基の家老である遠藤加賀守に、東美濃に100貫の知行を与える旨を約束する。(鷲見栄造氏所蔵文書)
(備考)
この遠藤胤基とは、美濃郡上八幡あたりを支配する遠藤家の分家であろう。
これは明らかに内通であり、信玄一流の調略の手が、郡上八幡あたりにも及んでいたことを意味している。
恐らく遠藤家以外にも、美濃国中に信玄の調略の手が及んでいたものと思われる。
武田信玄 ついに西上作戦を開始

10月3日
武田信玄、甲斐国府中を出陣。
遠江への進撃を開始する。
10月7日
信長、山城国妙心寺へ壬生西五条の田および塔頭領を安堵する。(妙心寺文書)
10月22日
吉田兼和(兼見)、病に臥している織田家家臣の島田秀満の息子を見舞い、病気回復を祈念、祓鎮札を贈る。(兼見卿記)
同日
信長、武田信玄の大軍が迫った遠江の徳川家康に、作戦を申し含めた簗田広正を派遣した旨を通達。(田島文書)
10月24日
織田家家臣の島田秀満、村井貞勝が、上京で建設中の信長御座所のために吉田社(吉田郷)に藁の徴発をするも、吉田兼和側の要請によりこれを撤回。(兼見卿記)
10月25日
公家の吉田兼和、村井貞勝を訪問し、藁徴発免除を謝す。(兼見卿記)
10月
信長、近江国永明寺へ全3ヶ条の禁制を下す。(永明寺文書)
11月2日
木下秀吉(藤吉郎)、塙直政(九郎左衛門尉)が京都紫野大徳寺へ寺領の件で、信長朱印が2度に渡って発給されているので、不審に思い問い詰める。
寺社側は白状したようで、今後は秀吉、直政の両名に
- 疎意に存してはならぬこと
- 賀茂社領の件は石成(岩成)友通へ申し届けること
- 詳細は蜂須賀正勝へ通達させること
を約束。(大徳寺文書)
11月5日
甲斐の武田信玄、美濃の遠藤胤基(織田家家臣で内通中)、越前の朝倉義景、美濃国安養寺に遠江、三河の状況を記した書状を送る。(鷲見栄造氏所蔵文書、安養寺文書)
(備考)
この当時、朝倉家の武田への取次ぎ役には山崎吉家が務めていたようだ。
朝倉義景は引き続き小谷山城に留まり、信長を釘付けにする作戦だった。

11月12日
武田信玄、遠藤遠藤加賀守(遠藤胤基の家老)へ
- 遠江の過半を平定したこと
- 来年春の岐阜城攻略の予定
を通達する。(鷲見栄造氏所蔵文書)
(備考)
武田軍の動員兵力は約2万2000余。
うち、相模の北条氏政からの援軍が2000余だった。
迎え撃つ徳川家康は1万5000程の動員兵力だったが、駿河口からは山県昌景らが進撃していたため、実際に動かせた兵は1万1000程度だったであろう。
織田信長もこの当時、四面楚歌な状況に追い込まれており、遠江へ援軍を派遣できる余裕はなかった。

11月13日
信長、曽我助乗(兵庫頭)へ書状を送る。
内容は
- 安宅信康(神太郎)の件で将軍の説得を了承したが、その雑掌(荘園や知行に関する訴訟)の申し立ては難題であること
- 知行の件は安宅信康の要請を容れて良いと考えている
とのことである。(古簡雑纂)
(備考)
曽我助乗は先祖からの幕臣で、足利義昭に最後まで付き従った人物。
のちの宇治槙島城籠城戦や、義昭が若江城に落ち延びた時も従った。
同日
信長、薬師寺弥太郎へ一雲と小次郎の借銭を無効とし、小次郎の時に売却した田畠も早々に取り返して知行を安堵する。(向井英太郎氏所蔵文書)
おつやの方の裏切り 岩村城が武田家の手に渡る
11月14日
岩村城の遠山氏、織田軍を城から追い出し、一転した武田の陣営に加わる。
岩村城は即日武田勢が入城し、遠山氏の養子で信長子息の御坊丸は捕らえられて甲斐へと送られる。『鷲見栄造氏所蔵文書』


岩村一帯は非常に険しい山ばかりで、攻略するのが困難な地域である。
調略によってこの地を手に入れた信玄の軍略を評価せざるを得ない。
11月15日
信長、落ち延びた神篦城主・延友信光(佐渡守)に、岩村城が落城したにも関わらず、織田家へ忠節を尽くしてくれたことを賞し、美濃国日吉郷と釜戸本郷を与える。(上原準一氏所蔵文書)
同日
北近江の浅井長政が、美濃の遠藤加賀守(遠藤胤基の家老)へ、武田信玄との密約が締結された旨を通知。(鷲見栄造氏所蔵文書)
武田信玄 遠江で目覚ましい進撃を見せる
11月19日
松永久秀、大和国片岡の近辺へ出撃して放火する。(多聞院日記)
同日
武田信玄、遠藤加賀守へ進軍状況を通知。(鷲見栄造氏所蔵文書)
(備考)
かなり頻繁に遠藤氏と連絡を取っているようだ。
これはたまたま遠藤氏側に史料が残されているが、他にも美濃や尾張で信玄に内通している織田家臣がいたのではないかと考える。
この頃、信長は武田軍が遠江二俣城を取り囲んだことを知る。(信長公記)
11月20日
この日も松永久秀は片岡近辺を放火。(多聞院日記)
同日
信長、越後の上杉謙信(不識庵)へ5ヶ条の条書を送る。(歴代古案、古証文、古今消息集、武家事紀)
(備考)
内容は、信玄の悪行は前代未聞の無道であり、この儀に徳川と織田・上杉で武田を挟み撃ちにして討ち取ろうとするもの。
関連記事:信玄西上!息子を人質に取られた信長が、上杉謙信に送った決意とは(1)
11月22日
松永久秀が大和多聞山城から出陣し、今市を放火。
筒井順慶勢が出撃し、これを撃退。(多聞院日記)
11月24日
信長、尾張国西御堂方へ反銭を徴する。(氷室和子氏所蔵文書)
(備考)
反銭(たんせん)とは中世の租税の一つで、即位・内裏修理・社寺造営などの費用にあてるため、権力者が臨時に徴発すること。
当然やられた側は不満を持つ。
段銭ともいう。
11月26日
細川藤孝と吉田兼和が近江坂本へ下向。(兼見卿記)
(備考)
恐らく明智光秀に用があって面会したのだろう。
光秀はこの年の9月中旬に軍を解き、上洛した後坂本に戻っていた。
いつでも籠城できる態勢を整えていたのかもしれない。
11月28日
柴田勝家、延命寺に対し、違乱のないよう命じる。(斎藤献氏所蔵文書、保阪潤治氏所蔵文書)
11月
信長、狛綱吉(左馬進)に山城国相楽郡狛郷及び家来等を安堵する。
(備考)
狛綱吉は狛秀綱ともいう。
柴田勝家の与力のようだが詳細は不明。(丹波柏原狛忠雄氏文書)
12月2日
信長、尾張の豪商である伊藤惣十郎に朱印状を与え、改めて尾張・美濃両国における唐人方(輸入呉服)と国産呉服方の商人司に任命し、両国における役銭の徴収や他国商人の監督にあたった。
(備考)
役銭とは、所得に応じて課された銭納の雑税のこと。
商人の伊藤惣十郎は、この頃から頭角を現し始める。
以後、織田信忠、信雄、豊臣秀次、松平忠吉にも協力し、朱印状を与えられている。
朱印状と印判状は同じ意味。
公的文書。
織田信長あたりの時代から、花押の代わりに朱印が捺された朱印状がさかんに発給されるようになった。
(天下布武の印判)
織田信長の朱印状には「天下布武」と刻まれている。

このような感じで、花押に代わって朱印が公的文書でも用いられるようになった。
関連記事:【古文書講座】信長が病の家臣を気遣い、わざわざ宣教師の医者を呼んだ時の書状
信長包囲網崩壊の序曲 朝倉義景 突然の帰国
12月3日
近江小谷山城に籠城中の朝倉義景、突然越前に帰国。
これは全く不可解なことであり、約2万の兵を動員できる朝倉軍の撤退が、武田信玄の作戦を大きく狂わせる結果となった。
この情報を聞いた信玄は、大いに怒ったという。
(備考)
朝倉義景が作戦目標を理解していないのか、義景を行動を諫めることができる
家臣がいなかったのか。
あるいは雪解けまで国もとに帰れず、子供や妻と会えない寂しさから帰国を決断したのか。
信長包囲網最大の不可解な点かもしれない。

同日
木下秀吉、松尾神社領を安堵。(松尾神社文書)
12月6日
島田秀満(但馬守)、丹羽長秀(五郎左衛門尉)、森長可(勝蔵可長)、塙直政、金森長近(五郎八)、岩弥三吉勝、木下秀吉、成田長重が某へ諸商人の件で、たとえ誰の家来であっても織田信長の朱印状が必要だと通達。(寛延旧家集、金鱗九十九之塵)
(備考)
某って誰なんだ。
同日
信長、成田義金(与左衛門尉)へ尾張国内で津田又十郎の知行している秋定方60貫文を没収して宛行うことを通達。(阿波潮文書)
12月11日
明智光秀が吉田兼和に書状を送る。
内容は、一族である某の山王社敷地内での新城普請に際し、不快に思い、悩んでいる内容のようだ。
吉田兼和は返書で鎮札・地鎮を送付する旨を伝える。(兼見卿記)
12月12日
吉田兼和、明智光秀へ山王社敷地の安鎮札を整える。(兼見卿記)
(備考)
たびたび登場する吉田兼和とは、公家であり、吉田神社神主の吉田兼見のことである。
「兼見卿記」を記したことで有名。
関連記事:明智光秀と親しかった公家が記した日記に正本と別本がある理由
三方ヶ原の合戦 徳川・織田連合軍が武田信玄に敗北
12月22日
遠江国三方ヶ原において、武田信玄と徳川・織田連合軍が激突。
総大将の徳川家康は命からがら浜松城に逃げ帰る大敗北であり、 織田家では長谷川橋介、佐藤藤八、山口飛騨、加藤弥三郎、平手汎秀らが悉く討死するという有り様であった。(信長公記)

合戦の詳細、布陣図については後日書きたい。
同日
吉田兼和(兼見)、明智光秀を見舞うため、近江坂本城へ下向。
城中の天主普請を見物して驚く。(兼見卿記)



(備考)
明智光秀時代の坂本城は、琵琶湖の水運を最大限に生かした水城であった。
大天主・小天主で構成される高層の天主を中心に、城と内堀で囲まれた主郭があり、その西側に中堀で囲まれた曲輪、さらにそれを取り巻くように外堀で囲まれた曲輪があったと考えられる。
吉田兼和が驚いたのに無理もない。
12月26日
織田家は大和国興福寺の多聞院英俊らに、銀子100枚の徴発を命じる。

次回は信長敗北にはしゃいだ将軍・足利義昭が、ついに挙兵に及ぶところからです!
乞うご期待。

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- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 織田信重(信忠)の初陣(1571 9.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.) ←イマココ
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
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