織田信長の年表ちょっと詳しめ 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革

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義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革
  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564) 
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12) 当該記事
  10. 織田信重(信忠)の初陣(1572~1572 9.)
  11. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  12. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.) 
  13. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.) 
  14. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

元亀2年(1571)

38歳

比叡山焼き討ち直後の混乱

9月17日

信長、小早川隆景(左衛門佐さえもんのすけどの殿)へ元就逝去の弔電を送る。『小早川家文書』一『小早川家什書』七

元就御逝去、不及是非候、連々申承之条、別而痛入候、委曲輝元へ以使僧令申候、仍御分国中弥被任存分之由可然候、殊讃刕表発向珍重候、五畿内亦無別条候、於様躰者、柳沢可申候、恐々謹言
  九月十七日   信長(花押)

   小早川左衛門佐殿

(書き下し文)
元就御逝去、是非に及ばず候。
連々申し承るの条、別して痛み入り候。
委曲輝元へ使僧を以て申さしめ候。
仍って御分国中いよいよ存分に任せらるるの由然るべく候。
殊に讃州さんしゅう表発向珍重に候。
五畿内もまた、別条無く候。
様躰(ようだい)においては、柳沢(柳沢元政)申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
毛利元就は本年6月14日に75年の生涯を閉じた。
そこで信長は小早川隆景のもとへ使僧を派遣し、弔意を示した。
柳沢元政は幕府奉公衆の一人。
主に毛利家への外交取次を担当した。

同日

信長、烏丸光康に摂津国上牧かんまきの地を改めて安堵する。『烏丸家文書』

摂州之内上牧之事、不相易可被仰付候、不可有相違之状如件
  元亀弐
   九月十七日   (信長朱印)

    烏丸殿
      雑掌

(書き下し文)
摂州の内上牧の事、相変わらず仰せ付けらるべく候。
相違有るべからざるの状くだんの如し(以下略)

(備考)
永禄12年(1569)正月、信長は烏丸光康に摂津国上牧の地を安堵した。
光康は動乱の続くこの地に、改めて信長の朱印状を要請したのだろうか。
のちに光康は足利義昭の勘気に触れ、一時蟄居している。『異見十七ヶ条』

9月18日

信長、京を発ち近江永原城に泊まる。
公家の竹内季治を同地で処刑。『言継卿記』『信長公記』

9月20日

信長、岐阜に帰城。『言継卿記』『信長公記』

9月22日

松永久秀の被官竹内秀勝(下総守)、河内若江にて死去。『多聞院日記 十七(元亀二年九月二十四日条)』

一昨日 廿二日竹内下總守河州若井(江カ)ニテ死去了ト、

9月24日 早朝

明智光秀、兵1000ばかりを率い摂津国高槻へ出陣。『言継卿記』

同日

越智家高(民部少輔)、大和高取山城にて自害か。『多聞院日記 十七(元亀二年九月二十四日条)』

タカ鳥ニテ越智民部少輔生害了、女房、男子、女子悉以敏了、一ノ尾ノ深介所行ト云々、近日大木一薰家中恣ニ沙汰サセラルヽ故ニ、伊与守申合如此云々、

(備考)
『多聞院日記』には上記の記述がある。
殺害された越智家惣領の家高は越智家増(伊予守)の甥か。
一ノ尾ノ深介なる人物は越智家広の家臣であろうか。
家増の策謀による結果とする見解が一般的なようだが、対外的な利害関係なども考慮する必要があるだろう。

9月25日

一色藤長、一色昭秀、上野秀政ら摂津国へ出陣。『言継卿記』

同日

信長、上杉謙信から贈られた鴘鷹(へんたか)に喜び、さらに近況を伝える旨の書状を発給。『上杉家文書』一

生易之鴘鷹御随身之条、可見給之由、任せ御内意之旨、鷹師差下候き、即時遂一覧之候、誠希有之次第驚目候、秘蔵自愛更不知校量候、頓以使者御礼可申展之処、就上意之趣、去月中旬令上洛候、幾内之躰無別条候間、一両日以前納馬之式候、従之御礼延引之候、先染一翰以飛脚申候、毎々御懇情之至難謝候、必追而使者可進之候、猶期其節候、恐々謹言
  九月廿五日   
  信長(花押)

   上杉弾正少弼殿
         進覧之候

(書き下し文)
生え変わりの鴘鷹御随身の条、見給うべきの由、御内意の旨に任せて、鷹師差し下し候き。
即時これ一覧を遂げ候。
誠に希有の次第、目を驚かし候。
秘蔵自愛更に校量するところを知らず候。
やがて使者を以て御礼を申し述ぶべきのところ、上意の趣きにつき、去月中旬に上洛せしめ候。
畿内のていは別条無く候間、一両日以前に納馬の式に候。
これによって御礼おんれい延引の候、先ず一簡を染め、飛脚を以て申し候。
毎々御懇情の至り謝し難く候。
必ず追って使者をまいらすべく候。
なお、その節を期し候。恐々謹言(以下略)

9月26日

甲斐の武田信玄、幕臣の一色藤長(式部少輔しきぶのしょうふ殿)へ宛てて書状を発給。 『石川県立図書館所蔵文書「雑録追加 三(九月二十六日付武田信玄書状写)」』

 御札之趣得其意候、
一、信州御料所之儀、近年忩劇故、不奉運上候、失面目則一所可奉献之候、
一、本願寺・信長和融中媒之儀、被 (闕字)仰出候、任御下知大坂江遣使者候、
一、上杉輝虎可被和与之旨、頻被 仰出候、愚存之旨趣、雇両口上候間、不能紙面候、恐々謹言
  九月廿六日   信玄(花押影)

   一色式部少輔殿

(書き下し文)
 御札ぎょさつの趣きその意を得候。
一、信州御料所の儀、近年忩劇(そうげき)ゆえ、運上奉らず候。
  面目を失い則ち一所これを献じ奉るべく候。
一、本願寺・信長和融中媒の儀、 (闕字)仰せ出され候。
  御下知おんげちに任せ大坂へ使者を遣わし候。
一、上杉輝虎(上杉謙信)和与なさるべきの旨、 (闕字)頻りに仰せ出され候。
  愚存の旨の趣き、(雇両口上候間 申し訳ありませんがここわかりません)、紙面に能わず候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
信州の幕府御料所を復活させ、この地を再び献上すること、足利義昭の頼みに応じて本願寺-織田間の和睦斡旋を実行中であること、上杉謙信との和睦に関する内容である。
宛名の一色藤長(式部少輔)は幕府奉公衆として足利義昭に仕えた人物。
主に甲斐武田氏や本願寺氏との外交交渉を受け持った。

9月27日

信長、河内石清水八幡宮祠官の田中長清へ神領狭山郷を御牧みまき摂津守が違乱したことにつき、これを排除する旨の書状を発給。『石清水文書 三』

石清水八幡宮領狭山郷之事、御牧雖令違乱、為神領上者、徐其妨、如前々領知不可有相違、仍執達如件
  元亀弐
    九月廿七日   信長(朱印)

     田中御門跡
         雑掌

(書き下し文)
石清水八幡宮領狭山さやま郷の事、御牧みまき違乱せしむるといえども、神領たるの上は、その妨げを除き、前々せんせんの如くに、領知相違有るべからず。仍って執達くだんの如し(以下略)

 (備考)
宛名の田中御門跡は、田中長清のこと。
石清水八幡宮領の山城狭山郷を、御牧摂津守が違乱した。
信長はその地を石清水八幡宮領であることを認め、御牧の横領を排除せよと田中長清に命じた。
すでに9月14日に石清水八幡宮領山城狭山郷のことについて、宮中は信長へ女房奉書を発給した。『御湯殿の上の日記』
今回信長は、これを受けて朱印状を発給したと考えられる。
とすると、「執達如件」は幕府の意というよりは、禁裏の意なのかもしれない。

義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革

9月30日

公武御用途として山城国阿弥陀寺へ段別の課税を命じる。(松田秀雄・塙直政・島田秀満・明智光秀連署状)『阿弥陀寺文書』三『妙顕寺文書』『妙蓮寺文書』鳥居大路良平氏所蔵文書所収『加茂惣中宛文書』『同御曽路池惣中文書』

為公武御用途被相懸段別之事、右不謂公武御料所幷寺社本所領、同免除之地、私領、買得屋敷等、田畠壱反別一升宛、従来拾月壱五日、廿日以前、至洛中二条妙顕寺可致運上候、若不依少分隠置族在之者、永被没収彼在所、於其身者則可被加御成敗之由、被仰出候也、仍如件

  九月晦日  明智十兵衛尉
            光秀(黒印)
        嶋田但馬守
            秀満(黒印)
        塙九郎左衛門尉
            直政(黒印)
        松田主計大夫
            秀雄(黒印)

   阿弥陀寺

(書き下し文)
公武御用途として相懸けらるる段別たんべつの事、右、公武の御料地並びに寺社本所領・同じく免除の地・私領・買得(ばいとく)屋敷等と言わず、田畠でんぱた反別たんべつに一升を宛て、来たる十月十五日より、二十日以前に洛中二条の妙顕寺に至りて運上致すべく候。
もし少分によらず隠し置くやからこれあらば、永くかの在所を没収せられ、その身に於いては、則ち御成敗を加えらるべきの由、仰せ出され候なり。仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
反別・段別(たんべつ)=田を1反ごとに分けること。1反を単位とすること。また、それに課税すること。
文中の「田畠一反別に一升を宛て」は、田畠一反あたり一升と定めてという意味。

面積の単位は
1歩(いちぶ)=3.3m2=1坪
1畝(いっせ)=99m2=30歩=30坪
1反(いったん)=990m2=10畝=300坪
1町(いっちょう)=9900m2=10反=3000坪
※時代や地方により差異あり

1升は米10合分。時代や地方によって可変。
信長は朝廷と幕府の経済を立て直すため、洛中・洛外すべての田畠に対し、一段(反)に一升の段別米を掛け、本年9月15日から20日までの間に洛中二条の妙顕寺に持参させた。
『言継卿記』元亀二年(1571)十月九日条によると、同文書は五六百通は発給されたそうだ。
関連文書は同年10月15日付に洛中立売組中宛明智光秀等連署状案もご参照されたい。

9月

信長、尾張国府宮へ3ヶ条の条書を下す。『大津延一郎氏所蔵文書』

   定     苻中府宮

一、当市場諸役免除之事、
一、郷質、所質不可執之、押買、狼藉すべからさる事、
一、俵子、しほあひもの可出入事、
右条々、違背之輩あらは、速可処厳科者也、仍所定如件、

  元亀弐年九月日   (信長朱印)

(書き下し文)
  定     府中府宮
一、当市場の諸役しょやく免除の事
一、郷質ごうじち所質(ところじち)、これ取るべからず
  押買い・狼藉すべからざる事
一、俵子・塩相物の出入りすべき事

右の条々、違背の輩あらば、速やかに厳科に処すべきものなり。
仍って定むるところくだんの如し(以下略)

 (備考)
郷質(ごうじち)は郷で抵当権を執行すること。
所質(ところじち)は場所を選ばず抵当権を執行すること。
俵子は白米の俵。
塩相物は塩漬けにした魚のこと。
府中府宮は尾張国中嶋郡の大国霊おおくにだま神社のこと。
尾張国の総社として信仰を集めた。
このたび信長は、同地の市場全ての負担の免除。
郷質や所質をとること。
不法に買い入れることや狼藉をしてはならないことなどを命じた。

10月3日

相模の大名・北条氏康没

10月10日

松永久秀、山城宇治槙島城を攻撃する。『言継卿記』

10月14日

信長、細川藤孝(兵部太輔ひょうぶのたいふ殿)に山城勝竜寺城の普請を命じる。『米田氏所蔵文書』

勝竜寺要害之儀付而、桂川より西在々所々、門並人夫参ヶ日之間申付被、可有普請事簡要候、仍如件
 元亀弐
   十月十四日   (信長朱印)

    細川兵部太輔殿

(書き下し文)
勝竜寺しょうりゅうじ要害の儀に付きて、桂川より西の在々所々、門並びに人夫三ヶ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候。仍ってくだんの如し(以下略)

 (備考)
長岡の勝竜寺は西国街道の要衝にあたる地。
細川頼春がはじめて築城し、応仁・文明の乱の際は畠山義就が居城。
のち石成友通が守備し、永禄11年(1568)に信長が攻め込んで以降は細川藤孝が入っていた。
昨年の野田・福島の戦い以降、摂津国は不安定な地であった。
三好義継・松永久秀も怪しい動きを見せる。
そうした情勢からなのか、このたび信長は桂川より西岸の家屋は、門毎に一人の人夫を三日間徴用して普請にあたらせるよう命じたのだろう。

同日 夕べ

松永久秀(山城)が山城木津城周辺を苅田し焼き払う。『多聞院日記 十七(元亀二年十月十四日条』

一、夕部河内衆三十余ニテ來了、翌日歸了、山城打廻木津苅田被成闕焼了、當坊領一圓無足了、咲止々々、

(書き下し文)
一、夕べ河内衆三十余りにて来をば、翌日に帰りおわんぬ。
山城(松永久秀)打廻り木津へ苅田成され、闕け焼けおわんぬ。
当坊領一円無足むそく(収入がなくなること)おわんぬ。
笑止笑止。

10月15日

松田秀雄、塙直政、島田秀満、明智光秀が連署で洛中立売たちうり組中へ税制の抜本的な改革を通達。『京都上京文書』一

禁裏様御賄、八木京中江被預置候、但一町ニ可為五石充条、此方案内次第罷出、八木可請取之、利平可為三話利、然而来年正月ヨリ、毎月一町ヨリ壱斗弐升五合充可進納之、仍本米為町中永代可預置之状如件
 十月十五日   明智十兵衛尉
          光秀
         嶋田但馬守
          秀満
         塙九郎左衛門尉
          直政
         松田主計大夫
          秀雄

   立売組中

(書き下し文)
禁裏様御賄おんまかないとして、八木はちぼく京中へ預け置かれ候。
但し一町に五石充てたるべきの条、此方こなた案内次第に罷り出で、八木はちぼくこれを請け取るべし。
利平は三割たるべし。
然して来年正月より、毎月一町より一斗二升五合これを充て進納すべし。
仍って本米は町中として永代預け置くべきの状くだんの如し。(以下略)

 (備考)
八木(はちぼく)は米のこと。米の字を分解すると八と木になるところから。
利平(りへい)は利息のこと。
同年9月30日に明智光秀らが、連署で公武御用途として京都中から段別の課税を命じる触れを出した。『阿弥陀寺文書』三『妙顕寺文書』『妙蓮寺文書』鳥居大路良平氏所蔵文書所収『加茂惣中宛文書』『同御曽路池惣中文書』など
これにより、洛中・洛外から集められた米520石を京都の町に貸し付け、その利息分を御所費の一部に充てた。
その結果、下京43町に215石、上京84町には305石貸し付けることに成功した。
下京一町平均5石、上京一町平均3石7斗5升と『立入文書』の「禁裏様江参御米之事」と題する冊子本に記されているようだ。
別に同家には『立入家相伝元亀二年御借米之記』という写本がある。
これらによると、下京からは215石に3割の利米をつけ、元亀3年(1572)正月から月割にして5石3斗7升5合を立入氏に納入した。
また、同家が所蔵する『上下京御膳方御月賄米寄帳』によると、上京の利米は7石6斗2升5合だから、利率は3割である。
こうして毎月上京・下京から13石が納入された。
この13石のうちで禁裏の賄米として6石6斗2升5合が使用された。『織田信長文書の研究 上』

また、『原本信長記(信長公記)』(以下信長公記に統一)にはこのようなことが記されている。


先年日乗上人、村井民部丞為御奉行被仰付

(中略)

其上 (闕字)御調物、於末代無懈怠様に可有御沙汰、 (闕字)信長公被廻御案ヲ、京中町人尓属詫被預置、其利足毎月進上候之様尓被仰付候、幷怠轉之公家方御相續、是又重畳御建立、天下萬民一同之満足、不可過之々々、於本朝、御名誉、御門家之御威風、不可勝計、亦御分國中、諸關諸役御免許、天下安泰、往還旅人御憐慇、御慈悲甚深ニメ、御冥加モ御果報も超、世尓彌增御長久之基也、併學道立身被欲擧御名後代故也、珍重々々

   『信長公記』巻四「叡山御退治之事」より抜粋

(註)
「淸」=清、「属託」=嘱託、「幷」=並、「轉」=伝、「續」=続、「關」=関、「彌」=弥、「增」=増、「學」=学、「擧」=挙

(書き下し文)
先年日乗上人(朝山日乗)、村井民部丞みんぶのじょう(村井貞勝)を御奉行に仰せ付けられ
(中略)
その上御調物、末代に於いて懈怠無き様に御沙汰有るべく、(闕字)信長公御案を巡らされ、京中町人に嘱託を預け置かれ、その利息を毎月進上候の様に仰せ付けられ候。
併せて退転の公家方の御相続、これまた重畳御建立、天下万民一同の満足、これに過ぐべからず云々。
本朝に於いて御名誉・御門家の御威光あげて数うべからず。
また、御分国中の諸関・諸役しょやくの御免許(免除)、天下安泰、往還旅人御憐慇、(御慈悲甚深ニメ 申し訳ありませんがここ読めません)、御冥加も御果報も超え、世にいよいよ増御長久の元なり。
併せて道を学び、身を立つるも、御名後代に挙げんと欲する故なり。珍重珍重。

10月17日

筒井順慶の軍勢が大和「タチカラ?」近辺へ出撃。『多聞院日記 十七(元亀二年十月十七日条』

筒井ヨリタチカラノ近邊迄打廻在之、中藏院以下遣之、

10月26日

織田軍先発衆が上洛する。『多聞院日記 十七(元亀二年十月二十八日条』

一、去廿六日信長ノ先衆京へ上由也、

10月

信長、尾張国津島の牛頭天王ごずてんのう社に金銭を貸す旨の朱印状を発給。『張州雑誌抄』二十七『津嶋神社旧記』(写)

御朱印写九通

其方借物方之事、依不辯不能返辯、神伇亦及退転之由候、所詮以本銭、限十ヶ年可為究返候、若銭主於違背者、可成敗之状如件
 元亀弐
  十月日    信長朱章

  津嶋天主
    神主殿

(書き下し文)
御朱印写九通

其の方借物方の事、不弁にして返弁あたわざるに依り、神役もまた退転に及ぶの由に候。
所詮本銭を以て、十ヶ年を限り究返たるべく候。
もし銭主違背に於いては、成敗すべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
津島の牛頭天王ごずてんのう社(現在の津島神社)は、織田氏の信仰が厚いようだ。
その神主は織田氏によって何度も経済的困窮を救われている。
本状もそうした内容で、神事の勤仕も不十分になったと聞き「元金を十ヶ年で完済せよ」としたのである。

10月

織田信長、尾張国津島神社神官の真野善二郎へ、故父真野兵部の跡職を安堵する旨の朱印状を発給。『服部藤太郎氏所蔵文書』

父真野兵部跡職之事、任文状之旨、田畠、野、林、屋敷幷借付財宝以下、悉一職進退ニ申付上、無相違可任覚悟之状如件
  元亀弐
    十月日     信長(朱印)

     真野善二郎殿

(書き下し文)
父真野兵部跡職あとしきの事、文状の旨に任せ、田畠・野・林・屋敷並びに借し付けの財宝以下、悉く一職いっしき進退に申し付くるの上は、相違無く覚悟に任すべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
判物でたびたび登場する「一職いっしき進退に申し付くる」とは、心のままに扱うという意味。
真野氏は津島神社の神主である。
父の真野兵部が死去したので、それを譲り受ける旨の朱印状を信長より貰い受けたのだろう。

11月1日

織田信長、足利義昭に上申したとおりに奉行人を出向させた伊勢三郎へ、幕府政所執事まんどころしつじの職を安堵。『本法寺文書』

今度城州段別之儀、為政所職奉行人被出可然之旨、公儀へも申上候処、其通被申付之由可然候、於政所役者、向後も不可有異儀候、将又高槻番手之事、被申付之由尤候、猶夕庵可申候、恐々謹言
  十一月朔日   信長(花押)

   伊勢三郎殿

(書き下し文)
このたび城州段別(たんべつ)の儀、政所まんどころ職として奉行人を出され然るべきの旨、公儀へも申し上げ候ところ、その通り申し付けらるるの由、然るべく候。
政所役に於いては、向後きょうこうも異議有るべからず候。
はたまた高槻番手の事、申し付けらるるの由、もっともに候。
なお夕庵せきあん(武井夕庵)申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
信長は禁裏と幕府の経済事情を好転させるため、抜本的な改革に乗り出した。『京都上京文書(十月十五日付明智光秀ほか連署状)』『阿弥陀寺文書(九月晦日付松田秀雄ほか連署状)』
それに関連して、幕府政所執事である伊勢貞興(三郎)は、信長の上申で奉行人を出向させる。
これにより、彼は政所執事を保証された。
西国街道の要衝に位置する摂津高槻城は、義昭上洛以来和田惟政が居城としていた。
しかし、反義昭陣営との戦いにより、本年8月28日に惟政は討死。
しばらく高槻城を守備したのは、幕臣の三淵藤英であった。『言継卿記』
同時期の摂津国の各所で藤英発給の禁制きんぜいが残っている。『今西文書』『原田神社文書』
なお、伊勢貞興(三郎)は当時10歳。
当然実務の経験は浅い。

(年次未詳)11月3日

甲斐の穴山信君、近江日野の蒲生定秀(下野入道殿)へ近況を伝え、御望みの馬を送る旨の書状を発給。『真田宝物館所蔵文書』

 (端裏書)
「 (切封墨引) 」

芳札之旨具被閲、本望之至候、如貴意関越当方鉾楯、更不落居為体候、雖然豆州・武州過半信玄属手候条、本意無疑候、就中馬御所望之由承候、折節所持候間、栗毛一疋彼舎人ニ相渡候、毎度動無手透候間、馬肝要之条、爰許如形好明候者、御望之乗心、如注文可令馳走候、猶柱蔵司(主?)可為演説候条、不能一二候、恐々謹言
   十一月三日  信君(花押)

  蒲生下野入道殿
        御報

(書き下し文)
芳札ほうさつの旨つぶさに被閲、本望の至りに候。
貴意の如く関越当方(関東と越後と武田)の鉾楯ほこたて、更に落居せざるのていたらくにて候。
然れども、豆州(伊豆)・武州(武蔵)の過半、信玄の手に属し候条、本意疑い無く候。
就中(なかんずく)、馬御所望の由、承り候。
折り節所持に候間、栗毛一疋かの舎人に相渡し候。
毎度手隙無く働き候間、馬肝要の条、爰元(ここもと)形の如く暇明き(隙空き)候はば、御望みの乗り心、注文の如くに馳走せしむべく候。
なお柱蔵司(主?)演説たるべく候条、一二に能わず候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
日野の蒲生定秀はすでに隠居して久しい。
穴山信君や武田氏との関係性は不明。
六角の宿老時代に交流があったか。
気になる点は、元亀3年(1572)11月27日付山県昌景書状に、日野の蒲生が「越前へ同意の由」と書いていることである。『奥平家文書』

旧叡山領における幕臣・織田家臣の違乱

11月8日

慈専(泉涌寺の奉行人か)、公家の山科言継に木下秀吉が泉涌寺の寺領を横領したと訴え、女房奉書発給の口添えを依頼。『言継卿記』

11月9日

正親町天皇、山科言継の上奏を受け、将軍・足利義昭と信長家臣・木下秀吉へ横領禁止を通達する女房奉書を発給する。『言継卿記』

11月21日

織田信長、松永久秀の籠もる大和国多聞山城の攻撃のために、近日中に上洛する予定であることを京都賀茂惣中へ告げる。
そこには筒井順慶と談合し、急ぎ付城を築いて攻略するように指令したとあるが未確認。『沢房吉氏所蔵文書』

11月24日

石山本願寺門跡の顕如、越前朝倉義景(左衛門督)、同景鏡(式部大輔)、同景健(孫三郎)へ激励する旨の書状を発給。 『顕如上人御書札案留』

依便路不輙□不申通様候、先以世上未休之爲體、殊更今般北嶺之儀、非所及言詞候、随而江北表之儀、浅父子被相談無油斷御調略此莭候、李部へ此旨申候、併貴邊可爲御行次第事候、次虎豹皮□(五カ)枚進之候、任顕?(到カ)來計候、委細之旨、頼総法印可申入候、
   十一月二十四日  — —

   朝倉左衛門督殿

(書き下し文)
便路容易たやすからずにより、□申通さず様に候。
まず以て世上未だ休みの体たらく、ことさら今般北嶺の儀、言詞げんしに及ぶ所あらずに候。
従って江北表の儀、浅父子と相談ぜられ、油断無く御調略この節に候。
李部へこの旨を申し候。
併せて貴辺の御てだて次第たるべき事に候。
次いで虎豹皮□(五カ)枚これをまいらせ候。
□来に任せるばかりに候。
委細の旨、頼総法印(下間頼総)申し入るべく候。(以下略)

※「北嶺の儀」は同年9月12日の比叡山焼き討ちを指す

其以来兎角無音之儀候、世上難計候、我(?)不能(?)力伸候、仍江北表之儀、當分第一候、貴國憑入之外不可有他事候、切に浅被相談御調略肝要候、將亦織筋三端進之候、比興々々、猶丹後法印可令申候也、
   十一月二十四日

   朝倉式部大輔殿

(書き下し文)
それ以来とかく無音ぶいんの儀に候。
世上計り難く候。
(我(?)不能(?)力伸候、 ここ不明)
って江北表の儀、当分は第一に候。
貴国に頼み入るの他は、他事有るべからず候。
切に浅(浅井長政)と相談ぜられ、御調略肝要に候。
はたまた、織り筋三端これをまいらせ候。
比興ひきょう比興。
猶丹後法印(下間頼総)申せしむべく候なり。(以下略)

久不申承候、世上未落居之式不能是非候、仍江北表之儀爲貴國於無御合力者、果而可爲難堪候、愈御才覺此刻候、次見來候間、織筋二端進之候、左別左別、尚丹後法印可申候也
   十一月二十四日

   朝倉孫三郎殿

(書き下し文)
久しく申し承らず候。
世上未だ落居の式是非に能わず候。
仍って江北表の儀、貴国(として? ここ不明)御合力無きに於いては、果たして耐え難くたるべく候。
いよいよ御才覚この刻みに候。
次いで見来に候間、織り筋二端これをまいらせ候。
左別左別。
尚丹後法印(下間頼総)申すべく候なり(以下略)

同日

石山本願寺門跡の顕如、近江浅井長政(備前守)、久政(下野守)父子へ激励する旨の書状を発給。 『顕如上人御書札案留』

其表堅固之由珍重候、切々越州被相談調略肝要候、右之趣對義景、景鏡具ニ申贈事候、仍織筋十面進之候、任所在計候、比興々々、爰許聊無異儀候、委細丹後法印可令申候也
   十一月二十四日

   浅井備前守殿

(書き下し文)
その表堅固の由珍重に候。
切々越州(朝倉義景)と相談ぜられ、調略肝要に候。
右の趣き義景・景鏡に対し、つぶさに申し送る事に候。
って織り筋十面これをまいらせ候。
所在に任せるばかりに候。
比興ひきょう比興。
爰許いささかも異議無き候。
委細丹後法印(下間頼総)申せしむべく候なり(以下略)

態染一翰候、仍就敵對城調略寔不可有油斷候、併御一身之勞令推察候、越州被相談愈於不被得大利を(ママ)果而不可有其曲候哉、彼方へ此旨申候、悉皆可在御才覺候、次梅染十端進之候、表音問計候、猶丹後法印可申宣候條、不及詳候也、———
   十一月二十四日  —  —

   浅井下野守殿

(書き下し文)
わざと一簡を染め候。
って敵対城調略に就きて、誠に油断有るべからず候。
併せて御一身の労り推察せしめ候。
越州(朝倉義景)と相談ぜられ、いよいよ大利を得られずに於いてを(ママ)、果たしてその曲がり有るべからず候
彼方へこの旨申し候。
皆悉く御才覚あるべく候。
次いで梅染十端これをまいらせ候。
音問いんもんを表すばかりに候。
猶丹後法印(下間頼総)申し述ぶべく候条、詳らかには及ばず候なり(以下略)

12月7日

信長の命をうけた佐久間信盛が、神領狭山郷横領の件で片岡俊秀へ書状を発給。『古蹟分微』十『石清水文書 三』
(※写し)

御書拝見、本懐至極候、仍狭山郷之儀、先一着之姿、尤存知候、信長明春早々可為御上洛之条、其節如御本意可被相澄候、於我等聊不可存疎意候、随而杉原十帖被懸御意、過当候、猶御使者可有御演説由、可預御披露候、恐々謹言
  十二月七日   信盛(花押)


 (切封ウハ書)
(墨引)      信盛(花押)
     佐久間右衛門尉
   片岡左衛門尉殿  信盛」

(書き下し文)
御書拝見、本懐至極に候。
仍って狭山郷の儀、先ず一着の姿、尤もに存じ候。
信長は明春早々に御上洛たるべきの条、その節御本意の如くに相済ませらるべく候。
我等に於いてはいささかも疎意を存ずべからず候。
従って杉原十帖を御意に懸けられ、過当に候。
なお御使者御演説あるべきの由、御披露に預かるべく候。恐々謹言(以下略)

(備考)
本年9月27日に信長の朱印を得た田中長清は、御牧摂津守と交渉した。『石清水文書 三』
摂津守はこれを承諾するが実行はしなかった。
長清の訴えを受けた信長が、佐久間信盛に命じて出したものが本状である。
来春早々に信長が上洛するから、その前に御牧が違乱した地を返還せよとのことである。
片岡俊秀(左衛門尉)は御牧摂津守の被官。

同日

佐久間信盛の被官である日比野長吉(藤十郎)も、片岡俊秀に書状を発給している。『石清水文書』三

御書謹而頂戴候、仍狭山郷之儀、先以一通之様候、尤ニ奉存候、明春信長御在洛之砌□□意、可被得達□、信栄も不存疎意候条、弥御入魂之段、連々可申聞候、細方左申入候間、可有御演説候、宜預御披露候、恐々謹言
  十二月七日   長吉(花押)

   片岡左衛門尉殿

(書き下し文)
御書謹みて頂戴候。
仍って狭山さやま郷の儀、先ず以て一通の様に候。
尤もに存じ奉り候。
明春信長御在洛のみぎりに□□意、可被得達□、信栄も疎意に存ぜず候条、いよいよ御昵懇の段、連々申し聞かすべく候。
(委が抜けているかも)細、方左申し入れ候間、御演説あるべく候。
宜しく御披露に預かるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
日比野長吉(藤十郎)は佐久間信盛の老臣。
信栄は信盛の嫡子ある。

12月9日

山科言継、岐阜に下向して織田信長と会談。
昨年比叡山焼き討ちにあった延暦寺法主・覚恕法親王(正親町天皇の弟)を話題にあげる。『言継卿記』

12月10日

正親町天皇が織田信長へ綸旨を下す。
その内容は比叡山の旧領を信長が明智光秀らに知行として与えたことで、明智らが横領したとし(信長は関知しないとする配慮・遠慮)、その返還を求める内容である。『言継卿記』

12月14日

信長、岐阜から出て尾張国で鷹狩りをする。
坂井利貞が供をする。『言継卿記』

12月15日

誠仁親王に子が生まれる。
後の後陽成天皇である。

12月17日

某による御牧摂津守宛の書状案あり。『石清水文書 三』

態令啓候、仍狭山郷之儀、自往古無相違神領之由、被聞召分、対田中門跡被成御朱印候之処、拙者次第之由候而、無承引之由、不可然候、殿様被聞召候而者如何ニ候、早々御違乱可被相止事肝要候、猶使者可申候、
  十二月十七日 (署名闕)

   御牧摂津守殿

(書き下し文)
わざと啓せしめ候。
仍って狭山郷の儀、往古より相違なき神領の由、聞こし召し分けられ、田中門跡に対して御朱印を成され候のところ、拙者次第の由に候て、承引無きの由、然るべからず候。
殿様聞こし召され候ては如何に候。
早々御違乱を相止めらるべきの事肝要に候。
猶使者申すべく候。(以下略)

12月19日

織田家中の山口又左衛門尉・菅屋四郎右衛門が上洛。
在庄等の件を山科言継が諸門跡へ通達するよう取り計らう。『言継卿記』

 (備考)菅屋四郎右衛門は菅屋長頼とは別人と考えられる。
この両名は言継の岐阜来訪の際に、上洛を促されて実務に当たったと考えられる。

同日

筒井順慶が大和国十市郷へ総攻撃を仕掛ける。『多聞院日記 十七(元亀二年十二月十九日条』

一、筒井ヨリ十市へ惣勢ヲ出取寄了ト、日中ヨリ雨下、

12月22日

木下秀吉、山城賀茂神社奉行の者へ、昨年発行された徳政について通達。『賀茂別雷神社文書 三』

去年徳政之儀、被成御免除御下知幷朱印之処、于今難渋之由、言悟道断次第候、御下知、朱印於違背者、来春罷上、急度可申達候、為届申候、恐々謹言
  十二月廿二日   木下藤吉郎
             秀吉(花押)

   賀茂
    御役者中

(書き下し文)
去年徳政の儀、御免除の御下知おんげち並びに朱印を成さるるのところ、今に難渋の由、言語道断の次第に候。
御下知・朱印を違背に於いては、来春(信長が)罷り上り、急度申し達すべく候。
届けのために申し候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
去年に幕府は山城国西岡地方に徳政一揆が起きたため、徳政令を発布した。
浅井・朝倉連合軍が京都へ向かって進撃し、比叡山に立てこもった時期のことである。
しかし賀茂神社の境内には、この徳政令の適用を免除する旨の幕府の下知と信長の朱印状が出た。
けれども未だに実行されず、債権者が督促するとは言語道断である。
来春(元亀3年=1572)に信長が上洛し、厳重に申し付けるといった文意である。
宛名の役者(やくもの)とは、賀茂六郷の自治責任者であろう。
なお、この事態が改善されなかったため、翌年4月25日付で信長自らも同様の書状を発給している。 『賀茂別雷神社文書 三』

同年

『多聞院日記 十七(元亀二年十二月二十二日条』

十市表筒人數 (ママ)   ムサヽヽト成了、

12月23日

木下秀吉、山国狭山郷の名主・百姓中へ、石清水八幡宮田中門跡領問題の件で書状を発給。『石清水文書 三』

石清水八幡宮田中御門跡御領年貢、諸成物等、堅可相拘候、双方へ納所候而者、不可然候、来春可罷上候条、其刻可相済候、以上
       木下藤吉郎
 十二月廿三日   秀吉(花押)

  城州狭山郷
    名主百姓中

(書き下し文)
石清水八幡宮田中御門跡御領の年貢・諸成物等、堅く相拘うべく候。
双方へ納所候ては、然るべからず候。
来春に罷り上るべく候条、そのきざみ相済ますべく候。以上(以下略)

 (備考)
相拘う(あいかかう)=保管しておくこと
信長は翌年3月7日に上洛する。
そして3月21日に厳重な朱印状が出されることとなる。

12月24日

山科言継、在京中の木下秀吉が今日明日中に岐阜に下向するという風聞を聞く。『言継卿記』

12月25日

村井貞勝が山科言継を訪問。
貞勝は一時的に尾張清州に帰宅しており、昨晩京都に戻ってきたようだ。『言継卿記』

12月27日 未刻

幕臣の細川藤孝、岐阜に到着。『言継卿記』

12月28日

信長、数日間の領内巡察・鷹狩りを終えて岐阜に帰城する。
公家の山科言継は信長の帰宅を何日か岐阜城下で待っていたようだ。
信長と対面した言継は、正親町天皇からの綸旨と女房奉書、勅作之御薫物を「御杉」を以て申し渡す。
武井夕庵せきあんと大方の様子を問答する。『言継卿記』

12月29日

岐阜の山科言継宿にて村井貞勝、明智光秀、細川藤孝が集まり、茶会が催される。『言継卿記』

同日 黄昏

松井友閑が山科言継を訪れ、信長よりの贈り物として小袖袷・肩衣袴などを贈呈する。『言継卿記』

12月

信長、佐久間信盛に所領を加増する。『吉田文書』『東京大学史料編纂所所蔵文書』

元亀二年十二月日付け領中方目録写(書き下し文)

『元亀二年十二月日付け領中方目録写(東京大学史料編纂所所蔵文書)』

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  13. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.) 
  14. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)

参考文献:
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
上松寅三(1930)『石山本願寺日記 下巻』大阪府立図書館長今井貫一君在職二十五年記念会
柴辻俊六,黒田基樹(2003)『戦国遺文武田氏編第三巻』東京堂出版
竹内理三(1978)『増補 續史料大成 第三十九巻(多聞院日記二)』臨川書店
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
山科言継(1915)『言継卿記 第四』国書刊行会
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書<東日本編〉』柏書房
久野雅司(2019)『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版
瀬野精一郎(2017)『花押・印章図典』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
鈴木正人(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
など

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