こんばんは~。
今回は和議が成立したばかりの足利義昭が再び挙兵し、織田信長に敗れて追放される回です。
信長による大舟建造もこの時期のことです。
それでは、今回は元亀4年(1573)5月からはじめる。
(ここまでの流れ)
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.) ←イマココ
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)
この年表の見方
- 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
- 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
- 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
- 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
- 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
- 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「閏」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
- キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
- 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
- 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く
元亀4年(1573)
40歳
この年の7月28日に「天正」と改元。
丹羽長秀に大舟建造を命じる
5月3日
吉田兼和(兼見)、真如堂某より真如堂寺領について磯谷久次(新右衛門)へ口入を依頼される。『兼見卿記』
(備考)磯谷久次とは、この年の2月6日に山本対馬守と渡辺宮内少輔とともに足利義昭に従って信長に反旗を翻した武将。
明智光秀の与力であったが、この時袂を分かった。
真如堂寺領について何らかの権限を保っていたと考えられる。
5月6日
甲斐武田氏、本願寺の下間頼廉(刑部卿法橋)へ贈り物が届いたことを喜び、近況を伝える旨の書状を発給。『大谷大学図書館所蔵「中越史微」(武田信玄書状写)』
(包紙ウハ書)
「下間刑部卿法橋 信玄」
遠三表出馬、就本意芳墨、殊為祝儀太刀一腰到来、珍重候、是も一儀迄一振進之候、遠三濃三ヶ国山中無残静謐、味方之諸城備等堅固申付候、委曲雇彼口上候条、不能具候、恐々謹言
五月六日 信玄(朱印)
下間刑部卿法橋
(書き下し文)
遠・三表出馬、本意に就きて芳墨。
殊に祝儀として太刀一腰到来、珍重に候。
これも一儀まで、一振これをまいらせ候。
遠・三・濃三ヶ国、山中無残静謐、味方の諸城備え等堅固に申し付け候。
委曲、かの口上に(申し)雇い候条、つぶさに能わず候。恐々謹言(以下略)
(備考)
なお、信玄は当年4月12日に死去している。
5月15日
信長、近江佐和山城に入城し、丹羽長秀(五郎左衛門)に命じて大舟の建造を命じる。『兼見卿記』『信長公記』
(備考)これは琵琶湖専用の大舟で、湖水を渡ってスムーズに大軍を動かす目的があった。
分国中の鍛冶・大工などを集め、長さ三十間(約54.54メートル)、横七間(約12.73メートル)、櫓百挺立てという規格外の大舟であった。
関連記事:戦国時代の単位について 長さと面積 石高・貫高・お金の関係
5月21日
佐久間信盛が幕臣の一色藤長宛に書状を送る。『東京国立博物館所蔵文書』書蹟第一七五八号
貴札拝見候、如仰天下之儀、先日各御誓帋、信長年寄共以血判申定候之処、無機程、何かと世上執沙汰、如何之儀候哉、笑止成議共候、拙者式指出段迷惑候、御内書被成下忝候、上意之趣信長申聞、重而御請可為次第候、御馳走肝要候、但我等式之事、不肖ニ付而、御使申儀不実ニ被思召候と相聞之条、向後事斟酌ニ存候、哀於何方も参会、連々相積儀申承、一つたへ申度候、随而先度御独哥内白相聞候、拙者も随分哥道雖達者候、近日腹中相煩、悉失念候間、急与致上洛西殿へ終心仕、返哥可申候、おかしく候、恐惶謹言
五月廿一日 信盛(花押)
(切封ウハ書)
「(墨引)
佐右
一色少御報 信盛」
(書き下し文)
貴札拝見候。
仰せの如くに天下の儀、先日各々の御誓紙、信長年寄共の血判を以て申し定め候のところ、幾程も無く、何かと世上の取沙汰いかがの儀に候哉。
笑止なる儀共に候。
拙者式差出の段、迷惑に候。
御内書成し下され忝く候。
上意の趣き、信長に申し聞かせ、重ねて御請け次第たるべく候。
御馳走肝要に候。
但し我等式の事、不肖に付きて、御使の申す儀不実に思召され候と相聞こえ候の条、向後の事は斟酌に存じ候。
哀れ何れ方に於いても参会、連々相積もる儀を申し承り、一つたへ申したく候。
従って先度の御独歌面白く相聞こえ候。
拙者も随分歌道の達者に候といえども、近日腹中を相煩い、悉く失念に候間、急度上洛を致し西殿(三条西実枝)へ執心仕り、返歌申すべく候。
おかしく候。恐惶謹言(以下略)
(備考)
- 天下の儀は先日、織田-幕府間で誓紙(起請文のこと)を交わしたにも関わらず、※1世上の風説も穏やかではなく、予断を許さない状況である。
従って、公方様(足利義昭)が ※2御内書を発給されると有難いこと。 - 上意の内容は佐久間信盛より織田信長に申し伝えること。
- 佐久間信盛の権限では役不足なので、今後は佐久間信盛を ※3取次役にはしないでほしいこと。
- 信盛自身も歌道が好きなので、いずれ上洛した際に三条西実枝(公家)の指導を受けて返歌したいこと。
としている。
(備考)
※1世上の風説が穏やかではないとは、将軍・足利義昭がより守りの堅い宇治槙島城に移る準備をしているとの風聞があったことだろう。
※2御内書とは、足利将軍家が将軍個人の私的性が強いながらも、公式な命令書と同様の効果がある書状のこと。
少し難しいかもしれないが、効力の強いものだと考えていいだろう。
※3取次役とは中世日本における外交を任された人物のこと。佐久間信盛のように家老レベルの人物が取次ぎを担うこともあれば、中立性の強い僧侶が任される場合もある。
また、大名の側近が担うこともあり、場合によっては、その両者がタッグを組むこともあった。
申次(もうしつぎ)、伝奏(でんそう)、あるいは奏者(そうじゃ)とよぶ場合もある。
関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり
5月22日
信長、近江佐和山城に赴き、大舟の建造を急ぐように指示。『信長公記』
(備考)信長公記にはこのように記されている。
信長公記巻六 「大舟を作られ候の事」より
五月廿二(二十二)日、佐和山へ御座を移され、多賀・山田・山中の材木をとらせ、佐和山の麓、松原へ、勢利川通り引下し、国中の鍛冶・番匠・杣を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、櫓を百挺立たせ、艫舳(ともへ=船尾と船首のこと)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かされ、在佐和山なされ、油断なく、夜を日に継ぎて仕り候間、程なく、七月三日、出来訖んぬ(おわんぬ=おわりぬ)。
事も生便敷(おびただしき)大舟、上下耳目を驚かすこと、案の如し。
5月23日
石山本願寺門跡の顕如、足利義昭への返書を幕臣の一色藤長(式部少輔殿)へ発給。『顕如上人御書札案留』
御内書謹而拜見候、仍今度武田大膳大夫入道、朝倉左衛門督言上之條不存意趣候、天下静謐之儀可在御下知候哉、相應之儀不可有疎意之通可有披露候、恐々謹言
五月廿三日 — —御判形無之
一色式部少輔殿
○此時御使一色式部大輔 此方よりハ上野法眼副狀仕了
(書き下し文)
御内書謹みて拝見候。
仍ってこの度武田大膳大夫入道(武田信玄)、朝倉左衛門督(朝倉義景)言上の条、意趣を存ぜず候。
天下静謐の儀、御下知あるべく候哉。
相応の儀疎意有るべからずの通り、披露有るべく候。恐々謹言
五月二十三日 — —御判形これ無く
一色式部少輔(一色藤長)殿
○この時の御使、一色式部大輔 此方よりは上野法眼(下間頼充)副状仕りおわんぬ
(備考)
最下部の注釈は「一色式部少輔」の誤記か。
5月24日
信長、池田恒興へ書状を発給。『武家事紀 二十九(五月二十四日付織田信長判物写)』
其方幷与力等知行方無沙汰由候、誰々雖為家来、与前不納所者、可為曲事候、次河崎将監蟹江名代軍役懈怠之旨、無是非次第候、堅可申付儀、肝要候也、
五月廿四日 信長
池田勝三郎殿
(書き下し文)
其方並びに与力等の知行方無沙汰の由に候。
誰々の家来たりといえども、与前不納の所は、曲事たるべく候。
次に河崎将監蟹江名代の軍役懈怠の旨、是非無き次第に候。
堅く申し付くべき儀、肝要に候なり。
(元亀四年)五月二十四日 信長
池田勝三郎(恒興)殿
5月28日
佐久間信盛が一色藤長に宛てて再度書状を送る。『東京国立博物館所蔵文書 書跡第一七五八号(五月二十八日付佐久間信盛書状)』
先日預御礼候、御報可申入之処、兎角取紛延引、併疎遠之様ニ候、抑々天下之模様笑止成御事ニ候、雖然(寂?)前の五ヶ条幷今度誓印之首尾、於信長聊不可有相違候、先其通ニて御深重之段目出候、近日又以荒信御絵様令存知候、以連々者、何様共上意申入候、可然様御取成所仰候、尚放心底者、松豊、信兵可為御演説候之条、不能懇筆候、恐惶謹言
五月廿八日 信盛(花押)
(切封ウハ書)
「(墨引) 佐右
一式少御報 信盛」
(書き下し文)
先日御札に預かり候。
則ち御報申し入れるのところ、とかく取り紛れ延引、しかしながら疎遠の様に候。
そもそも天下の模様、笑止なる御事に候。
然りといえども、(寂?)前の五ヶ条並びに今度の誓印の首尾は、信長に於いていささかも相違あるべからず候。
まずその通りにて御深重の段、目出るべく候。
近日また荒信(荒木信濃守村重)を以て御絵様は存知せしめ候。
連々以っては、何様共に上意を申し入れるべく候。
然るべきの様に御取り成し仰ぐところに候。
心底に於いては、松豊(松田豊前守頼隆)・信兵(信濃兵部丞)御演説たるべきの条、懇筆に能わず候。恐惶謹言(以下略)
一式少は一色式部少輔藤長のこと
5月29日
柴田勝家と木下秀吉、小谷城下を襲撃するも敗退。『中村不能斎採集文書』
(備考)真実かどうかは疑わしい。
6月4日
柴田勝家(修理亮)が近江の陣中より京都の大徳寺に宛て書状を送る。『大徳寺文書(六月四日付柴田勝家書状)』
猶以五明、過分畏悦之至候、
被寄思召、遠路預御使僧候、寔御懇意忝存候、仍信長当国佐和山為在城被打越候、然上京都之儀、弥不可有異儀候、可御心易候、貴寺之儀、何篇にも不存疎意候、自然之時者、乍恐可被任置候、随而江北為番手令出陣候、漸明隙候条、近日至長光寺可罷帰候、御用之儀候ハゝ、可被仰下候、恐惶謹言
六月四日 勝家(花押)
大徳寺尊報
(書き下し文)
思し召し寄られ、遠路御使僧に預かり候。
誠に御懇意忝く存じ候。
仍って信長当国佐和山在城として打ち越され候。
然る上は京都の儀いよいよ異儀あるべからず候。
御心易かるべく候。
貴寺の儀、何べんにも疎意に存ぜず候。
自然の時は、恐れながら任せ置かるべく候。
従って江北の番手として出陣せしめ候。
ようやく暇明け候条、近日長光寺に至って罷り帰るべく候。
御用の儀候はば、仰せ下さるべく候。恐惶謹言
なおもって(扇子)五明、過分畏悦の至りに候。(以下略)
関連記事:これが織田方面指令軍の原点 織田信長による近江支配体制の確立
6月5日
佐和山城に滞在中の信長の元に京都紫野大徳寺より贈り物が届いたので、信長は大徳寺へ感謝の書状を送る。『大徳寺文書(六月五日付織田信長黒印状)』
就佐和山在城芳簡拝披、本望之至候、殊金襴一端赤地、令祝着候、度々御悃慮難謝次第候、猶追可申展候、恐々謹言
六月五日 信長(黒印)
大徳寺
廻鱗
(書き下し文)
佐和山在城に就きて芳簡拝披し、本望の至りに候。
殊に金襴一端(赤地)、祝着せしめ候。
たびたびの御懇慮謝し難き次第に候。
なお、追って申し述ぶべく候。恐々謹言(以下略)
6月8日
信長、興福寺寺務の人事について、関白二条晴良へ書状を発給。『尊経閣文庫文書 編年文書辺之部雑慕 五一三番(六月八日付織田信長判物)』
昨日従曇花院殿、興福寺々務事被仰候、今日令直談候之処、一向相違候、所詮、近代如有来、任寺法、為家門可仰被調事専一候、自然申掠叡慮、幷参差儀候者、御意見簡要候、恐々謹言、
六月八日 信長(花押)
二条殿
(書き下し文)
昨日曇花院殿より、興福寺寺務の事仰せられ候。
今日直談せしめ候のところ、一向に相違い候。
所詮、近代有り来たりの如く、寺法に任せ、家門として仰せ調わせらるべき事、専一に候。
自然叡慮を掠め申す。
並びに参差の儀候はば、御意見肝要に候。恐々謹言(以下略)
(備考)
曇花院殿とは曇花院聖秀女王のことで、後奈良天皇の皇女として影響力を持った人物。
曇花院が昨日、興福寺寺務の人事について信長に申し入れをしたので、本日直談したところ、昨日の主旨とは話が違う。
ここはこれまでの慣例の通り、寺法に従い、家門(二条家・藤原氏)として調整されることが望ましいとしている。
宛所の二条殿は、当時関白職にあった二条晴良であろう。
この件の詳細は不明だが、同年9月17日付で権別当の松林院光実が別当に、東北院兼深が権別当にそれぞれ就任しているようだ。
同日
将軍・足利義昭が吉田兼和から吉田神社境内の松樹5本を徴発する。『兼見卿記』
6月18日
佐和山城に滞在中の信長、池田恒興の母に所領安堵の朱印状を発給。『池田家文書(元亀四年六月十八日付織田信長朱印状)』
五郎丸方与八分百五拾貫文の事まいらせ候、なをきうめい候て、申付らるへく候、かしく
元亀四
六月十八日 (信長朱印)
大御ちへ
(書き下し文)
五郎丸方与(よ)八分百五拾貫文の事まいらせ候。
なお、糾明候て、申し付けらるべく候。かしく(以下略)
(備考)池田恒興の母は織田信長の乳母でもある。
同文書には「大御乳人」と記されているのだが、なぜこのタイミングで恒興の母に所領安堵の朱印状を発給したのか謎である。
なお、恒興はこの時期、甲斐の武田勝頼に備えて東美濃の砦に詰めて長期滞陣していたと考えられる。
6月25日
河内畠山家の老臣遊佐信教(河内守)らが主君畠山秋高(昭高)を弑逆。
(備考)先の足利義昭の挙兵により、畠山秋高をトップとする河内畠山氏は足利義昭陣営についていたが、義昭が信長と和睦すると、秋高は再び信長に再び誼を通じようとした。
そこで将軍を支持していた遊佐信教と対立し、秋高は殺害されてしまったのだ。
この時、信教とともに謀叛に加担したのは遊佐盛・保田知宗・平三郎左衛門らである。
彼らはしばらく信教と行動を共にしたが、すぐに反目。
天正2年(1574)までには3名全て信長方に転じている。
6月28日
吉田兼和、近江坂本城に下向し明智光秀と面会し、天主之下立小屋敷で連歌会に参加。
この日、吉田は山岡景佐の元で宿泊していることから、彼も参加していたのかもしれない。『兼見卿記』
(備考)山岡景佐は近江勢多城主・山岡景隆の弟で、当時は松永久秀が明け渡した大和多聞山城の在番を務めていた。
翌日吉田は京へ帰るのだが、その帰途に足利義昭がしきりに吉田郷領有を懇望していることを知らされる。
7月1日
信長、近江竹生島の宝厳寺へ坊舎と寺領を安堵。
取次は磯野員昌(丹波守)が行っている。『竹生島文書(元亀四年七月一日付織田信長朱印状)』
(備考)宝厳寺はこの年十二月頃に信長へ礼銭を支払っている。『竹生島文書(天正元年十二月二十一日付磯野員昌判物)』
それはこの安堵状に対する見返りなのかもしれない。
なお、磯野はこの時期、近江高島郡の大溝城主であった。
足利義昭 再び挙兵する
7月3日
将軍・足利義昭が再び挙兵。
高倉永相(藤宰相)、伊勢伊勢守、三淵藤英(大和守)、日野某に二条御所を守備させ、自らは宇治槙島城に移る。『兼見卿記』『信長公記』『顕如上人御書札案留』
同日
吉田兼和、信長への礼問のため近江佐和山城へ下向する。
その日は山岡景佐の近江勢多城で宿泊。『兼見卿記』
同日
5月に丹羽長秀に命じた大舟建造が竣工する。『兼見卿記』『信長公記』
7月4日
吉田兼和が佐和山の織田信長と炎天下の中、浜辺にて面会。
佐和山麓の小松原で例の大舟を見せてもらう。『兼見卿記』
同日
吉田兼和、信長家臣の島田秀満(但馬守)、木下秀吉(藤吉郎)、滝川一益(左近将監)、前波七郎兵衛尉に書状を出す。『兼見卿記』
(備考)書状の内容は不明
7月5日
信長、京都での足利義昭挙兵の詳細な報告を聞く。『信長公記』
狛左馬進配下、謀反して将軍に加担か。『小林文書(山城狛氏知行分書立案)』
狛当知行
百七拾五石八斗六升五合 狛家来(小百姓給分共ニ)
拾六石八升 延命寺
拾弐石九斗 せんけうし
弐拾六石九斗五升 下坊家来共ニ
弐拾三石五斗五升 落地分(ゑんミやうじ)
五拾五石七斗一升 両寺(なんと)
以上合三百十壱石五升五合
狛郷内同名与力御蔵入
五十石 なかむら
四十石 たかのはやし
五十石 ひかし
七十八石 ちんとうし
以上合弐百十八石
右惣都合五百廿九石五升五合
右此四人こんと致別心を、彼者共公方へ罷出、上野へ与力仕候間、せいはいいたし候、すなはち先年成被下候御朱印ニも致頂戴候処ニ、ひつちうニ山しろおほせつけられ候、其きさミリふしんニ彼等とおとしとられ候、只今者御くら入候、此刻御朱印之以筋目、御ことわり申上、うけの地ニ被仰付候やうニ、御取合奉頼存候、彼四人さし出候おもむき、書付ことくにて御座候、
(朱書)
「天正元年」
七月五日 こまさまのしん
7月6日
信長率いる織田軍が強い風が吹く中、例の大舟を使い近江坂本に進軍。
同地で宿泊する。『兼見卿記』『信長公記』
(備考)信長公記にはこのように記されている。
七月六日、信長公、彼の大舟にめされ、風吹き候と雖も、坂本口へ推し付け、御渡海なり。
信長公記巻六 「大舟を作られ候の事」より
其の日は坂本に御泊り。
同日
甲斐の武田勝頼、信玄の意を受けて小笠原氏へ新地を宛行う旨の判物を発給。『東京大学史料編纂所所蔵文書・小笠原文書』
長篠在城之儀、自法性院殿被仰付候処、有応諾、則被相移候、於勝頼も祝着候、仍為在城領井伊谷相渡候、但以御先判拘来候分者、一切可被停綺(糸偏+寄)、然而其方へ渡置候於井伊谷之内、小笠原左衛門尉、同日向守、常葉常陸守、同名安芸守四人へ、別而知行可有配当候、肝要候者也、仍如件
元亀四年癸酉
七月六日 勝頼(花押)
小笠原掃部大夫殿
(書き下し文)
長篠在城の儀、法性院(武田信玄)殿より仰せ付けられ候のところ、応諾有りて、則ち相移られ候。
仍って在城領として井伊谷を相渡し候。
但御先判を以て拘え来る候分は、一切停綺(糸偏+寄)らるべく、然りて其方へ渡し置き候井伊谷の内に於いて、小笠原左衛門尉(忠長)、同日向守、常葉常陸守、同名安芸守四人へ、別して知行配当有るべく候。
肝要に候ものなり。仍ってくだんの如し
元亀四年(1573)癸酉(以下略)
(備考)
なお、信玄は当年4月12日に死去している。
同日
武田勝頼の側近長坂光堅(釣閑斎)、奥平定能(美濃守殿)へ書状を発給。『東京大学総合図書館所蔵「松平奥平家古文書写」(長坂光堅書状写)』
倚学被差越候条、山三令談合、如承相調差返申候、少々雖不合御存分儀候、無御異儀御落着肝要候、其表静之由可然候、爰元之儀、御隠居様御煩如此筈ニ候、始衆山県、典厩事、過半駿州へ出陣、地利普請最中ニも、諸事令期来信之時候、恐々謹言、
追而山三兵就御普請、駿州へ出陣候間、釣閑斎無御拵候、道紋へも此由頼入候、以上
七月七日 光堅(判)
奥平美作守殿
御報
(書き下し文)
倚学差し越され候条、山三(山県昌景)談合せしめ候。
(如承相調差返申候、 申し訳ありませんがここ読めません)
少々不合といえども、御存分の儀に候。
御異議無く御落着肝要に候。
その表静かの由、然るべく候。
爰元の儀、御隠居様(武田信玄)かくの如く御煩いのはずに候。
始衆の山県(山県昌景)・典厩(武田信豊)の事、過半が駿州へ出陣。
地利の普請最中にも、諸事これ来信を期せしむ時に候。恐々謹言。
追って山三兵(山県昌景)御普請に就き、駿州へ出陣に候間、釣閑斎(長坂光堅)御拵え無く候。
道紋(奥平定勝)へもこの由頼み入り候。以上(以下略)
(備考)
年次は不明ながらも天正元年(1573)説が高いようだ。
この時期の奥平氏は武田方。
徳川家康が失地回復のため、軍事行動を起こしたのだろうか。
7月7~8日
織田軍の先陣が入洛し、祇園、四条道場に布陣。『兼見卿記』
二条御所を包囲する。『信長公記』
7月8日
石山本願寺門跡の顕如、足利義昭への返書を真木島昭光(玄蕃頭殿)・一色藤長(式部少輔殿)へ認める。『顕如上人御書札案留』
御内書謹而令拜見候、仍三日至眞木島御移座之由蒙仰候、然處近日信長可馳上之通風聞、就其條々被仰出候、随分不可存如在候、將亦三好内輪並高屋邊之儀切々申遣候、聊油斷無之候、一途之御左右軈而可申入候、猶御使ニ申渡由可被申入候、恐々
七月八日
眞木島玄蕃頭殿
一色式部少輔殿
○此時之御使安田、若江よりは金山、多羅尾兩人罷越候而行候様申候き、但公方ヨリノ副狀ハ眞木島玄蕃頭也
(書き下し文)
御内書謹みて拝見せしめ候。
仍って三日に至りて槇島御移座の由、仰せ蒙り候。
然るところ、近日信長馳せ上るべき通りの風聞、それに就きての条々仰せ出され候。
随分如在に存ずべからず候。
はたまた三好内輪並びに高屋辺りの儀、切々申し遣わし候。
いささかも油断これ無く候。
一途の御左右やがて申し入るべく候。
猶御使に申し渡すの由、申し入らるべく候。恐々
七月八日
眞木島玄蕃頭(真木島昭光)殿
一色式部少輔(一色藤長)殿
○この時の御使・安田、若江よりは金山・多羅尾両人罷り越し候て行き候申し候き。
但公方よりの副状は眞木島玄蕃頭(真木島昭光)なり
7月9日
信長、上洛して妙覚寺に陣取る。『兼見卿記』
7月10日
信長、細川藤孝(兵部大輔)へ山城国西岡の地を安堵する。『細川家文書(元亀四年七月十日付織田信長朱印状)』
今度被対信長被抽忠節候、誠神妙至候、仍城刕之内、限桂川西地之事、一識ニ申談候、全領知不可有相違之状如件、
元亀四
七月十日 信長(朱印)
細川兵部太輔殿
(書き下し文)
このたび信長に対せられ、忠節を抜きんでられ候。
誠に神妙の至りに候。
仍って城州(山城国)のうち、桂川を限る西の地の事、一式に申し談じ候。
全く領知し、相違あるべからざるの状くだんの如し(以下略)
(備考)以後、細川藤孝は信長より給わった長岡の地にちなみ「長岡」と改姓する。
『有吉家代々覚書』によると、長岡西の岡青龍寺下壱万石」を藤孝が拝領の節に、有吉将監には五百石を下されたとある。
同日
吉田兼和、妙覚寺の信長陣所を訪問。
細川藤孝が礼物を披露する。『兼見卿記』
同日
二条御所に立て籠もっていた幕臣の三淵藤英らが柴田勝家の説得に応じて城を明け渡す。
(備考)細川藤孝の異母兄が三淵藤英で、従兄弟が吉田兼和となる。
藤孝は信長陣営として織田家の協力者となり、三淵藤英は足利義昭に義理を通して信長と戦い、公家の吉田兼和は中立的な立場として三者三様の道を歩んでいたことが窺える。
同日
石山本願寺門跡の顕如、足利義昭への返書を2通発給。どちらも一色藤長(式部少輔殿)宛。『顕如上人御書札案留』
重而御内書謹而致拜見候、至當御城信長可相働之由候哉、仍當寺出勢之儀曾我常陸介ニ申渡候、次三ヶ所無事之儀、以御使之旨切々申遣候、猶只今之通急度可申越候、無如在候、此等之趣宜被申入候、恐々
七月八日 — —
一色式部少輔殿
○此時之公方様ヨリ御使ハ曾我常陸介也
(書き下し文)
重ねて御内書謹みて拝見致し候。
当御城に至りて信長相働くべきの由に候哉。
仍って当寺出勢の儀、曽我常陸介(曽我助乗)に申し渡し候。
次いで三ヶ所無事の儀、御使の旨を以て切々に申し遣わし候。
猶只今の通り、急度申し越すべく候。
これらの趣き、宜しく申し入れられ候。恐々
七月八日 — —
一色式部少輔(一色藤長)殿
○この時の公方様よりの御使は曽我常陸介(曽我助乗)なり
至眞木島御移座之由候、爲御見廻(舞カ)以使節申入候、仍御太刀一腰國長御馬一疋靑毛献之候、其表早々可被任賢慮事勿論候、此等之旨宜様可被申入候、恐恐
七月十日 — —
一色— —
○御兩通ハ同日也 此時此方ヨリノ御使ハ平井越後也
今日ノ七時ヨリ罷立了
(書き下し文)
槇島に至りて御移座の由に候。
御見廻(舞カ)の為、使節を以て申し入れ候。
仍って御太刀一腰(国長)・御馬一疋(青毛)これを献じ候。
その表早々賢慮に任さるべき事勿論に候。
これらの旨、宜しく申し入れらるべく候。恐恐
七月十日 — —
一色— —
○御両通は同日なり。
この時此方よりの御使は平井越後なり。
今日の七時より罷り立ちおわんぬ。
7月12日
幕臣の三淵藤英が山城伏見城へ移る。『兼見卿記』
同日
信長、明け渡された二条御所を悉く破却する。『兼見卿記』
(備考)二条御所は永禄12年(1569)に信長が足利義昭の為に、大量の資金と労力を使って普請に取り掛かり、信長自ら陣頭指揮をするほど(奉行は村井貞勝ら)思い入れのあった御所のはずだ。
破却を命じた時はどのような思いだっただろうか。
7月13日
織田信長、安芸の大名・毛利輝元に宛て書状を送る。『太田庄之進氏所蔵文書(七月十三日付織田信長書状案)』
御逗留不実候之条、定於遠国可為御流落候歟、誠歎敷候、不時御退座子細、甲州武田病(死?)、越前之朝倉不可有差働候、□□以下不足数候間、別ニ可被及御行之(様?)無之候、如此之由、況天下被捨置上者、信長令上洛取静候、将軍家事、諸事遂議定可随其候、不相易御入魂珍重候、随而御分国中無別儀之由、肝要候、猶期後音候、恐々謹言
織田弾正忠
七月十三日 信長
毛利右馬頭殿
進之候
(書き下し文)
御逗留不実に候の条、定めて遠国に於いて、御流落たるべく候か。
誠に嘆かわしく候。
不時に御退座の子細、甲州武田病死?、越前の朝倉はさせる働きあるべからず候。
□□以下は数に足らず候間、別に御てだてに及ばざるの様無く候。
かくの如きの由、いわんや天下を捨て置かるるの上は、信長が上洛せしめて取り静め候。
将軍家の事、諸事議定を遂げてそれに従うべく候。
相変わらず御昵懇珍重に候。
従って御分国中別儀なきの由、肝要に候。
なお、後音を期し候。恐々謹言(以下略)
(備考)義昭の情報をぼかして毛利氏に通達しているところが興味深い。
7月14日
織田信長、河内国の保田知宗に宛て書状を送る。内容は
- 柴田勝家への書状を披見したこと
- 去就に迷っていた畠山昭高(秋高)が遊佐信教に殺害されたことは無念であること
- 保田知宗殿が一時は遊佐に加担したことには理があり、咎めはしないこと
- 遊佐信教を打ち果たすことは肝要であること
- 柴田勝家より追って下知があること
である。
(備考)保田知宗とは河内畠山家の家臣で、遊佐信教が主君を殺害した時はともに加担した。
しかし、7月14日時点で保田知宗は信長に降っていたと考えられ、この際、娘を佐久間安政に嫁いでいる。
以降は佐久間信盛の与力として活躍した。
同日朝
柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉、前波七郎兵衛尉、松井友閑が吉田兼和と面会。
吉田社のある吉田山の築城の件で築城には適さない旨を伝える。『兼見卿記』
(備考)この一件は明智光秀が織田信長に築城すべきだと進言したようだが詳細は不明。
ともあれ、吉田は築城が取りやめになって安堵したようだ。
7月15日
吉田兼和が妙覚寺の陣を訪問し、滝川一益、松井友閑と面会。
昨朝の礼を告げる。
その後、十四屋隆正邸を訪ね村井貞勝と面会する。『兼見卿記』
宇治槙島の戦いと将軍・足利義昭追放
7月16日
信長、将軍の籠る宇治槙島城攻略のため、五ヶ庄の上やなぎ山に陣取る。
同日
坂巻き流れる宇治川を渡り、槙島城を包囲する。
稲葉一鉄(伊予守)、稲葉貞通(右京助)、稲葉典通(彦六)が先陣を務め、斎藤利治(新五郎)、氏家直昌(左京助)、安藤守就(伊賀伊賀守)、不破光治(河内守)、不破直光(彦三)、丸毛長照(兵庫頭)、丸毛兼利(三郎兵衛)、飯沼長資(勘平)、市橋伝左衛門、種田助丞といった美濃衆が続き、
川下五ヶ庄からは佐久間信盛(右衛門尉)、丹羽長秀(五郎左衛門)、柴田勝家(修理亮)、木下秀吉(藤吉郎)、蜂屋頼隆(兵庫頭)、明智光秀(十兵衛)、荒木村重(摂津守)、長岡藤孝(細川兵部大輔)、長岡与一郎(のちの細川忠興)、蒲生賢秀(右兵衛大輔)、蒲生賦秀(氏郷・忠三郎)、永原重康(筑前守)、進藤賢盛(山城守)、後藤高治(喜三郎)、永田景弘(刑部少輔)、山岡景隆(美作守)、山岡景宗(孫太郎)、山岡景猶(玉林)、多賀常則(新左衛門)、山崎片家(源太左衛門)、平野、小河孫一、久徳弓徳左近兵衛、青地元珍(千代寿)、京極小法師(のちの高次)、池田景雄(孫次郎)が城に迫った。『信長公記』・『本願寺文書(上杉謙信宛八月二十日付織田信長朱印状)』=宇治・槙島の戦い
同日
阿波三好氏の老臣・篠原長房が死去。
7月18日 巳の刻(午前9~11時)
信長、槙島城の総攻撃を開始する。
同日
足利義昭が降伏したことにより槙島城はわずか一日で陥落。
義昭は人質として嫡男を差し出し、山城国枇杷庄へ退く。
その後、木下秀吉を警護役として河内国若江城まで護送する。
どうやらこの時に多くの人々の眼に触れたようだ。『兼見卿記』『信長公記』
(備考)
河内若江城に護送とあるが、若江城は三好義継が守備していて、当時は信貴山城主の松永久秀とともに信長陣営に属していた。
三好義継は永禄12年(1569)3月に信長の仲立ちにより、足利義昭の妹を娶っていた。
なお、この後足利義昭は毛利氏の庇護を受けて鞆の浦に拠点を移すが、将軍職を返上しておらず、室町幕府滅亡の時期は学者によって見解が異なる。
信長公記にはこのように記されている
七月十八日巳の刻、両口一度に、其の手を争ひ、中島へ西へ向かって、焜(こん)と打ち渡され候。誠に、事も生便敷(おびただしき)大河、御威光を以て難なく打ち越し、暫く人馬の息をつがせ、其の後、真木島外構へを乗り破り、焼き上げ、攻められ、公方様御城廊は是れに過ぎたる御構へこれなしと、おぼしめされ、御動座候と雖(いえど)も、今は詮なく、御手前の御一戦に取り詰め候。
今度、させる御不足も御座なきのところ、程なく御恩を忘れらる。
御敵になられ候の間、爰(ここ)にて御腹めさせ候はんずれども、天命をそろしく、御行衛おぼしめす儘(まま)にあるべからず。御命を助け、流し参らせられ候て、先々にて、人の ※6褒貶にのせ申さるべき由にて、※7若公様をば止め置かれ、恨みをば恩を以て報ぜらるるの由にて、河内国若江の城まで、※8羽柴筑前守秀吉御警護にて送り届らる。
誠に日頃は輿車美々しき御粧いの御成り、歴々の御上臈(ごじょうろう=裕福なご婦人)達も立ち歩き、赤足にて取る物も取り敢へず御退座。
一年御入洛の砌(みぎり)は、信長公供奉(くぶ)なされ、誠に草木も靡くばかりの御威勢にて、甍(いらか)を並べ、前後を囲ひ、御果報いみじき公方様哉と、諸人敬ひ候へき。
此の度は、引替へ、御鎧の袖をぬらさせられ、貧報(=貧乏)公方と、上下指をさし、嘲弄をなし、御白滅(=御自滅)とは申しながら、哀れなる有様、目もあてられず。真木島には、信長より ※9細川六郎殿を入れ置き申され、諸勢南方表打ちだし、在々所々焼き払ふ。
信長公記巻六 「公方様、真木島に至りて御退座の事」より
※6褒貶・・・ほうへん=褒めることとけなすこと
※7若公様・・・若公方様とは足利義昭嫡男で当時1歳だった足利義尋のこと。
※8羽柴筑前守秀吉・・・豊臣秀吉のことだが、当時はまだ木下秀吉と名乗っており、羽柴姓を名乗るのも筑前守に任官されるのももう少し後のことである。
※9細川六郎殿・・・細川昭元のこと。
父は細川京兆家当主の細川晴元だが、三好長慶のもとで元服し、三好氏と行動を共にした。
信長に降ったあとは信長の妹・お犬を娶るなど、その家格から厚遇された。
関連記事:戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(終)
7月20日
吉田兼和、宇治五ヶ庄の信長陣所に訪れ、陣を見舞う。
この時、塙直政(九郎左衛門)へ鮎1折(?)を贈る。『兼見卿記』
同日
木下秀吉、山城国大山崎離宮八幡宮に、淀川に入り用の縄を徴発する旨の文書を発給。『離宮八幡宮文書』
一乗寺・静原山両城の戦いと木戸・田中両城の戦い
7月21日
信長、細川昭元(六郎)を残し、宇治から京に戻る。『信長公記』
同日?
足利義昭に味方して山城一乗寺に籠城を続けていた渡辺宮内少輔と磯谷久次(新右衛門)を攻撃。『信長公記』 =一乗寺城の戦い
同日
石山本願寺門跡の顕如、幕臣の一色藤長(式部少輔殿)へ、将軍の無事を安堵し、河内・和泉の和平調儀が成立しないことを嘆く旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』
至津田城御退座之儀、先以無御恙之段、珍重存候、當寺行義継、康長、高屋一節和平之調、各依有存分延引、無念之儀候、就中御帷十近來雖希有之物候、軍旅之御事候間、不顧聊爾献上之候、委曲賴充法眼可申上間宜様可被申入候、恐々
七月廿一日 — —
一色式部少輔殿
○今日廿一日津田ヨリ若江へ御座を被移之由依有之、途中迄刑部卿被取進候、御警固之分也、又御書を一式少への表書にて被遣之、文章不及注
(書き下し文)
津田城に至りて御退座の儀、まず以て御恙無きの段、珍重と存じ候。
当寺のてだて、義継(三好義継)・康長(三好康長)・高屋一節和平の調、おのおのより存分有りて延引、無念の儀に候。
就中御帷子十、近来希有の物に候といえども、軍旅の御事に候間、聊爾も顧みずこれを献上候。
委曲頼充法眼(下間頼充)申し上ぐべく間、宜しき様に申し入れらるべく候。恐々
七月二十一日 — —
一色式部少輔(一色藤長)殿
○今日二十一日。津田より若江へ御座を移さるの由よりこれあり。
途中迄刑部卿取り進められ候。
御警固の分なり。
又、御書を一式少(一色藤長)への表書にてこれを遣わさる。
文章注するに及ばず。
7月23日
明智光秀、一乗寺へ向けて進軍。
手勢を率いて吉田神社に寄宿。
山岡景佐と滝川一益も石風呂に入るため、同地を訪ねたようだ。『兼見卿記』
同日
渡辺宮内少輔と磯谷久次、稲葉一鉄の勧告に応じて一乗寺城を明け渡す。
一乗寺城は即日破却された。『兼見卿記』
7月24日
明智光秀ら、山本対馬守の籠る山城静原山城を攻撃。 『信長公記』 =静原山城の戦い
同日
足利義昭が毛利輝元・小早川隆景・吉川元春に援助を依頼する旨の書状を出す。(未確認)
7月26日
明智光秀、河合右近丞へ書状を発給。『堀江滝三郎氏所蔵文書・東京大学史料編纂所影写本』
我等存分之儀無異儀於相叶者、大神楽可参候、猶以望所於任覚悟候、大々神楽可参候、於神前御記念所仰候、恐々謹言
七月廿六日 明智十兵衛尉
光秀(花押)
河井右近丞殿
御宿所
(備考)
伊勢神宮の河井氏は明智家の御師のようだ。
伊勢神宮に祈念し、存念が叶えらえるなら、大々神楽をも奉納するとしている。
光秀が河井氏へ宛てた書状は、他に同年4月6日付のものがある。『古文書集・東京大学史料編纂所影写本(四月六日付明智光秀書状写)』
同日
石山本願寺門跡の顕如、将軍からの贈り物に感謝を示す旨の書状を発給。
一色藤長(式部少輔殿)宛。『顕如上人御書札案留』
御内書謹而拜見忝存候、今度眞木島表無是非次第候、先至若江被移御座之儀可然令存候、随而御太刀一腰鹿(カ)光、御馬一疋糟毛拜受、過當至極候、委細之趣仁木右兵衛督、東老軒可被申入之由宜様可被申入候、恐々謹言
七月廿六日 — —
一色式部少輔殿
(書き下し文)
御内書謹みて拝見、忝く存じ候。
この度槇島表是非無き次第に候。
まず若江に至りて御座を移さるの儀、然るべきに存ぜじめ候。
従って御太刀一腰(鹿光カ)・御馬一疋(糟毛)拝受、過当至極に候。
委細の趣き、仁木右兵衛督・東老軒申し入らるべきの由、宜しく様に申し入らるべく候。恐々謹言(以下略)
7月27日
信長、自ら兵を率いて湖西に進軍。
例の大舟に乗って近江木戸・田中両城を攻略する。=木戸・田中両城の戦い
攻略した木戸・田中両城は明智光秀に与える。『信長公記』
(備考)陸と海と双方から攻め立て、信長の馬廻衆らが活躍したようだ。
この一連の働きにより、明智光秀は信長からこれまでの志賀郡に加えて高島郡を与えられた。
「天正」と改元
7月28日
信長、朝廷に働きかけ、元号が「天正」と改まる。
(備考)かねてより元亀の年号が不服だった信長は、ついに自らの望む元号に改めたことになる。
しかし、将軍の後ろ盾という名目を失った信長は、天下を取り仕切る大義名分が必要となった。
わずか1歳の足利義昭の人質や、細川昭元を擁立することもできなかったと見える。
一説には、この時期に信長自らが征夷大将軍に就任することで大義を得ようとして朝廷に断られたとあるが、真偽は不明である。
この頃
天下所司代(京都所司代)として村井貞勝を任命する。
(備考)以降、村井は在洛し続け、京都の治世や朝廷との折衝を一手に担う名奉行として活躍した。
村井貞勝の功績をなるべく詳細に紹介した記事を書いたことがある。
もしご興味があれば・・・。
関連記事:村井貞勝 信長だけでなく町人、公家、天皇にまで愛された名奉行
7月
信長、上京に諸役の免除を認める判物を発給。『京都上京文書(元亀四年七月付織田信長朱印状)
(備考)4月の信長による上京焼き討ちにより、荒廃した上京を立て直す目的があったのだろう。
この文書は元亀四と明記されているので、7月28日以前のものと思われる。
7月
信長、山城長福寺へ禁制を発給。『長福寺文書(元亀四年七月付織田信長朱印状)』
(備考)この文書は元亀四と明記されているので、7月28日以前のものだろう。
7月
信長、山城大覚寺へ所領を安堵する旨の判物を発給。『京都上京文書(元亀四年七月付織田信長朱印状)』
(備考)この文書は元亀四と明記されているので、7月28日以前のものだろう。
7月
信長、大和薬師寺へ禁制を発給。『薬師寺文書(元亀四年七月付織田信長朱印状)』
(備考)この文書は元亀四と明記されているので、7月28日以前のものだろう。
- 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
- 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
- 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
- 美濃攻略戦(1564~1567)
- 覇王上洛(1567~1569)
- 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
- 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
- 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
- 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
- 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572.6)
- 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
- 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
- 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
- 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.) ←イマココ
- 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
- 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)
参考文献:
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
上松寅三(1930)『石山本願寺日記 下巻』大阪府立図書館長今井貫一君在職二十五年記念会
柴辻俊六,黒田基樹(2003)『戦国遺文武田氏編第三巻』東京堂出版
三重県(1999)『三重県史 資料編 近世1』三重県
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
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