「絵本石山軍記」の解読(5) 室町幕府の盛衰と3つの大乱

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【古文書入門】 明治時代の「絵本 石山軍記」の解読に挑戦(1)
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
石山軍記の5話目です。
第二章に移りまして
足利将軍家盛衰並びに顕如上人門跡に任ぜらる
の解読をいたします。

来世ちゃん
来世ちゃん

今回のメインは足利義満から義持義教義政となります。

石山軍記表紙
この記事はこんな方にオススメです。

  • 古文書解読初心者です!
  • 古文書解読の腕試し
  • 軍記物を読んでみたい
  • 石山合戦を本願寺側の視点で読みたい
  • 江戸時代の名残が残った文章が好き
  • 足利将軍家の中期~後期にかけて知りたい

第二章 足利将軍家盛衰並びに顕如上人門跡に任ぜらる(一)

本文(14ページ目)

石山軍記10

 等持院足利将軍尊氏公(が)天下を治めてより、三代目(の)鹿苑院義満公に至るまで、南朝北朝の闘争止む時なく、四海静謐ならざりしに、義満公(は)これを憂い、もっぱら勇威をもって敵を靡かし、仁政を施して民を撫育(ぶいく=かわいがって育てること)し給いしかば、ついに天下一統に帰して明徳三年(1392)十月、南北両朝御和睦(が)整い、南帝は太上天皇に移らせ給い、後亀山院と号し奉る。

これひとえに義満の武威によるところなりとて、後小松院(は)※1叡感浅からず。
かたじけなくも公方の号を賜り、足利公方義満とぞ称し奉る。
これより代々将軍を公

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※1叡感 (えいかん)とは天皇や上皇が感心し、ほめること。

足利義満
足利義満肖像(鹿苑寺蔵)

本文(15ページ目)

石山軍記11

方とは申すなり。

 去るほどに、四海悉く平定せしかば、公方義満公、外は武威を輝かし仁政をもっぱらとし、内は神仏を尊み神社仏閣を建立せらる。
これより前、
康暦こうりゃく二年(1380)、北山に覚雄山鹿苑院かくゆうざんろくおんいん宝塔寺を建立せらる。
その後永徳三年(1383)に万年山相国寺を建てられ、洛陽五山の第二に位して、すなわち義満公(が)
※2大檀那たるをもって相国寺と号す。
かく善根をなし給うがゆえに将軍家の武威(が)四海にあまねく足利の隆盛なること、武家にて天下の権を執りしより、当代の如き繁昌を聞かざるなり。
さても応永元年(1394)十二月十七日に義満公(は)征夷大将軍を御子・義持公に譲り給い、翌年六月(に)
※3入道して道義天山と号しける。

※2大檀那 (おおだんな)とは勢力のある檀家。
または布施をたくさん出す檀家。

※3入道 (にゅうどう)とはいろいろな意味があるが、ここでは武士が仏門に入ることを指す。
仏教に帰依して修行に励みたい人もいれば、領民や政敵の不満を逸らすために形ばかりの入道をする人もいた。

例)武田晴信→信玄 大友義鎮→宗麟

しかれども義持公(が)幼稚たるゆえ、天下のまつりごとは入道これを預かり、そのうえ、帝よりは入道道義をして法皇の如くにもてなし給う。

同じく七月。
義満入道(は)延暦寺に参詣せられし、その
※4行粧、帝の※5行幸に准ぜらるるは前代未聞のことなりけり。

※4行粧 (ぎょうそう)とは外出や旅のときの服装。旅の装束。

※5行幸 (ぎょうこう)とは天皇が遠地に外出すること。
かつては十津川や熊野へたびたび行幸されていた。
じゅんこう、みゆきともいう。

明くれば応永四年(1397)、義公退隠の地を求められけるに、北山はその昔、西園寺公綱さいおんじきんつな公の宅地にして、すなわち西園寺という寺あり。
すこぶる絶景なれば義満入道これを乞い受け、別業(=別荘)を構えられ、それ結構善を尽くし美を尽くし、四方すべて黄金をちびばめ造られしにより、世に金閣寺と号す。
また、義満公(は)この地に閑居し給うゆえに北山殿とも申しける。

鹿苑寺(金閣)
鹿苑寺(金閣)

同じく十五年(1408)五月六日、六十一歳にして薨じ給い、鹿苑殿と号し奉る時に、天子(=天皇)より太上天皇の尊号を贈り賜いしかども、将軍・義持公には前後例がなきことなればとて、これを辞し給う。

げに義満公の積善によって義持公の御世には諸国の大小名(も)公方くぼう(=将軍のこと)を尊敬し、国家静謐に治まり応永三十年(1423)(に)征夷大将軍を嫡子・義量よしかずに譲られ、※3入道して、道詮顕山と号す。
しかるに義量早逝によって義持公の御舎弟・
青蓮院門跡しょうれいいんもんぜき(の)義圓(義円)と申しけるを、※6還俗なさしめ義宣と号し、将軍に任じ、のちに義教公と称す。

足利義教
室町幕府6代将軍・足利義教(妙興寺蔵)

※6還俗 (げんぞく)とは仏門に入っていた人が僧籍を離れ、世に出ること。
戦国時代にもこうした例がしばしばあった。
例)
宮部善祥坊→継潤
栴岳承芳(せんがくしょうほう)→今川義元

正長しょうちょう元年(1428)正月(1月)十八日、前将軍・義持公(が)薨ず。
この時関東の

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本文(16ページ目)

石山軍記12

管領足利従三位左兵衛督じゅさんみさひょうえのかみ持氏もちうじ野心あるによって、合戦におよぶ。

そのゆえは義量よしかず将軍(の)早逝ありて、他に家督すべき血脈なければ持氏は定めて我に将軍を譲らるるか、さもなくば我が子・義久を養子にせらるべきやと思い居られしところに、義持公の舎弟(が)出家しておわするを、※6還俗させられ将軍に備え給いしかば、持氏残念に思い京都将軍(=足利義教のこと)を滅ぼし、その身鎌倉にありて先例に習い天下を掌握せんと、それ催ししきりなり。

このこと早く京都に聞こえければ、将軍・義教公(は)大いに驚き、上杉、山名、武田、小笠原らに命ぜられ、討手として大軍を関東に向かわしめ、鎌倉勢と合戦数度におよび、永享十年(1438)の春より翌年の春まで挑み戦いしに、鎌倉方(は)ついに敗軍せり。

(これは享徳の乱とよばれ、室町時代が戦乱期に移る大きな契機となった)

そもそも鎌倉管領職は、往時、文和三年(1354)(に)はじめてこれを置かれしより、ここに至って四代八十六年にして滅びたり。
この時、
結城ゆうき中務大輔なかつかさのだいふ満朝みつとも、同じく左衛門督さえもんのかみ氏朝うじともは鎌倉方として戦功を※7尽くしけるが、持氏父子自害ありしかば、持氏の次男・春王、三男・安王この二人を伴い、我が本城(の)下総国結城(茨城県)に立て籠もりしほどに、京都の討手上杉、山名、武田、小笠原の諸将進んで結城に押し寄せ攻め立てれど、智勇兼備の氏朝父子(は)義を守りて籠りしかば、寄せ手(は)討たるる者数多く、さらに落城の体見えず。

(これは結城合戦とよばれるいわば享徳の乱の2ラウンド)

※7=尽

しかれども、寄せ手は日々に馳せ加わり攻め立てれば、結城父子(は)秘術を※7尽くし戦いけれども、ついに兵糧(が)※7尽きて、嘉吉元年(1441)四月十六日落城におよび、満朝入道をはじめ氏朝、久朝ひさとも(ら)一族郎党ら男女を合わせ一万八千九百余人(が)自害して城に火を掛け滅亡せしは、古今稀なる籠城なりと諸人大いに感じけり。
これ結城三年の籠城といい、伝えて後世までの美談とは成りしなり。

さてもこの兵乱(は)自然天下動乱の端となり。

嘉吉元年(1441)六月廿四日(24日)には赤松満祐みつすけ(が)将軍・義教公を恨みごとありて、公を我が館に請うじ、これを害して本国播州白旗の城(兵庫県)に立て籠もりければ細川(勝元)山名(宗全)十五万の軍勢を率し、播州に下向し赤松を攻め立て、同年九月二十六日(に)白旗落城して満祐父自害す。
義教公四十八歳にて薨去あり。
翌年(1442)十一月五日、義教公の長
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本文(17ページ目)

石山軍記13

義勝九歳にして将軍となり、その翌嘉吉三年(1443)七月廿二日(22日)(に)義勝公薨じ給い、義勝公の舎弟・義成家督を継ぎ、寶德(宝徳)元年(1449)四月廿九日(29日)(に)※8勅命下りて義成を将軍に任ぜらる。
これ足利八代主将なり。
その後享徳二年(1453)六月(に)義成公十八歳にて義政と改名あり。

※8勅命 (ちょくめい)とは天皇からの命令。
勅がつくとだいたい天皇が絡む。
勅使は天皇からの使者。
勅許は天皇からの許しなど。

尊氏公より三代までは四海静謐なりしが、鎌倉持氏の謀反並びに赤松の逆徒義教公を弑し奉りしより、諸国争乱絶えることなく、しかれども、公方くぼう家に※9対しては不禮(=無礼)の儀なかりしに、應仁(応仁)元年(1467)五月、管領かんれい細川勝元(が)山名宗全と京都において合戦し、数月を※10経れども、勝敗を分かたず両軍へ馳せ加わる諸国の大名数多にて、これより天下大乱の基となる。

応仁の乱図屏風
応仁の乱図(一部抜粋)

(応仁の大乱で戦国の世になったという通説は有名で、この石山軍記にもそのように記されているが、これまで書いてきたように四代目の足利義持隠居あたりから戦乱が絶えない時代になっていったことが窺える。)

※9=対

※10=経

しかるに義政公は将軍職を御子・義尚に譲り給う。
細川、山名はなおこれまで
※9対陣してありけるに、今年三月死しければ、天下※11いよいよ乱れ、国々所々にて合戦止むときなし。
されども洛中は先静謐なり。

※11彌々=弥々=いよいよ

足利義尚
足利義尚肖像 (地蔵院蔵)

(山名宗全と細川勝元は同時期に没した。
天下はいよいよ乱れたのは事実であるが、洛中が静謐とは言い難いだろう。
洛中が動乱に巻き込まれた要因の一つには、本願寺氏が暴れまわったことも挙げられる。)

関連記事:戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(1)

同じく二十年(20年とする意図が不明)七月義政公(は)東山浄土寺村に閑居し、東求堂というるを建て、持仏を安置し、もっぱら仏法に帰依し給い。
ついにこのところを寺となして慈照院殿と名づけ、義政公(は)方丈の南の庭なる池の西に、楼閣を造り銀箔をもって彩色す。
それ結構鹿苑寺の金閣を模せしゆえ、世の人ここを銀閣寺と称す。
義政公(は)ここに閑居してより東山殿と称し奉る。

慈照寺(銀閣)
慈照寺(銀閣)

この君、常に茶を嗜み給い、四畳半の茶亭を構え、明け暮れ茶事に心を慰められ、老いを楽しみ給いけり。

これ今の世に茶の※12会を興するに、四畳半の数寄屋(某牛丼チェーン店のことではない)を建つる。
はじめ觴(さかずき?)なりのちに太閤秀吉公の茶道千利休この四畳半にて
※12茶の会を為すに、諸道具の飾りまた、茶を※13立つる手前の式法を定む。
よって利休をこの道の元祖と仰ぎ、千家流と称す。

※12=会

※13=立

さてまた義政公は料紙りょうし硯箱すずりばこ※14文台・香箱こうばこの類をみな金粉をもって※15蒔絵し、美麗を※7尽くされ給いしかば、後世(に)これを時代蒔絵じだいまきえと称したり。
(全てこの君の用い給いし器物は、
東山殿ひがしやまでん御物ごぶつととなえ、数寄者すきじゃは殊に尊めり)

※14文臺=文台

※15蒔繒(蒔絵)・・・(まきえ)とは、漆で文様を描き、金・銀・スズ・色粉などを付着させた漆工芸のこと。

(長享元年(1487)九月(に)江州(滋賀県)佐々木高綱
(次回へつづく)

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございます。
今回は1ミリも本願寺氏について触れませんでしたね。
たぶん次回で第二章は終了です。

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