【古文書入門】 明治時代の「絵本 石山軍記」の解読に挑戦(1)

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【古文書入門】 明治時代の「絵本 石山軍記」の解読に挑戦(1)
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
需要がほぼないと知りながらも石山軍記を記事にしました(笑)
結構長いので、全ページ解読し終える頃にはpart100越えるんじゃないかと(;´∀`)
読んでるとなかなか面白いので、あまり先のことは気にせず記事にしていこうと思いますw

来世ちゃん
来世ちゃん

私の解読が間違えている部分もあると思います。
参考程度にご覧ください。
間違いは指摘して頂けると有難いです。

石山軍記表紙
この記事はこんな方にオススメです。

  • 古文書解読初心者です!
  • 古文書解読の腕試し
  • 軍記物を読んでみたい
  • 石山合戦を本願寺側の視点で読みたい
  • 江戸時代の名残が残った文章が好き
  • 講談物、浄瑠璃物に興味がある

絵本 石山軍記とはかんたんに

  • 明治時代前期に講談、浄瑠璃、歌舞伎のために記された本
  • 11年におよぶ織田信長と石山本願寺の死闘を繰り広げた石山合戦が元ネタ
  • 本願寺側の視点。信長は敵という設定
  • 大衆受けするために作られているので、信憑性はあまりない(と思う)

絵本 石山軍記の解読

まえがき部分

1
2

 木々若葉茂りて小園を自ずから林の景況を做(ふ)し、ウグイス老いを告げて曇天、ややホトトギスを催さんとするが如し。
竹根の稚子ようやく親に添うて伸崖下の薔薇花すでに爛漫たり。
酒屋へ
※1三里、豆腐屋へ二里の不自由なれば、いかんば、この閑静を占めんやと、一人僻地の住居を甘んじ、空々として寒貧(かんひん)を楽しむ折から紫扉(さいび)を押して訪来たる者は鶴声社(の)主人なり。

※1・・・一里(いちり)は距離の単位で約3926.88m(4km)
二里は約8km、三里は約12km。

関連記事:戦国時代の単位について 長さと面積 石高・貫高・お金の関係

懐中(ふところ)より一筆を取り出し、これに叙せよと言う(や?)、その書を見るに、織田右幕府(織田信長)が兵を出して石山本願寺に迫りし軍記にぞある。

思うにその初め、守屋大連仏を攘(はら)わんとしてかえって身を滅ぼし、平重衡(は)南都を焼いて災害を己に負う。
右幕府(織田信長)もまた、ついに本能寺の厄難に遭い給えり。

世(?)が如きに至っては、業の拙さに恥じて筆を執る手も、仏勅(ぶっちょく)に背くにあらねば、織田(?)も御免(みゆるし)あらんなれども、未来は知らず現世たちまち菩薩の罰の著しきを恐るれば、明日に紅顔(こうがん)の少年に嘲けられ、夕べに白頭の老翁に笑わるるをも厭わず。

多羅の葉に経文を書するの思いしつ、わずかにおこう(?)を染めて、書肆(しょし=本屋)が責を塞がんとす。
着官(?)この鉄の紐解き給わば、余(私)が叙文(はしがき)をもって石山籠城のさくやらいともご覧あれかし。

 あなかしこ

(騎?)に明治十七年五月下旬

   梅亭 躅叟?

第一章 摂州石山本願寺縁起

本文(7ページ目)

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 それ教法に文明国・野蛮国に関わらず、人の住む所としてあらざるは無し。
ただその宗派の違うのみ概してこれを言えば、耶蘇教(キリスト教) 猶太教(ユダヤ教) 回々教(イスラム教)仏教 儒教等、即ちこれなり。

みなもって人を善道に導くを主となせり。
我が国もまた、神教仏教儒教の三道なり。
然りてこの三道のうち、仏教をもって盛んなりとし。
仏教のうち、真宗をもってまた盛んなりとす。
これひとえに高祖・親鸞聖人の法徳によるところなり。
今ここにその強大にして他と異なるを挙げて言わん。

そもそも、摂州東生郡(東成ごおり)生玉の荘・石山本願寺は、第八代蓮如上人明應(明応)五年、丙辰(ひのえたつ=干支)の建立なり。

初め高祖親鸞聖人(は)、弘長二年壬戌(みずのえいぬ=干支)、十一月二十八日御年(おんとし)九十歳にて遷化し給う。
その後、開山の御女(おんむすめ)・覚信尼公御弟子・高田の顕智房等、洛東大谷に地を求め、聖人の廟堂を建て、地方念仏の道場とす。

信心の門葉偈仰(もんようかつごう?)する事、宗租御在世に異ならず、時の帝・亀山院(が)殊に御信心仰坐まして、又、文永九年(1272)、壬申(みずのえさる=干支)(に)、本願寺の号を賜い勅願所となし給う。

弘安二年聖人の四代・善如上人、五代・綽如(しゃくにょ)上人、六代・巧如上人、七代・存如上人、八代は即ち蓮如上人にして、存如上人の御嫡男なり。

才徳高くおわしける程に、一向宗世上一般に繁昌し、それ盛んなる事、前々に十倍せり。
今に至りて中興開山と尊称なおもむべなり。
ゆえに時の天子・後花園院(が)蓮如上人に帰依し給い、禁中(宮中のこと)の日華門を大谷の御堂へ賜りたり。

然るに叡山の宗徒(は)、これを嫉み憤り、本願寺を破却せんと一山の悪僧輩・五百余人(を)寛正六年正月(1465年1月)九日、勢ぞろいして、翌十日の暁天に大谷へ押し寄せるに、寺中には思い寄ざる事ならば、防ぎ支うべき手立て無く、我先にと逃げ去る。

蓮如上人も葛布の十徳を召姿をやつして大津の方へ・・・(つづく)

来世ちゃん
来世ちゃん

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