こんばんはー。
石山軍記の9話目です。
前回に引き続き第四章「三好松永将軍義輝公を弑す 並びに義昭公所々御動座」の続きの解読をいたします。
永禄の変で将軍義輝が亡くなり、その後の覇権をどの陣営が握るのか。
西暦でいうと1565年です。
戦国ファンにとってはたまらない時代ですね!
なお、今回本文に頻出する”慶学”とは足利義昭のことを指します。
- 古文書解読初心者です!
- 古文書解読の腕試し
- 軍記物を読んでみたい
- 石山合戦を本願寺側の視点で読みたい
- 江戸時代の名残が残った文章が好き
- 義輝暗殺から信長上洛までの権力の空白に興味がある
第四章 三好松永将軍義輝公を弑す 並びに義昭公所々御動座(2)
本文(26~27ページ目)
永禄の変で足利義輝が横死する様子だろう。
明治初期の頃には既に義輝はカッコイイキャラとして認識されているのが興味深い。
本文(28ページ目)
(前回からの続き ことに御出家に渡らせ給うを理不尽)
に害し給いなば、せっかく忠義を思いて計り給いし事もかえって仇となり、これを他より見るときは我意に任せて将軍家を弑し奉る逆賊となるべし。
もし天下の御為なりとて思し召しのことならば、 ※1御連枝をなだめ参らせ、阿波の御所(足利義維)を早く将軍に据え奉り、慈悲の計らいをなし給い、しかある時は誰か各々方を逆心と思うべきや、よくよく御深慮ありて然るべし。
各々方も我が宗 帰依の檀越なるゆえ、現在に ※2五逆の罪を受けんこと便なく存ずると、理を尽くして諭し給うに、三好らを上人の教化に従い、これまでの事は是非もなし(”く”かもしれない。”く”ならば文は接続する)。
※1御連枝 (ごれんし)とは御一門という意味。
つまり、血縁関係のある近しい人物。
※2五逆の罪 (ごぎゃくのつみ)とは仏界用語で、無間地獄レベルの最も重い罪のこと。
具体的には
①母を殺すこと
②父を殺すこと
③阿羅漢(仏・聖者)を殺すこと
④仏身より血を出させること
⑤僧団の和合を破壊すること
を指すようだ。
切っては慶学殿(のちの足利義昭)をそのままに助け置くべしとの心生じけり。
そもそもこの教諭は、 細川兵部大輔藤孝(は)元来信義を守る人なれば、彼らが仕業を浅ましく思い、何卒して御舎弟方は助けたきとて、 ※3自ら石山本願寺に到り、上人に彼らを教化し給うべしと頼みけるゆえ、顕如上人(は)下間をもって仰せ遣わされし事なりとぞ、さても三好らは顕如上人の教化に預かり、未来の苦患恐ろしさに、慶学を助けんと思いたれども、松永弾正(久秀)・三好らを諫めて、顕如の申し送りしは、出家の道にて未だ見もせぬ未来を解く仏法の空理なり。
※3自ら石山本願寺に到り、上人に彼らを教化し給うべしと頼みける…
もちろんそんな事実は史料からは確認できない。
絹本着色細川幽斎像(天授庵所蔵)
細川藤孝(幽斎) (1534~1610)
細川家分家の家督を継ぎ、将軍足利義輝の側近として活躍。
主君の横死後はその弟・義昭を救い出し、諸国を流浪。
親友の明智光秀をして織田信長と出会った。
足利義昭の将軍就任に奔走するもやがて疎まれ、信長に鞍替えした。
その後も的確な情勢判断で細川家の命脈を守り抜く。
古今伝授を受けた文化人としても有名。
特に茶と和歌は達人級の腕前であった。
細川藤孝の和歌数首を記事にしたことがある。
もし興味があれば。
関連記事:戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(終)
我々(は)既に将軍を弑し、周暠殿を害したる上は、仏法をもって正さば、既に五逆の罪は身に及べり。
しかる上は、慶学殿一人助けたりとて、いかんとぞこの罪を免るる事を得べけんや。
由なし出家の言葉に迷い、慶学を助け置きなば、近国の武士(は)己が世に出んことを思い、この人を薦め(=擁立し)、謀反を企つること必定なり。
しかある時は容易に誅伐叶うまじ。
これ婦人の仁にして、かえって禍を身に求むるなり。
見もせぬ未来は取るに足らず。
早く慶学を誅し、義栄公の天下となし給うべし。
永禄の変とその後の動き
それその閻魔のちょう(?)が恐ろしくは慶学殿を守り立て、天下の主となし、義輝公の御墓前にて面々腹切って相果てられよ。
しかあらば、 ※2五逆の罪は逃るべしと申しけれども、三好等は心迷い、とかくに慶学を助けんとの思いありしかば、松永はとても我が言いしことを聞き入れまじと思い、急ぎ人を南都(=奈良)に馳せ、慶学の守護を一層厳しく申し付け、後
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本文(29ページ)
より密かに討手を遣わし、疾く(とく=早く)害せんとぞ計りける。
また、三好らは本願寺へ使者を立て、松永が不得心の様子を申し送りければ、顕如上人(が)聞こし召し、この由(を)細川藤孝に通じ、慶学殿を助け出すの手段を到さるべしと申し送られければ、藤孝(は)やがて謀計を廻らし、守護人を欺き、ついに慶学を盗み出して江州(=滋賀県)矢島に忍ばせけり。
松永弾正久秀(は)これを聞いて大いに驚き、虎を千里の藪に放ちしは、三好三人(衆)の臆病ゆえなりと怒り罵りけるゆえ、三好ら(は)これを聞き、松永と不和を生じ、同士いくさとはなりにけり。
松永は元来、知謀の者ゆえ、さらにくゆう?(=計略のことだろう)をめぐらし、慶学が義兵を擧事(=挙事)は必定なれば、これに先立て三好らを滅ぼし、我が罪を免れんと思い、三好と合戦度々に及びけり。
太平記英勇伝の松永久秀
松永久秀 (1508~1577)
戦国の梟雄。
三好長慶の側近として仕え、政・戦・智と大いに活躍。
主君の病死後は三好義継を擁し三人衆と対立する。
一方で奈良の多聞山に最新鋭の城に築き上げた。
のちに織田信長に従属するもやがて反目。
信貴山城に立て籠もり、梟雄として華々しい最期を遂げた。
松永が信長に与(くみ)せしも、ひとえにこれによるとかや。
さてまた慶学得業は江州矢島にて味方を集められ、還俗ありて翌年の五月、若狭国(福井県)の ※4武田義種を頼みたれども、領内狭ければ大事(を)為し難しと、それより越前の朝倉を御頼みになり、同年九月、金ヶ崎の城に移られ、年月を送り給う折がら、明智光秀計策を進めけるゆえ、織田信長を御頼みとなり、濃州(=岐阜県)へ転ぜらる。
※4武田義種 恐らく若狭守護武田義統のことだと思われる。
一時的に若狭で義昭を庇護するも、内乱ですでに武田家が弱体化していたため、兵を出すことはできなかった。
足利義昭肖像 (東京大学史料編纂所蔵)
足利義昭 (1537~1597)
将軍足利義晴の子。
嫡男ではなかったため、幼いころから仏門に入り一乗院門跡として覚慶と名乗る。
永禄の変で兄義輝が討たれると、幕臣の細川藤孝らによって助け出されて諸国を放浪。
やがて織田信長の後援を得て室町幕府15代将軍に就任した。
しかし、やがて信長と対立して最後には自らも挙兵。
敗れて京から追放された。
信長死後もかつての権力を取り戻すことなく、足利幕府最後の将軍となってしまった。
この君 越前にて名を ※5義昭と改め給い、新公方と称しける。
信長は公の御頼みは武門の誉れなりとて大いに喜び、急ぎ御上洛の道を開かんと合戦の準備をぞせられける。
(次の章へ)
※5義昭 名前の変遷は一乗院門跡の覚慶→足利義秋→足利義昭となる。
石山軍記には覚慶のことをなぜか「慶学」としているが、まあこの程度の誤差は目を瞑ろう。
そしていよいよ織田信長の時代へ・・・!
ご覧いただきありがとうございます!
いよいよ面白い時代に突入しましたね。
有名な武将も次々と登場します。
いやぁ、細川藤孝らが義昭を救出できたのは、本願寺のお陰というとんでも説を出してきたのはさすがに笑っちゃいましたけどね。
これで第四章「三好松永将軍義輝公を弑す 並びに義昭公所々御動座」は終わりました。
次回からは第五章「織田信長大軍を率して上洛す 並びに明智十兵衛光秀信長に仕う」が始まります。
お楽しみに!