「絵本石山軍記」の解読(8)上杉政虎の上洛と永禄の変

【古文書入門】 明治時代の「絵本 石山軍記」の解読に挑戦(1)
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
石山軍記の8話目です。
第四章三好松永将軍義輝公を弑す 並びに義昭公所々御動座に入ります。
今回は主に三好長慶の死去からはじまり、越後の上杉政虎上洛、永禄の変で将軍義輝死亡、阿波の御所である足利義栄を将軍に据えるかどうかというお話です。
三好三人衆と松永久秀も出てきます。

石山軍記表紙
この記事はこんな方にオススメです。

  • 古文書解読初心者です!
  • 古文書解読の腕試し
  • 軍記物を読んでみたい
  • 石山合戦を本願寺側の視点で読みたい
  • 江戸時代の名残が残った文章が好き
  • 長慶死去から信長上洛まで上方はどうだったの?

第四章 三好松永将軍義輝公を弑す 並びに義昭公所々御動座(1)

本文(23ページ目)

石山軍記19

 ここにさきの将軍義晴公の弟、堺の冠者義維よしつな先年、三好海雲(元長)、同長慶を頼み、将軍家と天下を争われ、長慶(は)一度ひとたび義晴公を近江国(滋賀県)へ退けるといえども、義維を将軍にも成し難く、遂に義輝公と和睦し、元の如く将軍に据え奉り、その身は天下の権を執りて威を振るいしかば、阿波の御所義維は、生涯本意を遂げられずして逝去あり。

足利将軍家家系図06
足利将軍家家系図06

義維の嫡男義栄よしひで(も)これまた阿波の御所と申せしが一度上洛して父の存念を達せんと思われしかども、頼みにせられし三好長慶はかえって将軍・義輝公を立て、その身は御相伴衆(ごしょうばんしゅう=幕府内の役職)に加えられ、ひたすら一家の繁昌のみを心掛ければ、今は頼みになし難く、鬱々として月日を送り給いしに、長慶は老病重なりて永禄七年七月廿四日(1564年7月24日)に病死せり。

末期に一族郎党を集め、養子左京大夫さきょうのだいぶ義次(=義継)いまだ若年なれば、三好日向守長緑(ながより=長逸(ながやす)のこと)岩成主税介ちからのすけ道佐(友通のこと)を後見とし、家臣松永弾正だんじょう久秀これに立ち会い、万事相計らうべし。

決して将軍家を軽んずることなかれと遺言なして死去したり。

これによりて二人の後見(と)松永もろとも義次(=義継)を守り立て三好家の相続に立ちけるが、長慶死去以後は恐るる者なきにより、このともがら奢り超過して長慶が遺言を忘れし如くなりしかば、公方義晴公(義晴は10年ほど前に病没しているのだが)怒らせ給い、長慶陪臣(ばいしん=家来のその家来)の身をもってさきの将軍に敵対するさえ言語道断なるに、ましてその家来として上をないがしろに致すこと奇怪なり。

速やかに誅伐なさんとせられけれども、五畿内に味方する者なければ遠国の大名に命ぜられんとお
(次のページへ)

本文(24ページ目)

石山軍記20

ぼす折りしも、永禄三年(1560)五月、越後の上杉景虎(=のちの謙信。当時は政虎と名乗っていた)上洛しけるゆえ、将軍義輝公御喜びあって景虎に深く頼み、御名乗りの一字を賜り「輝虎」と改名させ、関東の管領職に補せられしゆえ、上杉大いに喜び不日(ふじつ=近いうちに)に軍勢を率し上洛仕り、三好松永の両徒をことごとく誅伐仕るべしと言上し帰国なしけれども、武田信玄と(の)和睦(が)破れ、合戦数度におよび、自国の取り合いに暇なくして再び上洛なす(に)あたわず。

上杉謙信

上杉謙信肖像(上杉神社蔵)

 上杉謙信(景虎・政虎・輝虎) (1530~1578)

長尾為景の子。
兄晴景を隠居させたのち、内乱続きの越後国を統一。
「義」を楯に近隣の諸勢力と戦闘を繰り返し、軍神と恐れられた。
特に武田信玄との川中島の合戦が有名。
関東管領職・上杉憲政の養子となり、「上杉」姓を名乗る。
青芋を輸出して交易で富を得るなど産業にも力を注いだ。

義輝公はひたすらこれを頼みに思し召され、上杉と密書を送り松永父子らを誅伐あらんと冩(=移)られければ、三好のともがららが出仕のふし不快の気色けしきに見えさせ給うことたびたびなり。

(京から遠く離れた越後(新潟県)の上杉にどこまで期待を寄せたかはわからないが、三好三人衆、松永久通(久秀の子)との折り合いが上手くいかなかったのは事実である)

また、三好らも将軍を後めだく思う様子を阿波の御所義栄よしひで(は)伝え聞き、密かに計議を廻らされ、三好松永を御頼みあって上洛なされ、度(たび)とのことなりしかば、松永弾正久秀思うよう、今義輝公(は)我々を怨敵の如く思し召さるれば、ついには誅伐の御催しあるべし義栄の御頼み(おり?)幸いなれ、我々が力をもって義輝公を廃し、義栄公を将軍の職に立ち参らせなば、一家の繁昌百倍なるべし。

義栄公も義澄将軍の嫡孫足利の正統なり。

世人
いかでの不義と言わん義輝公の御企てに陥らぬうち、早々謀計はかりごとをなさんと三人衆に相談しければ、三人衆と松永に合体し、所詮義輝公をこのまま置かば必ずわざわい近きにあらんゆえ、あざむきて害さんとて、阿波の御所へも陰謀の次第を通ぜり時に、永禄八年五月廿九日(1565年5月29日)三好松永等(は)義輝公へ清水詣きよみずもうでを勤め奉り、公もこれに赴かんとせられし時、松永ら路次の警護と偽り軍勢を御所近く(へ)押し寄せ、不意に時を作りて討ち入りしかば、御所中の武士(は)慌て騒ぎて戦うといえども、にわかの事故(で)身体を固むる暇なし。

近習小姓きんじゅうこしょうの面々思うほど戦いて皆々討死したりけり。

されば義輝公も、自分に敵を斬り払い給いてついに御自害あられけり。

足利義輝肖像

足利義輝肖像(国立歴史民俗博物館蔵)

 足利義輝(義藤) (1536~1565)

室町幕府第13代征夷大将軍。
父・義晴の元でたびたび細川晴元・三好長慶らと戦い、京への復帰と近江への敗走を繰り返す。
父の隠居によりわずか11歳で将軍職を継ぐものの、かつての権力を取り戻すことは叶わなかった。
三好長慶の死後、空中分解した三好家の内紛に巻き込まれて殺された。
剣豪の塚原卜伝から指導を受けた剣豪としても知られている。

足利家尊氏公よりここに十三代、年数二百三十余年にして、ここに衰退し、既に義輝公御自害ありければ、三好松永(は)一時に本意を遂げ、この上は御舎弟方の出家しておわするを、後日の禍い払
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本文(25ページ目)

石山軍記21

いに討ち参らせんとて、北山鹿苑院にましま※1喝食の御曹司周暠しゅうこう君(義輝公の御舎弟なり)を松永弾正謀りごとをもって欺き出し、その日のうちに討ち奉り、今一人南都一乗院の門主とならせ給いし※2慶学得業(義輝公の御舎弟なり)をも討たん為、出奔し給わぬさま、番人を付け置きしが軍勢を急に南都へ差し向け、一乗院を取り囲ませ置き逆徒らは京都にあって洛中の騒動を鎮め、三好三人衆押して参内を遂げ奏しけるよう、義輝飲酒に長じ、政事に疎し。

※1喝食 (かっしき)とは朝昼の食事などを修行僧へ知らせる役目のこと。

※2慶学得業 この名前は初めて見るが、要するに室町幕府最後の将軍となった足利義昭のこと。
仏門に入っていたこの当時は一乗院の「覚慶」と名乗っていた。

かかる戦闘の時節暗躍にそうらいては禁中の守護おぼつかなく、よって義輝を廃し阿波の義栄を将軍に相立てたくと天下の為にこのことを計りしところ、義輝(は)かえって身の不義を顧みず、合戦の企てに及びしゆえ、是非なく義栄の命を受け義輝へ自害致させ候。

ついては義栄へ征夷将軍の勅諚(ちょくじょう=天皇からの命令)なし下されたび、願い奉ると妄言をもって奏問なしければ、帝(は)大いに驚かせ給いけれども、勅諚せられざる時は、またいかなるあだをか成さんも計られずと思し召され、先、彼が申す旨に任せ義栄上洛して京都を治めなば、将軍職の号を賜るべしと伝奏より仰せ渡されしによって、三好等ありがたしと退出し、急ぎ阿波へ注進しけるにぞ、義栄の喜び一方ならず。

日頃の本望達しんと既に上洛の準備ありしを三好山城守康長(が)諫めて、京都はいまだ平穏ならず。

先君の味方なお五畿内に有べければ、先これを鎮められてのち御上洛あるとも遅きにあらずと述べけるゆえ、義栄もこれに同じ上洛を差(?)えられたり。

京都にては三好松永ら、今は恐るる者なく早く南都の慶学(=一乗院の覚慶)をしいし、わざわいの根を断つべしと評議の折がら、石山本願寺顕如上人より下間刑部法橋頼廉しもつまぎょうぶほうきょうらいれんを京都に上らせ、三好らをなだめさせ給うさまは、出家の身にて武門の筋は存ぜずといえども、既に将軍家を弑しなお、※3御連枝までも害せられんはあまりに情けなく覚え候。

もっとも義輝公武将の器にあらずとて、阿波の御所を立てらるべき由は、忠義において感心いたすところなれども、何ぞ
※3御連枝に過ちあらんや。

ことに御出家に渡らせ給うを理不尽
(次回へ続く)

※3連枝 (れんし)とは一門の意。

来世ちゃん
来世ちゃん

本願寺がいいところで仲裁に入って覚慶の命を助けたような記述があるが本当?(笑)
幕臣の細川藤孝らが助けたというのが専らの通説なのですが・・・。

来世ちゃん
来世ちゃん

とうとう永禄の変が起き、時代が動き出しました。
西暦でいうと1565年のことです。
次回も第四章「三好松永将軍義輝公を弑す 並びに義昭公所々御動座」の続きです。

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コメント

  1. junco より:

    24ページ冒頭は「際しも=をりしも」ではないでしょうか?

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