織田信長が家督を相続した天文21年(1552)3月9日(諸説あり)から桶狭間の合戦を終えるあたりの永禄3年(1560)までの記事はコチラです。
若き信長の行状を憂う斎藤道三の書状 丁重な手紙のワケとは?
若き信長の行状を憂う斎藤道三の書状を解読します。この文書は、家督を相続して間もない信長の様子を窺い知ることができる史料的価値の高い文書です。丁重な手紙のワケとは何でしょうか?
織田信長の清州城攻略戦 父をも成し得なかった大事件を「信長公記」から考える
若き織田信長による清州城攻略。それを示す史料はそう多くはない。今回は当時の信長の行動が最も詳細に記されている「信長公記」から見てみようと思う。どのような経緯があって信長は主家を滅ぼし、さらにその主家である斯波家を傀儡化することができたのか。
「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読
斎藤道三が記した「美濃一国譲り状」の古文書の解読をします。1.美濃一国譲り状の信憑性について 2.美濃一国譲り状(弘治二年四月十九日付け斎藤道三遺言状) 原文と釈文、書き下し文、現代語訳 3.この書状の時代背景 4.美濃一国譲り状は複数存在する? 5.斎藤道三の死による信長への影響 など
桶狭間の戦い 忠臣岡部元信と去就をはっきりさせない水野一族
今回は桶狭間の合戦を古文書から見る。知多半島から三河国境にかけて勢力を持つ水野家に焦点を絞り、どのようにしてこの難局を切り抜けたのかを調べた。織田信長と今川義元の間に揺れる弱小国人領主、水野一族の生き残り策とは
織田信長の年表のちょっと詳しめ 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで
今回は織田信長の年表3回目です。永禄3年5月から永禄7年末までとなっております。この間の主な出来事は、桶狭間の戦い、斎藤義龍の病死、西美濃攻略戦、松平元康との同盟、織田信清謀叛、小牧山城築城、竹中半兵衛の城乗っ取り、犬山城攻略です^^
浮野の戦い 織田信長の尾張の支配者を賭けた壮絶な合戦
兄弟相克の戦いに勝ち、織田家の権力基盤を固めた織田信長は。かねてより険悪な仲だった岩倉織田家で、御家騒動が勃発。これを好機と見た信長は、犬山織田家と婚姻関係を結び、ついに尾張上四郡の支配者、岩倉織田家に挑むのであった。
激戦村木城の戦い 若き信長が男泣きをした理由とは
こんにちは~。
今回は信長21歳の時の話、「村木城の戦い」を取り上げます。
現在の地図と照らし合わせて布陣図を描いてみました。合戦の詳細も書いてます。
時は天文23年(1554・年次については諸説あり)1月24日。
家老・林秀貞一党に出陣を拒まれ、万に一つも勝ち目がないとされた中、
信長はなぜ自ら出陣して村木城に攻め込んだのか。
織田信長の年表のちょっと詳しめ 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで
今回は織田信長の年表2回目です。天文23年(1554)11月から永禄3年5月までとなっております。この間の主な出来事は、叔父信光の死去、守山城の異変、長良川の戦い、弟信勝謀叛、稲生合戦、岩倉織田家のお家騒動、浮野合戦、信勝謀殺、将軍義輝との謁見、岩倉織田家滅亡です^^
信長と斎藤道三の知恵比べ?正徳寺の会見
織田信長と斎藤道三の心理戦。「正徳寺」の会見は信長にとって、尾張統一へと踏み出す大きな一歩になったのではないだろうか。様々な説を総合的に見て、ドラマ風に仕立ててみた。
織田信長の年表のちょっと詳しめ 誕生~叔父信光死去まで
当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1