「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読

斎藤道三家系図
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
今日は久しぶりに古文書の解読を。
ネタは斎藤道三が記したとされる美濃一国譲り状です。
今回はどのような面白いことが記されているでしょうか。

美濃一国譲り状の信憑性について

まず初めに申し上げておきたいことがある。
いわゆる「美濃一国譲り状」についてだが、その信憑性が古くから議論されている。
道三の真筆とするには、不可解な点がいくつかあるらしいのだ。
怪しいとされる点は

  • 道三が美濃の人で宛先も我が子でありながら、文中では「当国」を用いず、「美濃国」と記されているのが不審。
  • 道三は信長について「三郎殿」あるいは「上総介殿」といつも記すのに、本状ではそうではない。
  • 筆致が江戸時代のもの

である。

主にこの三点が怪しい点だが、1と2に関しては道三が他人に見せて信長の美濃侵攻の大義名分を与えたのだとすると、敢えてこのように形式ばった文を書いたのは不思議ではない。
3については私にはよくわからない。

他にも紙質・形状の点でも戦国時代よりも後の世のものだとする説もあるが、美濃和紙の生産地だしなぁ・・・。
美濃和紙は土岐氏が奨励投資して規模が拡大し、戦国時代末期には近江商人の力によって全国に広まったらしい。

何が言いたいかというと、これがホンモノか偽書なのかは私にはワカラン(^-^;

本物か偽書かはともかく、とても興味深い書状なので是非ごらんいただきたい。

美濃一国譲り状(弘治二年四月十九日付け斎藤道三遺言状)

原文

斎藤道三 美濃一国譲り状
弘治二年四月十九日付け斎藤道三遺言状

釈文

態申送候意趣者、美濃国之地、終に
織田上総介可任存分之条、譲状対
信長贈遺候事、其方之儀、如兼約之、
京之妙覚寺へ被上尤に候、一子出家すれは
九族天に生と云り、如此調一筆儀計に候、
それも夢、於斎藤山城者、法華妙躰之中、
生老病死之苦を離、向(至が右にはいる)修羅場仏果を
得んそうれしき、既明日向一戦、五躰不具
之成仏不可有疑候、実や捨てたに此世の
ほかハなきものを、いつくかついの住職なる、

          斎藤山城入
  弘治二四月十九日   道三(花押)
    児 まいる

原文に釈文を記してみた

斎藤道三 美濃一国譲り状+釈文
弘治二年四月十九日付け斎藤道三遺言状 釈文を記してみた

書き下し文

わざと申し送り候意趣は、美濃国の地、終に
織田上総介の存分に任すべきの条、譲状
信長に対し送り遣わし候事、その方の儀、兼ねて役の如く、
京の妙覚寺へ上られもっともに候。

一子出家すれば、九族天に生まれると云えり、かくの如く一筆を調うる儀ばかりに候。

それも夢、斎藤山城においては、法華妙躰の中、
生老病死の苦を離れ、修羅場に向かい、仏果を
得んぞ嬉しき。

既に明日一戦に向かい、五躰不具の成仏疑い有るべからず候。

実や捨てだに この世の他はなきものを、何処か終の住家なる、

          斎藤山城守入道道三
  弘治二年四月十九日   道三(花押)
    児 参

斎藤道三 美濃一国譲り状+書き下し文
斎藤道三 美濃一国譲り状+書き下し文

現代語訳

 この書状をあえて送った趣旨は、美濃の国を織田信長に任せる譲り状である。

同じ内容の書状を既に信長へ遣わした。

その方は兼ねての約束通り、京都の妙覚寺に入って僧として修業に励め。

子が出家すれば、九族は天に生まれるという。

妙覚寺には既に話は通してあるので心配するな。

それも夢。斎藤道三においては法華妙躰の中、生老病死の苦しみをすることなく成仏できるのだから、むしろありがたい。

父は明日(斎藤義龍と)決戦をし、討死を遂げることは間違いのないことだ。

「実や捨てだにこの世の他はなきものを何処か終の住家なる」
(これは辞世の句)


         斎藤道三
  1556年4月19日   道三(花押)
    敬具

斎藤道三
斎藤道三肖像

この書状の時代背景

斎藤家と織田家の和睦縁組同盟

 天文17年(1548)美濃の大半を手中に収めて間もない斎藤利政(道三)は、娘の帰蝶を織田信秀の嫡子に嫁がせて和睦した。
斎藤家からすると、好戦的な織田信秀と戦いを続けるほど余裕はなく、美濃を完全に平定することが重要であった。
一方、織田信秀も駿河の今川義元との戦いが激化し、その上美濃の斎藤家とも争うことは得策ではなかった。

こうした両家の思惑が絡み合い、織田家の平手政秀の働きかけで婚姻同盟が成立した。

織田信長の家督相続

 しかし、それからわずか数年の天文21年(1552)。
織田信秀は流行り病により病死する。(年次については諸説あり)

間もなく家督は嫡男の織田信長が継いだ。

織田信長肖像
織田信長肖像

「うつけ者」と悪名高い織田信長であったが、斎藤利政との関係は良好であった。
天文23年(1554年)、斎藤利政は家督を嫡男の義龍に譲り、自らは剃髪入道して「道三」と号して隠居した。

しかし、斎藤道三はこの頃から義龍以外の子を寵愛しはじめた。
さらに、道三の政治を快く思わない重臣たちが、義龍を擁立して立ち上がった。
実際にはどのような経緯があって父子が不仲になったのかは不明だが、戦国の世ではよくあることだ。

親子相克 斎藤義龍が立ち上がる

 弘治元年(1555)冬。
斎藤義龍は病と称して稲葉山城に引き籠もり、
「わが余命は幾ばくも無いので、死ぬまでに会って一言申し上げたいので来てほしい」
と弟たちを呼び寄せた。

そこで弟二人を暗殺し、これに驚いた斎藤道三は急ぎ兵を集めて城下の町を焼き払い、大桑城まで逃れた。

斎藤義龍と斎藤道三

こうした美濃での政情が不安定な中、尾張の織田信長は今川義元が支配する三河へ調略を仕掛けた上で攻めていた。

美濃一国譲り状の誕生

 そうした中でいよいよ美濃では決戦の流れとなり、長良川をはさんで両軍が対峙した。
本状の日付が弘治2年(1556)4月19日とあるが、決戦は翌日の20日なので、対陣中に書状をしたためたものだと思われる。

決戦 長良川の戦い

 文中にもあったように、
「明日一戦に向かい、五躰不具の成仏疑い有るべからず候。」
と記されているので、もはやこれまでと覚悟を決めていたであろう。

というのも、この時期の斎藤道三は既に影響力を失い、動員できた兵力は2700人程度だった。
一方、子の義龍率いる軍勢は1万7500人。
この当時の美濃で果たしてそこまでの兵力を動員できたか疑問であるが、多勢に無勢なのは事実だろう。

4月20日。両軍は長良川で激突した。=長良川の戦い

緒戦においては一騎討ちに勝利するなど道三側が有利だったものの、時間が経つとともに義龍側が次第に押し気味となった。
やがて道三の本陣を肉薄した義龍勢は、乱戦の中、ついに斎藤道三を討ち取った。

一方、信長も早馬の知らせを聞き、急ぎ美濃へと急行した。
しかし、折からの長雨により、増水した濃尾の三大巨川が織田軍の行く手を遮った。

道三を打ち破った義龍勢は軍をそのまま南下させて、織田軍へ向けて突撃を始めた。

大良口の戦い 美濃一国譲り状が信長の手に渡る

 この時、斎藤道三の末子である斎藤利治(新五郎・長龍)が信長の陣所へと駆け寄り、美濃一国譲り状を信長に手渡すとともに、道三入道討死を報告した。

救援先の大将が討ち取られたら、これ以上の戦闘続行は無意味である。

織田軍は退却を決断した。
しかし、川の増水によって退却は困難を極めた。
信長は自ら殿(しんがり)を引き受けた。
全ての兵を退かせ、信長自身は舟一艘で川に残った。

義龍勢の騎馬武者が川を渡河して迫ってくると、かねてから用意していた鉄砲を撃ち、敵がひるんでいるところをうまく退却したのだった。=大良口の戦い

美濃一国譲り状は複数存在する?

 さきほど美濃一国譲り状を道三の末子である斎藤利治が届けたと述べた。
しかし、この文中にある
「おまえはかねてからの約束通り京都の妙覚寺で出家しろ」
とあるのは、斎藤利治のことではなく、別の子の勘九郎に宛てているのだ。

つまり、「美濃一国譲り状」は、斎藤利治に信長に渡せとして与えた書状と、勘九郎に宛てた譲り状と、少なくとも2点以上存在すると考えられる。(計3通とする説が有力)

斎藤道三家系図
斎藤道三関連図

もちろんこの美濃一国譲り状は、娘婿にあたる信長に美濃攻略の大義名分を与えるためである。
しかしながら、あまりにも信長にとって虫の良い内容なのに加え、先述した江戸時代の筆致などもあり、「偽書」ではなかろうかという議論も読んでいるのである。

斎藤道三の死による信長への影響

 斎藤道三の死に乗じ、これまで密かに信長打倒の機会を窺っていた岩倉織田家が挙兵
斎藤義龍と手を組み、信長が留守にしている清州城下を放火した。

信長の兄にあたる織田信広も斎藤義龍と手を組み、謀叛を起こす。

さらに織田家筆頭家老の林秀貞と、織田家随一の猛将・柴田勝家が、信長の実弟である勘十郎信勝を擁立して挙兵。

このように斎藤道三の死は、信長の外交破綻を意味していた。
同盟国・斎藤道三の存在によって反信長一派は影を潜めていたが、以後信長は大きな試練を迎えるのである。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございました。
この時期の織田信長公の詳しい年表はこちらです。

2. 織田信長の年表のちょっと詳しめ  叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで

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