こんにちは~。
昨日に続き戦国時代の政略結婚について書きます。
⇒大名の正室は政略結婚が当たり前 メリットとデメリットは(前編)
安全保障と人質
戦国時代の政略結婚は多分に安全保障の意味が込められていた。
安全保障というと意味が広すぎて解釈が難しい部分があるかもしれないが、要するに、どちらかが攻められたら援軍を送るとか、両国間の商いや交易を積極的に行ったりすることだ。
姫の場合は他家の家に入るわけだが、立場が低い方が姫を送るというわけでは決してない。
結婚適齢期(だいたい14~19くらい)の姫がいれば、同じような年代の若君に嫁ぐ例がほとんどだった。
結婚とはいえ、人質として生活を送ることになるのは戦国の常識だった。
しかし、双方決してだまし討ちはしないという約束事を、何度も何度も「起請文(きしょうもん)」として取り交わし、その都度同盟の再確認をした。
ちなみに起請文とはこういう感じのものだ。
これは天正10年(1582)10月24日。
徳川家康と北条氏政が停戦に合意し、和睦をしたときに家康が発給した文書。
神社などからもらう護符の裏に書き、最後に「〇〇の神様、〇〇の神に誓ってこの約束は破りません。」と神に誓うのである。
外交文書なのに、起請文だけは「よってくだんのごとし」で締めくくる決まりがあるなど、その作法についてはかなりおもしろいので、もし興味があればこちらもご覧いただきたい。
関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は
侍女の役割
先ほど姫は人質と述べたが、嫁ぎ先の情報を密かに実家へと伝えることも期待されていた。
姫の実家の大名は父親である場合が多かったので、そうしたスパイ行為も期待されたのだろう。
しかし、年月が経ったり、姫に愛すべき子が出来たりすると、次第にスパイ行為を怠ることも仕方のないことである。
そこで活躍するのが侍女(じじょ)である。
侍女は姫が幼いころからずっと仕えてきて(姫の乳母というパターンも多い)、姫の輿入れにもついてくる。
そして、輿入れが終わってもなぜかずっと居座って、姫への面会の取次ぎなどを請け負った。
それだけでなく、内部で知り得た情報を密書を書いて、密かに忍者などに渡すなどの役割も担った。
姫への愛情を第一に、主家への忠誠も決して忘れず、かつ文字の読み書きも堪能なハイパーキャリアウーマンでないと務まらないのが侍女であった。
ヨーロッパのドラマなどには侍女みたいな人が若君と恋仲に落ちて、ドロドロな恋愛に陥ったりするケースがよくあるが、実際のところはどうだったのだろうか。
そういえば徳川家康は正室の築山殿の侍女に手を出して、そこで生まれたのが次男の秀康だったようなw
もし侍女を斬ってしまうと外交問題に
侍女はスパイ。
これは当時の周知の事実であった。
奥州の雄・伊達政宗は若いころ、田村家から嫁いできた愛姫の侍女を成敗してしまった。
スパイ行為をしているその瞬間を発見されての成敗だった。
これにより夫婦仲は当初最悪だっただけでなく、田村家との外交問題に発展してしまった。
というのも、侍女は高い教養を要求されるため、家老あたりの娘がなる場合が多い。
侍女が殺されたり、娘が不憫な思いをしているとあれば、両家の関係も当然冷え込んだ。
そのため、人質とはいえ丁重に姫を扱わねばならなかったのである。
当主の寝首をかかれることだけは絶対に避けねばならない
東北地方の複雑に絡み合う婚姻同盟
少し話が変わるが、第一次世界大戦がどのような形で始まったのかご存じであろうか。
ヨーロッパで起きた大戦争を例に
20世紀に入るとバルカン半島のセルビアにおいて、オーストリア皇太子のフランツ・フェルディナント夫妻が暗殺されて戦争が始まったのだが、実は事態はもっと複雑だった。
その理由が、友好と安全保障を目的とした国家間の複雑に絡み合う婚姻関係だった。
当初、大英帝国(イギリス)は孤立主義を貫いていたが、ロシア帝国の勢いが強まって、植民地にしているインドや、多大な権益を持っている中国の主要都市が奪われかねないと危惧し、日本と同盟を結んだ。
一方、フランス-ドイツ帝国-ロシア帝国は同盟を結んで大英帝国に対抗した。
しかし、世界一の陸軍力を誇っていたロシアが、日露戦争で日本に敗れたのを機に外交情勢が一変した。
そして、今度は世界で一番脅威を与えつつあったドイツを警戒し、大英帝国-フランス-ロシア帝国間で同盟が結ばれた。
20世紀にはいるとすぐに大英帝国のヴィクトリア女王が死去した。
ヴィクトリア女王はヨーロッパのあらゆる王室に自らの血縁を送り込み、ヨーロッパでの戦争は避けていた。(ヨーロッパ以外ではやりたい放題!w)
ちなみに大英帝国皇帝のジョージ五世と、ドイツ帝国皇帝のヴィルヘルム二世はヴィクトリア女王の孫である。
さらにヴィルヘルム二世とロシア帝国皇帝のニコライ二世とは従兄弟同士である。
歴史とは残酷だ。
1914年8月。
オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。
ドイツ帝国もかねてよりオーストリアと行動を共にする覚悟はできていた。
一方、セルビアに独立保障をかけていたロシア帝国がドイツとオーストリアに宣戦布告。
さらにロシアと安全保障同盟を結んでいた大英帝国とフランスも、ドイツとオーストリアに宣戦布告。
ロシア帝国とかねてより仲の悪かったオスマントルコ帝国がドイツ、オーストリア側につき、
オーストリアと仲の悪かったイタリアがロシア、大英帝国、フランス側につくなど、ヨーロッパの主要な王室が敵味方に分かれて戦争したのだ。
これが戦争を抑止するために結んだ安全保障の連鎖が裏目に出て、最悪な結果を招いてしまった例である。
戦国時代の東北地方でも似たような悲劇の連鎖が
伊達政宗の曽祖父の時代に、東北地方でも上記と似たような乱が起きた。
伊達稙宗は、多くの血縁を近隣の諸大名、国人に送り込んで勢力を拡張し、奥州一の大勢力となった。
しかし、稙宗の婿に当たる相馬顕胤に伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようとしたが、この案に稙宗の嫡男・晴宗が猛反発する。
さらに三男・時宗丸(のちの伊達実元 伊達成実の父)を越後守護・上杉定実の養子に送り込もうとしたことで、かねてより反対していた伊達晴宗が立ち上がり、名門・伊達家で御家騒動が起きた。
やがて奥州と羽州、越後の諸大名・諸国人衆が双方の側につき、天文の大乱が起きたのであった。
これも戦争を抑止するために結んだ安全保障の連鎖が裏目に出て、最悪な結果を招いてしまった例である。
天文の大乱終息後も奥州ではこうした婚姻同盟の結び合いに終始したため、半世紀以上過ぎた時代に、伊達政宗が自らの手によって血縁の連鎖を打破しようと立ち上がったのかもしれない。
正室と側室
これまで書いた政略結婚の多くは正室に限定した話である。
子は多いほど良い時代だったので、側室を持つことも推奨された。
政略結婚ならば恋愛結婚ではないので、不仲となって子がそもそもできないという例もよくあった。
しかし、側室ならば基本的には誰と結婚しても良かったのだ。
一応暗黙の了解というか、のちの御家騒動の目を出さないということで、一人目の男子は出来る限り正室との間でつくることが推奨された。
御家騒動がよく起きるわけ
御家騒動というのは、例えば子どもAと子どもBがいて、家来や叔父などの一族連中たちが、双方の側について勝手に盛り上がって相争うことだ。
戦国時代でも豊後の大友氏で御家騒動(二階崩れの変)が起きたり、駿河の今川氏で御家騒動(花倉の乱)が起きたりしている。
こうした場合、多くは正室との間に生まれた嫡男を大名が嫌って廃嫡にし、自分が最も指導者として素質の高いと考える子供を当主にしようとしたことが、御家騒動のきっかけとなる場合が多いのだ。
織田勘十郎信勝「わしは立つ!泣いて兄上を斬る!!」
江戸時代では特に御家騒動が起きやすい環境にあった その理由は
戦国の世が終わっても御家騒動は頻繁に起きた。
原田甲斐が主役として映画や舞台の題材となっている「伊達騒動」や、最上義光死後に起きた「最上騒動」などが有名だろう。
その理由は、大名の正室は人質という意味で必ず江戸の藩邸で永住するのが決まりだった。
大名は2年に1度参勤交代で江戸に出府し、1年経てば国もとに戻って領内の政治を行う。
正室とは1年置きにしか会えないこととなっていたのだ。
正室との間で子が生まれたら、その子は家督を継ぐまで国もとには帰れず、基本的には江戸に住んでいた。
正室との間に生まれた1番目の男子が基本的には嫡男だ。
例えば大名が急死し、急遽その子が家督を継いで国もとへと帰っても、家のことはあまり分からないし、家臣・領民が心服しているとは限らない。
もし側室との間に男子がいた場合、家臣たちはその子を担ぎ上げる場合もあったのだ。
これでは御家騒動が起きないほうが不思議である。
江戸幕府としてはそうしたことに常に目を光らせていて、御家を取り潰して改易させる理由を探していたのだ。
ご覧いただきありがとうございました。
今度は戦国の政略結婚でもうまくいったカップルを書いてみようかな?