今回は明智光秀による丹波平定戦の栄光と挫折を記事にしています。
光秀の丹波攻略の始まりが1575年6月。
おおむね攻略を完了したのが1579年10月のことです。
光秀は4年の歳月を費やし、どのようにして丹波国を平定したのでしょうか。
将軍足利義昭の追放
元亀4年(1573)夏。
室町幕府第15代将軍は足利義昭は織田信長に対抗するため、宇治の槙島城に立て籠もりますが城は陥落。
信長との和解を最後の最後まで拒んだため、京を追放されてしまいました。
事実上の室町幕府滅亡です。
永禄11年(1568)以前の丹波国の情勢
足利義昭と織田信長の対立の際、三好義継・松永久秀・伊丹親興・和田惟長ら有力大名が将軍方についており、丹波の国人衆らも、内藤氏を中心に将軍側を支援しています。
また、丹波一の有力者、荻野直正は信長包囲網の一角を担う外交政策を取るなど、将軍追放後も反信長陣営の一人として認知されていました。
元亀4年(1573)頃の丹波国の情勢(青が織田信長陣営 赤が足利義昭陣営)
織田信長につくか、足利義昭につくかで揺れた丹波国。
それを物語る面白い史料があります。
(史料1)
【年次不明三月二日波多野秀治書状写(東京大学史料編纂所所蔵影写本)】
御札拝見致し候。
信長より種々御訴詔申さるに付きて、御分別半ばの由、如何成り行き申すべき哉。
三左大略御参(□?)有るべき通り、何れの儀も御無事目出度く存ずべく候。
この刻我等罷り上がり、然るべき旨御意に候。
内々申し入れ候如く、路次等気遣い仕る事候間、迷惑致し候。
但し罷り上り必ず面目を施し申す儀には、何れの筋も本意に申し付き度覚悟に候間、たとえ前後気遣いに候共、罷り上るべく候。
御分別に加えられ、重ねて仰せ下され候間、いよいよ忝く候。
一、中下罷り下らる刻、御存知なき候旨驚き存じ候。
御加判無く候間、不審に存じ申し上げ候儀候き。
御意の如く覚悟せられ前廉渕底に候間、心持ち致し御返事申したる、これより使者を以て申し上げるべく候間、その刻つぶさに申し入るべく候。
一、三河表の儀、如何候哉。
これまた承りたく候。
委曲青民申さるべく候。
恐惶謹言、
猶々御情を入れらる事申し上げるに及ばず候へども、なお以て御馳走を成され罷り上り、いよいよ然るべき儀必定に候はば、重ねて御状待ち奉り候。
以上
波右太
三月二日 秀治(花押)
この書状は丹波国の有力大名である波多野秀治が、織田陣営の何者かに宛てた弁明状です。
3月2日とあるだけで、発給年は不明です。
本状からは、信長から何かしらの嫌疑を掛けられていて、上洛して申し開きを促されていることや、遠く離れた三河の情勢を気にかけている様子が窺えます。
なぜ信長から嫌疑をかけられたのかは全くの不明ですが、この時期の文書とみて良いでしょう。
波多野氏ら丹波の有力者は、この後の明智光秀の丹波平定に天正3年(1575)の暮れまで従います。
明智光秀、信長より丹波攻略を命じられる
天正3年(1575)6月頃、織田信長は敵対する丹波国の諸豪族の討伐を明智光秀に命じます。
ちょうどこの頃に、織田信長が丹波の国人である川勝氏に宛てた書状がこちらです。
(史料2)
【丹波川勝継氏氏宛朱印状写】
内藤 宇津の事、先年京都錯乱の時、此の方に対し逆心未だ相休め候哉。
出仕無く候はば、誅伐加えたるべく、明智十兵衛(光秀)指し越され候。
連々馳走之条、なお以て、此の時忠節を抽んでるべき事、専一に候也。
仍って状件の如し
天正三(1575)
六月七日 (信長朱印)
川勝大膳亮(継氏)殿
先年京都錯乱とあるのが、恐らく2年前の足利義昭挙兵の際に義昭に味方した内藤氏、宇津氏を指すのでしょう。
出仕して信長に忠節を尽くさねば、誅伐を加えるために明智光秀を派遣する。
川勝はそれに従い、忠節を抜きんでよという内容ですね。
天正3年(1575)9月下旬に明智光秀は兵を率いて丹波国へ侵攻。
ただちに内藤忠俊の籠る八木城を包囲します。『信長公記』
戦いの詳細は明らかではありませんが、年内に陥落したものと思われます。
八木城を陥落させた明智勢は、同年12月頃に丹波一の勢力を誇る荻野(赤井)直正の黒井城を取り囲みます。
(この時荻野直正は隣国の竹田城を攻めていて、退却する直正を追って黒井城を包囲した)
天正3年(1575)12月頃の丹波国の情勢
明智光秀の陣には丹波の国人衆らが次々と味方に加わり、黒井城の陥落は時間の問題でした。
明智光秀大敗 命からがら坂本城へ逃げ帰る
明けて天正4年(1576)1月15日。
明智光秀の陣営に加わり、黒井城を取り囲んでいた波多野秀治らが突如荻野直正陣営に寝返ります。
明智光秀本陣は急襲され、たちまち総崩れになって敗走。
光秀は命からがら丹波国を脱出し、近江坂本城へ退却。
丹波攻略は大失敗に終わりました。
この時のことを明智光秀の大親友の公家であり、吉田神社神主でもある吉田兼和(兼見)は、自らの日記にこう書き記しています。
(史料3)
旧冬以来惟任日向守(明智光秀のこと)取り詰め在陣なり。
波多野(波多野秀治)別心せしめ、惟日(明智光秀)在陣は敗軍せしめ云々・・・」
『兼見卿記』
この時、光秀は敗走して近江坂本に至る途中、京都の白川で吉田と会っています。
吉田は恐らくこの時に事の仔細を聞いたのでしょう。
この報せを聞いた信長は、戦略の転換を余儀なくされました。
一気に丹波を平定することを諦め、対毛利・本願寺の作戦も踏まえて辛抱強く取り組む方針に切り替えます。
同年2月28日に再び光秀は丹波へ侵攻しますが、配下に兵の大半を預けて、自身は京都で報恩寺を二条晴良邸にするための普請を行っています。
4月14日から光秀は、長岡(細川)藤孝・原田直政・荒木村重らとともに石山本願寺攻めに従軍します。
しかし、この戦いで原田直政が討死。
天王寺に籠る光秀らも窮地に立たされますが、信長自らがわずかな兵を率いてこれを救援し、一揆勢を打ち破りました。
翌天正5年(1577)2月には、光秀は紀州雑賀を攻め、10月には裏切った松永久秀を攻め滅ぼしています。
このように、この時の光秀はとても丹波攻めに注力できる余裕はありませんでした。
荻野(赤井)直正の不可解な行動
一方この頃、反信長陣営の荻野直正側は大きく揺れていました。
まずはこちらの史料をご覧ください。
(史料4)
【(推定天正4~5)正月二十八日付け赤井直正書状「吉川史料館所蔵」】
昨年使者を以て申し候処、御取り成しにより元春公御懇報、拝悦の至りに候。
仍って御出張の事、仰せ蒙る時分、既に火急に候条、御様子を承り、その覚悟を成すべきとして、重ねて使者を企て候。
尚趣きに於いては、安国寺へ申し入れ候。
仰せ談ぜられ、然るべきの御取り合い憑み存じ候。
従って青銅百疋、これを進め候。
誠に祝儀を表すばかりに候。
委曲廣田左馬助の口上に任せ候。
恐々謹言、
猶々向後無二に御意を得るべき心底に候間、
別して御取り合い祝着たるべく候。
正月二十八日 直正(花押)
市川雅楽丞殿
御宿所
(折封ウワ書)
「 荻野悪右衛門尉
市川雅楽丞殿 直正
御宿所 」
この書状は恐らくこの時期に荻野(赤井)直正が、毛利家で山陰方面の軍事指揮権を持つ吉川元春に宛てたと考えられるものです。
本状で直正は、去年使者を派遣し、吉川元春から出陣の約定を取り付けたが、事態は緊急を要するので、毛利家の外交僧である安国寺恵瓊にも援軍を要請したことを伝えています。
さらに元春の援軍を得るため、元春の家臣市川経兼(雅楽丞)に廣田左馬助を使者として青銅百疋を贈っています。
よほど切羽詰まった状況だったのでしょうか。
この頃の毛利氏は、信長に追放された足利義昭を鞆の浦に迎え、大坂本願寺に兵粮を運び込むなど、信長との対決姿勢を強めている時期でした。
もう一つ面白い史料があります。
(史料5)
【年次不明矢野弥三郎宛朱印状(展観入札目録)】
赤井五郎(忠家)、荻野悪右衛門尉(赤井直正)、種々詫言せしめ候条、赦免に候。
然して去年以来、此の方に一味せしむるの輩身の上の事。
猶もって、異儀なく申し付くるの上は、当知行等、いささかも相違あるべからず候。
惟任(明智光秀のこと)と相談じ、いよいよ忠節専一に候なり。
四月十三日 信長(朱印)
矢野弥三郎殿
これは一体どういうことでしょうか。
先の書状が天正5年(1577)1月のもので、この書状が天正5年(1577)4月のものだと比定した場合、直正は織田家に降って所領を安堵されているではありませんか。
これはあくまで私の推測ですが、毛利氏は何かしらの理由で直正の再三にわたる援軍要求を黙殺した。
独力で信長と戦う無謀さを悟った直正は、ついに織田家に降伏して所領を安堵された。
と考えるのが自然のような気がします。
もしこの時に、波多野氏も共に信長に降伏したのだとしたら、織田氏がわざわざ丹波に兵を差し向ける必要はありません。
事実、天正4年(1576)4月から翌年の10月まで織田家は丹波へ軍事侵攻をしている様子はありません。
なお、宛名にある矢野弥三郎とは、播磨国出身の丹波国の住人であろうと考えられていますが、後にも先にも彼が登場するのはこの文書だけで、詳細が不明な人物です。
光秀、亀山城に着目する
光秀が次に丹波国へ攻めかかったのは天正5年(1577)10月のことでした。
松永久秀を信貴山城で攻め滅ぼした直後のことで、それから休む暇もなく長岡(細川)藤孝・忠興父子とともに丹波亀山城を攻めています。
大手口は光秀が、搦め手口は長岡忠興が受け持ちます。
双方からの激しい攻撃により、同城は降伏を申し出ますが、忠興は認めようとしなかったようです。
それを光秀が宥め、落城寸前での降伏を認めました。
以後、内藤家の家臣だった並河掃部、四天王但馬守、荻野彦兵衛らは明智家臣となります。
光秀らはさらに兵を進め、多紀郡の籾井城も攻め落とします。
この時、光秀は丹波攻略の拠点として亀山城に着目し、改修工事を始めました。
翌年には惣堀と天守の普請も行い、この時に亀山城は近世城郭風の城に生まれ変わったといわれています。
丹波亀山城古絵図(wikipediaより)
丹波の赤鬼の死去
明けて天正6年(1578)3月14日。
丹波を攻める明智光秀に思わぬ追い風が吹きます。
丹波の赤鬼の異名で勇名を馳せていた荻野(赤井)直正の病死です。『兼見卿記』
氷上・何鹿・天田の3郡を支配する直正の死は非常に大きな意味があったことでしょう。
織田勢は明智光秀(惟任日向守)の他に、丹羽長秀(惟住五郎左衛門)・滝川一益(左近将監)・長岡藤孝(兵部大輔)も加えて出陣。
3月20日には波多野秀治籠る八上城を取り囲みます。『細川家文書』
4月に入り、一度大坂の戦線に出張しますが、再び丹波に戻り、明智、滝川、丹羽勢とともに荒木氏綱の籠る園部城を攻め、即日これを落としました。(信長公記)
(八上城包囲のため、最低限の兵を残しています)
愛娘お玉と長岡忠興の結婚
同年4月26日に帰陣した光秀ですが、4月29日には播磨へ羽柴秀吉の援軍として出陣しています。
6月に神吉城を取り囲み、7月20日に同城を陥れました。(信長公記・多門院日記)
それから間もなくのこと。
織田信長が仲人となり、光秀最愛の娘・お玉と長岡藤孝の嫡男忠興の祝言が盛大に執り行われます。(細川家記)
この二人は本能寺の変後も離縁しておらず、お玉は生涯夫のために尽くしました。
玉はのちにキリスト教の洗礼を受け、ガラシャという名で有名な人物です。
(出典不明細川ガラシャ肖像)
その後、9月11日に再び丹波へ出陣。
この時は小山・高山・馬堀の各城を陥れたようです。(細川家記)
荒木村重謀叛 分断された補給路
しかし、ここで思いもよらぬ重大事件が発生します。
それが同天正6年(1578)10月に起きた荒木村重の謀叛です。
荒木村重は摂津有岡城を中心に、信長の下で摂津一国を支配した大大名で、明智光秀も娘を村重の嫡男村次に嫁いでいました。
そうした縁故もあり、光秀は自ら説得のため有岡城へ赴きます。
松井友閑・万見重元・羽柴秀吉も交えて幾度も説得を試みますが、残念ながら荒木の心は変わりませんでした。(信長公記)
なお、村重は光秀の娘を離縁させ、里へ送り返します。
その娘はのちに明智秀満に再嫁したと記された文書もありますが、真偽のほどは定かではありません。(陰徳太平記)
11月9日。
信長は自ら荒木村重討伐に出陣。
ただちに有岡城を包囲しました。
光秀もこれに従軍しています。
12月に入ると秀吉の援軍として播磨三田城攻めに加わり、これを陥れます。
その後光秀は丹波戦線に戻り、八上城包囲を監督します。
『信長公記』の12月11日の項には、
「塀際に諸卒町屋作に小屋を懸けさせ、其上、廻番を丈夫に、警護を申付け、誠に獣の通ひもなく在陣候なり」
(信長公記)
と記されています。
ある研究者の調査によると、この時明智軍が八上城を取り囲むために築いた付城は、般若寺城、大上西の山城などに遺構が残っているようです。
このとき、光秀はさらに摂津の三田に付城を4ケ所築き、進退窮まった敵の突撃を防ぐ対策を講じています。(御霊神社文書)
八上城落城 波多野三兄弟の悲劇
明けて天正7年(1579)。
明智光秀は正月を近江坂本城で過ごし、久しぶりに茶会などを開いて羽を伸ばし英気を養いました。
光秀が丹波入りしたのは2月28日のこと。
大改修を加え、丹波攻略の起点とした亀山城へ入ります。(兼見卿記)
その後八上城包囲のために多紀郡に在陣したと見え、3月16日に陣中で公家の吉田兼和の使者を迎えています。(兼見卿記)
この時期のものと思われる光秀の書状が遺されています。
(史料6)
【丹後和田弥十郎宛4月4日付け惟任光秀書状(下条文書)】
在陣に就きて御飛脚、殊に太刀一腰並びに鯛二十枚送り給い候。
誠に遠路の御音信、別して御昵懇の至りに欣悦浅からず候。
そもそも此の表、いよいよ丈夫に取り詰候。
八上の事、助命退城候ようと色を替え、さまを替え懇望せしめ候。
はや籠城の輩は四五百人も餓死候。
罷り出て候の顔は、青腫れ候て人界の躰にあらず候。
とかく五日十日の内に必ず討ち果たすべく候。
一人も取り漏らさざるの様と存じ、逆要害として堀、柵、乱橛(※乱れ切り株のこと)、逆茂木をいよいよ上に取り重ね、落居時を待つ体たらくに候。
追って吉左右申し入れるべく候。
随って当城相果たすに於いては、直ちに其の国に至って出張せしむべきの旨、仰せ出され候。
御身上の儀、いささかもって疎意を存ずべからず候。
猶もって、遠路思し召しより仰せを蒙る段、相忘るべからず候。
委曲、同名少兵衛尉申すべく候。
恐々謹言
(天正7年=1579)卯月(4月)4日 光秀(花押)
和田弥十郎殿
御宿所
これは天正7年(1579)の丹波八上城落城の直前のものと思われる書状です。
光秀は八上城を十重二十重に取り囲み、ネズミ一匹抜け出すことができないほどの厳重さでした。
書状の内容からは、
・波多野秀治らの助命を条件に開城させようと色を替え品を変え説得中であること。
・すでに城兵400~500人が餓死していること。
・降伏して城から脱出した者たちの顔は、青く腫れてこの世の者とも思えないこと。
・一人も取り漏らさない覚悟で、5~10日の内には必ず八上城を攻略すること。
・八上城攻略後は、ただちにあなたの国に援軍として出陣するように命を受けていること。
・あなたを決して粗略には扱わないこと。
・はるばる遠国から私を頼ってきてくれたことは、決して忘れないこと。
・詳しくは使者として遣わした同名少兵衛尉の口から申し述べること。
が読み取れます。
この中に「八上城攻略後は、ただちにあなたの国に援軍として出陣」とあります。
あなたとは、書状の宛先である和田弥十郎でしょう。
和田弥十郎はあまり有名でないため、彼の本貫地がどこにあるのか定かではありません。
しかしながら、丹後国与謝郡明石村に須代(すしろ)などの古墳が多数あり、そのあたりに和田という地名があることから、そこが和田弥十郎の所領ではないかと見られています。
実際に明智光秀は八上を攻め落とした後、長岡(細川)藤孝とともに丹後国弓木城の一色氏を攻めて屈服させていることからも、決して見当外れな推論ではないでしょう。
なお、八上城が落城するのは同年5月末~6月初旬のことで、『信長公記』には6月2日に波多野秀治兄弟を安土へ送ってその日のうちに磔殺されたとあります。
この書状は4月4日のものなので、10日以内に攻め落とすという内容とは裏腹に、波多野秀治兄弟が多数の餓死者を出しながらも粘りぬいた意地のようなものを感じずにはいられません。(合掌)
明智軍は八上を取り囲むと同時に氷上城も取り囲んでいたと見え、5月5日に波多野宗長父子が自害し、同城は陥落します。(兼見卿記)
なお、学者である高柳光寿氏の見解では、羽柴長秀(秀長)が但馬より援軍としてこの城を攻め落としたという通説には否定的です。(高柳光寿『明智光秀』)
同年5月18日の吉田兼和の日記には
「丹州波多野在城今度惟向取詰、近々可令落着云々」
(丹州波多野の居城が、このたび惟任日向守の包囲により、近々落着せしむべく云々・・・)
(※惟任日向守=明智光秀のこと)
『兼見卿記』
とあります。
恐らく明智光秀の書状から知ったのでしょう。
『信長公記』にはこの頃の八上城の様子を
(史料7)
去程に丹波国波多野の館、去年より惟任日向守押詰め取巻き、三里四方に堀をほらせ、塀・柵を丈夫に幾重も申付け、責められ候。
籠城の者既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽果、無体に罷出候を悉く切捨て、波多野兄弟三人の者調略を以て召捕り、六月四日安土へ進上。
すなわち、慈恩寺町末に三人の者張付に懸けさせられ、さすがに思切って、前後神妙の由候。
『信長公記』
とあります。
城兵の助命を条件に降伏し、捕らえられた波多野秀治兄弟3名が、6月6日に洛中で引き回された挙句安土へ送られ、そこで信長の命により磔刑にされた(兼見卿記・信長公記)
公家の吉田はこの日の日記に
「諸人見物、無念の仕合也」
と記述しています。
この時、八上城開城の条件として、明智光秀の母を人質に差し出したにも関わらず、織田信長の理不尽な命令によって波多野三兄弟が殺され、これに憤った波多野家臣らが光秀母を斬殺したという逸話が有名ですね。
この話の初見が後世の書『総見記』のものであり、同書のその他の内容からも、信憑性は低いとされています。
丹波国ついに平定へ
またこの頃、信長は長岡藤孝に、氷上郡の街道の整備を命じており、鐘ケ坂、瓶割峠、佐中峠あたりの街道を広くしています。
明智光秀は多紀郡と氷上郡の境目に、金山城を築きました。(細川家文書)
7月。光秀は再び丹波へ出陣します。
次の矛先は、幾度も朝廷の荘園を横領した宇津頼重の宇津城でした。
7月19日、頼重は城を捨てて逃亡し宇津城は落城。
光秀はその勢いで鬼ヶ城を攻めます。(信長公記)
7月24日。
光秀は丹波にある御料所山国荘を回復した功により、禁中より馬・鎧・香袋を頂戴し、大変な名誉を賜りました。(御湯殿の上の日記)
(かつて光秀も比叡山あたりの地を横領して朝廷ともめた過去がある)
その後光秀は長岡藤孝とともに丹後へ攻め入り、一色氏の弓木城を攻めて降伏させています。(細川家記)
光秀の快進撃はまだ終わりません。
続いて丹波黒井城の荻野直義(直照)を攻め、8月9日に黒井城が陥落。
一度煮え湯を飲まされた黒井城に雪辱を果たしたのでした。
このあたりで赤井忠家籠る高見城も陥落したと考えられます。
天正6~7年(1578~1579)の丹波国の情勢
(史料8)
【天正七年八月二十四日丹波氷上郡寺庵中等宛惟任光秀副状(富永文書)】
このたび赤井五郎(忠家)御成敗の儀、仰せ出され、上意の旨に任せ申し付け候。
仍って在々所々誰々によらず、きっと環住すべきものなり。
天正七年(1579)
八月二十四日 光秀(花押)
氷上郡
寺庵中
高見山下町人中
所々名主中
所々百姓中
これは恐らく高見城・黒井城が陥落して、氷上郡で組織的に抵抗する勢力がいなくなった。
そこで、戦乱を逃れて避難していた氷上郡中の寺院や吉見山麓の町人、名主たちに元といた地に戻るように命じた文書だと考えられています。
光秀の丹波平定が近いことを物語っているのかもしれません。
関連記事:麒麟がくる明智光秀の古文書 愛宕山へ宛てた書状から丹波攻略を見る
天正7年(1579)10月24日。
光秀は近江の安土城へ凱旋。
信長に謁見し、丹波・丹後国攻略を報告しました。
信長からは丹波における長年の働きに対し、「名誉比類無し」との感状を受け、その労を労われています。(信長公記)
この時、丹波一国はほぼすべて光秀に、丹後は長岡藤孝に与えられ、藤孝は光秀の与力となることが確定しました。
光秀にとっては大変な名誉であり、長年の苦労が報われた瞬間だったでしょう。
この後も光秀は織田家の家老として重きを為し、3年後の天正10年には徳川家康が来訪した際に、饗応係を仰せつけられるなど、信長からの信頼は相変わらず厚いものでした。
まとめ
今回も長くなってしまい申し訳ありません。
明智軍法も含めて、この時代の光秀に関する史料は信憑性が怪しいものが多々あります。
良質な史料として名高い兼見卿記や信長公記ですらも、彼らは現場を見ていないわけですから、どこまで信を置けるのかわかりません。
波多野氏の八上城や荻野氏の黒井城は、攻められて城が燃えてしまっているので、文書の類はほぼ消失してしまっている可能性が高いです。
いまだに甲斐武田氏や阿波三好氏の実態が謎だらけなのも同じ理由ですね。
歴史を探求する我々は、謎が多いからこそ一度原点に立ち返って、忠実に史料を読む。
発掘調査の結果を知ることが重要なのかもしれません。
ご覧くださりありがとうございました!
参考文献:
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
山本博文・堀新・曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 西日本編』柏書房
丹波の森公苑(2014)『平成25年度講座「丹波学」講義録』(公財)兵庫丹波の森協会文化振興部
太田牛一(1881)『信長公記.巻之下』甫喜山景雄
白浜睦男(1999)『地図で訪ねる歴史の舞台-日本-』帝国書院
児玉幸多(2013)『日本史年表・地図』吉川弘文館
久保昌希(2003)『決定版 図説・戦国地図帳』学習研究社
など