駿河の大大名・今川氏真さん、上杉謙信に救いを求めるも既読無視される

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駿河の大大名・今川氏真さん、上杉謙信に救いを求めるも既読無視される
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー!
前回の記事は、大名家同士の外交は非常に気をつかう難しいものだというものでした。
今回は、駿河の太守・今川氏真(うじざね)が上杉謙信に使者を送り、武田信玄を挟み撃ちにしようと持ちかけますが、外交文書の書き方がまずくて既読スルーされてしまうお話です。
外交はホント難しい(^-^;

今川氏真を簡単に

  • 桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の子。跡継ぎ
  • 同盟関係だった武田信玄と元家来の徳川家康に攻められて滅ぶ
  • 織田信長に蹴鞠を披露。子孫は徳川幕府の旗本に
今川氏真肖像画
今川氏真肖像画

街道一の弓取りの嫡男として

 「街道一の弓取り」として畏怖された今川義元の嫡男・今川氏真(うじざね)。
16歳の時に隣国の北条氏康の娘である早川殿を娶り、今川義元、武田晴信(信玄)、北条氏康の間で三国同盟が成立した。=甲相駿三国同盟

永禄3年(1560)5月。
父・今川義元は大軍を率いて尾張(愛知県)を攻めるも、寡兵の織田信長と桶狭間で戦い討死。
その後まもなく今川氏真が家督を継いだ。

相次ぐ謀反に苦慮する氏真

 しかし今川義元の姪を娶っていた松平元信(徳川家康)を始めとする諸将が相次いで独立、謀反を起こすがそれを止めれずに領土が縮小していった。

松平元信 (のちの徳川家康)
松平元信 (のちの徳川家康)

そんな中、甲斐(山梨県)の武田家で不穏な事態が起きる。
武田晴信(信玄)の嫡男・義信が幽閉され、傅役の飯富虎昌が切腹させられたのだ。
武田義信は今川義元の長女を娶っていた。
つまり、今川氏真の義兄妹にあたる。

しかし武田晴信はすぐに今川家と手切れすることはしなかった。

今川氏真、越後の上杉輝虎に同盟を模索

 事態を重く見た氏真は越後(新潟県)の上杉輝虎(謙信)との和睦を模索する。
密書を繰り返し送って同盟交渉にまで発展した。

上杉謙信
上杉輝虎(謙信)

今川家と北条家の関係は良好で、互いに援軍を送り合う仲だった。
そこに越後の上杉も味方に入れて武田に対抗したよう目論んだのである。

武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにより今川家滅亡

 しかし武田信玄(晴信から改名)はついに外交方針の転換を決断する。
尾張(愛知県)から勢力を拡大する織田信長の養女を四男・勝頼に娶らせ、三河(愛知県)の徳川家康とも同盟を結んだ。

さらに嫡男・義信の妻(氏真の兄妹)を実家に返して完全に同盟関係を破ったのである。

この時に武田への塩留めの逸話が美談として語られているが、海があり物資が豊富な織田信長と通商関係どころか婚姻同盟まで結んでいるのだから、恐らくは真実ではないだろう。

武田信玄が北から攻め寄せ、同時に徳川家康が西から攻め寄せ、さらに多くの家臣にも見限られて駿府城が落城。
逃げ込んだ掛川城で数か月粘るが、最後は家臣や城兵の助命と引き換えに開城し、名門・今川家は滅亡した。

落城

上杉輝虎にまさかの既読無視をくらう

 今川氏真は妻である早川殿の実家がある相模小田原城へ落ち延びた。

これまでいい感じに同盟交渉をしていた今川-上杉間であったが、この頃からパタリと上杉側から返事が来なくなってしまった。

その時期に、今川氏真が上杉家へ宛てた書状の原文を検索しても発見できなかったのが残念であるが、要約した内容は以下の通りである。

上杉家の年寄三人衆の柿崎景家殿(和泉守)、山吉豊守殿(孫次郎)、直江景綱殿(大和守)へ宛てて書状を送りましたが、ここしばらく音信が途絶えていたので心配しておりました。


いよいよ武田信玄討伐の為に信州(長野県)へ御出陣されるそうですね!
すごくうれしいです。


それに連動するように北条氏政殿にも出陣してくれるように、相談してみます!

今川氏真書状

といった感じだ。
これまで通り書札礼で非礼の無いように、取次ぎ役の側近(秘書)を通しているし、なんの落ち度もない文面である。

外交書状の厚礼と非礼については前回の記事に書いたので、ご参考いただけるとありがたい。

関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

上杉輝虎が返事を返してくれなかった理由

 返事を返してくれなくなって困惑した氏真が内々に問い合わせをしたところ、書礼慮外(しょれいりょがい)」と上杉家では受け止められており、それが返事が来ない理由であった。

書礼慮外とは、書札礼に適っていない書状のことである。

慌てた氏真は上杉輝虎に再度書状を送った。
それを要約したのが以下の文である。

これまで三度にわたって書状を送ったにも関わらず、(輝虎殿から)一向に御返事がこなかったことを訝しんでおりました。


それは、こちらの書札礼が不躾である為、あなた様が憤慨されていると聞き及びました。

ここ一、二年は決して書札礼を誤ったつもりはありませんが、もしも不躾だと思われるならば、そちらが望まれる通りの書札通りに致しますので、もう一度交渉に応じていただけないでしょうか。

今川氏真書状

この当時は非常に面目を重要視していた時代である。
こんなことを送らねばならないとは、なかなかの屈辱だったのではないか。

では、上杉輝虎が「書礼慮外」と判断した理由はなぜだろうか。
氏真は「この一、二年は問題なかったのに・・・」とこぼしているから、恐らくは従来と同じ書札礼で書状を送っているはずである。

それが突如問題になったのは、今川氏真がもはや大名ではなくなり、北条家に身を寄せた結果と考えられる。
つまり、上杉輝虎にとっては対等な外交相手ではなくなったということだ

氏真はそうした自己認識を欠いており、対等な書札礼で書状を送り続けたため、上杉家にとって許容できるものではなく、やがて書状の受け取りそのものが拒絶されるようになったのだろう。

これは単なる失敗談ではなく、外交文書とは家の行く末を左右する重要な問題なのだという興味深い一例である。

その後の今川氏真

 北条氏康の死により北条、武田間で再度同盟が成立したことによって、氏真は相模を離れ、徳川家康の庇護下に入った。

天正3年(1575)。氏真は上洛して公家たちと交流を持っている。
その際、天下人となっていた父の仇・織田信長の前で蹴鞠を披露する。
長年浜松に住んでいたと見られ、松平家忠の記した「家忠日記」には頻繁に登場する。

今川氏真
『集外三十六歌仙』の今川氏真

豊臣秀吉の時代になると京都に移り住んだ。
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した慶長19年(1615)12月 氏真は江戸で死亡。
かつての宿敵だった徳川家康とほぼ同時期に没したのが興味深い。

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